話 1
壱号刑務所。
全国で最も厳重な警備を誇る刑務所だ。
ここに収監されるのは、ほとんどが最凶クラスの重罪人ばかり。
その壱号刑務所の正門前に、今、数台の高級車が停まっていた。
ギィ、と重い音を立てて、
刑務所の門がゆっくりと開かれる。
リュックを背負った、ほっそりとした体つきのショートヘアの少女が、中から姿を現した。
耳元できっちりと切り揃えられたショートヘアが清潔感を醸し出し、瞳は刑務所の暗い環境にも負けず、むしろ静かな強さを湛えていた。白いTシャツにブルージーンズ。そのシンプルな佇まいには、無駄のない潔さと、内から湧き上がる確固たる意志が感じられた。
看守たちはその少女を見て、思わず息を呑んだ。——これが……あの大物なのか?
「橘星乃、出たら法を遵守しろ。二度と戻ってくるなよ」 橘星乃を見送る刑務官が、親切心からそう声をかけた。
星乃は軽く頷くと目を閉じ、深く息を吸い込んだ。自由の空気を、貪るように。
四年——
丸四年。
ようやく、この地獄から抜け出せた。
「お嬢様!」
その場を震わせるような呼び声に、星乃は眉をひそめた。
目を開くと、前方には二列に並んだボディガード。星乃はそれを一瞥し、苛立たしげに吐き捨てた。「どこの連中だ。——とっとと消えな」
「お嬢様!」
痩せた男が慌てて歩み寄り、媚びた笑みを浮かべた。「我々だけで戻るわけにはまいりません。 吉田玲子様のご命令で、本日ご出所のお嬢様をお迎えし、厄払いを兼ねた席をご用意しております」
振り返ろうとした体を、男がさっと制した。 「お嬢様、一度出たら振り返ってはいけません。縁起が悪いから」
「昔の私なら、そんな慣わしを信じたかもしれないけど……」 ゆっくりと振り返りながら、星乃は言った。「でも今は——自分しか信じない」
そう言うと、刑務所の方へ向き直り、深く一礼した。
「玲子さん、そして先生方、お先に失礼します」
四年前、星乃は実の両親によってこの刑務所に送り込まれた。交通事故で人を死なせた養女の、身代わりとして。
当時の彼女は子羊のように弱く、刑務所の悪人たちに虐げられていた。
刑務所を牛耳る玲子が手を差し伸べなければ、彼女はとっくに終わっていた。
この四年間、玲子は彼女を実の娘のように扱い、多くのことを教え込んでくれた。
星乃はやがて、牙を持つ存在へと変わっていった。自分に牙を向ける者には、必ず代償を払わせる存在へ。
「星乃、この世界で生き残るには——誰よりも悪くなれ。 そうすれば、奴らはお前を恐れ、敬い、決して逆らわなくなる」
この教えは、星乃の魂に深く刻されていた。
視線を巡らせると、陽子が連れてきた者たちの他には誰もいない。
思わず、冷たい笑みが漏れた。出所の日だというのに、実の両親は姿すら見せない。実に皮肉な話だ。
おそらく、あの恐ろしい刑務所の中で、娘はとっくに死んだと思い込んでいるのだろう。
「お嬢様、このままお食事へ向かわれますか?それとも、橘家へお戻りになりますか?」陽子が恭しく尋ねた。
星乃は口の端を吊り上げると、颯爽と前方の車へ歩き出した。
「まずは結婚しにいくよ」
橘星乃は、ある事実をはっきりと理解していた。
刑期を終え、今や彼女には頼るべきものは何もない。
たとえ玲子の勢力が陰で見守ってくれていても、その力は所詮、表には出せないものだ。
今の彼女に必要なのは、借りる力——鋭い剣のように、ためらいなく橘家の門を切り開き、奪い返すための、確かな武器だ。
四年前、彼女は何も争わず、ただ家族に認められたいと願うだけだった。 だが、その結果が投獄という結末だ。
そして今——橘家へ戻り、奪われたものをすべて取り返す。自分を陥れた者には、例外なく報いを受けさせる。
スマホの画面をスクロールさせながら、唇に微かな笑みを浮かべた。
「桐生蓮……女嫌い、雲倉の生きた閻魔……悪くない」 指を一本伸ばし、画面に映る男の顔をゆっくりと撫でる。
普通に交渉しても、この男から有利な条件を引き出すのは難しい。
だが、橘家と桐生家には先代同士が結んだ婚約がある。それが、唯一の突破口だ。
「陽子、ゲーデルカントリークラブへ」
「お嬢様……本当に、ゲーデルカントリークラブへ向かわれるのですか? 今日は、九爺があちらを貸し切っていると聞いておりますが……」
「行けって言ってるんだ。余計な口は不要」
陽子はすぐさま口を閉ざしたが、胸の鼓動は早まった。
結婚すると言い出した直後に、九爺のいる場所へ向かう——まさか、その相手は……あの男なのか?
