話 1
藤堂 柚月は、心を込めて選んだプレゼントを手に、藤堂森の誕生日パーティーへと向かった。
会場のドアにたどり着いた瞬間、中から声が聞こえてきた。
「森、桜が戻ってきたんだろ。 これでようやく、お前たちも正式に一緒になれるな……でも、でもさ、家にいるあの子、気が強いだろ。もし反対されたらどうする?」
ガラスのドア一枚を隔てて、薄暗い照明の中、柚月は森の表情を読み取ることができなかった。 ただ、彼の冷ややかな声だけがはっきりと耳に届いた。 「あの子はまだ子供だ。 言っていることを真に受けるな」
「柚月はまだ若いかもしれないが、彼女がお前のことを好きなのは誰だって知ってる。 こんなに長い間、まったく心は動かなかったのか?」
佐藤 和希のその問いかけを聞き、柚月の心臓もきゅっと締め付けられた。
彼女もまた、森が自分に心を動かしたことがあるのか、どうしても知りたかった。
ソファの中央に腰を下ろした男は、気だるげな姿勢で、成熟した男性の色気を漂わせていた。 彼はわずかに間を置き、低く落ち着いた声で言った。 「あの子はまだ子供で、何も分かっていない。 お前たちも、もうこんな冗談を言うな。 柚月は俺にとってただの姪だ。俺が彼女を好きになるなんて、絶対にありえない」
【俺が彼女を好きになるなんて、絶対にありえない】
その言葉は、まるで鋭い剣のように、柚月の心臓を貫いた。
中の人間は、ドアの前に誰かが立っていることには気づかず、まだ冗談を続けている。 「そうそう、お前にとって一番大事なのは桜だよな。 あの子はお前がずっと忘れられなかった相手だ。 どれだけ柚月がいようと、あの子には敵わない」
森は淡々と「ああ」と頷き、言った。 「後で桜の前で柚月の話は出すな。 彼女が誤解するといけない」
「俺たちが言わなくても、だろ?」
和希は意味ありげにため息をついた。 「あの子の性格じゃ、お前が他の女と一緒にいるなんて絶対に許さないだろうからな」
「その通りだ」 隣にいた友人も同調し、笑いながら冗談めかして言った。 「なあ、柚月ももう二十歳だろ?いっそ家に囲っておけばいいんじゃないか。 どうせあの子の境遇と、お前へのあの執着ぶりじゃ、絶対に同意するさ。 そうすれば、家にも一人、外にも一人……」
彼の言葉が終わる前に、森が冷たい視線を投げかけた。
「くだらないことを言うな。 あの子が可哀想だったから、兄さんに頼んで引き取ってもらっただけだ」
「俺の心には桜しかいない。気持ち悪いことを言うな」
「……」
ドアノブを握る柚月の手に、ぐっと力がこもった。 呼吸さえも苦しくなる。
自分の想いが、彼にとって気持ち悪いものだったなんて。
先ほどまで、すぐにでも中へ飛び込もうと思っていたのに、今はまるで全身の力が抜けてしまったかのようだ。 一言も発する気になれない。
柚月はうつむき、必死に涙をこらえながら、その場を後にした。
薄暗い通りには、人っ子一人いなかった。
このプライベートクラブは人里離れた川沿いにあり、その高い秘匿性で知られている。 だが、そのせいで、この道ではタクシーを拾うことさえ困難だった。
柚月は手の中の誕生日プレゼントを強く握りしめ、早足で歩き続けた。
先ほどの言葉が、一言一句、脳裏にこだまする。
こんなにも長い間、自分は一体何に固執してきたのだろう。
柚月……どうして自分をこんなにも卑しめるんだ?
