話 1
煌びやかな歓楽街に、一台の軍用仕様のジープが割り込んできた。その無骨な車体と、特別な地位を示すナンバープレートは、否応なく通行人の視線を集めずにはいられなかった。
耳をつんざく急ブレーキ音が、バー「出会い」の入口で響き渡った。運転席から降りてきたのは、迷彩服に身を包んだ冷徹な目つきの男だ。ドアを叩きつけるように閉める音は、夜の闇に放たれた銃声のようだった。
男は陰鬱な表情で店内に足を踏み入れる。ネオンの輝きが瞳の奥で冷たく光った。甘ったるい音楽とアルコールに溺れる男女の狂騒。それらとは完全に隔絶された、氷のような殺気を全身から放っている。
カウンターでバーテンダーを口説いていた田中大輔は、ふと視線を上げ、その男の姿を認めた瞬間、7、8割ほど回っていた酔いが一気に覚めた。男がエレベーターへ直行するのを見て、大輔は慌ててその進路を塞ぎにかかる。
「い、伊東さん……どうしてここに?」
伊東直人は冷ややかな視線を大輔に投げかけ、低い声で問いただした。「高橋美月はどこだ」
大輔はしどろもどろになる。「あ、いや、美月さんはこの時間……たぶん……家にいるはずじゃ!」
直人は最上階直通のボタンを押し、大輔の言葉を遮った。「彼女に警告する猶予を30秒やる」
大輔は完全にパニックに陥った。もう嘘は通じない。彼はやけくそになり、直人の目の前で美月に電話をかけた。三回コールしても出ない。彼は即座に切り替え、LINEのボイスメッセージを送信する。文字を打っている暇などない。声を極限まで潜めた。
「美月さん!旦那さんがカチ込みに来ましたよ、今エレベーターです!」
狭いエレベーター内だ。いくら声を潜めたところで、直人に聞こえないはずがない。
背後から冷ややかな笑い声が聞こえる。「チン」という到着音とともに、大輔の額から冷や汗が1滴、ツーと流れ落ちた。
直人は場所を聞く必要すらなかった。迷いなくVIPルームへと足を進める。大輔は小走りでついていくしかない。止める度胸など持ち合わせていなかった。
ドアの前で直人が足を止める。大輔はおそるおそる口を開いた。「伊東さん、美月さんは本当にここには……」
「お前が開けるか、俺が蹴破るか。どっちだ?」
「信じてくださいよ、美月さんは……」
「3!」
「開けます!」大輔の反応は早かった。カードキーでロックを解除しながら、心の中で美月に合掌した。彼に選択権はない。伊東家のこの男を敵に回すわけにはいかないのだ。
ドアが開いた瞬間、直人の瞳が暗く沈む。その表情には、軍人特有の容赦ない冷酷さが浮かんでいた。
大輔はちらりと中を覗き見し、息を呑んだ。命が惜しければ見ないほうがいい。彼は慌てて視線を逸らし、ドアの脇で賢く待機することにした。
部屋の中では、真っ赤なキャミソールワンピースを纏った美月が、気だるげにソファに身を預けていた。左にはモデル風の男、右には若いイケメン。上半身裸の二人が彼女の肩を揉んでいる。その背中に刻まれた無数の爪痕を見れば、ついさっきまでここでどんな激しい「三人遊び」が繰り広げられていたかは一目瞭然だ。
開錠の音に驚いた二人の男は、顔を上げるなり直人の圧倒的な威圧感に射すくめられ、身動きが取れなくなる。
対照的に、美月はゆっくりと目を開けた。来訪者が誰かを確認すると、侮蔑に満ちた笑みを浮かべた。
狐のように目を細め、直人をじっと見据える。その表情は笑っているようで笑っていない。「何をビビってるのよ。警察の手入れじゃあるまいし。紹介するわ、こちらが私の旦那様、伊東家の御曹司、伊東直人様よ。噂くらいは耳にしたことあるでしょ?」
言い放つと、美月の視線は直人の凍てついた顔へと移る。命知らずな挑発は止まらない。「あら、伊東様。今日はどういった風の吹き回しですか? てっきり今頃は、例のかわいい幼馴染さんとやらと、仲睦まじくお過ごしかと思っておりましたのに」
