話 2
鈴木瑠香は肩にかけたバッグを背に、鈴木家を後にした。 一直線に近くの駐車場へ向かうと、愛用の限定版バイクに軽やかに跨がった。
これまで瑠香は、「家族」という名の檻の中で、兄たちの前では己の才覚をひたすら隠し、控えめな娘を演じてきた。 しかし、ようやくその鎖から解き放たれ、本来の自分を取り戻す時が来たのだ。
エンジンを唸らせ、瑠香のバイクは一路、風を切り裂いて疾走した。 やがて、目的地の軍区官舎の厳重な門前で、静かにその勢いを緩めた。
門は厳重な警備体制を敷いていたが、瑠香のバイクの姿を認めると、衛兵は瞬時に顔をほころばせ、迷うことなくゲートを開けて通した。 「鈴木さん、今日はお珍しいお帰りですね!」
瑠香はヘルメットのシールドを上げ、軽く頷き返した。
官舎の中庭では、金木犀が馥郁たる香りをあたりに漂わせ、まさに盛りを迎えていた。 数人の退役幹部たちが、穏やかな午後を散歩して過ごしていたが、速度を緩めた瑠香のバイクを見つけるや否や、彼らは一斉に駆け寄ってきた。
「瑠香ちゃん、今日は帰ってきたのかい!おや、ちょうど君に会いたいと思っていたんだよ。 前に処方してくれた薬、もう飲み終わってしまってね」
瑠香はバイクを停めると、慣れた手つきでヘルメットを外し、その整った顔立ちを露わにした。 「明日、一日中官舎の診療所にいますから、薬を取りにいらしてくださいね」
「それから、そちらのおじ様も」瑠香は、もう一人のおじいさんの首に巻かれたサポーターを指さした。 「そんな風に首に負担をかけるような真似をしたら、頸椎を痛めてしまいますよ、と申し上げましたよね?」
名指しされたおじいさんは、ばつが悪そうにサポーターを外した。 「では、鞭を二、三度振るくらいなら、構わないだろうか?」
「ご自身に当たらないよう、 くれぐれもお気をつけくださいね」 瑠香は官舎の建物へと足を踏み入れた。
瑠香がこの軍区官舎に住まいを構えることになったのは、かつて、軍区総合病院で薬を買い求めていた際、偶然にも、そこで発作を起こした高齢のてんかん患者を救い、その処方箋で根本的な原因を癒やしたことが発端だった。
後に瑠香が知ったのは、その老人が総病院を退職した、かつて最も優れた臨床医であったということだ。 老人は瑠香の医術を惜しみなく絶賛し、自ら弟子入りを志願するほどであった。 ついには、この軍区官舎に部屋を一つ用意させ、いつでも住めるようにと、半ば強引に瑠香を誘ったのだ。
官舎の人々は皆、気さくで付き合いやすく、その上、立地も申し分なく、住み心地もこの上なく快適だったため、いつしか瑠香にとって、ここは本当の「家」と呼べる場所になっていたのだ。
瑠香がごく普通の、何の変哲もないように見えるドアを開け放つと、スマートホームシステムが自動で室内の照明を灯し、穏やかな女性の声が、流れるようにアナウンスした。 「お帰りなさいませ、鈴木瑠香様。 ご不在の三日間に、暗号化された電話の留守番メッセージが二件、そしてメールに新着メッセージがございます。 お風呂のお湯は既に入っております」
瑠香は、肩にかけたバッグを無造作に床へと放り投げた。 途端、ファスナーが開き、中から分厚い札束が、鈍い音を立ててどさりとこぼれ落ちた。
瑠香は、床に散らばった金に冷ややかな一瞥をくれた。 せいぜい、たかが二十万円といったところだろう。 瑠香は、薄く弧を描くように唇を歪めた。本当に、私を物乞い扱いし、施しでも与えるつもりなのだろうか――その侮蔑に、胸の奥底で冷たい怒りが燃え上がった。
「メッセージを再生して」
一件目のメッセージは、吉田和也から昨夜届いたものだった。
「瑠香姉さん、華碩カップのリレーレース、もうすぐ申し込み締め切りですよ。 練習レースも二回やったっていうのに、本当に鈴木家の人たちと組んで出るつもりなんすか?俺のことも、ちょっとは考えてくれませんか? 竜也のやつ、最近の練習レースじゃ俺にボコボコにされてるんすよ!」
瑠香は、ふっと眉を上げた。 ああ、そういえば、そんなこともあったな――と、記憶の片隅からその出来事を引き出した。
竜也は瑠香の三番目の兄で、世界トップクラスのレーシングクラブを経営し、プロの選手たちを率いてレースで賞金を稼ぐ男だ。 瑠香も以前、彼のチームのために、夜遅くまでトレーニングを積み、レースに出場したこともあった。 しかし――瑠香がチームのポイントを稼ぎ、決勝レースで優勝を狙える位置まで進むと、決まって竜也に降ろされ、代わりに田中美晴が最後のバトンを受け取って、栄光をかっさらっていったのだ。