柚月は自嘲気味に口元を歪め、自分でも気づかぬうちに涙が音もなく地面に落ちた。
前方に十字路が見える。 通り過ぎる一台の車がハイビームを焚き、その眩しい光がまっすぐに彼女の目を射抜き、激しい痛みが走った。 その瞬間、柚月はふと手を離した。
誕生日プレゼントが地面に落ち、鈍い音を立てた。
それは、彼女が賞金で買った、高価なカフスボタンだった。
だが、もうどうでもよかった。
彼女は深く息を吸い込み、携帯電話を取り出してある番号にかけた。
「二階堂 宗介、以前のあなたの提案に同意するわ。 私たち、結婚しましょう」
宗介は彼女より五歳年上で、かつては藤堂家の隣人だった。 二人は共に育ったと言える。 しかし、宗介は高校卒業後に留学し、最近になってようやく帰国したばかりだった。
彼は現在、北城に定住しており、柚月と会ったのは一度きりだ。 その時、彼は国内の結婚事情について嘆き、親戚から結婚を急かされている悩みを打ち明けた。
「柚月、君も俺も、最後は家のために結婚する運命だ。 親たちは俺たちの幸せなんて気にしない。 彼らにとって、結婚すること自体が一番重要なことなんだ」
「結末が同じなら、一緒にいて楽な相手を選んだ方がいい。 どうだ、俺たち結婚しないか」
その時、柚月はその提案を馬鹿げていると思った。
だが、今となっては、悪くない話に思える。
柚月はふと振り返る。背後の建物でネオンがきらびやかに瞬いている。まるで、かつて自分が、あの人に向けて抱いていた想いのように。
「どうせお互いのことはよく知っている。 全く知らない人と妥協するよりはましだ。 もしご両親が急いでいるなら……すぐにでも結婚の手続きをしましょう」
電話の向こうの男は、彼女がこれほどあっさり同意するとは思っていなかったようで、二秒ほど沈黙した後、低くかすれた声で答えた。 『分かった、いつ迎えに行けばいい?』
柚月はうつむき、視線がちょうど地面に落ちたプレゼントの袋に注がれた。 『インターンの手配がつき次第、そちらへ行くわ、すぐに』
宗介との結婚を決めた以上、インターンの場所を海城にこだわる必要はなくなった。
通話を終えた後、柚月はさらに長い距離を歩き、ようやくタクシーを拾って南湾別荘へと戻った。
南湾別荘は市の中心部に位置し、立地は申し分ない。 彼女の元の家からは五キロも離れていないが、その家は今や何も残っていない。
柚月が九歳の時、実家の会社が破産し、両親は巨額の借金を苦に自殺した。 家も火事で灰燼に帰した。
血に飢えた債権者たちは、幼い柚月にまでその魔の手を伸ばしかけた。
そんな彼女を、森が家に連れ帰ったのだ。
当時、彼もまだ十七歳だったが、兄の藤堂 明にきっぱりと言い放った。 「俺はまだ未婚で、養子縁組の手続きができない。 兄さん、君の名義で彼女を引き取ってくれ。 彼女の未来は、俺が責任を持つ」
森はその約束を守り、彼女に最高の生活を与え、十数年にわたって変わらぬ愛情を注ぎ、細やかな気配りで世話をしてくれた。
ただ、森は柚月の前で常に「叔父」という立場を崩さなかったが、柚月が彼をそう呼んだことは一度もなかった。
柚月は、自分と森が結ばれるのは当然のことだと思っていた。
だから、十八歳になったばかりの時、彼女は逸る気持ちを抑えきれずに彼に告白した。
しかし、森は彼女を厳しく叱責し、ろくでなしになるようなことを考えるなと言った。年齢差が大きすぎるし、自分は永遠に彼女の親族でしかない、と。
だが、そう言いながらも、彼は柚月に近づく男を誰一人として許さなかった。
柚月は、彼が嫉妬しているのだと、彼女がまだ幼すぎると感じているだけなのだと信じていた。
もう少し大人になれば、きっと分かってくれるはずだと。
