1

「つらい…」

少女の身体の線が細くて美しいことは、部屋の薄暗い明かりの中でも十分に分かった。 カー・グーは、ベッドのシーツの中にだるそうに横たわり、寝ぼけているその少女にすぐに気がついた。

「おい! 俺の部屋に誰がお前を入れた? !」

少女の顔はぼんやりとしていて、はっきりとは見えなかったが、美人かどうか見分けることは簡単だった。 カーはベッドに近づき、謎の少女のあごを持ち上げて顔を確かめようとした。 その瞬間、少女はベッドから飛び跳ねるようにして、彼の首に手を回して、激しく息ができないというように耳元で喘いだ。

「お願い… 私を…たすけて」

少女に抱きつかれたことと、耳元での激しい喘ぎがカーをたまらなくさせた。 もう我慢なんて無理だ!

裕福な家庭で育ったカーは、社会の闇も知ったし、裏社会のことも詳しかった。 貧しそうな少女は薬を飲まされているようだったが、楽しませてもらったとしても害はなさそうだったと彼は思った。

誰かは知らないがこの部屋に彼女を連れてきた奴は、俺に何かを求めているんだろう。 彼女に薬を飲ませたのもただ興を添えるだけだろう。 カーは口元に悪そうな笑みを浮かべながら、そんな考えをめぐらしていた。

そう考えたカーは、少女へと身を乗り出して、ためらうことなくキスした。

ジリリ… リン!

毎朝起こされている目覚まし時計の音に、ニコール・ニンはパチパチと目を開いた。 眠い目をこすりながらアラーム音を消そうとしながら、彼女はいつもと何か違うことに突然気がついた。

え? なぜ私、裸なの? そ、そして...? この隣で寝ている男性は一体誰? ! 思わず口を押えて、ニコールは自分が悲鳴をあげそうになるのをこらえた。

彼女は何があったか昨日の出来事をこめかみのあたりをこすって思い出そうとした。

ええっと… サプライズがあるから、ホテルで待ってるようにってグレゴリーが言ったのは覚えてる。 その後、フィオナが水をコップに入れてくれて… で、 それを飲んだ… その後… そうか、その時頭がくらくらし始めて、1001号室に運び込まれたんだ!

ニコールはあまりのショックに目を丸くした。 彼女の恋人であるグレゴリー・ソンと彼女の親友であるフィオナ・ジャオの関係がこのところずっと何か怪しいのではないかと疑っていたのだった。 それにしても、こんなふうに自分をはめるなんて思っていなかった!

ベッドを出て、グレゴリーとフィオナをどうしても探さなくてはと、ニコールは大急ぎで服を着た。 部屋を立ち去ろうとした瞬間、ふとベッドで寝ている男のことを思い出した。 昨夜薬でおかしくなっていたが、この男性は何度も繰り返してこんなことをしていいかと言葉をかけてくれていたことを彼女が覚えていた。それに、ここは1001号室ではなく、1101号室だと分かった彼女は、 この男性は自分と同じ「被害者」だったと思っていた。

とにかく、この人はとてもハンサム! 彼の引き締まった身体と彫刻のような顔立ちを見ながら、ニコールはそう考えていた。 まぁね… こんなにハンサムな男性としたんだったら、それほど困った状況でもないわねと、ニコールは肩をすくめた。 彼女はバッグの中からお札を出して、ベッドの脇に置いた。 そして、部屋を静かに出て行った。

無駄な時間を省くため、ニコールはタクシーに飛び乗って恋人のグレゴリーの家へと直行した。 到着したら何が待ち受けているか、さまざまな可能性が頭をめぐっていた。 ただ、到着して目にした状況にはニコールは本当にショックを受けた。

床中にちらばる脱ぎ捨てられた衣服が寝室へと続く。 その中にあった紺色のネクタイは、グレゴリーがニコールからもらったプレゼントだったが、 今は弊履のごとくぐちゃぐちゃになって床に捨てられた。

ニコールは耳をそばだてて部屋の向こうから聞こえる音を盗み聞きしようとした。 半開きになったドアからは、二人の会話や喘ぎ声が筒抜けだった。 もう我慢ならないとニコールは床にあったハイヒールを手にすると、ベッドの上の男と女へと向かって投げつけた。

「次からはせめてドアを閉めるのね、とんだ恥さらしな二人の姿を人に見せないほうがいいわよ。 でも、今後そんなことができるかどうかは知らないけどね」

グレゴリーは怒ったニコールの顔を見ると、ショックのあまりぼうっとしていた。 その反対に、フィオナは平気な顔をして、ベッドの足元にあったグレゴリーのシャツをつかんで、それを着た。 それから立ち上がってニコールの方へと近づいてきた。

「ニコール、はっきり言わせてもらうわ。 もう見られてしまったからには、隠す必要もないから。 私とグレゴリーはもう――」

「それよりも先に服を着なさいよ!」 ニコールは見るのも嫌だという風にフィオナから顔をそらせ、冷ややかに笑って言った。 「なんと目障りだな!恥ずかしいと思わないの?」

