話 1
「叫ばなければ傷つけないから。分かったら瞬きしろ」
車の後部座席から、男の低く魅力的な声が響く。口調こそ丁寧だが、その冷ややかな視線は圧倒的な威圧感を放っていた。
七瀬鈴音の背筋が凍りつく。素直に瞬きをした。男の手にある銃は、彼女の後頭部に狙いを定めている。1秒でも躊躇えば、死体になると本能が告げていた。
今夜最初のネクストライドの仕事を終えたばかりなのに、帰宅途中で見知らぬ男に脅されるなんて、ついてなさすぎる。
鈴音は恐怖のあまり、一瞬呆然としてしまった。駐車した場所からそう遠くないところへ、黒いスーツの集団が歩いてくる。手には銃。その凶悪な目つきは、誰かを探しているようだった。
「奴は今日、1人で外出していた。この絶好なチャンスを逃すわけにはいかない」
「それに、奴は大量の催淫剤を吸い込んだ。もうじき効いてくるはずだ。 まだ遠くには行ってないはずだ。天草天音を見つけられなきゃ、ボスに鰐湾へ放り込まれて鰐の餌にされちまうぞ」
集団の足音が遠ざかるのを待って、鈴音はバックミラーに目を向けた。後部座席に座る男の顔は、異常なほど赤らんでいる。間違いなく、さっきの連中が追っていたターゲットだ。
天草天音……聞き覚えのある名前だ。どこかで聞いたことがあるような?
「妙な真似はするな。早く車を出せ」男は鈴音の思考を見透かしたように、引き金に指をかけた。その眼光が鋭さを増す。
鈴音は気を緩めることができなかった。何より、天音の手にある銃が怖すぎる。
「あの、別のタクシーをご利用いただけますか?その分の料金は私が負担しますので ICUにいる祖父の治療費を稼がなくちゃいけないんです。 ここ数年、毎日仕事を2つ掛け持ちして、既にギリギリなのに……なんでこんな目に遭わなきゃいけないの? 銃まで突きつけられて……あんまりです」 彼女は泣きそうな顔で運命の不公平さを嘆き、男の良心に訴えて逃がしてもらおうとした。
後部座席の天音は、意識が朦朧としていた。全身が焼けつくように熱い。呼吸をするたびに、理性が削り取られていく。
彼は鈴音の泣き言を聞き取っていた。今夜は恩師の誕生パーティーに参加するため、秘書やボディガードを連れずに外出し、そこを狙われたのだ。 切羽詰まった状況でなければ、見ず知らずの少女を困らせたくなどなかった。
「この住所へ行け。急げ……」彼は苦しげに息を吐きながら、運転席の鈴音に詳細な行き先を告げた。
鈴音は言い返そうとしたが、冷たい銃口をこめかみに押し当てられ、言葉を飲み込んだ。
ふくらはぎが恐怖で震える。彼女はおとなしくナビを設定すると、すぐにエンジンをかけ、荒い呼吸を繰り返す男を乗せて地下駐車場を後にした。
ドライバーの仕事を始めて半年以上。鈴音はこの街の主要エリアの地理には詳しかった。
だが、ナビに表示された場所は、普段の営業範囲を超えていた。しかもその地点には星のマークがついている。奇妙な場所だ。
深く考えている余裕はない。車はナビの指示通り、鬱蒼とした森の中へ入っていく。車を停めると、彼女は振り返って後部座席の男に尋ねた。「着きましたけど、ここですか?」
男はぐったりとシートに寄りかかっていたが、銃を握る手は決して緩んでいない。その警戒心の強さに、鈴音は戦慄した。
返事がない。彼女は諦めてシートベルトを外し、車を降りた。後部座席のドアを開け、近づこうとした瞬間――手首を男に掴まれた。 足元がふらつき、勢い余って前につんのめる。
鈴音は男の上に倒れ込んだ。彼の体温はまるで煮えたぎるマグマのように熱く、柔肌を火傷させそうなほどだった。
「あの、料金を払ってください」 彼女は男を押しのけようと手を伸ばす。ひんやりとした小さな手が、男の燃えるような胸板に触れた。
ギリギリで耐えていた男の理性が、鈴音の無意識の触りによって、ついに決壊する。
彼女も子供ではないし。男に華奢な顎を掴まれ、その海のように深い黒瞳に見つめられた瞬間、悟ってしまった。彼の瞳の奥から、抑えきれない欲望が溢れ出そうとしているのを。
薄暗く狭い車内。夜風と共に、危険な気配が濃厚に漂い始めた。
話 2
鈴音は掴まれた手首を必死に振りほどこうとした。だが、ドアノブに触れるより早く、その手が伸びて彼女を抱きすくめた。ガチャリと音がする間もなく、あっけなくシートに押し倒されてしまう。
