話 1
「古川さん、おめでとうございます。 お腹の赤ちゃんはとても元気ですよ」
古川結衣はぼんやりとした表情で病院を出た。手には妊娠検査の報告書を握りしめている。その指先には、強く握られた跡がくっきりと残っていた。
細い手がそっと下腹部に触れる。すると、結衣の口元に自然と喜びの笑みが浮かんだ。
妊娠している。藤原翔太との子どもだ。
胸の高鳴りを必死に抑えながら、結衣はスマートフォンを取り出した。今すぐ翔太に伝えたかった。この驚くべき幸せを、彼の耳に直接届けたかった。
そのときだった。手の中のスマートフォンが震えた。翔太から、ちょうど一通のメッセージが届いた。
「今すぐ白石ホテルまで来てくれ」
白石ホテル?今すぐ?どうして急に…?
古川結衣の胸に疑問が浮かんだが、それを深く考える暇もなく、すぐに路肩でタクシーを止めてホテルへと向かった。
翔太が会いたいと言うのなら、妊娠のことを直接伝えよう。電話じゃなく、彼の顔を見て伝えたい。
彼はどんな反応を見せるだろう――子どもができたと知ったら。
期待に胸を膨らませながら、結衣はホテルに到着した。車を降りた瞬間、目の前の光景に思わず足が止まる。あちこちに美しい花が飾られ、足元には真新しい赤いカーペットが敷かれていた。どう見ても、何かを祝う準備だ。
結衣は一瞬きょとんとしたが、すぐに気づいた。今日は彼と自分の結婚記念日だった。
ということは、翔太がわざわざ自分をここに呼んだのは、サプライズのため?
白石ホテルのロビーには多くの客が集まり、酒杯を交わしながら談笑する光景が広がっており、実ににぎやかだった。
古川結衣は人波を縫い、地味な装いもあって誰にも気づかれることはなかった。
そして、ふと視線の先に、すぐに見つけた。人々の中心に立ち、まるで光を纏ったようにひときわ輝いている男――藤原翔太。
彼は結衣の夫であり、これから生まれてくる子どもの父親だ。
思わず笑みがこぼれそうになったが、翔太の隣にいる女性が目に入った瞬間、その笑みが凍りついた。
あれは…翔太の初恋の相手、小林沙織!?
いつの間に帰国していたの…?
全身がこわばる。結衣の目の前で、翔太と沙織は腕を絡め合い、誰もが羨むほどの理想的なカップルのように寄り添っていた。
彼らの周りには友人たちが集まり、口々に祝福の言葉をかけていた。
「沙織、今日はしっかり一杯付き合ってもらうからね。帰国おめでとう!」
「翔太、こんなに長い時間が経って、やっと沙織と再会できたんだ。こんなめでたい日に、二人で夫婦盃でも飲んで祝わなきゃね。」
冷やかしの声が次第に大きくなっていく。
小林沙織は、鮮やかな赤いドレスに身を包み、完璧なメイクに柔らかな笑みを浮かべていた。「みんな、やめてよ。私と翔太が夫婦盃なんて…飲めるわけないでしょ? だって、翔太には奥さんがいるんだから。夫婦盃を飲むなら、その『奥さん』とでしょ?」
その言葉に、場の空気が一変する。沙織が古川結衣の名前を出した途端、周囲の人々の表情に冷笑が広がった。
「結衣?あの古川結衣のこと?」 「彼女が『妻』だなんて、笑わせるわ。あんなの、 翔太がおばあさまを納得させるために仕方なく結婚しただけの『道具』でしょ?」
「そうそう、翔太が本当に結婚したかった相手って、ずっとあなただったんでしょ?ねえ、翔太?」
藤原翔太はすらりとした体躯に、凛とした顔立ち。控えめな高級スーツに身を包み、その洗練された雰囲気は周囲と一線を画していた。
「もうやめろよ。沙織は酒に弱いんだ。代わりに、俺が飲むよ」
その一言に、また一段と賑やかな歓声が沸き起こる。
「おお~!藤原翔太、沙織をかばっちゃって…これはもう、心配っていうか、惚れてるでしょ?」 「よし、じゃあ沙織が飲めないっていうなら、その分は全部お前が飲めよ!飲み干すまで今日は帰らせないからね!」
囃し立てる声がますます大きくなる中、藤原翔太は冷ややかな表情を浮かべながらも、その口元には否定しがたい笑みが滲んでいた。
そして、その隣で小林沙織は顔を赤らめ、恥じらうように視線を伏せた。
――その二人の親密な姿が、ひどくまぶしく、痛々しかった。古川結衣の胸が締めつけられる。
いつ、自分がその場から逃げ出したのかも分からない。ただ、冷たい雨粒が頬に落ちてきた瞬間、ようやく現実に引き戻された。外は、いつの間にか雨だった。
細かい雨に混じって、冷たい風が吹きつける。結衣の服はたちまち濡れ、身を切るような風が体の芯まで入り込む。
ぼんやりと雨の帳を見つめながら、結衣は思った。
――翔太は、なぜ自分をここに呼んだのだろう?
