話 1
「貴様、俺に毒を盛ったな!なぜ、俺に貴様のような悪鬼のごとき妹がいるんだ!」 鈴木水樹は、激しい怒りに任せて碗と箸を瑠香の足元に叩きつけた。 黒い血を吐き出しながら、彼は震える声で怒鳴りつけた。 「晴が教えてくれなかったら、俺を殺すつもりだったのか!」
「兄さん、薬湯に毒はないと、何度も申し上げました。 ただ、ある生薬を配合しておりまして、それを飲めば体内の鬱血を吐き出す効果がございます。 そうすれば、兄さんの病も必ず癒えるのです」
鈴木瑠香は、床に飛び散った薬湯の飛沫を、じっと見つめた。 長い時間をかけ、高値でようやく手に入れた貴重な薬が、こうもあっけなく無駄にされてしまうとは――その胸には、言いようのない痛みが広がった。
水樹の傍らに寄り添うように立っていた田中美晴は、鈴木家に引き取られた養女である。 彼女は医学書を胸に抱え、今にも泣き出しそうな声で訴えかけた。 「瑠香お姉ちゃん、こんな時まで嘘をつかないでください。 拓也兄様が、もうお姉ちゃんの薬を検体として検査しました。そこから猛毒が検出されたんです」瑠香は、美晴を一瞥した。その瞳には、隠すことさえしない明らかな軽蔑が宿っていた。
「愚か者め。 薬は三分の毒と申すだろう。 ましてや兄さんの症状はこれほど重篤。 強い毒をもって毒を制するしか、他に道はないのだ」
田中美晴の目に、大粒の涙が浮かんだ。 彼女は必死に、懇願するように言った。 「瑠香お姉ちゃん、兄様はこんなにも吐血しているのに、まだ嘘をつくんですか! 私達はまだ医学生で、未熟な私達が人を救えるはずがないでしょう。 どうか、無理はしないでください」
彼女はさらに二歩前へ進み出ると、瑠香に向かって、すすり泣くような声で続けた。 「私、もう兄様のために、世捨ての仙人様を見つけてきました。 その方から、兄様を救えるという奇跡の薬方をいただいたんです。 瑠香お姉様、どうか、ご自分の間違いを認めて、その仙人様の薬方で先に兄様の病気を治させていただけませんか?」
鈴木水樹は激しく咳き込みながら、怒声を上げた。 「鈴木瑠香!出所の知れない怪しい薬を飲ませた上に、晴を侮辱するとは!貴様が晴の半分でも、人としての情けを知っていればどれほど良いか!さっさと跪いて謝罪しろ!」
瑠香は、すっと背筋を伸ばした。 その冷めた視線は、一切の感情を宿さずに水樹を射抜く。 「私はただ、病に苦しむ人を救おうとしただけ。それが、何だというのです? あの女に跪けと?……そのようなことは、絶対にありえません」
「いいだろう!いいだろう、とことん俺を怒り狂わせる気か!貴様の性根は、もはや腐りきっている!」 鈴木水樹は、怒りのあまりに我を忘れ、手近にあった鞭を掴み取ると、勢いよく立ち上がった。 そして、その鞭を瑠香に振り下ろそうとする。 「出て行け!この家から、鈴木家から今すぐ出て行け!貴様のような疫病神の妹などいらん!犬を飼う方が、まだよほど忠実というものだ!」
瑠香は、寸前で二歩後ずさりし、振り下ろされた鞭を間一髪でかわした。 その刹那、二階からドタドタと足音が響き、すぐに一つのバックパックが彼女の足元に投げつけられた。現れたのは、兄の鈴木拓也だった。
男は、底冷えするような声で言い放った。 「俺からもはっきり言っておく。 晴こそが、俺達の本当の妹だ。 これまで貴様に隠していたのは、貴様が気にするかと思ってのことだったが、今となっては、貴様の悪辣な心根など、とっくに見透かしている」
「もし貴様が、今なお自分の非を認めないというのなら、鈴木家から出て行け。 俺達は晴を、唯一の、そして本当の妹として正式に発表する。 貴様は、今の栄華をすべて失い、故郷の田舎に帰って、自分の家族を探すんだな」
瑠香が、このような脅しに直面するのは、これが初めてのことではない。 鈴木家で、これほど長く抑圧され、虐げられてきた時間の中で、彼女の心はすでに麻痺していた。 だが今、自分が偽物の妹だったと聞かされ、張り詰めていた心の糸がぷつりと切れたかのように、彼女の心はふっと軽くなり、異常なほどの安堵感に包まれた。
