話 2
大井凛々花 POV:
萌々が私に突き放され, その小さな瞳に信じられないという表情が浮かんだ. 彼女の口から, 今にも泣き出しそうな声が漏れる.
「ママ... 嫌い? 」
私は何も言わなかった. ただ, 冷たい視線を彼女に向けた. 萌々は, びくりと身体を震わせ, ついに大声で泣き出した. その泣き声は, 私の心には届かなかった.
恭佑がすぐに萌々を抱きしめた. 「萌々, 大丈夫だよ. ママは疲れているだけなんだ」
彼は萌々の背中を優しく撫でながら, 私に視線を向けた. 「リリカ, 萌々が泣いているよ」
私は答えない.
「ママ, 意地悪! 」萌々が恭佑の胸に顔を埋めて, フランス語で叫んだ. 「愛奈先生の方が優しいもん! 」
恭佑は私に聞こえないように, 萌々の耳元で何かを囁いた. その言葉は, 私にははっきりと聞こえていた.
私が寝室の扉を閉めようとした瞬間, 恭佑が素早くその隙間に足を入れた.
「リリカ, 話がある」
彼の声が, いつもより低く, 威圧的だった. その時, 彼のズボンのポケットから, スマートフォンの通知音が鳴った. それは, 私が知っている愛奈からの着信音だった.
恭佑は焦ったように, すぐにそれを消した.
「誰から? 」私は尋ねた.
恭佑は笑顔を作った. 「いや, 仕事の連絡だよ. こんな時間に悪いな」
彼は私を部屋に入れようとした.
私はその動きを遮り, 彼のスマートフォンを奪い取った. 画面には, 愛奈からのメッセージが大きく表示されていた.
「恭佑さん, 萌々ちゃん, 大丈夫? 明日の夜, 萌々ちゃんを連れて来てね. 早くパパになってほしいな, 私の恭佑さん」
私は恭佑にスマートフォンを突きつけた. 「早く, 返信してあげたら? 待っているみたいよ? 」
恭佑の顔から血の気が引いた. 彼は一瞬, 怯んだように見えたが, すぐにスマートフォンを床に叩きつけた.
「リリカ! 信じてくれ! 愛奈とは何もない! 」彼は私を抱きしめようとした. その瞳には, 焦燥と, 私には理解できない狂気が宿っていた.
「愛しているのは, 君だけだ. 君と萌々を失うのは耐えられない」
私の身体が, 彼の腕の中で硬直した. 吐き気が込み上げてくる.
「君が僕を見てくれないから, 寂しかったんだ. 愛奈はただ, 僕の話し相手だっただけなんだ」
彼の言葉は, 私の耳には届かない毒だった.
その時, 寝室のドアが激しく叩かれた.
「パパ! ママ! 萌々のお腹が痛いよ! お腹が, お腹が... ぐすっ... 」萌々の声が響いた.
恭佑はハッとしたように私から離れ, ドアを開けた.
萌々が, ドアの前でうずくまっている. その顔は真っ青で, 手でお腹を押さえていた.
「萌々, どうしたんだ! ? 」恭佑が焦った.
萌々がフランス語で呟いた. 「パパ... 萌々, お腹が痛い... . 愛奈先生が, 『痛いって言えば, パパが萌々を愛奈先生のところに連れて行ってくれる』って... 」
彼女の言葉は, まるで洗練された女優の演技のようだった.
私は, 萌々の演技の巧みさに舌を巻いた.
そして, 私のフランス語能力を彼らが知らないことが, どれほど愚かなことか.
恭佑の顔が, さらに青ざめた. 彼はすぐに萌々の言葉の意味を理解したのだ.
「萌々, 大丈夫かい! ? 今すぐ病院に行こう! 」
恭佑は萌々を抱き上げた. 「リリカ, 萌々を病院に連れて行く. 君は家で待っていてくれ」
萌々が恭佑の腕の中で, 私に手を伸ばした. 「ママ... ? 」
私は一歩近づき, 萌々の小さな頬を優しく撫でた. 「大丈夫よ, 萌々. すぐ良くなるわ」
私の指は, 氷のように冷たかった. 萌々が目をキラキラさせた. その瞳には, 一瞬の希望が宿っていた.
恭佑は萌々を抱きかかえ, 大急ぎで部屋を出て行った.
私は窓辺に立ち, 二人の姿を追った.
萌々が, 恭佑の腕の中で, きゃっきゃと笑っている. その顔には, 先ほどの苦痛の表情など微塵もなかった. 二人は, まるで遠足に行く子供のようにはしゃいでいた.
私は唇を噛みしめた. 涙は出なかった.
今夜, 彼らは帰ってこないだろう.
私はすぐにノートパソコンを開き, 離婚手続きについて調べ始めた.
そして, フランスへのフライト. 急いで出国する方法.
数時間後, 私は静かにパソコンを閉じた.
鏡に映る自分を見つめる. 頬はこけて, 目は落ち窪んでいる.
だが, その目には, 冷たい光が宿っていた.
私は, ゆっくりと微笑んだ.
「もうすぐ, 故郷へ帰る時が来る. もうすぐ... 私の本当の人生が始まるのね」
話 3
大井凛々花 POV:
翌朝になっても, 恭佑と萌々は帰ってこなかった. 私の予感は的中した. 彼が送ってきたメッセージには, 「萌々が夜中に急に熱を出して, 愛奈先生のところにいる. 心配しないで」と書かれていた. 添付された写真には, 萌々が愛奈の家のソファで眠っている姿が写っていた. だが, 写真の隅には, 恭佑の会社のロゴが入ったマグカップが映り込んでいた. 彼は, 私をどこまで愚かだと思っているのだろう.
