話 1
「夕菜、心配ない!俺が必ず、両親を説得して、あんな変態の桐山行隆と結婚させたりしないからな!」
夜の帳を切り裂くように、濃紺の車が都市の果てへと、狂ったような猛スピードで疾走する。
血が滲むほどハンドルを握りしめた藤本沢介の瞳には、固い決意が宿り、燃えるような光を放っていた。 「今すぐ空港へ送り届けてやる!」
後部座席では、精巧な磁器人形のように整った顔立ちの三浦夕菜が、車のシートにうずくまるように身を横たえていた。 その手足は、無慈悲にもリボンで固く縛られている。
夕菜は、手足に絡むリボンを解こうと必死にもがきながら、掠れた声で懇願した。 「沢介、もうやめて」
「お願い、引き返して、婚約披露宴がもうすぐ始まるわ、私たちがこのまま消えたら、おじさんやおばさんに合わせる顔がないわ……」
今日は、彼女が桐山家の長男、桐山行隆と婚約するはずの日だというのに、居候先の藤本家の次男である沢介に無理やり攫われ、駆け落ちさせられようとしているのだ!
三浦夕菜が婚約の話に触れなければまだしも、その言葉を聞いた瞬間、藤本沢介の瞳は怒りに燃え上がり、血走ったように赤く染まった。 「婚約だと?」
「お前は両親を亡くして、俺の家に居候しているだけの人間だ、藤本家の人間じゃない、俺の親が、商業的な提携のためにお前を榕原市で最も悪名高い変態、桐山行隆に嫁がせようとするなんて、正気の沙汰じゃない!」
夕菜は、ようやく片方の手をリボンから解き放った。
残りのリボンを解き続けながら、彼女は必死に沢介をなだめようとした。 「おじさんやおばさんは私を無理強いしていないわ、これは、私が望んだことなの……」
「望んだことだと?それなら、どうして舞台裏で一人、泣いていたんだ?」
沢介は、夕菜の偽りを容赦なく暴き立てた。 「今日の婚約披露宴には、桐山行隆は参加しないととっくに発表されている、お前が一人で婚約式に臨んだら、世間の笑いものになるだけだ!」
「桐山行隆はお前と一度も会ったこともないくせに、お前の尊厳を踏みにじるような真似をする、そんな男に、俺はお前を嫁がせるわけにはいかない!」
沢介はそう言い放つと、バックミラー越しに後部座席の夕菜を射抜くように一瞥した。 「お前には、三年も秘密で付き合っている彼氏がいるんだろう?」
「そいつの電話番号を教えろ、俺が連絡して、一緒に駆け落ちさせてやる!」
沢介が藤本圭佑の名に触れた瞬間、夕菜の胸の奥が、ずしりと重く沈んだ。
まるで過去が呼び覚まされるように、あの男の声が耳元で鮮明に蘇る――
「夕菜、藤本家は今、大きな問題を抱えている、頼れるのは桐山家だけなんだ……」
「半年だ、君は桐山行隆のそばで、半年だけ耐えてくれればいい」
「半年後、俺が必ず堂々と君を藤本家に迎えに戻る、両親と沢介に俺たちの関係を説明して、君を妻として迎えるから」
彼女と藤本家の長男、藤本圭佑は、誰にも知られることなく三年もの間、密かに愛を育んでいた。 彼はいつも「適切な時が来たら、必ず関係を公にする」と繰り返し、夕菜に待つよう懇願していた。
だが、ひたすら待ち続けた夕菜が最後に告げられたのは、藤本家の利益のため、一度も会ったことのない男に嫁ぐよう、彼自身の口から説得されるという、残酷な言葉だった。
「キーッ!」
甲高い金属音が夜の静寂を破り、耳をつんざくような急ブレーキ音と共に、夕菜の思考は痛ましい過去から現実に引き戻された。
一台の漆黒のSUVが、彼らの行く手を阻むように立ちはだかった。
