2

ゲーデルカントリークラブ。

雲倉市最大にして、最も豪奢なゴルフ場。

——今日は、コース全体が一人の男に貸し切られていた。

その男こそ、桐生家の当主——桐生蓮。

桐生家は雲倉市を牛耳るほどの権勢を誇る一族だ。手掛ける事業は多岐にわたり、近年は海外進出にも成功。今や、その実力は誰もが及ばぬほど圧倒的だ。

「お爺様、政略結婚の話はもうよせ。 これ以上言うなら、橘家を潰す」

言い放つや通話を切り、スマホを隣にいたアシスタントへ投げ渡した。

彼はゴルフクラブを手に取ると、ゆっくりとティーイングエリアへ向かった。

そこには、一人の男が横たわっていた。

男は口に無理やりティーを噛まされ、目には恐怖が満ち、全身が震えていた。全身が恐怖で震えている。

「小川社長、動くなよ」 蓮はクラブを軽く振りながら、低く冷えた声で言った。「お前のせいでホールインワンを逃したら、どうなるか、分かってるな」

小川社長の目には、隠しきれない恐怖が浮かんでいた。目の前で絶えず振られるクラブは、まるで振り子のように ——自分の死の鐘を鳴らしているかのようだった。

ヒュッ、と鋭く風を切る音が響いた。

ボールは鋭く弾かれ、弧を描いて飛ぶ。

ボールは空中に美しい放物線を描き、やがて芝に落ちると、そのままカップへと転がっていった。

そしてまもなく、カップに沈んだ。

丁度いいタイミングでコースに姿を現した星乃は、笑いかけながら言った。「桐生さん、ナイスショット」

見知らぬ人間がコースに入ってきたのを見て、蓮のボディガードたちが一斉に囲んできた。

そのうちの一人が掴みかかろうとした瞬間、星乃は体を横に逸らし、そのまま足を上げて男を蹴り飛ばした。

「それが婚約者への歓迎?」星乃は唇の端をわずかに上げた。

婚約者……?

場の空気が一瞬で凍りついた。

蓮は、雲倉でも有名な女嫌いだ。

その男に対して、面と向かって自ら婚約者だと名乗るなど——命が惜しくないのか?

蓮は小さく冷笑し、星乃を見る目に戯れの色をにじませた。

「俺にここまで無礼な真似 を働く女は——お前が初めてだ」 その声はさらに低く沈んだ。「…… そして最後になる」

鼻で嗤い笑うと、蓮は背を向けた。

——その瞬間。風を裂く拳が迫る。蓮は反射的に頭を逸らし、拳が眼前をかすめていくのを感じた。

蓮は目を見開き、鋭い視線を向けると、さっと手を上げてその手首をぎゅっと掴み、力強く自分の目の前へ引き寄せた。すると、氷のように冷たい一対の瞳とぶつかった。

その瞳の奥に潜むのは、むき出しの荒々しさと冷酷さだった。蓮は本能的に危険を察知した。

次の瞬間、星乃を突き放した。

「蓮さん、そろそろ話を聞いていただけますか?」星乃は笑っているのかさえ判然としない表情で彼を見据えた。

蓮は目を細め、ようやく我に返って詰め寄ろうとしているボディガードたちに視線を向けた。

「下がれ」

一言で、全員の動きが止まった。

「……使えん」

蓮はゆっくりと振り返り、星乃を見据えた。「一分だけだ」冷ややかな声が落ちた。

「橘星乃。橘家の令嬢だ」

「橘家の令嬢は……橘美咲じゃなかったか?」 蓮は目を細め、軽く合図を送る。

側近の美誠が歩み寄り、声を潜めて言った。「蓮様、確認しました。彼女は確かに橘家の令嬢です。 ただし、その存在はこれまで公にされておらず、四年前に刑務所に送られ、本日ちょうど出所したばかりです」