「お客様、何する気ですか!? 乱暴しないで!運賃なんていらないから、放してよ!」 鈴音は恐怖でパニックになり、支離滅裂なことを口走っていた。
「俺を助けてくれれば、後でたっぷりと礼をする」 男は残ったわずかな理性を振り絞り、ポケットから純金のカードを取り出すと、彼女の頭の上に掲げた。
本能的に拒絶しようとした。だが、そのカードを見た瞬間、ICUにいる祖父の顔が脳裏をよぎる。高額な入院費が必要だ。……鈴音は、抵抗をやめた。
せめてもの救いは、相手が非の打ち所がない美形だったことか。顔立ちも骨格も、これまで見た男の中で間違いなくトップクラスだ。
男の体内の熱は限界を超えていた。鈴音の柔らかな体が、彼の灼熱の肌に触れた瞬間、理性のダムが決壊する。
夜の経験がない鈴音にとって、初めての営みは痛みだけが鮮烈に残るものだった。
深い森の中、銀色の月明かりに照らされた白い車は、まるで深海を漂う小舟のように激しく揺れていた。
何度も泣かされた。ペースが落ちて終わったかと思えば、またすぐに次の波が来る。彼のスタミナは底なしのようだった。
最後には泣く気力もなくなり、鈴音の声は枯れ果てていた。
薄れゆく意識の中、男が電話をしているのが聞こえた。相手は彼を「閣下」と呼んでいた気がする。だが、その奇妙な呼び名について考える間もなく、鈴音は深い眠りの底へと沈んでいった。
早朝の風が窓から吹き込み、後部座席で眠っていた鈴音は目を覚ました。
「いった……」彼女は小さくうめく。
シートに身を預けたまま、鈴音は全身を走る鈍痛を感じる。その痛みによって記憶が無理やり呼び覚まされ、昨晩、この後部座席で見知らぬ男とどれほど無茶苦茶なことをしたのかを思い出させられた。
男が約束していた銀行カードのことを思い出し、彼女はすぐに体を起こしてあたりを探る。
鈴音はシートの上の方に、純金製の銀行カードが置かれているのを見つけた。そこにはメモも添えられている。
「カードの暗証番号は設定していない」
カードを手に居住まいを正す。昨晩、見ず知らずの男と一夜を共にしたという事実を噛み締め、泣くべきか笑うべきか、感情の置き場に困った。
鈴音が呆然としていると、スマホの着信音が鳴り響いた。慌てて出ると、病院からの支払いの督促だった。
気持ちを切り替え、鈴音はドアを開けて車外に出る。だが、両足が地面に着いた瞬間、内太ももに走った激痛に膝が折れそうになった。
彼女は天草天音への悪態をつきながら、よちよちと小刻みに歩いて運転席へと回った。シートベルトを締め、スマホをダッシュボードに置く。エンジンをかけ、二度と足を踏み入れたくないこの密林から車を走らせた。
昨日のあの男。車に乗り込んできた瞬間から、自分をハメるつもりだったに違いない。
あんな厚かましい人間、見たことがない。
アパートに到着すると、鈴音はシャワーを浴びて清潔な服に着替えた。そして、祖父の入院費を支払うために病院へと向かった。
30分後、さっぱりとした姿で病院の受付カウンターに現れた。男から渡された純金のカードで決済を済ませると、銀行側から即座に関係者へ連絡が入る。このカードを使ったせいで、自分がすでに何者かにマークされていることなど、鈴音は知る由もなかった。
支払いを終え、祖父のお見舞いに行こうとした時だ。外来棟を出たところで、前方の騒ぎにふと視線を奪われた。 3台の高級車が、整然と彼女の目の前に停車している。ナンバープレートの色は、街中でよく見かけるものとは違う。 とにかく、特別感が漂っていた。 一目で分かる、地位も名誉もある人間しか乗れない車だと。
トラブルは御免だ。鈴音は車を避けて入院棟へ向かおうとしたが、そこへ大統領秘書官の長谷川聡が歩み寄ってきた。彼は紳士的に一礼すると、「七瀬鈴音さんですね?」と問いかける。
その言葉に、鈴音は警戒心を露わにしながら頷いた。「そうですけど」
「七瀬さん、私の主人があなたにお会いしたいと申しております。ご足労ですが、同行願えますか」 本人確認を済ませた聡は、恭しくそう告げた。
鈴音は彼の言う「主人」になど心当たりがなく、断ろうと口を開きかけた。だが聡はそれを見透かしたように素早くスマホを取り出し、ある動画を見せる。画面には、彼女が受付で純金のカードを使って支払う姿が映し出されていた。