柚月は窓の外を飛ぶように過ぎ去る景色を眺めながら、思い出に浸っていた。 いつの間にか、瞳が赤く染まる……大人になっても、無駄だった。
——好きじゃない、という感情は、こんなにも重たいものなのだ。
それなら、森――
あなたを自由にしてあげる。
家に着くと、柚月はそっと涙を拭った。すべての感情を胸の奥に押し込み、何事もなかったかのように、部屋へ上がる。シャワーを浴び、そのままベッドに身を沈めた。
眠れないだろうと思っていたが、意外にもぐっすりと眠ることができた。 翌朝、彼女はガチャガチャという物音で目を覚ました。
服を着て階下へ降りると、キッチンの騒音がさらに大きくなった。
柚月はあくびをしながらそちらへ向かった。 「劉おばさん、こんなに早くから……」
言葉の途中で、キッチンの人影が彼女の目に飛び込んできた。
白いワンピースを着たその女性は、オフホワイトのエプロンを腰に結び、美しいウエストラインを際立たせている。 長い髪は、ヘアクリップで無造作にまとめられていた。
彼女は……
森が忘れられない、あの元恋人だった。
鈴木桜。
「柚月、起きたの?」桜は振り返り、微笑みながら彼女に言った。 「朝食を作ってから起こしに行こうと思ってたのに、こんなに早起きだったのね」
(こんなにうるさかったら、起きない方が難しい)と柚月は心の中で思った。
彼女は胸に詰まった息をゆっくりと吐き出し、無理に笑みを浮かべた。 「どうしてあなたがここに?」 桜は口元に手を当て、少し申し訳なさそうに言った。
「昨夜……森が飲みすぎて、私が送ってきたの、シャワーを浴びさせて、着替えも手伝ってあげたわ、あなたが一人だって聞いてたから、じゃあ、朝ごはんでも一緒にって思って」
つまり、二人は昨夜、一緒に過ごしたということだ。
柚月が必死に保っていた礼儀が、少しずつ崩れ始める。声は、わずかに低くなった。「……私は、あなたに朝ごはんを作ってもらう必要はないわ」
その時、冷たい男の声が彼女の背後から響いた。 「柚月。そんな言い方を、誰に教わった?」
話 2
藤堂柚月の背筋がぴんと張り詰めた。 しばらくして、ようやくゆっくりと振り返る。
藤堂森は風呂上がりで、半乾きの髪から水滴が滴り落ちている。濃いグレーの部屋着一枚という姿なのに、それでも目を奪われるほど端正で、立ち姿は美しかった。 顔に浮かぶ険しい表情さえなければ、世の女性が思い描く理想の男性像そのものと言っても過言ではない。
柚月は唇をきつく結び、視線を逸らして何も言わなかった。
桜は二人の間を交互に見やり、わざと怒ったふりをして森を睨み、彼の腕にそっと抱きついて言った。「どうしてそんなに怖い顔してるの?」
「柚月ちゃん、今起きたばかりなんだから、機嫌が悪いのも無理ないでしょ?あなただって、だいたいあなたこそ、普段の方がよっぽど気難しいんだからね」
その言葉は森を責めているようにも聞こえるが、口調はむしろ甘えているかのようだった。
柚月の顔から血の気が引き、自分がこの場にいることがますます場違いに思えた。
森の表情はまだ険しかったが、周囲に漂っていた重苦しい空気は少し和らいだ。 彼は桜の肩をなだめるように二度叩くと、低い声で柚月に言った。 「書斎に来い」
柚月は唇を噛みしめ、一言も発せずに彼の後についていった。
桜は心配そうに声をかける。 「目上の立場だからって、いつもそんなに厳しく当たっちゃだめよ。柚月ちゃんと、ちゃんと優しく話してあげてね」
「……」
まだ結婚もしていないくせに、もう女主人気取りか。
柚月は心の中で冷笑を浮かべた。 前を歩く男が足を止めたことに気づかず、彼女はそのまま固い胸板にぶつかり、鼻の奥がツンと痛んだ。
「お前は一体、何を考えているんだ?」
頭上から低い声が降ってくる。 柚月が顔を上げると、森の冷たい視線とぶつかった。