蓮は意味ありげに口元を歪めた。「前科持ちの令嬢が、出所初日に俺の前に現れて、 自分を婚約者だと名乗るか。 ……面白い」

「で、何をしに来た?」

「あなたと結婚したい」

3

蓮が口を開くより先に、星乃が言葉を続けた。「蓮様、このところ——榮三郎様にずいぶん結婚を急かされているのでは?」

彼の放つ威圧感など意に介さず、星乃はそのまま傍らのデッキチェアへまっすぐ歩み寄った。

「榮三郎様は、あなたが最も敬っている方です。 口では結婚を拒んでいても、内心では、あの方が刺激を受けて体を壊すのではないかと恐れているのでしょう?」

「それがどうした?」

蓮は眉をひそめ、探るような視線を星乃に向けた。

この女は最初から最後まで一切動じることなく、局面を完全に掌握しているかのように、女王のような貫禄を漂わせていた。

「契約結婚を提案します」 星乃は手にしたサングラスを指先で弄びながら、淡々と続けた。「一つは、ご当主様を安心させ、結婚を急かされる煩わしさから解放できること。 二つは、蓮様のもとへ群がる無駄な女たちを、排除できること」

「ふん……俺がそんなものを気にすると思うか?」 蓮は嗤い、周囲の空気がさらに冷え込んだ。「橘さん。俺を利用するには、お前はまだ足りない」

「もちろん、それだけで雲倉の生きた閻魔を動かせるとは思っておりません」 星乃はふっと笑い、長い脚を組み替えながら、地面に倒れている小川社長へ一瞥をくれた。

「蓮様、一つ賭けをしませんか?」

蓮はわずかに間を置き、低く問った。「……何を賭ける?」

星乃は立ち上がり、ゴルフバッグから一本クラブを抜き取った。「桐生グループの未来城プロジェクト。元はこの小川社長が担当していましたが資金に手を付け、巨額の損失を出している」

小川社長を見下ろしながら続ける。「彼が外れる以上、新たな引き受け手が必要になるでしょう?」

「未来ヶ丘プロジェクトを狙っているのか?」

星乃はすでに小川社長の目前に立っていた。恐怖と懇願の入り混じった視線など一切気にせず、静かに構えを取った。 「私が一打でカップインさせたら、 未来ヶ丘プロジェクトをいただきます」

蓮はわずかに意表を突かれた。婚約を条件に出すと思っていたが、予想は外れた。

「いいだろう」

「さすが蓮様。ご決断が早い」

言葉を終えた瞬間、星乃の目が鋭く細まる。そして、クラブが振り抜かれた。

パシッ!

クラブは重く鋭く振り抜かれ、小川社長の目前をかすめた。その一撃に、まるで魂ごと持っていかれたかのように、彼は全身を震わせる。

ボールは空中に放物線を描いた。

居合わせた者たち全員の視線が、そのボールに釘付けになった。思わず息を呑み、その行方を見守る。

カラン、と乾いた音が響いた。

ボールは——そのままカップに沈んだ。

場がざわめいた。まさか……あれで入るなんて! 到底、素人の一打とは思えない。熟練者であっても、あそこまで完璧な一撃はそう簡単に出せるものではない。

パチ、パチ、パチ——

蓮がゆっくりと拍手を送る。その視線には、わずかな賞賛が混じっていた。

「橘さん——見事な腕だ。 この未来ヶ丘プロジェクトは、約束どおりお前のものだ」」

「ありがとうございます、蓮様。 ……では、本題に戻りましょうか?」

蓮の瞳が冷たく沈む。「腕は認める。だが婚約は別だ。 俺は、爺さんの口を塞ぐために女を使うつもりはない」

その言葉を受けても、星乃は動じない。懐から一枚の書類を取り出し、蓮へ差し出した。

「蓮様、まずはこちらをご覧ください」

そう言い残し、星乃は踵を返した。「橘家で、お待ちしております」

蓮が嘲笑を浮かべかけた、その瞬間——書類に目を落とした彼の瞳が、鋭く収縮した。

なぜ、これを……?

この女はいったい、何者だ——。

「蓮様……?」

側近の宇佐美誠の声に、蓮はゆっくりと顔を上げた。

「車を出せ。橘家へ向かう」

「蓮様、それは……?」

「——縁談を持ち込みに行く」

今すぐ全編を読む
作者の『Moboreader』を応援して、素晴らしい物語の続きを楽しみましょう!
全話ロック解除

監獄帰りの狂犬令嬢、ただいま偽家族を蹂躙中。

第2話
エピソード
カスタマイズ
次の章