話 1
娘の誕生日に, 彼女は無邪気な笑顔で, フランス語の願い事を口にした.
「愛奈先生が, 新しいママになりますように」
隣にいた夫は満足げに頷き, 同じくフランス語で答えた.
「いい願いだ. 今のママは厳しすぎるから, もうすぐいなくなるよ」
二人は顔を見合わせ, 私には言葉が理解できないという確信を持って, クスクスと笑った.
夫は, 私がただの専業主婦だと思っている.
しかし彼は知らない. 私がフランスの老舗メゾン「KOMIYA」の令嬢であり, 彼が誇る商社の地位も, すべて私の実家のコネのおかげだということを.
そして何より, 娘に最初のフランス語を教えたのが, 私だということも.
目の前で繰り広げられる裏切りの喜劇に, 私の心は凍りついた.
私は妊娠した事実を隠し, 涙を拭って冷ややかに微笑んだ.
「そんなに新しいママがいいなら, その願い, 叶えてあげる」
私は彼らを破滅させるため, 故郷パリへの片道切符を手配した.
第1章
大井凛々花 POV:
娘が, 私の目の前で, フランス語で「愛奈先生がママになりますように」と願った, その瞬間, 私の世界は音を立てて崩れ落ちた.
萌々が可愛らしい両手を合わせて, 目を閉じている. その隣に立つ夫, 恭佑が, 満足げに萌々の頭を撫でていた. 彼はまるで, この願いが最高の贈り物であるかのように微笑んでいた. 柏原愛奈, 萌々のフランス語の家庭教師も, その光景を柔らかな表情で見守っている. 彼女の視線は, 恭佑と萌々の間を甘く行き交っていた.
「萌々, 何を願ったの? 」恭佑が優しく尋ねた.
萌々はフランス語で答えた. 「愛奈先生が, 新しいママになりますようにって! 」
恭佑はそれを聞いて, くすくすと笑った.
「それはいい願いだね. ママはちょっと厳しすぎるから, 愛奈先生みたいな優しいママがいいよね? 」
萌々も頷き, 愛奈に抱きついた. 愛奈は萌々を抱きしめ, 恭佑と視線を交わした. その瞳には, 私には理解できない, しかし確かな共犯意識が宿っていた.
私の手から, 萌々のために入念に作った誕生日ケーキが滑り落ちた. 床に散らばるクリームとイチゴ. 甘い香りが, 私には今, 毒のように感じられた.
「リリカ, どうしたんだ? 」恭佑の声が, 遠くから聞こえるようだった. 彼は心配そうに私に近づいてきた. その表情は, 完璧な夫のそれだった.
私は震える声で答えた. 「ごめんなさい, ちょっと手が滑ってしまって... 」
恭佑は私の肩に手を置いた. 「大丈夫かい? 疲れているのかい? 」
私は頷いた. その瞬間, 私の脳裏を, ある確信が駆け巡った. 彼らは, 私がフランス語を理解できないと信じているのだ.
私がフランスの老舗ファッションメゾン「KOMIYA」の令嬢であること.
幼い頃からパリの社交界で育ち, フランス語がネイティブレベルであること.
それらを, 恭佑のプライドを傷つけないために, ずっと隠してきた. 彼が商社でブランド輸入担当という地位を得られたのも, 裏では私の実家のコネクションがあったからだ. だが彼は, それを自分の実力だと信じている.
萌々にフランス語を教えたのは, 私だった. 彼女が初めて口にしたフランス語の単語は, 私が教えたものだ. その言葉が, 今, 私への裏切りとして突き刺さっている.
恭佑が床のケーキを片付け始めた. 彼は手際よく, まるで何事もなかったかのように振る舞う.
「ほら, リリカ. 口を開けて」
彼は私に, 残っていたケーキの切れ端をフォークで差し出した. その優しさは, 私を欺くための演技にしか見えなかった.
私は顔を背けた. 「大丈夫, 食欲がないの」
「どうしたんだい? 本当に疲れているんだね」
萌々が私の腕を掴んだ. 「ママ, どうしたの? 元気ないの? 」
その天使のような顔が, 私には悪魔のようにも見えた. 彼女の言葉の一つ一つが, 私の心臓をえぐっていく.
「萌々, ママはちょっと疲れているだけだよ. 心配しなくていいんだ」恭佑は萌々を抱き上げ, 私の頬にキスをした. 「君も, 少し休んだ方がいい」
そのキスは, 私の皮膚を這う虫のように不快だった.
「パパ, ママは愛奈先生とパパの邪魔ばかりするの」萌々がフランス語で恭佑に囁いた.