なぜか、彼女の口から言葉がこぼれ落ちた。 「私が何を考えているか、あなたには分からないの?」
最後の未練だったのかもしれない。
あるいは、彼の反応を試したかっただけなのか。
森は眉間の皺をさらに深くし、柚月をしばらく見つめてから口を開いた。「柚月、俺は以前から言っているはずだ。 余計なことを考えるなと。 お前はもうすぐ大学を卒業する。 俺がふさわしい相手を見つけてやるが、その相手が俺であることは絶対にない」
「俺はお前の叔父だ。 鈴木 桜は将来、お前の叔母になる。 お前は俺を敬うのと同じように、彼女を敬わなければならない。 分かったか?」
その言葉を、柚月は初めて聞いた。
彼は自分を好きではないだけでなく、他の誰かにあてがうつもりだったのだ。
……宗介が言っていた通りだ。柚月は、ゆっくりと息を吐いた。
はあ……自分は一体、何を期待していたのだろう。
もう諦めると決めたのではなかったか。
柚月は深く息を吸い込んだ。誰かを諦めることは、思っていたほど難しくないのかもしれない。
彼女は素直に頷いた。 「分かりました、叔父さん」
「……」
森は意外そうに眉を上げ、彼女の反応に驚きを隠せないようだった。
これまでの柚月は、何か問題を起こして彼に許しを請う時だけ、そう呼ぶことがあった。 今日のような話の場では、いつも一言一句に反論してきたというのに。
森は、柚月が本当に自分の過ちを認めたのだと思い、表情を和らげた。 「桜がお前のことをどれだけ気にかけているか見てみろ。 わざわざ朝食まで作ってくれたんだ。 彼女にそんなに敵意を抱くな、いいか?」
だが、たとえ桜が作らなくても、森は彼女のために朝食を用意していただろう。
それに、柚月はそもそも食べる気になれなかった。
柚月は特に説明もせず、ただ頷いて言った。 「分かりました。 叔母さんと仲良くします」
彼女のその様子を見て、森は奇妙な感覚を覚えた。 彼は深い眼差しで彼女の顔を見つめ、何かを言いかけたが、結局口から出たのは別の言葉だった。 「昨日の夜、どうして来なかった?」
昨日は彼の28歳の誕生日だった。
柚月は、実は行っていた。
ただ、その時、誰も彼女に気づかなかっただけだ。
柚月は静かに言った。「大学の研究会が遅くまであって、疲れてそのまま帰りました。叔父さん、誕生日おめでとう」
彼女は今、できるだけ早くすべてを片付け、彼のそばを離れたいと願っていた。 これ以上、余計な波風を立てたくなかったので、説明する必要はないと感じたのだ。
森は「ああ」と頷き、少し躊躇してから、柚月の頭を撫でた。 「何かあったら、叔父さんに話せ。 一人で抱え込むな、分かったか?朝食を食べに行こう」
まさか、こんな信じられない瞬間を経験することになるとは、柚月は夢にも思わなかった。 好きな人と一緒に、"恋敵"の作った朝食を食べるなんて。
何か適当な言い訳をしてその場を去ろうかとも思ったが、思い直した。森を諦めると決めた以上は、こういう光景も受け入れるべきなのだ。
それに、どうせ自分が見られるのも、あとわずかなのだから。
食事が終わると、森は着替えのために二階へ上がっていった。
柚月も部屋に戻って身支度を整えるつもりだった。 今日は大学に行って、指導教官と北城市でのインターンシップの相談をしなければならない。
「柚月」
背後から声が彼女を呼び止めた。
振り返ると、桜がキッチンの入り口に立っていた。 家事用の手袋をはめ、動きは自然で、どこか優雅。まるで、ここが自分の居場所だと言わんばかりの佇まい。
柚月は胸の奥が詰まるのを感じ、無表情で尋ねた。 「何か用ですか?」
「別に大したことじゃないの。 ただ、少し話がしたくて」