「くそっ、死にたいのか、てめぇ!」
沢介は怒りに任せて車のドアを蹴り開け、外に飛び出すと、悪態をついた。 「てめえら、目ぇついてねえのか……」
言葉が終わる前に、冷たい金属の銃口が、彼の額に無慈悲に突きつけられた。
沢介は瞬時に口をつぐみ、血の気が引いた顔面は見る見るうちに青ざめ、身動き一つできなくなった。
気だるく低い声が響いた。 「江川、優しくな、藤本家の二坊ちゃんを怖がらせるなよ」
長身で引き締まった体躯から、まるで氷を纏うかのような冷やかなオーラを放つ男が、静かにSUVから降り立った。
男は銃を構える黒服のボディガードを通り過ぎ、ゆっくりと車のドアを開け、優雅な仕草でドアに寄りかかった。 その瞳は夕菜を上から下まで値踏みするように見つめ、低い声でからかうように言った。 「駆け落ちかい?」
その鋭くも遊び心のある眼差しに、夕菜は背筋に冷たいものが走り抜けるのを感じた。
彼女は苦痛に顔をしかめ、顔面蒼白の沢介を一瞥した。 「彼を放してあげて」
「まだ俺の質問に答えてないだろう?」
男は唇の端を吊り上げ、江川のそばへと歩み寄った。
次の瞬間、彼は素早い動きで銃を奪い取り、「カチャッ」という冷たい音と共に、弾丸を薬室に装填した。
冷たい銃口が、再び沢介のこめかみに強く、深く押し当てられた。
藤本家の次男である沢介は、普段こそ傲慢で傍若無人だったが、まだ二十歳の若者だ。 本物の銃を突きつけられるなど、人生で一度も経験したことがない。
一瞬にして、彼の顔は真っ青になり、体は無意識に小刻みに震え始めた。 「あ、あなた、変なことしないでください!」
「俺は藤本家の人間ですよ!」
銃を握る男は、銃口を沢介に押し当てたまま、後部座席の夕菜を面白がるように見つめた。 「駆け落ちかい?」
男の手に握られた銃を見て、夕菜の心臓は激しく高鳴り、今にも飛び出しそうだった!
彼女は顔面蒼白になりながらも、震える声で、しかし強い意志を込めて口を開いた。 「彼は私の友達です、ドライブに連れてきてくれただけ」
男は銃を握る手を微動だにしなかった。 その声には嘲笑が混じる。 「婚約披露宴がもうすぐ始まるというのに、君の友達がドライブに連れてきてくれた、と?」
夕菜は、おそるおそる、口を開いた男を見上げた。
暗い夜の闇の中、男の輪郭は鋭く、そして傲慢な影を落としていた。
彼女は奥歯を噛み締め、胸の鼓動が耳の奥で激しく鳴り響くのを感じた。
この男が今日が自分の婚約の日だと知っているのなら、婚約相手である桐山行隆の身分も知っているに違いない……
そう考えると、夕菜は精一杯の虚勢を張るように、勇気を振り絞って眉をひそめ、非常に傲慢な態度で言い放った。 「私は桐山行隆の婚約者よ、あなたに、桐山様の人間に手出しする度胸があるの?」
「忠告してあげる、さっさと銃を置いて、私たちを行かせなさい!」
「さもないと、未来の夫が知ったら、ただでは済まないわよ!」
彼女は賭けに出た。 この男が桐山行隆に手出しできないことに。
言葉が落ちると、周囲の空気は数秒間、水を打ったように静まり返った。
銃を持つ男は、冷ややかに笑みを浮かべた。 「君は桐山行隆に嫁ぎたくなくて、駆け落ちしようとしていたんだろう?」
「誰が駆け落ちなんて言ったの?」
夕菜は眉を上げ、反論した。 「うちの桐山様は今日、とてもお忙しくて婚約披露宴にはいらっしゃれないの、だから、友達に頼んで、彼に会いに行こうとしていたのよ」