恭佑は微笑んで, 萌々の耳元で答えた. 「大丈夫, 萌々. もうすぐ, 愛奈先生が本当のママになるから. 今のママは, もうすぐいなくなるよ」
萌々が嬉しそうに笑った.
私の心臓が, 氷の塊になったように冷え切った.
「ねえ, 恭佑」私の声は, 驚くほど冷静だった. 「もしかして, 私たちがうまくいっていないって, 萌々ちゃんに話したことがある? 」
恭佑の顔が, 一瞬だけ固まった.
「何を言っているんだい, リリカ? そんなことあるわけないだろう」
彼は私の手を優しく握った. だが, その目は泳いでいた.
私は彼の目を真っ直ぐ見つめた.
「不倫, とか, 再婚, とか, そういう話じゃないわよね? まさか, 愛奈先生と, そんな関係はないわよね? 」
萌々は私の言葉に, 目を丸くして恭佑を見上げた.
恭佑はすぐに笑顔を取り戻した. 「何を馬鹿なことを. リリカ, 疲れているんだよ. 変なことを考えるな」
彼は私の手を強く握りしめた. その力は, 優しさではなく, 私を支配しようとするものだった.
私は恭佑の手をそっと振り払った.
私の心は, もう決まっていた.
結婚式の誓い. 「いかなる時も, 嘘偽りなく愛し, 支え合う」恭佑は, その全てを裏切った.
私は, 嘘と裏切りを何よりも憎む. この結婚は, 終わったのだ.
長年の献身的な愛と努力が, 一瞬にして目の前で崩れ去った.
痛い. 胸が張り裂けそうだ.
だが, その痛みは, やがて冷たい怒りに変わった.
私はもう, 彼らの裏切りに涙を流すことはないだろう.
「疲れたわ」私は静かに言った. 「萌々ちゃんのこと, 今夜は恭佑一人で見てくれる? 」
恭佑は目を丸くした. 「だけど... 」
私は萌々を抱きしめていた腕を, ゆっくりと解いた. 萌々が, 戸惑った顔で私を見上げた.
「ママ... ? 」
私は萌々を恭佑に押しやった. 「私, もう限界なの. 一人にして」
恭佑と萌々は, 呆然とした顔で私を見ていた.
私はその視線から逃れるように, 寝室へと向かった.
扉が閉まる直前, 萌々の悲痛な叫び声が聞こえた.
「ママ, どこへ行くの! ? 」
だが, 私の心は, もう二度と開くことのない扉のように, 固く閉ざされていた.
話 2
大井凛々花 POV:
萌々が私に突き放され, その小さな瞳に信じられないという表情が浮かんだ. 彼女の口から, 今にも泣き出しそうな声が漏れる.
「ママ... 嫌い? 」
私は何も言わなかった. ただ, 冷たい視線を彼女に向けた. 萌々は, びくりと身体を震わせ, ついに大声で泣き出した. その泣き声は, 私の心には届かなかった.
恭佑がすぐに萌々を抱きしめた. 「萌々, 大丈夫だよ. ママは疲れているだけなんだ」
彼は萌々の背中を優しく撫でながら, 私に視線を向けた. 「リリカ, 萌々が泣いているよ」
私は答えない.
「ママ, 意地悪! 」萌々が恭佑の胸に顔を埋めて, フランス語で叫んだ. 「愛奈先生の方が優しいもん! 」
恭佑は私に聞こえないように, 萌々の耳元で何かを囁いた. その言葉は, 私にははっきりと聞こえていた.
私が寝室の扉を閉めようとした瞬間, 恭佑が素早くその隙間に足を入れた.
「リリカ, 話がある」
彼の声が, いつもより低く, 威圧的だった. その時, 彼のズボンのポケットから, スマートフォンの通知音が鳴った. それは, 私が知っている愛奈からの着信音だった.
恭佑は焦ったように, すぐにそれを消した.
「誰から? 」私は尋ねた.
恭佑は笑顔を作った. 「いや, 仕事の連絡だよ. こんな時間に悪いな」
彼は私を部屋に入れようとした.
私はその動きを遮り, 彼のスマートフォンを奪い取った. 画面には, 愛奈からのメッセージが大きく表示されていた.
「恭佑さん, 萌々ちゃん, 大丈夫? 明日の夜, 萌々ちゃんを連れて来てね. 早くパパになってほしいな, 私の恭佑さん」
私は恭佑にスマートフォンを突きつけた. 「早く, 返信してあげたら? 待っているみたいよ? 」
恭佑の顔から血の気が引いた. 彼は一瞬, 怯んだように見えたが, すぐにスマートフォンを床に叩きつけた.