桜は優しく微笑んだが、よく見るとその笑みはまったく目に届いていなかった。 「あなたが小さい頃からずっと成績優秀で、飛び級も何度かしたって聞いたわ。 もうすぐ卒業でしょう……インターンシップ先は決めたの?」
その言葉は気遣っているように聞こえるが、その裏には探りを入れる意図が隠されていた。
柚月は笑みを浮かべた。 「その件は、叔母さんには関係ないことだと思いますが」
本来なら、森の手配で、彼女のインターンシップ先は藤堂グループ傘下の企業になるはずだった。 柚月はその知らせを聞いた時、彼と肩を並べて働けるのだと、心から喜んだものだ。
しかし、今となっては……
もう、そんなものは欲しくない。
桜の表情が一瞬こわばったが、すぐにまた笑みを浮かべた。 「ただ、あなたのことを心配しているだけよ。 だって、あなたの叔父さんは男の人だから、話せないこともあるでしょう?」 柚月は言いたかった。
話せないことなんてあるものか、と。 彼女は小さい頃から、どんなことでも森に話してきたのだ。
だが、目の前のこの人は、彼が深く愛している恋人だ。
もう、そんなことは言いたくなかった。
彼女は言った。 「ええ、分かっています」
桜の目に意外そうな色が浮かんだ。 この娘の反応が、これほど予想外だとは思わなかったようだ。 彼女は二秒ほど間を置いてから、さらに探るように言った。 「もう大人なんだから、叔父さんと一緒に住むのは不便じゃない?よかったら、私のところに引っ越してこない?ちょうど話し相手も欲しかったの」
柚月は、恋愛物語に登場する複雑な駆け引きや、ドラマの中で繰り広げられる登場人物たちの腹の探り合いを数多く見てきた。
以前は、それは誇張された芸術的表現だと思っていたが、現実にも本当に存在するのだと知った。
桜は、彼女に話し相手になってほしいわけではない。 明らかに、森のそばから彼女を追い出したいだけなのだ。
柚月は、喉に刺が引っかかったような、どうしようもない不快感を覚えた。
彼女はついに我慢できず、二歩前に出て、桜の目をまっすぐに見つめて言った。 「では、叔母さんのご厚意に感謝すべきでしょうか?」
その瞬間、桜は彼女から森だけが持つような威圧感を覚え、無意識に二歩後ずさった。 「い……いえ、そんな」 彼女の視線が突然、柚月の背後へと向けられた。 そして、柔らかな口調で言った。
「柚月、私があなたの叔父さんを奪うなんて心配しなくていいのよ。 あなたは永遠に、彼が大切に思っている人なんだから。 私……きゃっ!」
言い終わらないうちに、桜は突然、引き戸の敷居につまずき、体は勢いよく後ろへと倒れていった。
柚月が手を伸ばして彼女を支えようとした、その時だった。 突然、強い力で腕を掴まれ、横に突き飛ばされた。 彼女は勢いよくテーブルにぶつかり、体を強打した。
森の冷え切った視線が、失望を帯びて、柚月に落とされた。「……柚月。本当に、お前は——大きくなるにつれて、ますます性格が悪くなったな」
話 3
その凍てつくような冷たい眼差しに、柚月は言葉を奪われ、まるで氷漬けにされたかのように立ち尽くした。
腰の脇腹がダイニングテーブルの角にぶつかり、突き刺すような激痛が走る。 だが、彼女はただ見ていることしかできなかった。 あの男が、鈴木桜をそっと抱き上げ、急ぎ足で部屋を出ていくのを
涙が、いつの間にか頬を伝い、顔中を濡らしていた。 柚月は鼻をすすり、その場に立ち尽くしたまま、身動き一つできなかった。
数分後、玄関からドアの開く音が聞こえた。
掃除に来た家政婦さんだった。
すると家政婦さんは鼻歌まじりにダイニングの入口まで来たが、柚月の姿を見た瞬間に足を止め、驚きと心配が混ざった声で言った。「あら……お嬢様、どうなさいましたの?」 そして続けて、「どうしてそんなに泣いていらっしゃるの?」と問いかけた。