もう、自らが心血を注いで開発した薬を、この愚かで、見る目のない家族に、無償で提供する必要などないのだ。
それにしても、自分はこれほど聡明に生まれたというのに、どうしてこの兄弟たちは皆、頭の代わりに尻でもついているかのような連中ばかりなのだろうか。
「分かったわ」
瑠香は、きっぱりとした声でそう告げると、床に投げつけられたバックパックを拾い上げた。 テーブルの上からキャンディを一つ手に取り、無造作に口に放り込む。そこには、微塵の未練も感じさせず、彼女は踵を返すと、その場を去っていった。
田中美晴は、瑠香の去っていく背中を、じっと見つめていた。 そして、ついに抑えきれなくなったかのように、その口角を吊り上げた。
五年もの歳月をかけ、ついに瑠香を追い出すことに成功したのだ。 これで自分が、鈴木家唯一の掌中の珠となり、兄たちの寵愛を一身に受けることができる。
しかし、口では、田中美晴はわざとらしく瑠香を追いかけ、悲痛な声で二度、三度と呼びかけた。 「瑠香お姉ちゃん!行かないで!うちにはいつでも、お姉ちゃんの居場所があるから!どうか、私を責めさせないで!お願い!」
鈴木水樹が、怒鳴るようにして美晴を呼び止めた。 「晴、戻ってこい!あいつは出て行ってくれて結構だ。 田舎から来た娘は、心根まで汚いんだから、一生田舎で暮らさせておけばいい」
鈴木家の人間に、少しも頭がないとでも言うのだろうか?
鈴木水樹が死の床から奇跡的に起き上がり、話したり歩いたりできるようになったのは、すべて彼自身の幸運のおかげだとでも思っているとでもいうのだろうか?
彼女は、自分が定期的に施していたリハビリマッサージと、心血を注いで開発した特効薬がなくなった時、鈴木水樹が一体どれだけ立っていられるか、ただ静かに見物してやろうと思った。
瑠香は、すっとパーカーのフードを頭に被った。 風になびく長い髪が、朱色の唇に貼りつく。 その美しい瞳には、すべてを見透かしたかのような、冷たい嘲りが満ちていた。
……
一方、Y国の首都、一条家。
豪華絢爛たる一条家の邸宅。 その応接間のソファに座っていた威厳ある老人が、手にしていた金メッキの杖を、苛立ちを隠せない様子で床に叩きつけた。「見つかったと言ったではないか! なぜ、今すぐに連れ戻してこないのだ!」
老人の周囲には、それぞれが異なる魅力を放つ、三人の高貴な男たちが控えていた。 彼らこそ、一条家の三兄弟。 いずれも人並み外れた才覚を持ち、Y国の権力の頂点に君臨する者たちである。 大統領でさえ、彼らには一目置くほどだった。
しかし今、幼い頃に行方不明になった四番目の妹が未だ見つからず、彼らの顔には、深い苦渋の表情が浮かんでいた。
「手がかりは、帝都で途絶えてしまいました。 情報屋の報告によれば、四女はかつて山村に住んでいましたが、その後、人身売買によって姿を消したとのこと。 いまだ、見つけられておりません」
老人はそれを聞いて、さらに深く心を痛めた。 その声には、悲しみと怒りがにじむ。 「お前たちが十八年も失くした妹が、田舎でどれほどの苦労をしたか、分からんのか!」
「おじい様、私達はすでに、当時誘拐した人身売買犯の一人を見つけ出しました。 彼の供述によると、最終的には帝都の裕福な奥様の手に渡ったとのことです。 もう少しお時間をいただければ、間もなく必ず四女を見つけ出します」
老人の口調は、ようやく怒りを和らげた。 彼は、ゆっくりと立ち上がると、その目に確かな希望の光を宿した。 「では、今すぐ出発だ。 儂も一緒に行くぞ!」
話 2
鈴木瑠香は肩にかけたバッグを背に、鈴木家を後にした。 一直線に近くの駐車場へ向かうと、愛用の限定版バイクに軽やかに跨がった。
これまで瑠香は、「家族」という名の檻の中で、兄たちの前では己の才覚をひたすら隠し、控えめな娘を演じてきた。 しかし、ようやくその鎖から解き放たれ、本来の自分を取り戻す時が来たのだ。
エンジンを唸らせ、瑠香のバイクは一路、風を切り裂いて疾走した。 やがて、目的地の軍区官舎の厳重な門前で、静かにその勢いを緩めた。