話 2
ゲーデルカントリークラブ。
雲倉市最大にして、最も豪奢なゴルフ場。
——今日は、コース全体が一人の男に貸し切られていた。
その男こそ、桐生家の当主——桐生蓮。
桐生家は雲倉市を牛耳るほどの権勢を誇る一族だ。手掛ける事業は多岐にわたり、近年は海外進出にも成功。今や、その実力は誰もが及ばぬほど圧倒的だ。
「お爺様、政略結婚の話はもうよせ。 これ以上言うなら、橘家を潰す」
言い放つや通話を切り、スマホを隣にいたアシスタントへ投げ渡した。
彼はゴルフクラブを手に取ると、ゆっくりとティーイングエリアへ向かった。
そこには、一人の男が横たわっていた。
男は口に無理やりティーを噛まされ、目には恐怖が満ち、全身が震えていた。全身が恐怖で震えている。
「小川社長、動くなよ」 蓮はクラブを軽く振りながら、低く冷えた声で言った。「お前のせいでホールインワンを逃したら、どうなるか、分かってるな」
小川社長の目には、隠しきれない恐怖が浮かんでいた。目の前で絶えず振られるクラブは、まるで振り子のように ——自分の死の鐘を鳴らしているかのようだった。
ヒュッ、と鋭く風を切る音が響いた。
ボールは鋭く弾かれ、弧を描いて飛ぶ。
ボールは空中に美しい放物線を描き、やがて芝に落ちると、そのままカップへと転がっていった。
そしてまもなく、カップに沈んだ。
丁度いいタイミングでコースに姿を現した星乃は、笑いかけながら言った。「桐生さん、ナイスショット」
見知らぬ人間がコースに入ってきたのを見て、蓮のボディガードたちが一斉に囲んできた。
そのうちの一人が掴みかかろうとした瞬間、星乃は体を横に逸らし、そのまま足を上げて男を蹴り飛ばした。
「それが婚約者への歓迎?」星乃は唇の端をわずかに上げた。
婚約者……?
場の空気が一瞬で凍りついた。
蓮は、雲倉でも有名な女嫌いだ。
その男に対して、面と向かって自ら婚約者だと名乗るなど——命が惜しくないのか?
蓮は小さく冷笑し、星乃を見る目に戯れの色をにじませた。
「俺にここまで無礼な真似 を働く女は——お前が初めてだ」 その声はさらに低く沈んだ。「…… そして最後になる」
鼻で嗤い笑うと、蓮は背を向けた。
——その瞬間。風を裂く拳が迫る。蓮は反射的に頭を逸らし、拳が眼前をかすめていくのを感じた。
蓮は目を見開き、鋭い視線を向けると、さっと手を上げてその手首をぎゅっと掴み、力強く自分の目の前へ引き寄せた。すると、氷のように冷たい一対の瞳とぶつかった。
その瞳の奥に潜むのは、むき出しの荒々しさと冷酷さだった。蓮は本能的に危険を察知した。
次の瞬間、星乃を突き放した。
「蓮さん、そろそろ話を聞いていただけますか?」星乃は笑っているのかさえ判然としない表情で彼を見据えた。
蓮は目を細め、ようやく我に返って詰め寄ろうとしているボディガードたちに視線を向けた。
「下がれ」
一言で、全員の動きが止まった。
「……使えん」
蓮はゆっくりと振り返り、星乃を見据えた。「一分だけだ」冷ややかな声が落ちた。
「橘星乃。橘家の令嬢だ」
「橘家の令嬢は……橘美咲じゃなかったか?」 蓮は目を細め、軽く合図を送る。
側近の美誠が歩み寄り、声を潜めて言った。「蓮様、確認しました。彼女は確かに橘家の令嬢です。 ただし、その存在はこれまで公にされておらず、四年前に刑務所に送られ、本日ちょうど出所したばかりです」
蓮は意味ありげに口元を歪めた。「前科持ちの令嬢が、出所初日に俺の前に現れて、 自分を婚約者だと名乗るか。 ……面白い」
「で、何をしに来た?」
「あなたと結婚したい」
話 3