「リリカ! 信じてくれ! 愛奈とは何もない! 」彼は私を抱きしめようとした. その瞳には, 焦燥と, 私には理解できない狂気が宿っていた.
「愛しているのは, 君だけだ. 君と萌々を失うのは耐えられない」
私の身体が, 彼の腕の中で硬直した. 吐き気が込み上げてくる.
「君が僕を見てくれないから, 寂しかったんだ. 愛奈はただ, 僕の話し相手だっただけなんだ」
彼の言葉は, 私の耳には届かない毒だった.
その時, 寝室のドアが激しく叩かれた.
「パパ! ママ! 萌々のお腹が痛いよ! お腹が, お腹が... ぐすっ... 」萌々の声が響いた.
恭佑はハッとしたように私から離れ, ドアを開けた.
萌々が, ドアの前でうずくまっている. その顔は真っ青で, 手でお腹を押さえていた.
「萌々, どうしたんだ! ? 」恭佑が焦った.
萌々がフランス語で呟いた. 「パパ... 萌々, お腹が痛い... . 愛奈先生が, 『痛いって言えば, パパが萌々を愛奈先生のところに連れて行ってくれる』って... 」
彼女の言葉は, まるで洗練された女優の演技のようだった.
私は, 萌々の演技の巧みさに舌を巻いた.
そして, 私のフランス語能力を彼らが知らないことが, どれほど愚かなことか.
恭佑の顔が, さらに青ざめた. 彼はすぐに萌々の言葉の意味を理解したのだ.
「萌々, 大丈夫かい! ? 今すぐ病院に行こう! 」
恭佑は萌々を抱き上げた. 「リリカ, 萌々を病院に連れて行く. 君は家で待っていてくれ」
萌々が恭佑の腕の中で, 私に手を伸ばした. 「ママ... ? 」
私は一歩近づき, 萌々の小さな頬を優しく撫でた. 「大丈夫よ, 萌々. すぐ良くなるわ」
私の指は, 氷のように冷たかった. 萌々が目をキラキラさせた. その瞳には, 一瞬の希望が宿っていた.
恭佑は萌々を抱きかかえ, 大急ぎで部屋を出て行った.
私は窓辺に立ち, 二人の姿を追った.
萌々が, 恭佑の腕の中で, きゃっきゃと笑っている. その顔には, 先ほどの苦痛の表情など微塵もなかった. 二人は, まるで遠足に行く子供のようにはしゃいでいた.
私は唇を噛みしめた. 涙は出なかった.
今夜, 彼らは帰ってこないだろう.
私はすぐにノートパソコンを開き, 離婚手続きについて調べ始めた.
そして, フランスへのフライト. 急いで出国する方法.
数時間後, 私は静かにパソコンを閉じた.
鏡に映る自分を見つめる. 頬はこけて, 目は落ち窪んでいる.
だが, その目には, 冷たい光が宿っていた.
私は, ゆっくりと微笑んだ.
「もうすぐ, 故郷へ帰る時が来る. もうすぐ... 私の本当の人生が始まるのね」
話 3
大井凛々花 POV:
翌朝になっても, 恭佑と萌々は帰ってこなかった. 私の予感は的中した. 彼が送ってきたメッセージには, 「萌々が夜中に急に熱を出して, 愛奈先生のところにいる. 心配しないで」と書かれていた. 添付された写真には, 萌々が愛奈の家のソファで眠っている姿が写っていた. だが, 写真の隅には, 恭佑の会社のロゴが入ったマグカップが映り込んでいた. 彼は, 私をどこまで愚かだと思っているのだろう.
嘘つきね.
私は返信しなかった. スマートフォンをテーブルに置くと, 玄関へと向かった. 今日は, 弁護士と会う日だ.
玄関で靴を履きながら, 私は自分の左手首に目をやった. 恭佑が初めてくれたプレゼント. 華奢な金のブレスレット. 彼がまだ, 私を心の底から愛していると信じていた頃の記憶が蘇る. 大学時代, 彼はバイト代を全て貯めて, このブレスレットを贈ってくれた. その時, 私は世界で一番幸せな女だと思った.
私は, その記憶を振り払うように, ブレスレットを力任せに引きちぎった. 冷たい金属が指に食い込む. そのまま, ゴミ箱へと放り込んだ. 過去は, もういらない.
弁護士事務所の重厚なドアを開けようとしたその時だった.
「リリカ! ? 」
聞き慣れた恭佑の声が, 私の背後から聞こえた.