「あんたって… !」

怒りと恥ずかしさでフィオナは言葉を失っていた。 ニコールは目を細め、細い眉を上げてフィオナを一瞥した。

「グレゴリー、これが望みってわけね? フィオナなんかがタイプなの?」 ニコールは、青ざめているグレゴリーに向かってあざけるような笑みを浮かべた。

そして、フィオナに向いて「親友だから、言わなかったの。フィオナ… 気分を害したら悪いから、今までずっと黙ってた」 皮肉さを込めてニコールは明るくいい放った。 「あんたって、小さいころから私の着古した服とか、私が飽きちゃったものとか使ってたのよ。 大人になっても同じだなんて! 笑っちゃわない?」 ニコールの笑い声も皮肉たっぷりだった。 「それで、今度は私が使い古した男に手を出したってことね! いらなくなったものを拾い集める専門家ってあなたのことね!」

これを聞いたフィオナは明らかに怒りを感じていた。 彼女の父親はかつてニン家の運転手だったのだ。 だから、彼女はニコールに対する劣等感にさいなまれていた。 ベッドに寝たままのグレゴリーはゴミ扱いされたので、気分を悪くしていた。 非難するためにニコールに向かって指さし、叫んだ。「ニコール、そういうのが嫌になったんだ! うぬぼれてばかりいるところが! まだ自分のことを、ニン家の気高い娘とでも? 父親が亡くなって、君の家は破産したって忘れるんじゃないぞ! 今の君は単なる貧しい哀れな女だ。 皮肉だね、君が僕とフィオナのことを見下した物言いをするとは。 昨日の夜、お前は何をしてたって?」

これで、昨夜の一件は二人が仕組んだことだとわかった。

そういえば、確かグレゴリーはマカオでお金をすったっていってたはず。 それが家族にばれたら大変だともいっていた。 私は、借金の肩代わりにされたってこと? だけどフィオナはうっかりと違う部屋に私を入れたってことか!

ニコールはその考えに、背筋に冷たいものを感じた。 そして、彼女は皮肉たっぷりに目の前の男女を見ながら笑っていった。

「昨夜のことならすべてお話するわ! ホテルで昨夜を過ごしたお相手はすばらしかったわ。 身体も顔もとてもよく、ハンサムな人よ! 実際、あなたとするよりずっと良かったわ。 すごい経験をしちゃった!」

ニコールはグレゴリーがプライドの高い男だと知って、わざと彼を刺激しそうなことをいった。 案の定、グレゴリーは顔を真っ赤にし、ニコールを睨みつけながら、怒りで歯をくいしばりながらいった。

「この尻軽女!」

「いえいえ、とんでもない。 卑怯者としては、あなたたち二人には遙かに及ばないわ」とニコールはいい返してやった。 そして、彼女は「ふん」と鼻で笑い飛ばすと、踵を返してその場を離れた。ハイヒールでコツコツと床を鳴らし、その音は誇り高き女王を思わせた。

2

すると、ニコールは何かを思い出したかのように、途中で立ち止まってゆっくりと振り向いた。 「あ、そうだ。マンハッタン大学から通知が来たのよ。 経営学部に入学が決まったわ。 このニュースをどう伝えるべきか考えていたんだけど、あなたたちのおかげで楽に言えるわ! あとひとつ、行く前に言っておくことがある…」

ニコールはフィオナの嫉妬に満ちた顔を楽しむように、少しの間をおいた。 「昨夜私が泊った部屋は1101号室よ」

そのあいだ、1101号室では目を覚ましたカーが、座ってベッドサイドにあるお金を不機嫌そうに見ていた。

彼はその金を数えていた。 41,827円だった。 あの女、持っているすべてのお金を私に払っていったのか? 信じられない考えが彼の頭をめぐった。

これまで20年以上生きてきたカー・グーが、そんな大胆な真似をする女に出会ったことはなかった。 金を残して去ったなんて!

あまりの怒りに、カーは 冷たい表情でアシスタントに電話をかけた。

「ホテルの支配人に監視カメラの映像を依頼しろ。 この部屋に昨夜いた女を探し出したい」

電話の向こうでは、アシスタントのこびへつらうような声が響く中、ふと枕の上にきらめく何かがカーの目に留まった。 小さなイヤリングだった。 これがあの女を探す手がかりだと分かって、カーは目を光らせた。

たちの悪い女だ、今度会ったらお仕置きしてやらなければ!