もしかして――翔太は、あの幸せそうな光景を自分の目に焼き付けさせて、藤原の妻という立場を沙織に譲れと、そう伝えたかったのだろうか。
古川結衣の呼吸が乱れはじめる。身体が思うように動かず、それでもぎこちなく足を踏み出し、ぼんやりと前を向いて歩き出す。雨に濡れながら、ゆっくり、重い足取りで家へと戻った。
玄関の前に立ち尽くす。見慣れた我が家を前にして、心はどこか遠くをさまよっていた。
――2年前、古川家は破産寸前まで追い詰められていた。打開策として選んだのが、藤原家との政略結婚だった。
本来、翔太は結婚を望んでいなかった。だが病に伏せる藤原里美夫人の強い願いにより、しぶしぶ結婚を承諾したにすぎない。
今、里美夫人の容態は回復し、沙織も帰国していた。
どうやら、自分のような「余所者」は、翔太のそばから身を引くべきなのかもしれない。
どれほどの時間が経ったのか分からない。外から車のエンジン音が聞こえてきた。
次いで、男の低く落ち着いた声が耳に届く。
「古川結衣…お前、なんで全身びしょ濡れで突っ立ってるんだ?」
話 2
古川結衣は反射的に顔を上げ、その瞬間、目の前の男に視線が釘付けになった。
――見間違い…? 藤原翔太が、もう帰ってきた? 沙織が帰国したばかりなのに、彼はまだあの「愛する女性」と一緒にいるはずじゃなかったの…?
翔太は、黙ったままの結衣を見て、わずかに眉をひそめた。
そのときの結衣は、まるで水の中から這い上がってきたようだった。
全身がびしょ濡れで、長い髪は頬に張りつき、血の気の引いた顔を濡らしていた。髪の先からは今もぽたぽたと水が滴っている。まるで大雨の中、軒下で震える濡れた子猫のように――その姿は、あまりに痛ましく、あまりに無防備だった。
「どうしたらこんな姿になるんだ」藤原翔太は眉を寄せ、不機嫌そうな声を投げかけてきた。
その冷たい言葉に、古川結衣の胸がズキリと痛んだ。
――あのホテルで沙織に向けていた、あんなにも優しい声色とはまるで別人。愛する人と、そうでない人への態度の違いは、ここまで露骨なのか。
結衣は込み上げる感情を必死に抑え、なんとか笑みを作って答えた。「帰る途中で、急に雨が降ってきて…傘、持ってなくて、濡れちゃったの」
言い終えた途端、鼻の奥にツンとしたかゆみを感じ、大きなくしゃみがひとつ。
翔太の眉間は、ますます険しさを増したままだった。その顔には、心配も動揺も、微塵も浮かんでいなかった。
「古川結衣、お前いくつだよ? 雨に濡れたら、真っ先に身体拭いて服を着替える。それくらいのこと、いちいち俺が教えなきゃダメなのか?」
結衣の口元の笑みが、わずかに引きつる。「…ごめんなさい」
「さっさと片付けてこい。風邪でも引いたら面倒だ」 藤原翔太はそれ以上言葉を続ける気もない様子で、眉間に苛立ちの皺を寄せたまま、家の中へと入っていった。
――風邪? その言葉に、結衣ははっとした。自分は今、妊娠している。絶対に病気なんてしていられない。
その思いが頭をよぎると同時に、彼女は急いで部屋に戻った。熱めのシャワーを浴びてようやく冷えきった身体が温まり、少しずつ感覚が戻ってくる。
バスルームの扉を開けると、湯気がふわりと流れ出る中、バスタオルを巻いてそっと出てきた結衣は思いがけず、翔太の姿を目にした。
「っ…!」驚きのあまり、思わず小さく声が漏れる。とっさにバスタオルの胸元を押さえ、翔太を見つめた。
藤原翔太の深い視線が、じっと結衣を捉えていた。彼女の動作に気づいた彼は、表情ひとつ変えず、淡々と口を開いた。 「隠す必要あるか?お前の身体なんて…どこを見てないっていうんだ?」
古川結衣の頬が一気に赤く染まった。頭の中には、夜ごと重なったあの熱い記憶が不意に蘇る。
翔太は、ゆっくりと風邪薬のパッケージを開け、水の入ったコップを手にして、結衣のもとへと歩み寄った。
「ほら、これ飲め」