門は厳重な警備体制を敷いていたが、瑠香のバイクの姿を認めると、衛兵は瞬時に顔をほころばせ、迷うことなくゲートを開けて通した。 「鈴木さん、今日はお珍しいお帰りですね!」
瑠香はヘルメットのシールドを上げ、軽く頷き返した。
官舎の中庭では、金木犀が馥郁たる香りをあたりに漂わせ、まさに盛りを迎えていた。 数人の退役幹部たちが、穏やかな午後を散歩して過ごしていたが、速度を緩めた瑠香のバイクを見つけるや否や、彼らは一斉に駆け寄ってきた。
「瑠香ちゃん、今日は帰ってきたのかい!おや、ちょうど君に会いたいと思っていたんだよ。 前に処方してくれた薬、もう飲み終わってしまってね」
瑠香はバイクを停めると、慣れた手つきでヘルメットを外し、その整った顔立ちを露わにした。 「明日、一日中官舎の診療所にいますから、薬を取りにいらしてくださいね」
「それから、そちらのおじ様も」瑠香は、もう一人のおじいさんの首に巻かれたサポーターを指さした。 「そんな風に首に負担をかけるような真似をしたら、頸椎を痛めてしまいますよ、と申し上げましたよね?」
名指しされたおじいさんは、ばつが悪そうにサポーターを外した。 「では、鞭を二、三度振るくらいなら、構わないだろうか?」
「ご自身に当たらないよう、 くれぐれもお気をつけくださいね」 瑠香は官舎の建物へと足を踏み入れた。
瑠香がこの軍区官舎に住まいを構えることになったのは、かつて、軍区総合病院で薬を買い求めていた際、偶然にも、そこで発作を起こした高齢のてんかん患者を救い、その処方箋で根本的な原因を癒やしたことが発端だった。
後に瑠香が知ったのは、その老人が総病院を退職した、かつて最も優れた臨床医であったということだ。 老人は瑠香の医術を惜しみなく絶賛し、自ら弟子入りを志願するほどであった。 ついには、この軍区官舎に部屋を一つ用意させ、いつでも住めるようにと、半ば強引に瑠香を誘ったのだ。
官舎の人々は皆、気さくで付き合いやすく、その上、立地も申し分なく、住み心地もこの上なく快適だったため、いつしか瑠香にとって、ここは本当の「家」と呼べる場所になっていたのだ。
瑠香がごく普通の、何の変哲もないように見えるドアを開け放つと、スマートホームシステムが自動で室内の照明を灯し、穏やかな女性の声が、流れるようにアナウンスした。 「お帰りなさいませ、鈴木瑠香様。 ご不在の三日間に、暗号化された電話の留守番メッセージが二件、そしてメールに新着メッセージがございます。 お風呂のお湯は既に入っております」
瑠香は、肩にかけたバッグを無造作に床へと放り投げた。 途端、ファスナーが開き、中から分厚い札束が、鈍い音を立ててどさりとこぼれ落ちた。
瑠香は、床に散らばった金に冷ややかな一瞥をくれた。 せいぜい、たかが二十万円といったところだろう。 瑠香は、薄く弧を描くように唇を歪めた。本当に、私を物乞い扱いし、施しでも与えるつもりなのだろうか――その侮蔑に、胸の奥底で冷たい怒りが燃え上がった。
「メッセージを再生して」
一件目のメッセージは、吉田和也から昨夜届いたものだった。
「瑠香姉さん、華碩カップのリレーレース、もうすぐ申し込み締め切りですよ。 練習レースも二回やったっていうのに、本当に鈴木家の人たちと組んで出るつもりなんすか?俺のことも、ちょっとは考えてくれませんか? 竜也のやつ、最近の練習レースじゃ俺にボコボコにされてるんすよ!」
瑠香は、ふっと眉を上げた。 ああ、そういえば、そんなこともあったな――と、記憶の片隅からその出来事を引き出した。
竜也は瑠香の三番目の兄で、世界トップクラスのレーシングクラブを経営し、プロの選手たちを率いてレースで賞金を稼ぐ男だ。 瑠香も以前、彼のチームのために、夜遅くまでトレーニングを積み、レースに出場したこともあった。 しかし――瑠香がチームのポイントを稼ぎ、決勝レースで優勝を狙える位置まで進むと、決まって竜也に降ろされ、代わりに田中美晴が最後のバトンを受け取って、栄光をかっさらっていったのだ。
