話 2
奈津美 POV:
潤治の驚いた顔はすぐに消え, 代わりに微かな眉間の皺が浮かんだ. 彼は私を優しく抱き上げ, 寝室へと運ぶ.
「今日は随分早く帰ってきたんだね」私の言葉に, 彼は軽く笑った.
彼の体からは, 私のものではない甘い香水の匂いがした. 私は静かに彼の腕から身を離した.
「昨夜, どこにいたの? 」私の声は, ひどく冷たかった.
潤治の動きが, 一瞬だけ止まる. 彼はすぐに平静を装った. 「会社に問題があってね. 一晩中, 対応に追われていたんだ」
彼はそう言って, 私の頬を指でそっと撫でた. 「寂しかっただろう? 僕に会いたかった? 」
彼の問いかけに, 私は無言で彼を見つめ返した. そして, 左手の薬指から, 結婚指輪をゆっくりと外す.
その指輪を, 彼の開いた掌にそっと置いた.
「離婚しましょう」
その言葉が部屋に響き渡ると, 空気が一瞬にして凍りついた. 潤治の顔色が変わる. 彼の瞳に, 激しい動揺が走ったのが見えた.
彼は指輪を握りしめ, 拳を作った.
「奈津美, 何を言ってるんだ? 冗談はやめてくれ」潤治の声は震えていた.
私は耳元の特殊なコンタクトレンズに触れた. この視力を失ったことは, 決して後悔していない. あなたを愛していたから, 命を投げ出すことも厭わなかった.
しかし, 昨夜のあなたの言葉が, 私の心臓を深く突き刺した. 痛みが胸を締め付ける. 私は疲れたように目を閉じ, 震える声で言った.
「全部見ていたわ」
潤治の顔から血の気が引いた.
「会社に問題? 一晩中, 対応に追われていた? 早見栞音と一夜を共にする必要が, どこにあったの? 」
私の言葉が, 静かな部屋に突き刺さる. 潤治の瞳に, 僅かな罪悪感を探した. しかし, 彼の動揺は, ただ私に見つかったことへの焦りに過ぎない.
私は自嘲気味に笑った. 「ごめんなさいね. こんな目をしていて」
潤治は蒼白な顔で, 私の名前を呼んだ. 「奈津美…」
私の目には涙が浮かんでいたが, 流れることはなかった. 冷めた視線で彼を見つめる.
彼の今の悲しみは, 本物かもしれない. 過去の彼が私に抱いた感情も, きっと本物だったのだろう. だが, それは傲慢で, 自己中心的な愛だ.
あなたは私の愛と尊厳を踏みにじった.
「あなたの本当の気持ちを教えてちょうだい. 私は, あなたのキャリアの汚点なの? この目が, あなたの完璧な人生の邪魔だったの? 」
私の言葉は, 潤治の防衛線を完全に打ち砕いた. 彼は言葉を失い, 顔面から血の気が完全に失われている. 彼の動揺が, 私の推測を肯定していた.
潤治はかろうじて声を絞り出した. 「違う… 奈津美, 違うんだ…」
私は彼の言葉を遮った. 「もう, あなたの嘘にはうんざりよ」
「あなたの愛は, 私にとって毒だった. もう, 甘い言葉で私を操ろうとしないで」
「私の長年の献身も愛も, あなたにとっては嘲笑と侮辱に過ぎなかった. 私の心は, もうあなたに完全に殺されたわ」
私はかすれた声で, 彼に立ち去るよう命じた. 「出て行ってちょうだい」
潤治は絶望的な表情で, 私に歩み寄ろうとした. 私は一歩後ずさる. 彼の触れることすら, もう耐えられない.
「奈津美, 頼む! 誤解なんだ」潤治は必死に懇願する.
私は冷笑した. 「誤解? 昨夜のあなたの言葉も, 栞音との行為も, 全部誤解だと言うの? 」
私の心臓が, まるで鷲掴みにされたように激しく痛んだ. その痛みは, 胸全体に広がっていく.
話 3
奈津美 POV:
胸の痛みが全身に広がり, 視界がぼやけていく. 次の瞬間, 私は意識を失った.
次に目覚めた時, 目に飛び込んできたのは刺すような病院の照明だった. 鼻腔を突く消毒液の匂いが, 私がどこにいるかを教えてくれる.
