話 2
電話の向こうの大和の声には、驚きの色が混じり、すぐに安堵に変わった。
「本気か、美咲?そんなに急に?前にこっちでプロジェクトを手伝わないかって誘った時は、東京が夢だって言ってたじゃないか」
彼は一呼吸置いて、優しく尋ねた。
「あの男のせいか?お前が絶対に話したがらなかった、あの男」
美咲はびくりとした。大和は私のことを知りすぎている。でも、もうすぐIPOを控えてストレスを抱えている彼に、蓮の吐き気のするような裏切りの詳細を打ち明けるわけにはいかなかった。
「ちょっと…複雑なの、大和兄ちゃん」私は声を平静に保とうと努めた。「別れたの。ひどい別れ方だった。ただ、ここから離れたいだけ」
蓮のことは、私が何とかする。絶対に。あのケダモノに兄を傷つけさせたりはしない。
「わかった、妹よ」大和の声が再び柔らかくなった。「もう何も聞かない。ただ、帰ってこい。あとは全部、俺たちが何とかする」
帰る場所。その言葉が、温かい毛布のように感じられた。
電話を切った後、美咲は蓮が用意した「愛の巣」に戻った。鍵が、手のひらに焼き印のように感じられた。
かつては心をときめかせた豪華さが、今では息苦しく、金色の鳥籠のように感じられる。
私は頭の中でリストを作り始めた。必需品を詰めること、あの写真と動画を消す方法を見つけること、そして、消えること。
アパートの中を、自分の最近の過去をさまよう幽霊のように歩き回った。あちこちに散らばるスケッチブックや、蓮が買ってくれた高価な絵の具を手に取る。一つ一つの品が、汚染されているように感じられた。
突然、玄関のドアが開いた。蓮が、珍しい黒いバラの鮮やかな花束を手に、大股で入ってきた。
彼は、ベッドの上に半分荷造りされたダッフルバッグを置いている私を見て、立ち止まった。
疑うことを知らない満面の笑みが、彼の顔に広がった。
「完璧なタイミングだ!もう週末の旅行の準備か?ちょうどスケジュールを空けたって言おうと思ってたんだ」
彼はパーティーには行かなかったのか。それとも早く帰ってきたのか。
美咲の心臓が激しく鼓動した。話を合わせなければ。
「先に準備しておこうと思って」私はなんとかそう言って、小さな笑みを浮かべた。
蓮の目が輝いた。
「俺の効率的な烈火。今週末は、お前に大きなサプライズがあるんだ、美咲。絶対に忘れられないようなやつをな」
彼はウィンクした。部屋の暖かさにもかかわらず、美咲は寒気を感じた。彼の「サプライズ」は、間違いなく大和のIPO、彼が計画していた公衆の面前での屈辱と関係があるはずだ。
黒いバラが、突然、葬式のように見えた。
「へえ?」美咲は首を傾げ、遊び心のあるトーンを装った。「私も、蓮さんにちょっとしたサプライズがあるかもしれないわ」
彼の目がわずかに細められ、その奥に読み取れない何かがちらついたが、すぐに魅力的な仮面が元に戻った。
「興味深いな。君のサプライズは大好きだ」
彼はドレッサーにバラを置いた。その黒い花びらが、光を吸収していく。
「なあ」蓮の声が、あの親密なささやきに変わった。「今日、大和のことを考えてたんだ。そろそろ俺から連絡を取るべきかもしれない。仲直りをな。もちろん、君のために」
彼は私を試しているのだと、美咲は気づいた。私が何かを知っている素振りを見せるかどうかを。
「それは…ご親切にどうも、蓮さん」私は慎重に、ニュートラルな声で言った。
彼はキスをしようと、近づいてきた。
美咲は最後の瞬間に顔をそむけ、彼の唇は私の頬をかすめた。
「ちょっと疲れてて」私はあくびを装って言った。「アトリエで一日中だったから」
彼は一瞬驚いたような顔をしたが、うなずいた。
「そうか。ゆっくり休め。週末は大事な日になる」
彼はそれ以上追及しなかった。自分の支配力に、あまりにも自信があったのだ。
後で、蓮がシャワーを浴びている時、彼のスマホがナイトスタンドに置いてあった。
チャンスだ。
私の指は震えながら、それを手に取った。彼は顔認証を使っているが、時々失敗するとパスコードを要求される。彼が手が濡れている時に、一度か二度、それをタイプするのを見たことがある。
自分の誕生日を試した。アクセス拒否。
私たちが出会った日を試した。アクセス拒否。
くそっ。私はスマホを元に戻した。いらだちが募る。写真、動画…それらはそこにある。彼のクラウドの、どこかに。
私はダッフルバッグに戻り、無慈悲に物を捨てていった。彼がパリで買ってくれたシルクのスカーフ、アンティークの銀のロケット、詩集の初版本。
一つ一つの品がゴミ袋に落ちるたびに、毒された皮膚を一枚一枚剥がしていくように感じた。
それでも、空虚な痛みが残っていた。まだ解放ではない。ただ…空っぽなだけ。彼との生活の鮮やかな色彩はすべて、泥のような、欺瞞に満ちた灰色ににじんでしまった。
ベッドの上で、私のスマホが震えた。知らない番号からだ。
ためらった後、応答した。
「小野美咲さん?」クールな女性の声。紛れもない、イタリア系アメリカ人のアクセントが混じっている。
「はい?どなたですか?」
「西園寺玲奈です。蓮の婚約者よ。そろそろ、私たち、少しお話しする時間だと思うの。直接会って」
婚約者?