「七瀬さん、おじい様に会いたいのであれば、大人しく車に乗ることをお勧めしますよ。 さもないと警察に通報し、あなたが主人のカードを盗んだと証言することになります。もし罪が確定すれば、長い間おじい様には会えなくなってしまいますからね」 聡は変わらず、穏やかな笑みを浮かべていた。
鈴音はその言葉の裏にある意味を悟った。言うことを聞かなければ、一生祖父に会わせないつもりだ。
昨晩、あの男が口にした約束が脳裏をよぎり、彼女は屈辱と怒りで顔を真っ赤にした。
話 3
七瀬鈴音は銀行カードを取り出し、目の前の男に突きつけた。「先に言っておくけど、このカードは他人から貰ったもので、私が盗んだんじゃないわ。 ついて行くけど、あんたたちの言う“主人”とやらが何者か拝ませてもらうわよ。 私の人生を勝手に決めたり、自由を奪ったりする権利が彼にあるわけ?」
長谷川聡が合図を送ると、ボディガードが恭しく後部座席のドアを開けた。
「七瀬さん、そのカードが盗品か拾得物かは、主人にお会いしてから弁解してください」 聡は彼女を車に乗せると、手際よくドアを閉めた。
車内で、鈴音は緊張と恐怖に襲われていた。これから待ち受ける事態を想像し、心臓が早鐘を打つ。
どれくらい経っただろうか。車が静かに停車した。 降り立った鈴音の目の前には、広大な敷地とヨーロッパ風の建築が広がり、思わず息を呑む。 なんて大きな屋敷だろう。自分のアパートの何千何万倍はあるに違いない。
入っていいものかその場で迷っていると、制服姿のメイドが歩み寄ってきた。
「ついて来なさい」メイドは傲慢な態度で言い放ち、先導し始めた。
この高級邸宅で働くには、たとえメイドのような基礎的な職種であっても、単なる家事能力だけでなく、名門大学の学位を持つことが求められる。
鈴音は、これほど豪華絢爛な建物を初めて見た。温室の天井でさえ、呆れるほど贅沢な造りだ。
1階の客室に通されると、数人のメイドが一斉に群がり、彼女を取り囲んだ。
鈴音は怯えて後ずさり、逃げ出そうとする。「何するのよ!? カードを返してほしいなら、服まで脱がす必要ないでしょ!」
メイドたちは抵抗する鈴音を、極上の内装が施されたバスルームへと連れ込んだ。鏡の枠も蛇口もシャワーヘッドも、すべてが純金製だ。
「閣下にお会いする前に、まずは体を洗って全身検査を受けていただきます。危険物を隠し持っていたりすれば、私たちが困りますので」
案内してきたメイドが冷たく言い放つ。
「なによそのふざけたルール!あんたたちの“閣下”は大統領か何かなの? 会う前に身体検査だなんて」 文句を言っている間に、鈴音は呆然としたまま浴槽に放り込まれた。
お湯は適温に保たれ、高級なアロマオイルの香りが漂ってくる。
彼女たちが言う「閣下」とは、一体何者なのだろう。
メイドたちが退出すると、鈴音は濡れた下着を脱ぎ捨てた。最初は恥じらいがあったが、温かいお湯とオイルが肌に染み渡るにつれ、体の痛みが和らいでいく。 彼女は浴槽の縁に寄りかかり、心地よさにほうっと息を吐いた。
(まさか、昨夜の男が盗んだカードを私に押し付けたのか?) (それで持ち主が怒って私を捕まえたとか?)
それにしても、城のような屋敷に住むなんて、 よほどの大物なのだろう。
入浴を終えると、今季の最新オートクチュールのドレスが用意されていた。薄化粧を施され、髪もセットされる。
ただカードを返しに来ただけなのに、この人たちは何を張り切っているんだ?
「閣下がお戻りです。七瀬様、こちらへお願いします」
部屋を出ると、執事服を着た中年の男が立っていた。
彼について階段を降りながら、鈴音の心臓は激しく波打った。息苦しささえ覚える。見知らぬ相手からカードの件で追求され、風呂に入れられ身体検査をされ、挙句の果てに着飾らされる。これは“泥棒”への尋問というより、むしろ辱めを受けているようだ。
執事に導かれて庭へ出る。視界に飛び込んだのは、高級車の黒い車列が粛然と並ぶ光景だった。その先頭車の後部座席から、一人の男が身をかがめて降り立つ。逆光の中、長身のシルエットが浮かび上がる。スラックスに伸びやかに収まった長い脚、英国式スリーピース・スーツに端整に包まれた躯。冷冷ややかで高貴なオーラを纏い、常人離れした存在感を放っている。
男が近づき、その顔がはっきりと見えた瞬間、鈴音は声を上げた。
「あんた……!」