「奈津美, 目が覚めたのね! 」千春の声が聞こえた.
千春は私の唯一の親友だ. 彼女は優しく私の体を起こしてくれた.
「気分はどう? どこか痛いところはない? 」彼女の声には, 心配と同時に, どこか戸惑いのようなものが含まれていた.
私はその違和感に気づき, 問いかけた. 「私に何があったの? 」
千春は複雑な表情で私を見つめ, 深くため息をついた.
「奈津美…あなたは, 妊娠しているわ」
その言葉は, 雷に打たれたような衝撃だった. 妊娠? 不妊治療を何年も続けて, 諦めかけていたのに. この皮肉な運命に, 私はただ呆然とするしかなかった.
「潤治と, 何があったの? 」千春が, 私の言葉を待つように見つめた.
「道で倒れているあなたを見つけて, 病院に運んだのよ」千春が続けた.
私はぼんやりと, 昨夜の出来事を思い出す. 潤治の裏切り, 彼の残酷な言葉, 栞音との情事.
「潤治が, 浮気をしていたの」私は掠れた声で告げた.
千春は, 怒りに震えながら立ち上がった. 「あの男, なんてことを! 許さない! 私が潤治を…」
私は千春の手を強く掴んだ. 「もう, あの男とは関わりたくない」
家に帰りたかった. 潤治の家だが, そこには私の荷物がある.
あの家に残された荷物を引き取り, この関係を完全に清算する. そして, この子を産むことはできない.
千春に時計を見てもらう. 潤治はまだ会社にいるはずだった. 私は荷物をまとめ, この家を出ていくつもりだった.
千春と一緒に, 家に帰った. しかし, 家の中は私が最後に見た時よりもきれいに片付いていた.
潤治がこの家を私たちの新婚の家として選んだ時, 彼は「奈津美, 君を世界一幸せにする」と誓った. あの言葉は, 今となっては空虚な響きでしかない.
私は茫然と, 見慣れたリビングを見回した.
突然, 長い悲鳴が聞こえた. それは, 二階の寝室からだ. 歓喜と苦痛が混じり合ったような, 聞き覚えのある声.
心臓の音が, 耳元ではっきりと聞こえる. それは徐々に加速し, 私の胸の中で何かが爆発したかのように広がった. 恐怖が, 全身を硬直させる.
私は震える足で, 一歩一歩階段を上った.
寝室のドアを開けると, そこには二つの馴染み深い人影があった. 栞音が潤治に甘えた声で囁くのが聞こえる. 「ねえ, 私とあの奥さん, どっちがいい? 」
天井の照明が点滅し, 潤治の顔を照らした. その顔には, 欲望が露わになっていた. 栞音が彼の腰に跨り, 何度も彼の唇にキスをしていた.
それは, 地獄絵図だった. 胃がひどく不快感を覚え, 吐き気を催す. 私は必死でそれをこらえた.
潤治は, 私がそこにいることすら気づいていないようだった. 彼は栞音の髪を優しく撫で, 満足げな笑みを浮かべている. その顔に, 罪悪感の影は見当たらない.
「俺は, 君だけがいればいい」潤治は掠れた声で, 栞音に囁いた.
その言葉は, 私の心を完全に打ち砕いた. 私の希望も, 愛も, 思い出も, すべてが灰となり, 燃え尽きた. 残ったのは, 燃え盛る憎悪と, 無限の絶望だけだった.
栞音が私に気づき, 得意げな笑みを浮かべた. その目には, 憐憫と嘲笑が宿っている.
「あら, 奥さん. こんなところで何してるんですか? 」栞音の声は, 私をさらに深く傷つけた.
「潤治さんは, 私に夢中なのよ. あなたなんか, もう邪魔なだけ」
その言葉は, ガラスの破片のように私の耳膜を突き刺した. 私は震える唇を固く噛み締め, 怒りの炎が目に宿る.
涙はもう枯れ果てていた. 残っているのは, ただ純粋な怒りだけだ.
私はゆっくりと, ドアの枠に身を預けた. 冷めた眼差しで, その二人を見つめる. 私の心は, 本当に死んでしまったようだった.
「随分と, ご盛況ね」私の声は, ひどく乾いていた.