結衣は彼の手元を見つめる。薬…でも、彼女の中にはもう、別の命が宿っている。そのことが頭をよぎり、手が自然と止まる。
「あの…大したことないと思うし、薬は飲まなくてもいいんじゃないかな」
翔太は疑いの余地のない口調で言った。「自分の顔色がどれだけ悪いか分かってるのか? 明日は祖母に会いに行くんだ。今倒れられたら、迷惑なんだよ」
――妊娠している今、安易に薬は飲めない。そう考えた古川結衣は、なんとか断ろうとした。「温かいお湯をたくさん飲めば大丈夫。風邪なんてひかないよ」
翔太の眉間には、はっきりとした苛立ちの色が浮かんでいた。そして、次の瞬間――彼は黙って結衣の手から水のコップを取り上げ、持っていた風邪薬をそのまま口に含み、温水で一気に飲み下した。
「翔太、やめて、それは――んっ!」
言いかけた言葉は、唇に押し寄せた熱にかき消された。藤原翔太の高い身体がぐっと近づき、荒々しい指が結衣の柔らかな顎をしっかりと掴む。そして、そのまま、結衣の淡い唇に深く口づけた。
温かい水とともに、風邪薬が彼の唇から流れ込んでくる。翔太は大きな手で結衣の後頭部を支え、そのまま薬ごと飲み込むように仕向けた。
彼の熱を帯びた息遣いが結衣の意識を奪っていく。抗う力もないまま、結衣はその激しいキスに呑み込まれていった。
情欲を帯びた深いキスが、藤原翔太の中に眠っていた衝動に火をつけた。二人の身体はそのまま絡み合い、ベッドへと倒れ込む。
翔太は、力の抜けた結衣の唇を名残惜しげに啄みながら、上体を起こすと、ネクタイを解き乱雑に放った。その瞳には、彼女を今すぐ貪りたいという激しい欲望が宿っていた。
結衣の視界はぼやけ、揺らぐ意識の中で翔太の危うい眼差しと目が合った瞬間――はっと我に返る。翔太の身体がふたたび覆いかぶさろうとしたその刹那、結衣は震える声で言った。「だめ…!」
震える手で、彼の胸元を押し返す。
「…なんだと?」翔太は眉をひそめ、まるで聞き間違えたかのように問い返した。
再び唇を奪おうと顔を寄せたそのとき、結衣は顔をそらし、その目を見ようとせずに、かすれた声で告げた。「藤原翔太…私たち、離婚しましょう」
その一言で、藤原翔太の瞳に宿っていた欲の炎が一瞬で消えた。
彼は鋭い手つきで結衣の顎をつかみ、顔を無理やりこちらに向けさせると、深く冷たい視線を真っ直ぐ彼女の瞳に注ぎ込んだ。「もう一度言ってみろ」
その静かな言葉に、結衣の心臓が強く跳ねた。けれど、感情の渦を押し殺しながら、彼女はまっすぐ翔太の目を見つめ、はっきりと繰り返した。「…離婚しましょう」
その瞬間、翔太の瞳に一瞬だけ複雑な色がよぎった。「どうしてだ?」
その問いに、古川結衣は言葉を詰まらせた。まさか、彼が「理由」を尋ねてくるとは思っていなかったのだ。
――理由なんて決まってる。
彼の願いを叶えるため。「藤原の妻」という立場を、ずっと想い続けてきた小林沙織に譲るため。
「もちろん理由は…」
「また古川家が何かやらかしたか?金が欲しいのか?」けれど、結衣の言葉を遮るように、翔太の苛立った声が飛んできた。「古川結衣、お前な…もう少し大人しくしてくれ。何が欲しいかハッキリ言え。そんな回りくどい手使わなくていいし、くだらない駆け引きもやめろ。俺に構ってほしいだけなんだろ?」
その言葉に、結衣はそっと拳を握りしめた。
そういうことだったのか。この人は、私が「離婚したい」って言ったのを、単なる気まぐれやわがまま、あるいは「条件を引き出すための手段」としか見てないんだ。
彼女はゆっくりと口元に笑みを浮かべた。その笑みは静かで、どこか切なく、そしてどこまでも覚悟に満ちていた。「安心して。私は何もいらない。欲しいのは…離婚だけ」 「藤原翔太…どうせ、私たちはいつか離婚する。今か、少し先かの違いだけ。だったら、今でもいいでしょう?」