その言葉は、物理的な打撃のような力で美咲を襲った。蓮には、決められた婚約者がいた。もちろん、そうだ。彼の冷酷で、計算高い世界には、完璧にフィットする。
話 3
西園寺玲奈が選んだ代官山のカフェは、むき出しのレンガと職人技のコーヒーが売りの、痛々しいほどトレンディな店だった。
美咲はすぐに彼女を見つけた。玲奈は、古くからのニューヨーク…いや、東京の上流階級そのものだった。美咲の学生ローン全額よりも高価そうなシャネルのスーツを完璧に着こなし、黒髪は洗練されたシニヨンにまとめられ、左手には巨大なダイヤモンドが輝いていた。彼女は、 effortless な優越感のオーラを放っていた。
ペンキの飛び散ったジーンズと着古した芸大のパーカー姿の美咲は、まるで別の生き物のように感じた。
玲奈は時候の挨拶など時間の無駄だとばかりに、美咲が席に着くとすぐに言った。
「あなたが、あの美大生ちゃんね」その声には、侮蔑が滴り落ちていた。「蓮も…変わった趣味をしてるわね、それは認めるわ」
彼女はエスプレッソを上品に一口すすった。
「来月、彼は私と結婚するの。これは合併よ、本当に。私たちの家同士の。とても重要なことなの」
美咲は黙っていた。表情は慎重に、無表情を保っていた。内面では、奇妙な静けさが訪れていた。「婚約者」という衝撃はすでに受けた。これはただの確認作業だ。
玲奈が、蓮自身の言葉以上に私を傷つけることなど言えるだろうか?
彼は嘘つきで、操り人形師だ。私との関係は見せかけ。玲奈との婚約は、彼の計算された人生における、また一つ別の取引に過ぎない。
痛みは胸の中で冷たく硬い塊になっていたが、それは私の痛みであって、玲奈に与えられるものではない。
美咲は思った。もう壊れているものを、これ以上壊すことはできない。
玲奈は、美咲の無反応に明らかに苛立ち、身を乗り出した。
「いいこと、あなたと蓮が何をしていたかなんてどうでもいいわ。もう終わりよ。彼は時々、こういうちょっとした…気晴らしをするの。でも、いつも大事なところに戻ってくる」
彼女はデザイナーハンドバッグを開け、小切手帳を取り出した。
「寛大になる用意はあるわ。静かに消えるための値段を言いなさい」
美咲は笑いそうになった。お金。この人たちは、お金がすべてを解決できると思っているのだろうか?
「教えて、玲奈さん」美咲の声は、驚くほど落ち着いていた。「その結婚式は、正確にはいつ?来月って言ったわよね?小野大和のIPOの後、かしら?」
玲奈の目が細められた。「どうしてそれを…?」
「蓮さんは何事にもタイムラインがあるものね?」美咲は続けた。口の中に苦い味が広がる。「彼は、未処理の案件を片付けるのが好きなのよ」
私自身の公衆の面前での屈辱も、その「片付け」の一部のはずだった。
美咲は手つかずのラテを脇に押した。「お金は取っておいて、玲奈さん。私はもう、ここを去るつもりだったから」
彼女は相手の女性の視線を受け止めた。「でも、一つ無料でアドバイスさせて。一条蓮に感情移入しないことね。彼には壊される心なんてないわ。彼はただ、それを集めているだけ」
彼女は立ち上がった。「彼は、あなたのものよ」
玲奈の完璧にメイクされた顔が、怒りで歪んだ。
「生意気なクソ女!」
美咲が反応する前に、玲奈は自分の水のグラスを掴み、その中身を美咲の顔にまっすぐ投げつけた。
冷たい水が私をびしょ濡れにし、一瞬ショックで固まる。そして、玲奈は満足せず、飛びかかってきた。彼女の爪が、美咲の頬を引っ掻いた。
鋭く、刺すような痛み。美咲はよろめきながら後ずさりし、手を顔に当てた。温かい血の感触がした。
「一体全体、何してやがるんだ!」
蓮の声が、雷鳴のように響いた。
彼はそこにいた。カフェの入り口に立ち、その顔は怒りの仮面をかぶっていた。彼は大股でこちらに向かってきた。その目は燃えていた。
彼は美咲を一瞥だにしなかった。まっすぐ玲奈に向かい、万力のような力で彼女の腕を掴んだ。
「気でも狂ったのか、玲奈?公衆の面前で彼女を暴行するなんて」
「彼が私を挑発したのよ、蓮!」玲奈は金切り声を上げ、腕を振りほどこうとした。「あなたのことを侮辱したのよ!」
蓮の目がようやく美咲に向けられた。頬の血に。彼の顎の筋肉がぴくりと動いた。
彼は玲奈を振り返り、危険なほど低い声で言った。「出て行け。今すぐ」
玲奈は彼を見つめた。その顔は怒りと不信が入り混じっていた。「でも、蓮…」
「出て行け!」彼は怒鳴った。
玲奈は、初めて、本気で動揺しているように見えた。彼女は腕を振りほどき、カフェから嵐のように出て行った。