何年もの間、瑠香はただひたすらに利用され、その価値を搾り取られるだけだった。 美晴が兄たちと共に高らかにトロフィーを掲げるのを、ただ傍観するしかなかったのだ。 瑠香自身の栄光など、誰一人として気にかける者はいなかった。
たかが、そんなトロフィーなど――。 かつては「家族の面子」を立てるため、この理不尽な仕打ちを深く追及することはなかった。
けれど、今はもう……
瑠香は、ふっと唇の端を上げた。 和也に電話をかけた。 「賞金は十億円。 その半分は、私がもらうわ」
もはや希望を抱いていなかった和也だったが、瑠香の言葉を聞いた途端、一瞬にして興奮の渦に巻き込まれた。 「問題ないっす! 竜也のチームなんて全然怖くないっすよ、 奴らの戦術は全部研究し尽くしてますから! でも、 瑠香姉さんの加速と限界突破はマジで最強なんすよ、 俺、 一度も止められたことないし、 毎回姉さんの手中に落ちてますから! この万年二位の俺が竜也のチームに負けたっていうより、 姉さんに負けたって感じっす!」
瑠香は、くすりと小さく笑った。 「そうよね。 あなたたちに分かることが、彼らには分からないなんて……本当に宝の持ち腐れだわ」 和也は、興奮冷めやらぬまま続けた。
「あ、そうだ、もう一つ大事な話があるんすけどね。 闇サイトで小耳に挟んだ情報が流れてて、Y国の富豪、一条家が最近、帝都に来てるらしいんすよ。 かつてここに置き去りにした娘を探してるっていう話で、その手がかりに破格の懸賞金をかけてるみたいで。 俺たちも人を使って探してみますか?」
瑠香は、あっさりと、しかしどこか冷淡に答えた。 「無理ね。 期末試験の準備があるから。 切るわ」
電話の向こうで、和也は呆然と立ち尽くしていた。
断りたいなら素直に断ればいいものを、何が「馬鹿げた試験の準備」だ。 瑠香が試験を受けているところなんて、一度たりとも見たことがない。 どう見ても、試験問題を作る側の人間だというのに……
話 3
二番目の連絡は、軍区総合病院が誇るベテラン名医、斎藤 修からもたらされた。
小柄な老人の声は、切羽詰まった、すがるような響きを帯びていた。 「鈴木先生、こちらで少々厄介な事態に直面しておりまして。 長年、難病を患っておられる私の戦友の御子息が、このところ急速に容態が悪化の一途を辿っております。 先生にお作りいただいた特製の薬も、最早、効果が見られなくなってしまいまして……つきましては、大変恐縮ではございますが、もし鈴木先生のご都合が許されますなら、何卒一度、直接診ていただけないでしょうか」
鈴木瑠香は、間髪入れずに斎藤へ電話をかけ直した。 「承知いたしました。 明日、学校が終わり次第、直接軍区の官舎へ戻ります。 夜間は終日外来におりますので、その方を連れてきてください」斎藤は、言葉を選びながら返した。
「その方は現在、総合病院のVIP病室に入院されておりまして、厳重に身分が秘匿されております。 そのため、外出は少々難しいかと存じます」
瑠香は苛立ちを抑えきれないように、コツンと指でテーブルを叩いた。 「斎藤さん、回りくどいのはやめて。 患者は一体誰なの?」
斎藤は、しばし沈黙し、慎重に言葉を選びながら口を開いた。 「……特級上将、加藤家のお孫様、加藤 律様でございます。 事態は想像以上に重大で、加藤家はすでに全国各地の医療界の権威の方々へ、極秘裏に招待状をお送りしております。 もし律様をお救いすることができれば、その報酬は、なんと天文学的な20億円とのことです」
瑠香は、再び驚きに眉を上げた。 加藤家の名は、もちろん彼女も知らぬはずがない。 何しろ、加藤家の当主は陸軍特級上将――その軍事力、そして影響力たるや、たとえ国家の大統領が来訪しようとも、三分の礼を尽くさざるを得ないほど絶大なのだ。 そして、加藤 律――。
彼女もまた、数年前にこの名家の御曹司の噂を耳にしていた。 わずか三十歳という若さで、驚異的な軍事的才能を発揮し、数々の輝かしい戦功を挙げて、現代において最も若い海軍上将の座に就いた、まさに伝説的な人物だ。
あの加藤 律が、一体どうしたというのだろうか?
