話 2
水咲 熾苑 POV:
びしょ濡れのドレスが床に水滴を落とす中、アパートの鍵を開ける。
弾の冷たい声が、頭の中で木霊していた。
私がクラブを去ったことを、彼はきっと駆け引きか何かだと思っているだろう。
彼が私の世界の土台そのものを粉々に打ち砕いたとは、夢にも思わずに。
数時間後、ドアを叩く激しい音に、私はびくりと体を震わせた。
兄の玲央だった。
彼の顔は青ざめ、その瞳には無力な怒りが燃えていた。
「熾苑、本当にすまない」
彼はそう言って、私を抱きしめた。
「今、知ったんだ。あいつがやっていること…人の心がない」
「戦略よ、玲央」
私は感情のない声で言った。
彼の腕から離れ、自分自身を抱きしめる。
「一条麗奈は彼にとって有益なの。私は違う」
玲央は髪をかきむしった。
「あいつは…彼女に夢中なんだ。彼女の野心、その冷酷さに。自分と対等だと思ってる」
「そうなの?」
私は聞かずにはいられなかった。
「これは、本物の同盟なの?」
彼は一瞬ためらい、そしてゆっくりと頷いた。
「ああ。特定の派閥との力を固めるためのな」
まるで合図のように、廊下で携帯が鳴った。
玲央のポケットから落ちたのだろう。
画面には、一条麗奈からの着信が表示されていた。
兄はそれを無視したが、彼女が残した留守電から、甲高く要求がましい声が聞こえてきた。
続いて、弾からの電話。
彼の口調はぶっきらぼうで、すべてがビジネスライクだった。
電話の内容は、物流と支配に関するもの。
すべてが裏付けられた。
私は、片付けて捨てられるべき、邪魔な存在なのだ。
翌朝、私は多摩美の国際交流センターにいた。
古い紙とコーヒーの匂いがする。
私はフィレンツェ美術学院への奨学金の申請用紙を求めた。
イタリア。
海を隔てた向こう側。
それが、黒澤組の影から逃れる唯一の道のように思えた。
一週間後、私は玲央の二十五歳の誕生日パーティーに出席せざるを得なかった。
会場は黒澤組が所有する青山の一等地に立つ、広大なペントハウス。
彼らの力を誇示する、きらびやかなショーケースだ。
高価な香水の匂いと、危険な男たちが交わす取引の低い囁き声が、空気に満ちていた。
私はまるで幽霊のように、もはや自分の人生ではない場所をさまよっていた。
その時、彼らを見た。
弾と一条麗奈が、まるで王族のように群衆の中を進んでいく。
彼らは私の真正面で立ち止まった。
弾の瞳は冷たく、何も読み取れない。
一条麗奈は勝ち誇った笑みを浮かべ、彼の腕にしがみついていた。
「熾苑」
弾の声には、聞き慣れた命令の響きがあった。若の命令。
「未来の妻、麗奈だ。紹介しよう」
一条麗奈の笑みがさらに深まる。
「あなたのかわいらしい片思いが、こんな形で終わってしまって残念ですわ」
彼女の声は、偽りの同情に満ちていた。
「でも、弾さんが必要としているのは、クレヨンでお絵描きしている世間知らずのお嬢ちゃんではなく、女王ですもの。私たちの結びつきは、組の…事業をより強固なものにするでしょう」
そして彼女は、息の根を止めるほど計算高く、残酷なことをした。
彼女は、完璧に平らな自分のお腹を優しく撫で、純粋な、毒に満ちた勝利の眼差しで私を見つめた。
世界が傾いた。
これは公開処刑だ。
屈辱という血で支払われる代償。
そして、私はその生贄だった。
話 3
水咲 熾苑 POV:
私は無理やり笑顔を作った。
頬の筋肉がこわばって不自然に感じる。
「おめでとうございます」
驚くほど落ち着いた声が出た。
それは、内側から引き裂かれながらも、組に忠実な水咲家の娘の声だった。
弾の配下の幹部たちが数人、媚びへつらうような笑みを浮かべて近づいてきた。
「いやあ、熾苑ちゃん」
一人が弾の背中を叩きながら言った。
「君のかわいらしいデザインが見られなくなるのは寂しいが、若には本物の女が必要だからな、え?」
彼らは皆、笑った。
弾はただそこに立って、引きつった、居心地の悪そうな笑みを浮かべているだけだった。
彼は私を庇わなかった。
一言も発しなかった。
その沈黙は、どんな侮辱よりも雄弁だった。
彼の沈黙の中で、私は理解した。
彼は玲央のために、私たちの家族の絆のために、私の存在を許容していただけなのだ。
今、一条麗奈を手に入れた彼には、もはやその絆は必要ない。
私に消えてほしいのだ。
私はその場をそっと離れ、街の灯りを見下ろす大きな窓のそばの静かな隅を見つけた。
ただ、息がしたかった。
一条麗奈は、すぐに私を見つけ出した。
「あなたの痛みは、お察ししますわ」
彼女の声は、優しい嘘だった。
「でも、理解してあげて。弾さんは、あなたの献身の重さに疲れていたの。罪悪感を感じていた。あなたは彼の重荷だったのよ」
彼女の言葉は私を傷つけるためのものだったが、私は奇妙なほどの無感動を覚えていた。
まるで舞台を観ているようで、私はもはや役者の一人ではなかった。
突然、群衆の中から息をのむ声が上がった。
見上げると、天井に吊るされた黒澤組の力を象徴する、巨大で華美なシャンデリアが激しく揺れていた。
人々はパニックに陥り、我先にと逃げ惑う。
私の目は弾を捉えた。
彼の本能、彼のいわゆる保護本能が、再び燃え上がった。
彼は何年も前のパーティーの時と同じ速さで動いた。
しかし今回、彼が向かったのは私ではなかった。
彼は一条麗奈を掴み、腕の中に引き寄せ、自分の体で彼女を庇いながら危険地帯から引きずり出した。
彼は私の方を一瞥すらしなかった。
私は見えていなかった。
破壊の進路に置かれた、ただの家具の一部だった。
シャンデリアが、ねじれる金属と砕け散るガラスの耳をつんざくような轟音とともに落下した。
灼けるような痛みが脚を走り、さらに鋭い激痛が鎖骨に炸裂した。
そして、すべてが暗転した。
病院のベッドで目を覚ました。
消毒液の匂いがした。
玲央がベッドのそばに座っていた。彼の顔は蒼白だった。
「あいつはお前を置いていったんだ、熾苑」
玲央の声は、私が彼から聞いたことのない怒りに満ちていた。
「あいつは…お前をそこに置き去りにした。あいつは全ての掟を破った。守護者としての務めを果たさなかったんだ」
私は白い天井を見つめながら、奇妙な静けさが心に広がるのを感じた。
弾は選択をした。
彼は一条麗奈を選んだ。
力を選んだ。
その事実はもはや痛くなかった。
ただの事実。
私を自由にする、事実だった。
私の決断は、もはや選択ではなかった。
必然だった。
私はフィレンツェへ行く。
これは逃避ではない。
再生だ。