彼女はそう言いながら、リボンで縛られたわずかに震える両手を、見せつけるように持ち上げた。 「見て? これは彼へのサプライズよ、私自身をプレゼントとして彼に捧げるつもりなの」
「賢いなら、さっさと私たちを解放しなさい、私と桐山様の親密な時間を邪魔したら、あなたには責任が取れないわよ!」
周囲は再び静まり返った。
しばらくして、男は優雅に銃を回転させてしまい、低い声で面白がるように言った。 「つまり、今夜は身を捧げるつもり、と?」
話 2
「当然のことですわ!」
男の表情に、かすかな和らぎを読み取ると、三浦夕菜の胸に徐々に自信が湧き。
臆することなく男の双眸をまっすぐ見据えた。「だって、私と桐山様は今夜から正式な婚約者になるんですもの。 お互いの理解を深めるのは、当然の務めでしょう?」
月明かりを借りて、彼女は男の、深淵を覗き込むような底知れぬ瞳を見つめる。 「早く私たちを解放なさい。 さもないと……あっ!」
夕菜が言い終わるよりも早く、抗いようのない大きな手に車の中から引きずり出され、車のドアに強く押し付けられた。
「夕菜ちゃん!」
その光景を目の当たりにした藤本沢介は、激情に駆られて駆け寄ろうとするが、江川たちに捕えられ、顔を地面に押し付けられ、身動きを封じられた。
「この野郎!彼女を放せ!」
沢介は屈辱に顔を歪めながらも、憎悪に燃える眼差しで車の後部座席へ視線を向け、男に向かって、血を吐くように叫び散らした。
男の熱い体と、彼から漂う見知らぬ匂いが迫り、夕菜は恐怖に駆られて彼を突き放そうと手を伸ばした。 「やめて!何を……!」
自分の下で女がこわばり、小刻みに震えるのを感じ取り、桐山行隆は細められた目をさらに眇め、長い指で夕菜の顎をそっと持ち上げた。 「男を喜ばせる術を知っているか?」
夕菜の心臓は激しく警鐘を鳴らしていたが、平静を装って虚勢を張った。 「早く私を解放なさい。 さもないと……」
彼女が言い終わるよりも早く、彼女を押し付けていた男は頭を下げ、ゼリーのように潤んだ彼女の唇を奪った。
男の唇と舌は、有無を言わさぬ勢いで、彼女の唇を貪った。
夕菜の頭は、一瞬にして真っ白に染まった。
彼女は目を見開き、驚愕と硬直に囚われ、抵抗することさえ忘れていた。
どれほどの時間が経っただろうか、男は唐突に彼女を解放した。 「キスもできないのか?」
「パチン――!」
その言葉が夜の闇に吸い込まれるか否か、夜の静寂を切り裂くような乾いた平手打ちの音が響き渡った。
沢介を押さえつけていた江川は、驚愕に目を見開いた。
彼が行隆のそばに仕えて四、五年になるが、その主人が平手打ちを食らうのを見るのは初めてだった。
しかも、その相手が……いかにもか弱き乙女なのだから……。
行隆の顔は、打たれた衝撃で横を向いていた。
彼は無感情に顔を正面に戻すと、舌で奥歯を押し上げながら、冷たい視線を夕菜に落とした。 「良い度胸だ、と言ってやるべきか」
「これは、私を侮辱した報いよ!」
夕菜は、打って痺れた手を引っ込めた。 「今すぐ沢介を解放して、私たちを帰しなさい。 そうすれば、全てなかったことにしてあげるわ」
「さもないと、桐山様に告げ口するわよ。 あの方はあなたを許さないわ!」
行隆は口の端を吊り上げて、冷たく笑った。 「桐山行隆に会ったこともないくせに、彼が助けてくれるとでも思っているのか?」
「会ったこともないのに、どうやって婚約するっていうのよ?」
夕菜は眉をきつく寄せた。 「私の婚約者である桐山様は、私に一目惚れして、焦って婚約したのよ。 一週間後には結婚するわ」