古川結衣がそう言い終えた後も、翔太は何も答えなかった。ただ、深く、そしてどこか得体の知れない視線で彼女をじっと見つめていた。
胸の奥がそわそわと落ち着かない。けれど、その中に小さな希望が顔を出す。――まさか、翔太は…離婚したくないって思ってるの?結衣は、恐る恐る問いかけた。
「それとも…あなたは、離婚したくないの?」
話 3
藤原翔太が離婚を望んでいないかもしれない――その考えが浮かんだ瞬間、古川結衣の胸は高鳴り、息が止まりそうになった。
だが、彼女の期待を込めた視線に対して、藤原翔太は鼻先で笑った。
「古川結衣、自分が何を言ってるか分かってるのか?」 その声には嘲りが満ちていて、古川結衣の耳に突き刺さるように響いた。無数の針がやわらかな心を貫くような感覚だった。「勘違いするな。俺が離婚したくないって?」
藤原翔太は古川結衣の顔をまっすぐに見つめ、氷のような目で言い放った。「古川結衣、よく覚えとけ。離婚を切り出したのはお前だ。だから後になって泣きついてきても、俺は知らないからな」
その言葉を投げ捨て、藤原翔太は一片の情も見せずに立ち上がり、ドアを勢いよく閉めて去っていった。
古川結衣はぼんやりと冷えたベッドに身を沈め、心に満ちた失望が胸を締めつける。
鼻をすんと啜り、小さく膨らみ始めたお腹にそっと手を当てた。そこには確かに、新たな命の鼓動が感じられた。
本当は、藤原翔太に妊娠のことを伝えるつもりだった。でも――もう、離婚するふたりなのだ。
そう思った瞬間、古川結衣の中で何かが静かに決まった。もう藤原翔太に伝える必要はない。たとえ一人でも――この子を、ちゃんと育ててみせる。
しかしすぐに、今の仕事のことが頭をよぎり、ため息がこぼれた。
かつて藤原里美――翔太のおばあさんが、翔太との距離を縮めるために、わざわざ彼の秘書として彼女を側に置いたのだ。
けれど今となっては、その役割も終わり。もう、この仕事も一緒に辞めるべきだろう。
…
翌朝。ワールドリンクグループ本社。
出社してすぐ、古川結衣は数人の噂好きな同僚に囲まれた。
「結衣さん、待ってたよ!ちょっと、例の件教えてよ!藤原社長とあの小林沙織って、どういう関係!?」
「ネットでもう大騒ぎだよ。藤原社長が国際的に有名なスーパーモデルの小林沙織のために、わざわざ歓迎パーティー開いたって。しかも会場には友人たちも呼んでたっていうし…これって、もう公にするつもりじゃない?」
「しかもさ、歓迎パーティーのあと、藤原社長と小林沙織が一晩一緒に過ごしたって話もあるの。もしかしたら、次期社長夫人ってことになるかもよ?」
その言葉を聞いた瞬間、古川結衣の胸にじんわりとした痛みが広がった。少しの沈黙ののち、彼女は静かに答えた。「そのへんのことは、私もよく知らない」
同僚たちは顔を見合わせて、からかうように笑った。「えー、嘘でしょ?結衣さんって藤原社長の専属秘書じゃない。会社でいちばん社長のこと詳しいのに、知らないなんてことある?」
古川結衣は、力なく口元をゆるめた。誰も知らない。彼女が藤原翔太の秘書であると同時に、誰にも明かされることのない「隠された妻」であることを。だからこそ、知っているはずのことすら――彼女は何ひとつ知らされないのだ。
小さくため息をついて、結衣は静かに言った。「本当に知らないの。だから、あんまり詮索しないで」
それでも食い下がろうとする同僚たちを前に、彼女はきっぱりと言葉を重ねた。「もう一度言うけど、何も話すことはない。これ以上聞かないで」 そして少し強めの声で続けた。「それに…あなたたち、会社に来たのは噂話をするため?」 「さっさと仕事に戻ったら?」
無表情のままそう言い放つ古川結衣に、同僚たちはどこか怯んだ様子を見せ、しぶしぶ口を閉じた。
「…わかったよ、結衣さん。もう何も聞かない」
彼女がその場を離れると、残された同僚たちはこそこそと彼女の背中を見送りながら、ボソボソと不満を漏らした。