何年もの間、瑠香はただひたすらに利用され、その価値を搾り取られるだけだった。 美晴が兄たちと共に高らかにトロフィーを掲げるのを、ただ傍観するしかなかったのだ。 瑠香自身の栄光など、誰一人として気にかける者はいなかった。
たかが、そんなトロフィーなど――。 かつては「家族の面子」を立てるため、この理不尽な仕打ちを深く追及することはなかった。
けれど、今はもう……
瑠香は、ふっと唇の端を上げた。 和也に電話をかけた。 「賞金は十億円。 その半分は、私がもらうわ」
もはや希望を抱いていなかった和也だったが、瑠香の言葉を聞いた途端、一瞬にして興奮の渦に巻き込まれた。 「問題ないっす! 竜也のチームなんて全然怖くないっすよ、 奴らの戦術は全部研究し尽くしてますから! でも、 瑠香姉さんの加速と限界突破はマジで最強なんすよ、 俺、 一度も止められたことないし、 毎回姉さんの手中に落ちてますから! この万年二位の俺が竜也のチームに負けたっていうより、 姉さんに負けたって感じっす!」
瑠香は、くすりと小さく笑った。 「そうよね。 あなたたちに分かることが、彼らには分からないなんて……本当に宝の持ち腐れだわ」 和也は、興奮冷めやらぬまま続けた。
「あ、そうだ、もう一つ大事な話があるんすけどね。 闇サイトで小耳に挟んだ情報が流れてて、Y国の富豪、一条家が最近、帝都に来てるらしいんすよ。 かつてここに置き去りにした娘を探してるっていう話で、その手がかりに破格の懸賞金をかけてるみたいで。 俺たちも人を使って探してみますか?」
瑠香は、あっさりと、しかしどこか冷淡に答えた。 「無理ね。 期末試験の準備があるから。 切るわ」
電話の向こうで、和也は呆然と立ち尽くしていた。
断りたいなら素直に断ればいいものを、何が「馬鹿げた試験の準備」だ。 瑠香が試験を受けているところなんて、一度たりとも見たことがない。 どう見ても、試験問題を作る側の人間だというのに……
話 3
二番目の連絡は、軍区総合病院が誇るベテラン名医、斎藤 修からもたらされた。
小柄な老人の声は、切羽詰まった、すがるような響きを帯びていた。 「鈴木先生、こちらで少々厄介な事態に直面しておりまして。 長年、難病を患っておられる私の戦友の御子息が、このところ急速に容態が悪化の一途を辿っております。 先生にお作りいただいた特製の薬も、最早、効果が見られなくなってしまいまして……つきましては、大変恐縮ではございますが、もし鈴木先生のご都合が許されますなら、何卒一度、直接診ていただけないでしょうか」
鈴木瑠香は、間髪入れずに斎藤へ電話をかけ直した。 「承知いたしました。 明日、学校が終わり次第、直接軍区の官舎へ戻ります。 夜間は終日外来におりますので、その方を連れてきてください」斎藤は、言葉を選びながら返した。
「その方は現在、総合病院のVIP病室に入院されておりまして、厳重に身分が秘匿されております。 そのため、外出は少々難しいかと存じます」
瑠香は苛立ちを抑えきれないように、コツンと指でテーブルを叩いた。 「斎藤さん、回りくどいのはやめて。 患者は一体誰なの?」
斎藤は、しばし沈黙し、慎重に言葉を選びながら口を開いた。 「……特級上将、加藤家のお孫様、加藤 律様でございます。 事態は想像以上に重大で、加藤家はすでに全国各地の医療界の権威の方々へ、極秘裏に招待状をお送りしております。 もし律様をお救いすることができれば、その報酬は、なんと天文学的な20億円とのことです」
瑠香は、再び驚きに眉を上げた。 加藤家の名は、もちろん彼女も知らぬはずがない。 何しろ、加藤家の当主は陸軍特級上将――その軍事力、そして影響力たるや、たとえ国家の大統領が来訪しようとも、三分の礼を尽くさざるを得ないほど絶大なのだ。 そして、加藤 律――。
彼女もまた、数年前にこの名家の御曹司の噂を耳にしていた。 わずか三十歳という若さで、驚異的な軍事的才能を発揮し、数々の輝かしい戦功を挙げて、現代において最も若い海軍上将の座に就いた、まさに伝説的な人物だ。
あの加藤 律が、一体どうしたというのだろうか?