蓮が口を開くより先に、星乃が言葉を続けた。「蓮様、このところ——榮三郎様にずいぶん結婚を急かされているのでは?」
彼の放つ威圧感など意に介さず、星乃はそのまま傍らのデッキチェアへまっすぐ歩み寄った。
「榮三郎様は、あなたが最も敬っている方です。 口では結婚を拒んでいても、内心では、あの方が刺激を受けて体を壊すのではないかと恐れているのでしょう?」
「それがどうした?」
蓮は眉をひそめ、探るような視線を星乃に向けた。
この女は最初から最後まで一切動じることなく、局面を完全に掌握しているかのように、女王のような貫禄を漂わせていた。
「契約結婚を提案します」 星乃は手にしたサングラスを指先で弄びながら、淡々と続けた。「一つは、ご当主様を安心させ、結婚を急かされる煩わしさから解放できること。 二つは、蓮様のもとへ群がる無駄な女たちを、排除できること」
「ふん……俺がそんなものを気にすると思うか?」 蓮は嗤い、周囲の空気がさらに冷え込んだ。「橘さん。俺を利用するには、お前はまだ足りない」
「もちろん、それだけで雲倉の生きた閻魔を動かせるとは思っておりません」 星乃はふっと笑い、長い脚を組み替えながら、地面に倒れている小川社長へ一瞥をくれた。
「蓮様、一つ賭けをしませんか?」
蓮はわずかに間を置き、低く問った。「……何を賭ける?」
星乃は立ち上がり、ゴルフバッグから一本クラブを抜き取った。「桐生グループの未来城プロジェクト。元はこの小川社長が担当していましたが資金に手を付け、巨額の損失を出している」
小川社長を見下ろしながら続ける。「彼が外れる以上、新たな引き受け手が必要になるでしょう?」
「未来ヶ丘プロジェクトを狙っているのか?」
星乃はすでに小川社長の目前に立っていた。恐怖と懇願の入り混じった視線など一切気にせず、静かに構えを取った。 「私が一打でカップインさせたら、 未来ヶ丘プロジェクトをいただきます」
蓮はわずかに意表を突かれた。婚約を条件に出すと思っていたが、予想は外れた。
「いいだろう」
「さすが蓮様。ご決断が早い」
言葉を終えた瞬間、星乃の目が鋭く細まる。そして、クラブが振り抜かれた。
パシッ!
クラブは重く鋭く振り抜かれ、小川社長の目前をかすめた。その一撃に、まるで魂ごと持っていかれたかのように、彼は全身を震わせる。
ボールは空中に放物線を描いた。
居合わせた者たち全員の視線が、そのボールに釘付けになった。思わず息を呑み、その行方を見守る。
カラン、と乾いた音が響いた。
ボールは——そのままカップに沈んだ。
場がざわめいた。まさか……あれで入るなんて! 到底、素人の一打とは思えない。熟練者であっても、あそこまで完璧な一撃はそう簡単に出せるものではない。
パチ、パチ、パチ——
蓮がゆっくりと拍手を送る。その視線には、わずかな賞賛が混じっていた。
「橘さん——見事な腕だ。 この未来ヶ丘プロジェクトは、約束どおりお前のものだ」」
「ありがとうございます、蓮様。 ……では、本題に戻りましょうか?」
蓮の瞳が冷たく沈む。「腕は認める。だが婚約は別だ。 俺は、爺さんの口を塞ぐために女を使うつもりはない」
その言葉を受けても、星乃は動じない。懐から一枚の書類を取り出し、蓮へ差し出した。
「蓮様、まずはこちらをご覧ください」
そう言い残し、星乃は踵を返した。「橘家で、お待ちしております」
蓮が嘲笑を浮かべかけた、その瞬間——書類に目を落とした彼の瞳が、鋭く収縮した。
なぜ、これを……?
この女はいったい、何者だ——。
「蓮様……?」
側近の宇佐美誠の声に、蓮はゆっくりと顔を上げた。
「車を出せ。橘家へ向かう」
「蓮様、それは……?」
「——縁談を持ち込みに行く」