「なにあの態度、偉そうに。あたかも自分が特別な存在みたいに振る舞っちゃってさ。藤原社長の秘書は彼女だけじゃないのに」
「ほんとそれ。三年前、突然秘書部に異動してきた時から、やたら綺麗だし、みんな『絶対社長と何かあるんじゃ…』って思ってたよね」 「でも実際は?この三年間、社長は一度も彼女に特別な目を向けたことないし、取引の場にも一切連れて行かないじゃん」 「専属秘書とか言っても、実際は飾りみたいなもんでしょ」
「もうすぐ彼女の『いい時代』も終わりじゃない?小林沙織が社長夫人になったら、真っ先に切られるのは彼女だよ」 「だってさ、自分の男の隣にあんな綺麗な秘書がいたら、普通は嫌でしょ」
「ほんと、それな…」
笑い声と冷ややかな噂がオフィスに広がるなか、彼女たちはおしゃべりに夢中になっていた。
けれど、古川結衣はまるで聞こえていないかのように無表情のまま自分のデスクへ向かい、機械のように仕事に取りかかった。
心のどこかで、分かっていた。表では笑顔を見せていた同僚たちが、裏では自分をどう見ていたのか――その現実を。 だが、反論する気力もなかった。なぜなら、彼女自身も、そんな自分をどこか滑稽だと感じていたからだ。
やがて時計の針が定時を告げ、秘書課の社員たちは次々と帰っていった。
そんな中、古川結衣のスマートフォンが鳴った。画面には、親友・向坂美咲の名前が表示されていた。
「結衣、今朝ニュース見たよ。藤原翔太とあの小林沙織って …あれ、嘘だよね?」
親友の疑い混じりの声に、古川結衣は小さくため息をついた。
「美咲…あれは本当よ」
その一言に、向坂美咲は息を呑んだのが電話越しにも伝わってきた。「えっ… …!?」
一日かけて心の整理をつけた古川結衣の声は、驚くほど静かで穏やかだった。「私と藤原翔太の結婚は、最初から契約みたいなものだったの。彼が私に何の感情も持っていないことくらい、わかってた。ただ、おばあ様の頼みだったから、彼も渋々受け入れただけ」 そして続ける。「でも今、彼が本当に愛してる人が戻ってきた。それなら、私が身を引くのが筋だと思う」
だが、向坂美咲は信じきれないように声を上げた。「でも…子どもは? 昨日言ってたじゃない。妊娠のこと、翔太さんに伝えて、驚かせてあげたいって…」
「彼にとって、それが『驚き』になると思う?」 古川結衣は無意識に、自分のお腹にそっと手を当てた。まだ何の変化もないその小さな膨らみに、切なげに微笑んだ。「…きっと“驚き”じゃなくて、“驚愕”だよ」そして、静かに続けた。「もう気が変わったの。私は離婚する。そして一人でこの子を育てる。彼に知らせる必要なんてない」
「離婚…本当に決めたの?」向坂美咲の声には、深い心配が滲んでいた。「でもさ、翔太さんに妊娠のことを隠したままワールドリンクグループに居続けたら、いつかは絶対バレるよ?」
「大丈夫。もう少ししたら辞表を出すつもり。そうすれば――本当にやりたいことに、また戻れるから」
夢のことを口にした瞬間、古川結衣の表情にふわりと笑みが灯った。
「本当なの? 結衣、ついに復帰するんだね!星野恭子」向坂美咲は喜びを隠せず、電話越しに何度も感嘆の声を漏らした。「やっぱりそうじゃなきゃ!結衣は『星葉石』――あの伝説の天才デザイナーでしょ!そんな才能があるのに、藤原翔太の秘書なんかやってたら勿体なさすぎるって、前からずっと言ってたじゃない!」
「星葉石か……」その懐かしい名を口にした瞬間、古川結衣の意識はふっと過去へと引き戻された。
そうだ――藤原翔太のために、自分自身をどれほど犠牲にしてきたのか。気づけば、もう「星葉石」という名さえ忘れかけていた。
そのときだった。「古川結衣」
低く落ち着いた男の声が、背後から響いた。
はっとして振り返ると、そこには藤原翔太が立っていた。複雑な表情で彼女を見つめていた。