柚月はもう我慢できず、震える声で言った。 「おばさん、助けて……本当に痛いの」
「……」
家政婦はタクシーを呼び、柚月を近くの病院へと連れて行った。
一通りの検査を終えた結果、幸い大きな異常はなかった。医師は薬を処方し、彼女に注意を促した。
「しばらくは腰をぶつけないように注意してください。スプレー薬は指示通りに使ってください」 医師は処方箋を渡しながら二言三言注意を伝えると、柚月のあどけなくも美しい顔を見て、慰めるように付け加えた。「ひどい痣になるかもしれませんが、徐々に消えますから、心配しなくていいですよ」
柚月は医師に礼を言い、家政婦と共に病院を出た。
「お嬢様、旦那様に電話を差し上げましょうか?」
「いえ、大丈夫です」
彼は今、桜の世話で忙しい。 自分のことなど、気にかけている暇はないだろう。柚月は自嘲気味に口元を歪めた。
腰を動かしてみると、痛みは先ほどほど激しくはない。 そこで、彼女は薬の袋を家政婦に渡し、言った。 「先に帰ってて。私は学校に行くから」
家政婦は少し心配そうだった。 「そのお体で、お一人で大丈夫ですの?」
「お医者様も骨には異常がないって。 大丈夫だから、おばさん」
柚月はやっとのことで家政婦を説得して帰らせると、ひとり車に乗り込んだ。ふと、胸が締めつけられるようなやるせなさがこみ上げてくる。
八歳の時から藤堂森と共に暮らし、彼はいつも自分を大切に守ってくれた。 それなのに、本当に怪我をした時にそばにいてくれたのは、家政婦だけだった。
だが、悲しむことなどない。
人と人との関係は、いずれ別れを迎えるものだ。
自分と森は、ただ他の人より少し早くその時が来ただけのこと。
学校でいくつかの申請書類を提出した後、柚月は指導教員に、北城でインターンシップをするつもりだと伝えた。
教員はそれを聞いてかなり驚いた。 「北城?それは遠すぎるわ。 以前は、 叔父さんと離れたくないから、 卒業したら彼の会社で働くつもりだと言っていなかった? それに、 彼だって君を一人でそんな遠くに行かせるのを心配するでしょう」
森との複雑な関係について、柚月はどのように説明すればいいか分からなかった。少し考えてから、柚月は口を開いた。 「彼とは血の繋がりがないんです。 いつまでも彼に頼って、心配をかけるわけにはいきません。 それに、もうすぐ二十一歳になります。 自立しなければ。 彼が反対する理由はないと思います」
すると先生はしみじみと頷き、軽く息を吐いた。そして「言わなくても分かるわ。森さんがどれだけあなたを大事にしているか、先生も学生も皆知っているのよ。こんなに成長しても、彼はよく自分で送り迎えをしていたし、他の男の子に取られないか気にしていたでしょう」
「でも、自立したいというのは良いことよ。 外に出て自分を鍛えるつもりで行ってらっしゃい。 君の能力なら、どこへ行ってもきっと成功できるわ。 先生は信じているから」
柚月は素直にひとつひとつ頷き、二言三言言葉を交わしてから学校をあとにした。
彼女の大学生活は、確かに教員の言う通り、ずっと藤堂森の細やかな気遣いの中で過ごしてきた。
大学一年生の時、森は彼女の世話を焼くために、学校の隣にマンションまで購入し、頻繁に料理を作りに来てくれた。
しかし……
それももう過去のことだ。
今、彼には一生をかけて守りたい人がいる。 彼はあの女と残りの人生を共に歩むだろう。 そして、自分の存在は、彼にとってただの障害でしかない。
だから、彼のそばから自ら去ることこそが、彼に贈れる最高の贈り物であり、育ててくれた恩へのせめてもの報いなのかもしれない。
柚月は、今夜も森が桜の世話で家に帰ってこないだろうと思っていた。