直人は一歩ずつ部屋の奥へと進む。ここまで窓全開で車を飛ばしてきたせいか、迷彩服にまとわりついた冷気が、そのまま彼の怒りのように顔に張り付いていた。
彼は美月の向かいにあるソファに腰を下ろし、無造作に足を組んだ。口元だけが笑う冷たい表情で、「続けてくれ」と言った。
話 2
美月の脇を固めていた二人の若い男たちは、とっくに腰を抜かしていた。「伊東家の御曹司」という肩書きを聞いた瞬間、恐怖でがたがたと震え上がる。
美月は伏し目がちに、腹の底から湧き上がる怒りを噛み殺した。だが、ここで引くわけにはいかない。彼女は努めて冷静さを装い、男たちに命じた。「伊東さんがこれほどご執心なんだもの。あんたたち、しっかりと実演して差し上げなさい。せっかくの興を削がないようにね」
言い終えると、美月は切れ長の瞳を妖艶に細め、直人に向かって流し目を送った。「伊東さん、ちょうどいい機会だから勉強していったら?私の彼氏たちは、あなたと違ってとっても優しいのよ。ベッドの上で軍隊仕込みの野蛮な真似はやめてよね。私はともかく、あのか弱くて儚げな幼馴染ちゃんに、そんな激しいことして大丈夫なの?」
直人は美月を一瞥しただけで、何も答えなかった。ソファに深く沈み込み、タバコに火をつけた。その表情が冷淡なのか、別の感情なのかは読み取れない。吐き出された紫煙が指に絡みつき、彼の顔を霞の中へと隠していく。
美月は、彼のその態度が気に食わなかった。まるで被害者のような顔をしている。だが、血液すら凍りついているようなこの男を、一体誰が傷つけられるというのか。
得体の知れない苛立ちがこみ上げてくる。美月は当てつけのように、傍らの2人を叱咤した。「何をぼーっとしているの!伊東さんが見たいなら、堂々と見せつけてやりなさい。しっかり 手本を見せてあげなさい」
言い放つと同時に、美月は自身のドレスの肩紐に手をかけ、強引に引きずり下ろした。
隣にいた若い男は完全に怯えきっていた。助けを求めるように直人の方を向いたが、射殺すような視線を受け、条件反射で目をきつく閉じる。
「美月さん、俺……やっぱり外に出ましょうよ……」
そう言って床に散らばった服を拾おうとかがんだが、美月の鋭い眼光に射抜かれ、石のように固まった。
「何を慌てているの?」
美月が直人を睨み返そうとした瞬間、軍用のオリーブ色のコートが飛んできた。それは正確に彼女を捉え、頭からすっぽりと覆い隠した。払いのけようとした美月の体は、次の瞬間には宙に浮いていた。強靭な腕が、彼女を俵のように担ぎ上げたのだ。
「伊東直人!何すんのよ!!」
視界を奪われた美月には、今の直人の表情は見えない。その顔は無表情に見えるが、瞳の奥は地獄から這い戻った羅刹のように暗く、深く沈殿していた。
彼は片手で軽々と美月を担ぎ上げながら、もう一方の手の人差し指と中指に挟んでいた吸いかけのタバコで、 そして、容赦なく男の背中にジュッと押し付けた。同時に、もう片方の男の膝を容赦なく蹴り飛ばした。
押し殺したような悲鳴が2つ重なる。入口で様子を伺っていた田中大輔は、事態の悪化を恐れて慌てて飛び込んできた。
「い、伊東さん、待ってください!暴力はやめて!話だけは!」
「出て行け!」 獣のような唸り声に、大輔は完全に萎縮した。美月が荷物のように運び出され、ジープの後部座席に放り込まれるのを、ただ指をくわえて見送ることしかできなかった。
車は猛スピードで夜の街を駆け抜ける。まるで主人の怒りを物語っているかのようだった。やがて自宅に到着し、真っ赤なシーツが敷かれたベッドに放り投げられた時、美月の酔いはようやく大半が覚めた。
