話 2
病院を後にした澄子は、逃げ込むように地下鉄に乗り込んだ。揺れる車内、窓に映る自分の顔を眺めていると、先ほど耳にした司の冷ややかな声が、呪文のように頭の中で繰り返される。
彼は、以前よりも冷たくなっていた。
忘れもしない、高校三年の夏休み。所属していた合唱団が全国大会で優勝を飾り、その祝勝会が、司の実家の会員制クラブで開かれた。
澄子の担当はバイオリンだったが、もともとクラシックより歌謡曲やポップスの方が得意だった彼女に、大会前、司は毎日二時間もつきっきりで指導をしてくれた。
それが彼女の初めての受賞だった。
お礼に、彼女は贈り物を用意した。いつもよりきちんと身だしなみを整え、会場へ向かった。ドアの向こうから聞こえてきたのは、嘲笑の声だった。
テーブルの上に置かれていたのは、彼女が司に贈ったそのバイオリンだ。
「あの『ごま煎餅』、どこにこんな金があったんだ? これ、20万はするだろ」
「食うもん切り詰めて貯めたんじゃねえの?司様よ、あいつの涙ぐましい努力に免じて、付き合ってやれよ」
「いくら食費を削ったって、あのデブは痩せねえよ。司が手を出すなんて、あり得ないって」
「カビだらけの田舎娘が、佐伯家の玄関も跨げやしねえ」
卑屈な笑い声が響く中、司の声がした。
その耳を切り裂くような言葉を、澄子は一生忘れない。
「……こんなガラクタ一本で、何を盛り上がってるんだ。 うちにはこれより高いのなんていくらでもある。欲しいならお前らにやるよ」
一瞬、部屋がシーンと静まり返った。次の瞬間、ボキッという鈍い音が響いた。
「あ、ごめんなさい佐伯様。わざとじゃないんだけど……どうしよう、弦が切れちゃった」 一人の女子が、猫なで声で謝った。
「気にすんなって。別に藤堂可奈がくれたわけじゃねえし。 さあ、飲もうぜ!」
扉の前に立ちすくんだ澄子は、息が詰まり、胸が締め付けられるように痛んだ。
けれど、司がそれを止める言葉を口にすることは、最後までなかった。彼はただ、周囲の喧騒に紛れるように、再び仲間の輪へと戻っていった。
弦の切れたバイオリンは、ゴミ同然に部屋の隅に放り投げられていた。
医学の名家に生まれ、裕福な家庭で育った彼。
自分はごく普通の家庭の娘で、彼から何かを得ようとはしなかった。
あのバイオリンは、素性を隠してイタリアンレストランでバイオリンを弾くアルバイトで、こつこつと半年かけて貯めたお金で買ったものだった。
一曲でもらえるのは、わずか600円。
半年間の努力。
それが彼にとっては、他人に譲る価値さえない「ガラクタ」でしかなかった。
地下鉄の到着を告げる無機質なアナウンスが、記憶の沼から澄子を引き戻した。
ふと気づけば、頬には熱い涙が伝っている。彼女は慌てて涙を拭い、地下鉄を降りた。会社で残務を片付けると、西城にある古い団地へと帰路についた。
今回帰国したのは、祖母が病に倒れたからだ。身寄りのない祖母を一人にはしておけず、キャリアを捨てて帝都へ戻り、同居することに決めたのだ。
まさか、自分まで体を壊すことになるとは思わなかったが。
敷地内に入ると、ちょうどバスケットボールを抱えて帰ってきた隣人の、南野秀一と鉢合わせた。
秀一は背が高く、大学院を出たばかりの青年だ。底抜けに明るく、快活な性格で、近所でも評判が良い。「澄子さん、今日はずいぶん早いんですね」
「ええ。ねえ秀一くん、この近くで漢方薬を煎じてくれる所、知らないかしら?」 澄子は秀一と並んで、階段を上り始めた。
秀一は足を止め、心配そうに彼女の顔を覗き込んだ。「澄子さん、どこか悪いんですか?」