振り返ると, 恭佑と萌々, そして愛奈が立っていた. 萌々が愛奈の手をしっかりと握っている. 三人の視線が私に集中した.
「なぜ, 君がこんなところに? 」恭佑が訝しげに尋ねた.
私は微笑んだ. 「あら, 恭佑. 偶然ね. 私は, 出張の準備で必要な書類を取りに来ただけよ」
恭佑の目が, 一瞬だけ揺らいだ. 彼はすぐに表情を取り繕った.
「出張? 君が出張なんて, 珍しいじゃないか. それに, フランス語の書類なんて, 君に読めるのかい? 」
彼は, 私がフランス語を理解できないと思い込んでいるのだ.
私は可憐に首を傾げた. 「ええ, だから恭佑に教えてもらわないとね」
恭佑は安堵の息を吐いた. 彼は私に駆け寄り, 抱きしめた. 「心配したよ. 急に疲れたなんて言うから」
萌々も私に抱きついてきた. 「ママ, 萌々もママにフランス語教えてあげるね! 」
二人は嬉しそうに私の両手を掴んだ. そのぬくもりが, 私には氷のように冷たく感じられた.
彼らは, 私の内心を知らない. そのことが, 私をさらに孤独にさせた.
ここが, 弁護士事務所であることに, 恭佑は気づいていない.
そして, 彼らから漂う甘く濃厚な香水の匂い. それは, まぎれもなく愛奈の匂いだった.
私は思わず, ポケットからマスクを取り出し, 顔につけた.
「ごめんなさい. ちょっと空気が合わなくて」
恭佑が眉をひそめた. 「どうしたんだい? 何か体調でも悪いのか? 」
私は以前, 恭佑に連れられて行った高級レストランで, 隣の席の女性の香水が苦手だと言えば, 彼はすぐに席を替えてくれた. 私の健康を気遣う, 優しい夫だった. だが, 今の彼は, 愛奈の香水の匂いをまとっている.
恭佑と萌々の顔色が, 一瞬にして変わった.
恭佑は焦ったように言った. 「ああ, そうか. 昨日の萌々の熱のせいで, 空気清浄機をつけっぱなしだったから, 変な匂いが残っていたのかもな」
萌々がすぐに私の手から離れた. 「萌々, この匂い嫌い! ママ, 離れて! 」
萌々は恭佑の後ろに隠れた. その顔には, 明らかに嫌悪感が浮かんでいる.
彼女は, 本当に私を嫌っているのだ.
萌々が私を拒絶したことに, 私の心は何も感じなかった.
ただ, 静かに答えた. 「ええ, そうね. 萌々ちゃんは, 気にしなくていいわ」
萌々が, 驚いたように私を見上げた. 恭佑もまた, 私の変化に気づいたのか, 訝しげな視線を私に向けた.
家に戻ると, 萌々が私に小さな包みを差し出した. 「ママ, はい. お土産」
彼女の目には, 期待と不安が入り混じっていた.
恭佑も, 心配そうに私を見つめている.
私は, 恭佑が以前, 私を喜ばせるために, よく高価なプレゼントを贈ってくれたことを思い出した. 彼は, 物で人の心を繋ぎ止めようとする人間だ. 萌々も, 彼に似てきたのかもしれない.
私はため息をついた.
「ありがとう, 萌々」私は包みを受け取り, 笑顔を作った. 中には, 可愛らしいキーホルダーが入っていた.
「可愛いわね. 大切にするわ」
恭佑の顔に, 安堵の表情が戻った.
「リリカ, 何か食べたいものはあるかい? 今夜は恭佑が作ってあげるよ」
「萌々, 萌々もオムライス食べたい! 」
恭佑は萌々を抱き上げ, 私に問う. 「リリカは, 何がいい? 」
私は, キーホルダーを手に持ち, 微笑んだ.
「萌々ちゃんが好きなものが, 私も好きよ」
萌々が嬉しそうに, 「ママ, 大好き! 」と言って, 恭佑の手を引いてキッチンへと走っていった.
二人の姿を見送ると, 私の心は少しだけ軽くなった.
私はパソコンを開き, 仕事に取り掛かろうとした.
その時, スマートフォンの通知が鳴った. 新しい友達リクエスト.
可愛い猫のアイコン. 私は何気なく承認した.
その瞬間, メッセージが届いた.
「恭佑さんから, あなたへのプレゼントよ. あなたも, これで満足してくれるかしら? 」
それは, 萌々が私にくれたキーホルダーの写真だった.
そして, 続いて送られてきたメッセージには, こう書かれていた.
「これで, あなたのもの, 全部私になるわね. おめでとう, リリカさん. 」