目に入ったのは、結婚してから一度も使われたことのない寝室の天井だった。なんとも皮肉で哀れな話だ。結婚して3年、決して仮面夫婦というわけではない。直人が任務から戻れば、どんなに喧嘩をしていても、ベッドの上での相性だけは悪くなかった。ただ、互いに自室を持ち、この「夫婦の寝室」だけは完全な飾り物と化していたのだ。
だが今夜の直人は、何かに取り憑かれたかのように、美月をこの部屋へと連れ込んだ。
「直人!一体何がしたいのよ?」 起き上がろうとした美月を、直人が覆いかぶさるようにして制圧した。その瞳は血走っていた。
「お前を、抱く!」
奥歯を噛み締めながら言葉を吐き出すと、直人は美月のドレスに手をかけた。軽い力で引いただけで、布地は悲鳴を上げて引き裂かれ、哀れな布切れと化した。
「高橋美月。俺じゃ優しさが足りないって?」
直人は冷ややかな笑みを浮かべ、美月の耳たぶに歯を立てて威嚇するように甘噛みした。「なら今夜は、俺なりの『優しさ』ってやつをたっぷりと教えてやるよ」
美月は身動きが取れなかった。必死に抵抗してみるが、それは檻から逃げるどころか、互いの体をより密着させるだけだった。直人は罰を与えるように耳元を舐める。その仕草は優美ですらあったが、声だけは氷の破片のように鋭く冷たかった。
「高橋美月、忘れるなよ。お前は俺の妻だ」
その時、唐突に携帯の着信音が鳴り響いた。直人の端末だ。無視するつもりだったようだが、ズボンのポケットに入れたままでは邪魔になる。どうせ脱ぐのだからと苛立ちながら取り出した彼は、画面に表示された名前を見た瞬間、その表情を明らかに和らげた。美月はそれを見逃さなかった。
美月は自嘲気味に笑い、画面を盗み見る。案の定、あの「幼馴染ちゃん」からだ。
「ハッ……あんたこそ忘れんじゃないわよ。自分には妻がいるってことをね!」
直人が視線を美月に戻す。彼が妻の意図を測りかねている隙に、美月は素早くその手から携帯を奪い取り、通話ボタンを押していた。
『伊藤芽衣』
電話の向こうの相手は、聞こえてきたのが直人ではなく美月の声だったことに驚き、数秒間言葉を失ったようだ。
『み、美月……さん?』
美月は直人をちらりと見た。彼が止めようとしないのを確認すると、さらに悪意たっぷりの笑みを深める。『ええ、私よ。ごめんなさいねえ。今、直人と取り込み中なの。久しぶりだから燃え上がっちゃって。彼、今ちょっと口が塞がってて電話に出られないみたいなの』
話 3
高橋美月の言葉にキレたのかビビったのか、電話の向こうの藤本芽衣は言葉を詰まらせていた。美月がさらに暴言を吐こうとしたその時、伊東直人にスマホを取り上げられた。次の瞬間、嵐のようなキスが降ってきた。
「俺の優しさを味わわせてやる」なんて言っていたが、その実、直人はたっぷりと時間をかけて美月を攻め抜いた。結局、美月が泣いて許しを請うまで解放してくれなかった。
疲れ果てて泥のように眠り、ふと気づくと隣はもう空っぽだった。次に目が覚めたのは翌日のことだ。
この新しくもあり古くもあるベッドに横たわり、数分ほどぼんやりとする。分厚いカーテンが閉め切られているせいで、今が真昼間なのか夕暮れ時なのかも分からない。
昨夜の激しい情事の余韻が残る体を引きずり、気だるげにスマホを探り当てる。画面を点けた次の瞬間、芽衣のタイムラインが目に飛び込んできた。
写真には、キッチンで料理をする男の背中が写っている。直人を知る人間なら、誰が見ても一発で彼だと分かる背中だ。
パァン!
先月買ったばかりのスマホが容赦なく壁に叩きつけられる。幸い頑丈な機種だったらしく、無傷で済んだようだ。
「あのクソぶりっ子!ドクズ男が!」
美月は腹の底から絞り出すような声で罵り、歯ぎしりしながらベッドを出ようとした。
掛け布団を跳ね除けて立ち上がると、全身が鉛のように重く、あちこちが痛む。これも全部あのクズ男のせいだというのに、当の本人はスッキリした顔で愛人の飯を作りに行っているのか?