「ううん、私じゃなくて。最近流行ってるし、おばあちゃんの体を整えてもらおうと思って」
「それなら、いい場所を知ってますよ。すぐ近くだ。明日、仕事が終わったら案内しますよ」 話している間も、秀一の眼差しはずっと、澄子を優しく見守っていた。
家に入ると、祖母がひょっこりと顔を出した。
「あら、秀一くんと一緒に帰ってきたのかい?」
「うん、さっき下で会ったの」
澄子が靴を脱ぎながら答えると、祖母は嬉しそうに後をついてきた。。
「秀一くんはいい子だよ。素性もわかってるしねえ。あんた、高校の時以来、浮いた話がないじゃない。もういい年なんだから、そろそろ身を固めなさいよ」
「もう、おばあちゃん……。彼は私よりずっと年下よ」
医者からは認知症の兆候があると言われているが、孫の結婚に関しては、その記憶力に微塵の衰えも感じられないのが不思議だった。
祖母は食卓の上に、一つの古びたガラス瓶を置いた。「今日、押し入れを整理してたら古いのが出てきてね。石ころが詰まった瓶だよ。あんたのおじいさんも、こんなものを私に残してどうするつもりだったのかねえ」
澄子は何気なくその瓶に目をやり――持っていたグラスを落としそうになった。
それは祖父のものなどではない。十年前、司が彼女にただ一度だけ贈ったものだ。
話 3
それは、ただの石ころなんかではなかった。二十六の都市を巡って、それぞれの民政局の前で拾い集めた石だ。
かつて、司は言っていた。彼女が二十六歳になったら、結婚して、これらの都市を巡る新婚旅行に行こうと。
もうこんなに時が経った。司は、きっともう可奈と結婚しているだろう。
そして、自分のことなど忘れているに違いない。
忘れてくれた方がいい。もう二度と、何の関わりも持たない方がいい。彼女は、新しい人生を始めていたのだから。
不意に鳴り響いたスマートフォンの着信音が、澄子を過去の幻から現実へと引き戻した。
彼女は自分を鼓舞するように、その瓶を無造作にゴミ箱へと投げ捨てた。重い音が響き、過去が捨てられた。冷たい感触の通話ボタンに指を滑らせる。
「はい、長谷川部長」
彼女が勤めるのは、西城にあるアニメーション制作会社だ。今、まさに正社員採用の正念場となっていた。
「水原くん、『憧憬の帝都』プロジェクトだが、君を主担当に据えることにした。明日、広告スポンサーの藤堂社長がいらっしゃいます。絶対にミスは許されないぞ」
「……はい、承知いたしました」澄子は深く考える間もなく、反射的に応じていた。
祖母の医療費は伯父が出してくれているが、両親に余裕はなく、生活費は彼女がやりくりして捻出している。以前は貯金もあったが。
かつての蓄えも底を突きかけ、今度は自分自身の通院費という重荷まで加わった。
明日がプレゼンなのに、今夜になって知らされた。徹夜で資料を作るしかなかった。
「徹夜、か……」
ふと、あの低い声が脳裏をよぎる。
『できるだけ十一時には寝るように』心配そうに、けれど事務的に告げた司の顔。
澄子の唇に、自嘲気味な笑みが浮かぶ。「……何考えてるのよ、私」
今は、彼のことなど一秒だって考えている暇はないというのに。
翌朝、クライアント会社がプロジェクト確認のために来訪した。会議室で座って待つ一同。同僚の恵が緊張のあまり澄子の腕をつかんで、「澄子、準備は本当にできてるの?」と尋ねた。
「ええ」 澄子は努めて冷静に、短く頷いた。
あの藤堂社長は業界じゃ有名な『鬼女』なのよ。重箱の隅をつつくような人だって噂。お気に入りの男の前でだけ、猫なで声になるらしいけど……」
澄子に先入観はなかった。むしろ、若くして巨大グループを率いる手腕には、純粋な敬意すら抱いている。「それだけ、仕事に対してプロフェッショナルだってことでしょ」