「彼は、私の一生を面倒見、どんな辛い思いからも守り抜くと、固く誓ってくれたのよ」
女は自分より頭一つ分背の高い男を見上げ、気丈な声で言い放った。 「賢明なら今すぐ私たちを解放なさい。 さもないと、彼が怒ったら、誰もあなたを守れないわよ!」
この言葉を口にするとき、彼女の表情は非常に落ち着いていたが、体の横で白くなるほど握りしめられた両手が、彼女の緊張を物語っていた。
周囲の空気が数分間静まり返った後、行隆は口の端を吊り上げて、冷たく笑った。 「江川、彼らを送って行け」
……
三十分後。
夕菜が沢介の体を支えながらホテルのロビーに入ると、藤本孝宗と美和が駆け寄ってきた。
「どうしたの?」
美和はすぐに駆け寄り、心疼そうに沢介のもう片方の腕を支えながら尋ねた。 「どこに行ってたの?どうしてこんな姿に?」
沢介は不満げに唇を尖らせた。 「僕、夕菜ちゃんが嫁ぐのが嫌だったんです。 だから……」
「私が沢介にドライブに連れて行ってほしいと頼んだんです」
夕菜は沢介が孝宗と美和に叱られることを恐れ、咄嗟に彼の言葉を遮り、努めて穏やかに言った。 「車を降りる時に彼が不注意にも転んでしまって、それで戻ってきたんです」
「ドライブなんて、いつ行ってもいいでしょう?どうして今なの?」
美和はたちまち顔を曇らせ、声には非難の色をにじませた。 「夕菜ちゃん、あなたはいつも一番物分かりがいいのに、どうしてこんな大事な時にそんな我儘を言うの?」
「お客様は皆さんお揃いなのに、万一あなたたち二人が戻って来られなかったら、私たち藤本家の顔は丸潰れじゃないの!」
夕菜は俯いた。 「ごめんなさい、私のせいです」
「夕菜ちゃん、どうして謝るんだよ?」
沢介は夕菜が責められるのを、見ていられなかった。 「僕が……」
「もういい!」
孝宗は時計に目をやり、一喝した。 「婚約披露宴はもうすぐ始まる。 今はこんな話をしている時じゃない」
彼はそばに控えていた使用人を見上げた。 「二少爺を連れて傷の手当てをして、相応しい服に着替えさせなさい」
「夕菜ちゃん、裏で化粧直しをしてきなさい」
夕菜が頷き、バックステージの場所を尋ねようとしたその時、突如、漆黒の人影が彼女の前に現れた。 「僕が案内する」
藤本圭佑だった。
夕菜はきつく唇を結び、彼の後についていった。
圭佑は今日、仕立ての良いスーツに身を包んでいた。 体に吸い付くような仕立ては、彼の背中を気品と冷たさの中に、人を寄せ付けぬ孤高の気配を纏っていた。
かつて、夕菜はどんなに気分が落ち込んでいても、彼の姿、たとえ後ろ姿であっても、それを見るだけで心の奥底に安らぎと静けさが広がったものだった。
彼女もまた、彼との婚約、そして結婚の場面を、数えきれないほど夢想してきた。
今夜、彼女は婚約する。 しかし、その相手は彼ではない。
「着いた」
低く響く男の声が、夕菜の思考の糸を、ぶつりと断ち切った。
彼女は我に返り、二人がバックステージの化粧室に到着していたことに気づいた。
「ありがとうございます」
彼女は小声で礼を言い、中に入ろうと足を踏み出した。
カチャリ、 と重い音を立てて、
後ろで鍵が施錠される音が響いた。
「夕菜ちゃん」夕菜が椅子に座る間もなく、圭佑は眉間に深い皺を寄せ、彼女の手首を掴んだ。
「どうして戻ってきたんだ?」
圭佑は暗く、 複雑な色を帯びた眼差しで彼女を見つめた。「君はあの機会に逃げ出せたはずなのに、 どうして戻ってきたんだ?」