ところが、玄関のドアを開けた途端、その高くてすらりとした姿が目に入った。 森はソファに座り、ノートパソコンを抱えて仕事をしているところだった。
ドアの開く音に気づき、森は彼女に顔を向け、尋ねた。 「学校から戻ったのか?」
柚月は一瞬きょとんとしたが、すぐに家政婦が彼に自分が学校に行ったことを伝えたのだと察した。
「ええ」とだけ短く返した。 柚月は答え、 持ち帰った書類を玄関の棚に置いた。 少し考えてから、 やはり尋ねた。「桜さんは…… 大丈夫でしたか?」
森はわずかに眉をひそめ、不快そうに言った。 「彼女のことは叔母さんと呼ぶべきだ。 その程度の基本的な礼儀も知らないのか?」
柚月は、彼がまた二人の間の立場を強調しているのだと分かっていた。 彼女は冷ややかに応じた。 「まだ結婚していないでしょう。 それに、名前は本来、人を呼ぶためのものです。名前で呼ぶことが失礼だとは思いません」
森は彼女の言い分に納得がいかないようだったが、意外にもそれ以上は追及せず、話題を変えた。
「さっきは俺が焦っていて、乱暴なことをしてしまった。 君にまで気が回らなかった。 家政婦から、テーブルにぶつかったと聞いた。 怪我はひどいのか?」
柚月は、体の横に垂らした手を無意識に握りしめたが、次の瞬間には力を抜いた。 彼女は目を伏せ、低い声で言った。 「大丈夫です」
森は明らかに信じていなかった。 家政婦の話では、彼女は当時、痛みに泣きじゃくっていたという。
この子は幼い頃から我慢強く、めったに泣かない。 どれほどひどい怪我をすれば、あんな風に泣くのだろうか。
彼は眉間にしわを寄せ、ノートパソコンを置いて柚月の方へ歩み寄った。 「どこを怪我したのか、見せてみろ」
彼が手を伸ばすのを見て、柚月は反射的に大きく一歩後ずさった。 森の、骨ばった指が宙に固まった。 彼女が避けるとは、全く予想していなかったのだ。
「柚月?」
彼は顔を上げ、その眼差しは複雑な色を帯びていた。
「あの時は、本当に桜のことが心配で、君にまで気が回らなかった。 謝る。 それでいいか?」
そう、あなたは桜のことばかり心配していたから、私のことなど全く目に入らなかったのね。
胸に、いつもの鈍い痛みが走った。 柚月は顔を伏せ、その表情を窺わせないまま、平坦な口調で言った。 「ちょっとぶつけただけです。 桜さんが転んだほどひどくはありません。彼女のそばにいてあげてください」
「本当に大丈夫なのか?」
「ええ」
森は疑わしげな目で彼女を二秒ほど見つめたが、最終的には彼女の言葉を信じ、安堵した。
この様子なら、本当に大したことはないのだろう。 そうでなければ、この子の性格なら、その場で俺に大声で文句を言っていたはずだ。
森が何かを言いかけた、その時、ソファに置いてあった携帯電話が突然鳴った。 彼は歩み寄って電話に出ると、その声は一瞬で優しくなり、先ほどとは別人のようだった。 『桜、どうした?』
『どうしてそんなに不注意なんだ?怪我はひどいのか?』
男はそう言いながら、ソファにかけてあった上着を手に取った。 『心配するな。 すぐに行く』
彼は慌ただしく玄関に向かい、ドアを開けようとした時、背後の柚月のことを思い出した。 振り返って、彼は一言だけ言い残した。 「何かあったら電話しろ。 一人で家にいる時は、うろちょろするな」
柚月は、彼が家を出て車に乗り込み、エンジンの音が徐々に遠ざかっていくのを、黙って見送っていた。
彼女は静かに息を吐いた。 腰の傷が、またじんじんと痛み始めた。
その時、バッグの中の携帯電話が振動した。 画面を見ると、「二階堂宗介」の名前が表示されている。 それを見た瞬間、不意に鼻の奥がツンとし、目頭が熱くなった。
彼女は電話に出た。
電話が繋がると、自分でも気づかないほど弱々しい声で言った。 『宗介、私、怪我しちゃった』