「……すぐに、そんなこと言ってられなくなるわよ」恵は首を振った。
その直後、会議室のドアが静かに開いた。長谷川部長が、二人の人物を伴って入室してくる。
先頭を歩く、長身の若い女性。その射抜くような鋭い眼差しに、室内の温度が数度下がったような錯覚に陥る。
「藤堂社長、こちらがプロジェクトチームのメンバーです」部長が恭しく中央の席を譲ると、女性は紅く彩られた唇をわずかに吊り上げた。「皆様、はじめまして。藤堂グループ代表、藤堂可奈です」
その瞬間、澄子は全身が凍りついたかのように硬直した。
藤堂可奈——十年前、あの個室の外で、中から聞こえてきた名前だ。司と大学で婚約し、卒業したら結婚するという噂だった彼女。
(やっぱり、彼女が……司の奥さんなんだ)
はっと我に返った澄子は、咄嗟に視線を逸らした。
目の前の女性を直視することなど、今の自分には到底できなかった。
可奈が室内を見渡して言った。「それで、水原澄子さんはどちらかしら?」
澄子の意識はまだ現実から浮遊したまま、 恵が肘で小突いてくるまで、自分が呼ばれていることにさえ気づかなかった。
「は、はい。水原です」弾かれたように立ち上がった澄子の声は、自分でも情けないほどに震えていた。
言い終えるなり、彼女は再び視線を落とした。
十年前、可奈の顔を直接見たことはなかった。
そして、今の自分は「水原詩織」ではない。
たとえ当時、彼女が自分のことを調べていたとしても、この変わり果てた姿に気づくはずがない。
私は、水原澄子。あの頃の私じゃない――と自分に言い聞かせながらも、机の下で握りしめた拳には、じっとりと嫌な汗が滲んでいた。
「このプロジェクト、あなたの意図が理解できない箇所がいくつかあるわ。もし納得のいく説明ができるなら、この案を残してあげてもいいけれど」
可奈の冷徹な問いが、澄子を捉える。同僚たちの痛いほどの視線が、澄子の肩に重くのしかかった。
澄子は深く一つ呼吸を置くと、過去の残像を強引に振り払った。
プロジェクトは、自分の分身のようなものだ。プロとしての仮面を被り、可奈の投げかける鋭利な質問の一つ一つに、淀みなく、的確に答えていく。
その場で結論が出ることはなかったが、確かな手応えはあった。長谷川部長は上機嫌で、チームをホテルの会食へと誘った。
けれど、澄子の心は少しも晴れない。
もしプロジェクトが採用されれば、今後、藤堂可奈と接触する機会は避けられないだろう。
かといって、ようやく掴みかけた正社員への道を、今さら手放すことなどできない。
今の彼女には、何よりも、生きるための「金」が必要だった。
誰にも気づかれないよう、澄子は小さく溜息を吐き出した。
仕事終わりに約束通り、澄子は南野秀一の車で地域のクリニックへと向かった。
秀一の白いアウディがクリニックの前に滑り込む。「澄子さん、ここです。先に入っててください。僕、車を停めてきますから」
「わかったわ。後で連絡してね」 澄子は軽く手を振り、車を降りた。
そのクリニックは、多くの患者――その大半が高齢者で溢れ返っていた。所在なく院内を彷徨い、漢方薬の受付を探していると、背後から不意に声が掛かった。
「……何か、御用ですか?」低く、耳に馴染んだ、静かな声。
澄子の背筋が、凍りついたように伸びた。振り返る動作が、まるでスローモーションのように感じられる。
そこには、白衣を纏った佐伯司が立っていた。胸ポケットには、整然と並んだ六本の真新しいペン。
両手をポケットに深く差し込んだまま、彼は射抜くような瞳で、静かに澄子を見下ろしていた。