考えれば考えるほど腹が立ってくる!
芽衣のあの投稿は、明らかに美月への宣戦布告だった。
その時、控えめなノックの音が響いた。
続いて家政婦の声がする。
「奥様、お目覚めでしょうか? 旦那様から酔い覚ましのスープを作るよう言付かっております」
直人は愛人のところへ行っているくせに、家政婦には白々しくスープを用意させるなんて。美月は込み上げる怒りをどうにか抑え込んだ。
「もう平気だから、いらないわ」
しかし家政婦は立ち去ろうとせず、さらに優しげな声で続ける。「奥様、旦那様はお薬も用意されておりました。先にお召し上がりになりますか?」
美月はドアを開け、怪訝な顔で家政婦に尋ねた。「何の薬?」
「避妊薬です」
その一言が、美月の怒りに油を注いだ! もう我慢ならない!これ以上黙っていたら礼儀に反するレベルだ!
結婚して3年、行為自体は初めてではない。終わった後はいつも自分で薬を飲んでいたし、美月自身もまだ子供を作るつもりはなかった。
だが、自分が望まないのと、直人から「飲め」と買い与えられるのとでは話が別だ!
「飲むもんか!あのクソ男に伝えて。妊娠してやるってね!10人でも8人でも産んで、アイツをうんざりさせてやる!」
言い捨てると、美月はバタンとドアを閉めた!
家政婦の気配が消えると、美月は部屋中をひっくり返して薬を探し出した。体は自分のものだ。薬を飲まずに意地を張ったところで、あの男への当てつけにもならない。
柔らかいベッドに再び潜り込み、何度も寝返りを打つ。夢の世界へ落ちる直前まで、心の中で直人を罵り続けた。今回彼が急に部隊から戻ってきたのは、あの幼馴染に何かあったからではないか?そうでなければ、あんなに慌てて帰ってくるはずがない。
美月の勘は当たっていた。直人の帰還は確かに芽衣のためだったのだ。部隊を出てすぐに美月に何度か電話をかけたが出ず、調べてみると最近また若いアイドルを囲っているらしいと知った。そこでまずはバーへ向かって美月を捕獲し、「お仕置き」をしてから芽衣の元へ向かったというわけだ。
美月が布団の中で悪態をついている頃、直人は芽衣を連れて病院にいた。
「少し貧血気味ですが、他は順調ですよ。こちらはご主人様ですね?」
医師の不意の問いかけに、芽衣は言葉に詰まり、気まずそうな顔をした。
すると直人が一歩前に出て尋ねた。「先生、今後の生活で注意すべき点はありますか? 避けた方がいい食べ物とか」
肯定も否定もしないその態度は、芽衣の体面を守るためのものだった。
「体を冷やすもの、例えばカニなどは控えた方がいいですね。それ以外は食べたいものを食べて構いません。つわりもあるでしょうし、食べられる時に食べておくのが一番です」
「分かりました。ありがとうございます」
産婦人科を出て車に乗り込むと、直人はバックミラー越しに芽衣を見た。彼女はおそるおそる自身のお腹を撫でている。その顔には、母になる喜びが溢れていた。直人は小さく息を吐き出した。
「芽衣」
「直人お兄ちゃん、この子の心臓の音が聞こえた気がするの」 芽衣はキラキラと輝く瞳で直人を見つめる。その純粋な眼差しに、直人はこれから告げるべき言葉を躊躇った。
「芽衣、その子は諦めるんだ」
「嫌!」芽衣はきっぱりと拒絶し、その目には瞬く間に涙が溜まった。「直人お兄ちゃん、産みたいの。お願い、助けて。諦めろなんて言わないで。 一人でもちゃんと育ててみせるから……」
「産みたいって言うけど、私の許可は取ったのかしら?」
不意に響いた美月の声に、芽衣と直人はハッとした。街角には、いつの間にか美月が立っていた。彼女は両手を胸に組み、まるで他人事のように眺めているように見えた。だが、口にした言葉は全く違った——強い態度で、まるで「この人は私のもの」と宣言するような、強気な一言だった。