嘘つきね.
私は返信しなかった. スマートフォンをテーブルに置くと, 玄関へと向かった. 今日は, 弁護士と会う日だ.
玄関で靴を履きながら, 私は自分の左手首に目をやった. 恭佑が初めてくれたプレゼント. 華奢な金のブレスレット. 彼がまだ, 私を心の底から愛していると信じていた頃の記憶が蘇る. 大学時代, 彼はバイト代を全て貯めて, このブレスレットを贈ってくれた. その時, 私は世界で一番幸せな女だと思った.
私は, その記憶を振り払うように, ブレスレットを力任せに引きちぎった. 冷たい金属が指に食い込む. そのまま, ゴミ箱へと放り込んだ. 過去は, もういらない.
弁護士事務所の重厚なドアを開けようとしたその時だった.
「リリカ! ? 」
聞き慣れた恭佑の声が, 私の背後から聞こえた.
振り返ると, 恭佑と萌々, そして愛奈が立っていた. 萌々が愛奈の手をしっかりと握っている. 三人の視線が私に集中した.
「なぜ, 君がこんなところに? 」恭佑が訝しげに尋ねた.
私は微笑んだ. 「あら, 恭佑. 偶然ね. 私は, 出張の準備で必要な書類を取りに来ただけよ」
恭佑の目が, 一瞬だけ揺らいだ. 彼はすぐに表情を取り繕った.
「出張? 君が出張なんて, 珍しいじゃないか. それに, フランス語の書類なんて, 君に読めるのかい? 」
彼は, 私がフランス語を理解できないと思い込んでいるのだ.
私は可憐に首を傾げた. 「ええ, だから恭佑に教えてもらわないとね」
恭佑は安堵の息を吐いた. 彼は私に駆け寄り, 抱きしめた. 「心配したよ. 急に疲れたなんて言うから」
萌々も私に抱きついてきた. 「ママ, 萌々もママにフランス語教えてあげるね! 」
二人は嬉しそうに私の両手を掴んだ. そのぬくもりが, 私には氷のように冷たく感じられた.
彼らは, 私の内心を知らない. そのことが, 私をさらに孤独にさせた.
ここが, 弁護士事務所であることに, 恭佑は気づいていない.
そして, 彼らから漂う甘く濃厚な香水の匂い. それは, まぎれもなく愛奈の匂いだった.
私は思わず, ポケットからマスクを取り出し, 顔につけた.
「ごめんなさい. ちょっと空気が合わなくて」
恭佑が眉をひそめた. 「どうしたんだい? 何か体調でも悪いのか? 」
私は以前, 恭佑に連れられて行った高級レストランで, 隣の席の女性の香水が苦手だと言えば, 彼はすぐに席を替えてくれた. 私の健康を気遣う, 優しい夫だった. だが, 今の彼は, 愛奈の香水の匂いをまとっている.
恭佑と萌々の顔色が, 一瞬にして変わった.
恭佑は焦ったように言った. 「ああ, そうか. 昨日の萌々の熱のせいで, 空気清浄機をつけっぱなしだったから, 変な匂いが残っていたのかもな」
萌々がすぐに私の手から離れた. 「萌々, この匂い嫌い! ママ, 離れて! 」
萌々は恭佑の後ろに隠れた. その顔には, 明らかに嫌悪感が浮かんでいる.
彼女は, 本当に私を嫌っているのだ.
萌々が私を拒絶したことに, 私の心は何も感じなかった.
ただ, 静かに答えた. 「ええ, そうね. 萌々ちゃんは, 気にしなくていいわ」
萌々が, 驚いたように私を見上げた. 恭佑もまた, 私の変化に気づいたのか, 訝しげな視線を私に向けた.
家に戻ると, 萌々が私に小さな包みを差し出した. 「ママ, はい. お土産」
彼女の目には, 期待と不安が入り混じっていた.
恭佑も, 心配そうに私を見つめている.
私は, 恭佑が以前, 私を喜ばせるために, よく高価なプレゼントを贈ってくれたことを思い出した. 彼は, 物で人の心を繋ぎ止めようとする人間だ. 萌々も, 彼に似てきたのかもしれない.
私はため息をついた.
「ありがとう, 萌々」私は包みを受け取り, 笑顔を作った. 中には, 可愛らしいキーホルダーが入っていた.
「可愛いわね. 大切にするわ」
恭佑の顔に, 安堵の表情が戻った.
「リリカ, 何か食べたいものはあるかい? 今夜は恭佑が作ってあげるよ」
「萌々, 萌々もオムライス食べたい! 」
恭佑は萌々を抱き上げ, 私に問う. 「リリカは, 何がいい? 」
私は, キーホルダーを手に持ち, 微笑んだ.
「萌々ちゃんが好きなものが, 私も好きよ」
萌々が嬉しそうに, 「ママ, 大好き! 」と言って, 恭佑の手を引いてキッチンへと走っていった.
二人の姿を見送ると, 私の心は少しだけ軽くなった.
私はパソコンを開き, 仕事に取り掛かろうとした.
その時, スマートフォンの通知が鳴った. 新しい友達リクエスト.
可愛い猫のアイコン. 私は何気なく承認した.
その瞬間, メッセージが届いた.
「恭佑さんから, あなたへのプレゼントよ. あなたも, これで満足してくれるかしら? 」
それは, 萌々が私にくれたキーホルダーの写真だった.
そして, 続いて送られてきたメッセージには, こう書かれていた.
「これで, あなたのもの, 全部私になるわね. おめでとう, リリカさん. 」