瑠香は、仕事で常用している暗号化携帯の個人メールボックスを開いた。 案の定、そこには国家医療部から送られた招待状が、既に届いていた。
彼女は「ゴッドハンド」というハンドルネームを使い、ダークウェブの深淵に潜り込み、難病治療という巨額の案件を専門に請け負ってきたのだ。 時が経つにつれ、彼女の志に共鳴する者たちが自然と集い、やがて独自の、強固な医療ネットワークを築き上げていた。
国家の機関が、そんな彼女に目をつけたのも、もはや驚くべきことではなかった。
「招待状は確かに受け取りました」瑠香は、感情を読み取らせない淡々とした口調で告げた。 「報酬は、確かに悪くない。 一度、診に行ってみましょう」
その夜、鈴木家にもまた、加藤家が発した救難の招待状に関する噂が、たちまちのうちに小耳に挟まることとなった。 鈴木 拓也の心は、にわかに活気づき、居ても立ってもいられない様子で、すぐさま方々に電話をかけまくり、この千載一遇の機会を何としてもものにしようと、文字通り奔走した。
鈴木家は長年にわたり、ただ富裕層の縁を彷徨うばかりで、政府関係者との強固なコネクションを築き上げ、真の権力者へと成り上がる機会を掴めずにいた。 もし、この加藤 律を救うことができれば、鈴木家全体が文字通り天に昇るかのような、飛躍的な地位を得られることは明白だった。
その傍ら、もう一つの大きなニュースが帝都を駆け巡っていた。 Y国の大富豪が、行方不明となった愛娘を探すため帝都を訪れ、その情報提供者には天文学的な報酬を提示したというのだ。 その知らせは瞬く間に帝都中に広がり、人々は一斉に動き出し、その夜の街は、これまでにないほどの活気と喧騒に包まれていた。
……
翌朝。
電話のけたたましい音に、瑠香はゆっくりと目覚めた。 まだ夢と現実の狭間を彷徨うような気だるさを全身に感じながら、重い体をベッドから起こした。
かかってきたのは、臨床医学の指導教官からだった。 電話口の声は、隠しきれない苛立ちと怒りに満ちている。 「鈴木瑠香!資料整理は終わったのかと尋ねたはずだぞ!午前中、お前は一体どこで何をしている!?お前の妹は朝早くから手伝いに来ているんだ!さっさと、今すぐ学校へ来い!」
瑠香は、何も言葉を発することなく、無言で電話を切った。 そして、静かに時間を確認する。
午前十時。
昨夜は、数百年も前に書かれた古文書から、いくつかの難解な薬方を研究していたせいで、すっかり夜更かしをしてしまった。 その結果の寝坊で、指導教官からの指示を完全に失念していたのだ。
瑠香は、一つ大きくあくびをしながらも、慣れた手つきでパソコンを開いた。 手早くメールを打ち終え送信すると、簡単な身支度を済ませ、慌ただしく家を出た。
愛用のバイクに跨ると、彼女は大学内の研究室の入り口目指して急いだ。 バイクを所定の場所に停め、建物へと足早に向かう。
学生証をスキャンし、中へ入ろうとした、その時だった。 認証機は無情にも「認証失敗」の赤い文字を煌めかせた。
ちょうどその時、研究室の中から三人の人影が現れた。 田中 美晴と、彼女の取り巻きであろう研究室の先輩二人組だった。
先輩の一人が、瑠香が研究室へ入れないのを確認するや否や、嘲るような冷笑を浮かべた。 「鈴木瑠香、一体自分を何様だと思っているんだ? 遅刻は常習、与えられた仕事は一切しない。 今回ばかりは先生も怒り心頭に発し、お前の研究室への入室資格を、直々に取り消したと聞いているぞ。 さあ、これからどうするつもりだ、鈴木瑠香?」