夕菜は振り返り、三年間秘密の関係を続け、幾度となく未来を誓い合ったこの男を、静かに見つめた。 「孝宗と美和に約束したからです」
「あなたみたいに、約束を破る人にはなりたくありませんから」
話 3
熱い火傷でも負ったかのように、藤本圭佑の瞳孔は針の穴のように収縮し、弾かれたように三浦夕菜の手を振り払った。
楽屋の空気は鉛のように重く、肺を締め付けるような息苦しさが満ちていた。
夕菜は圭佑のことなど、もはや目にも留めなかった。
彼女は圭佑に背を向け、ゆっくりと椅子に腰を下ろすと、鏡の中の自分と向き合うように化粧直しを始めた。
圭佑は、ただ言葉もなく彼女の後ろに立ち、鏡越しにその背中をじっと見つめ続けていた。
長い沈黙の後、男は静かにため息をついた。 「夕菜ちゃん、分かってる。 僕が悪かったんだ。 約束したこと、たくさん守れてない……」
彼は言葉を切り、鏡に映る夕菜を深く見つめた。 「もう少しだけ時間をくれないか。 待っててほしい」
「約束するよ。 半年以内には、藤本家が直面している経済危機を必ず解決するよ」
「その時が来たら、僕はこれまでの約束をすべて果たす。 僕たちの関係を公にし、君を娶る……」
夕菜はわずかに眉をひそめたが、化粧直しの手は止めなかった。
そんな空虚な言葉は、もう聞き飽きるほど耳にしてきた。
彼女が圭佑と秘密裏に付き合い始めた頃から、彼はいつも「すぐに二人の関係を公にする」と約束していた。
三ヶ月、半年、一年……気がつけば、彼女はもう三年もの歳月を待ち続けていた。
今や、彼女は他の男と結婚しようとしているというのに、圭佑はまだ、現実離れした約束を繰り返している。
「パチン」と、クッションファンデーションの蓋が、まるで何かの終わりを告げるかのように乾いた音を立てて閉まった。
夕菜は顔を上げ、澄んだ瞳で鏡に映る自分の後ろに立つ男を見つめた。 「じゃあ、後藤美晴はどうするの?」
「半年後には、彼女の生死なんてどうでもよくなるってこと?」
後藤美晴という名前が口にされると、楽屋は二人の呼吸音だけが響くほど、一層の静寂に包まれた。
美晴は、かつて圭佑の恋人だった。
当時、美晴は圭佑を捨てて留学し、帰国後に彼との復縁を迫った。
その頃、圭佑は夕菜と付き合い始めてまだ一ヶ月も経っていなかった。
彼は美晴を拒絶した。
その夜、美晴は酒に酔って交通事故を起こし、一生車椅子での生活を余儀なくされる体になった。
圭佑は、彼女に降りかかったすべての不幸を自分のせいだと責め、この三年間、ずっと美晴の面倒を見てきた。
美晴の感情を刺激することを恐れ、彼は自分が恋をしているという事実を公にできなかった。
美晴の病状が重いという理由で、恋人との記念日だろうと、夕菜が心を込めて準備したデートだろうと、圭佑は真っ先に彼女を放り出し、美晴の元へと駆けつけた。
この三年間、美晴という女は、決して埋まることのない深い溝のように、夕菜と圭佑の間に横たわっていた。 夕菜がどれだけ努力しても、その溝を越えることはできなかった。
そして今、彼女はもう、その溝を越えようとは思わなかった。
長い沈黙の後、夕菜はゆっくりと振り返り、圭佑を避けるようにドアへと向かった。
「夕菜ちゃん」
彼女がドアノブに手をかけた瞬間、圭佑が歩み寄り、背後から彼女を抱きしめた。 「約束する、彼女の面倒を見るのはあと半年だけだ」
「半年後、君が桐山行隆と離婚して藤本家に戻ってきたら、僕は彼女のことは一切関わらない!」