瑠香は、仕事で常用している暗号化携帯の個人メールボックスを開いた。 案の定、そこには国家医療部から送られた招待状が、既に届いていた。
彼女は「ゴッドハンド」というハンドルネームを使い、ダークウェブの深淵に潜り込み、難病治療という巨額の案件を専門に請け負ってきたのだ。 時が経つにつれ、彼女の志に共鳴する者たちが自然と集い、やがて独自の、強固な医療ネットワークを築き上げていた。
国家の機関が、そんな彼女に目をつけたのも、もはや驚くべきことではなかった。
「招待状は確かに受け取りました」瑠香は、感情を読み取らせない淡々とした口調で告げた。 「報酬は、確かに悪くない。 一度、診に行ってみましょう」
その夜、鈴木家にもまた、加藤家が発した救難の招待状に関する噂が、たちまちのうちに小耳に挟まることとなった。 鈴木 拓也の心は、にわかに活気づき、居ても立ってもいられない様子で、すぐさま方々に電話をかけまくり、この千載一遇の機会を何としてもものにしようと、文字通り奔走した。
鈴木家は長年にわたり、ただ富裕層の縁を彷徨うばかりで、政府関係者との強固なコネクションを築き上げ、真の権力者へと成り上がる機会を掴めずにいた。 もし、この加藤 律を救うことができれば、鈴木家全体が文字通り天に昇るかのような、飛躍的な地位を得られることは明白だった。
その傍ら、もう一つの大きなニュースが帝都を駆け巡っていた。 Y国の大富豪が、行方不明となった愛娘を探すため帝都を訪れ、その情報提供者には天文学的な報酬を提示したというのだ。 その知らせは瞬く間に帝都中に広がり、人々は一斉に動き出し、その夜の街は、これまでにないほどの活気と喧騒に包まれていた。
……
翌朝。
電話のけたたましい音に、瑠香はゆっくりと目覚めた。 まだ夢と現実の狭間を彷徨うような気だるさを全身に感じながら、重い体をベッドから起こした。
かかってきたのは、臨床医学の指導教官からだった。 電話口の声は、隠しきれない苛立ちと怒りに満ちている。 「鈴木瑠香!資料整理は終わったのかと尋ねたはずだぞ!午前中、お前は一体どこで何をしている!?お前の妹は朝早くから手伝いに来ているんだ!さっさと、今すぐ学校へ来い!」
瑠香は、何も言葉を発することなく、無言で電話を切った。 そして、静かに時間を確認する。
午前十時。
昨夜は、数百年も前に書かれた古文書から、いくつかの難解な薬方を研究していたせいで、すっかり夜更かしをしてしまった。 その結果の寝坊で、指導教官からの指示を完全に失念していたのだ。
瑠香は、一つ大きくあくびをしながらも、慣れた手つきでパソコンを開いた。 手早くメールを打ち終え送信すると、簡単な身支度を済ませ、慌ただしく家を出た。
愛用のバイクに跨ると、彼女は大学内の研究室の入り口目指して急いだ。 バイクを所定の場所に停め、建物へと足早に向かう。
学生証をスキャンし、中へ入ろうとした、その時だった。 認証機は無情にも「認証失敗」の赤い文字を煌めかせた。
ちょうどその時、研究室の中から三人の人影が現れた。 田中 美晴と、彼女の取り巻きであろう研究室の先輩二人組だった。
先輩の一人が、瑠香が研究室へ入れないのを確認するや否や、嘲るような冷笑を浮かべた。 「鈴木瑠香、一体自分を何様だと思っているんだ? 遅刻は常習、与えられた仕事は一切しない。 今回ばかりは先生も怒り心頭に発し、お前の研究室への入室資格を、直々に取り消したと聞いているぞ。 さあ、これからどうするつもりだ、鈴木瑠香?」