背後から伝わる男の体温を感じながら、夕菜はそっと目を閉じ、諦めと苦渋に満ちた声で呟いた。 「この前、彼女が鼻血を出した時、39度の熱がある私に自分で車を運転して病院に行かせた時も、『これが最後だ』って言ったわよね」
「その前の、記念日に、私を一人で個室に花とプレゼントと一緒に一晩中座らせておいた時も、『もう二度と彼女の面倒は見ない』って言ったじゃない」
彼女はうつむき、自分を抱きしめる男の指を一本ずつ、まるで絆を断ち切るようにほどいていった。 「藤本圭佑、桐山行隆との結婚、あなたが勝手に私に代わって承諾したのよ」
「それと、覚えておいて。 今日から、私には婚約者がいるの」
言い終えると、彼女は完全に圭佑を振り払った。 「ご自重ください」
圭佑の瞳に、 一瞬、 深い痛みがよぎった。 「夕菜ちゃん、 どういう意味だ? 君……」
圭佑が言葉を言い終える前に、彼の携帯電話がけたたましく鳴り響いた。
仕事専用の着信音だった。
彼は携帯電話を取り出した。
近くにいたため、夕菜は画面に「桐山行隆」という三文字がはっきりと表示されているのを見た。
圭佑は眉をひそめて少し躊躇したが、やはり電話に出た。
夕菜がこの隙に逃げ出すのを防ぐため、彼は楽屋のドアに鍵をかけ、自分の体でドアを塞いだ。
『藤本の若旦那』
電話の向こうから、ふざけたような男の声が響いた。 『俺の婚約式、どうなってる?』
圭佑は目を伏せ、低い声で答えた。 『正式な式典はあと十分で開場いたします。 全て手配済みでございます。 後ほど、秘書に式典の動画と写真をそちらのメールアドレスにお送りさせます』
『結構』
電話の向こうの男は、くすりと笑ったようだった。 『俺が欠席するからといって、そちらの藤本家が俺の婚約者をぞんざいに扱ったり、形式的に済ませたりしないことを願うよ』
『とんでもございません、桐山様、ご安心ください』
『俺が婚約者に贈るプレゼントを用意させた。 もうすぐ届くはずだから、彼女に確認させるのを忘れるなよ』
『かしこまりました』
二人の男の会話を聞きながら、夕菜は思わず眉をそめた。
気のせいだろうか。 電話の向こうの行隆の声に、どこかで聞いたことがあるような、奇妙な既視感を覚えた。
電話を切った後、圭佑が夕菜との会話を再開しようとしたその時、楽屋のドアが外からノックされた。
ドアの外から、藤本沢介の声が響いた。 「夕菜ちゃん、化粧直しだけなのに、なんでドア閉めてるんだい?」
「早く開けなさい!」
楽屋の中で、夕菜は眉をひそめ、ドアを塞ぐように立つ圭佑を一瞥した。 「どいて」
圭佑はしばらく黙っていたが、やがて振り返ってドアから離れ、隅に身を隠した。
これは、彼と夕菜のこの三年間で培われた暗黙の了解だった。
誤解を避けるため、二人は決して人前で二人きりになることはなかった。
その手慣れた様子を見て、夕菜は滑稽に思うと同時に、胸に冷たい皮肉がこみ上げた。
こんな泥棒のような恋愛を、自分は彼と三年も続けてきたのだ。
深く息を吸い込み、彼女はドアを開け、笑顔でドアの前に立つ沢介を見つめた。 「あら、お義父様、お義母様、お待たせしてしまいましたか?」
「いや、別に」
沢介は一瞬言葉を切り、それから低い声で言った。 「さっき車の中で、彼氏に連絡して迎えに来てもらうように言っただろう?」
「彼は今どこにいるんだい?」
「彼は来ません」
夕菜は振り返り、楽屋の隅に隠れる圭佑の方を、痛ましいほど冷ややかな笑みを唇の端に浮かべながら一瞥した。 「私たち、別れました」