数年後、空港にて…

悪天候のために到着するはずの便は30分以上遅れた。 空港の待合所にいる人々の表情には焦りが見え始めた。 その中で、灰色のシャツを着た男だけは妙に落ち着きを見せていた。 金の縁取りのある眼鏡をかけて、優しそうなハンサムなルックスにその場にいたほとんどの人たちが注目していた。

あれ、バーロン・ファンじゃない? このハンサムな紳士は、A市で二番目に裕福なファングループの御曹司だとその場にいた女たちは気づき始めていた。 ファン家は、市内でグー家だけには劣っていた。 それでもまだ、ファン家は誰からも信じられないほどに裕福だったので、実際何ら問題があるとは思われていない。 「きゃあ! 彼って何てハンサムなのかしら!」 ひとりの女の子が小さい声で感情をこめていった。

バーロン・ファンが冷淡なカー・グーと比べたら、はるかに愛想の良い男であることは確かだった。

誰にだってこのバーロンに会えるなんて、滅多にないことだった。 これはチャンスと、彼に近づく女がいた。 何度もためらった末に、一人の女性はようやく勇気を出して彼の方へと歩き出した。 美しい女性だった。バレンチノのブランドの豪華なドレスを着ていた。 微笑みかけながら、その女性はバーロンに丁寧に自己紹介をした。

「ごきげんよう、 バーロン様。 お茶でもお付き合いいただけたら光栄ですが」

「おや、お美しい方からの招待を受けるとは幸運なことだ」

穏やかな笑みを浮かべて、バーロンはこう答えた。 「だが、すまん。 待っていた人が来てしまったようだ」

バーロンの指さしたほうを見ると、そこには、20代半ばの美女が歩いてきた。 長い髪が肩にかかり、顔にはメークをしていなかった。 白いシンプルなシャツにブルージーンズ、服もいたって清潔かつシンプルだった。 それだけシンプルだったにもかかわらず、大勢の中にいてもひとり際立って見えた。 それはニコールだった。

なぜか、彼女の持ち物は片手のバッグだけだった。 その彼女のかたわらに無邪気な幼い男の子が小さなスーツケースをひきながら、後ろをちょこまかと歩いてやってきた。

ニコールは、出てきてからすぐに羨ましそうな憎しみ溢れた視線をそれらの若い女性たちから向けられているのに気づいていた。 「また私のことを自分のバカげた盾扱いするなんて、もう男として失格だわ!」

心の中でバーロンに対する不満をさけびつつも、ニコールは優しいほほえみを浮かべて良妻賢母を演じていた。 彼女はバーロンの元へと歩み寄って、手をつなぎながら、優しい声で呼んだ。

「ハニー、かなり待った?」

バーロンもまた彼女に自然な感じで腕をまわして「ハニー」と呼んでいた。 バーロンのそばに来た幼い男の子もまた彼の足に絡みつき、甘えた声で彼を呼んだ。

「パパがいなかったから、ジェイ君さみしかった! 何でここで僕たちを待ってたの? パパの服に着いた香水はくさいよ!」

落胆した女性たちは、ぎこちない咳をしなたら去って行った。 満面の笑みを浮かべながらバーロンはジェイをスーツケースの上に座らせた。そして、スーツケースを片手で引っ張りながら、もう片方の手をニコールとつないで歩いていった。 車に乗るや否や、ニコールは彼の頬をきつくつねった。

「さっきのように、あなたをファンたちから守る盾としてのお役目はもう私は金輪際お断りしますからね!」

「頼むよ、ニコール! マンハッタンの旧友なんだろう。 それに、君のほかに誰が僕を助けられると思う?」

すると、バーロンは眉をあげ、ジェイの後ろに置いたスーツケースを見た。 「嘘だろう? 息子と二人で6年ぶりに帰国したっていうのに、君らの荷物はこれだけ?」

「ママは必要なものはこっちで買えばいいって。 効率のいい方法だって僕も思う」と、ジェイが言った。

「その通り。 いらない物は捨てる、そしたらエネルギーも場所も蓄えられる。 効率いいってことね」

息子に同意してニコールがそう言った。 しかし、隣のバーロンは不満しているようだった。

「ジェイはまだ6歳だぜ、おい。 頭の良い子だけど、そんなに冷たく教え込まなくても! バカな子ほど僕にはかわいい。ねえ、僕のかわいい息子ちゃん」 とバーロンはジェイの足をくすぐろうと手を伸ばしながら言った。

バーロンの手を嫌がるように、ジェイは短い両足を揺らしながら彼の手を押しのけた。そして、冷たい口調で言った。

「今は安全な場所だから、もうほかの女の子たちは来ないよ。 ファンおじさんの子のふりはしなくてもいいでしょ」

「まったく、ニコール・ニン! 君はいったい男の子をどう育ててるんだ?」

肩をすくめて、ニコールは微笑み、窓の外の懐かしい景色を眺めた。

マンハッタンへ出発した時、彼女はまだ18歳になったばかりだった。 ひとり暮らしで気が重かった。 しかし、あることが彼女の人生を変えた。 それは、7年前のたった一夜の出来事でジェイを身ごもってしまったことだった。 幸運にもバーロンと仲良くなったので、かなり助けられた。

時々あの夜を共にした男はどうしているかとニコールは思った。

ぼんやりとしか覚えていない顔だったが、ハンサムだったはずだ。 あの見知らぬ男に息子が出来たと伝えたら、彼はどんなにショックを受けるだろう!

こっちへ帰る前に、ニコールはジェイのことが心配になった。 ジェイは年齢の割に頭が良くて大人びた子供で、父親がいないことを受け入れていた。 だとしても、愛情をくれる父親がそばにいないのは不安だろう。 あの見知らぬ男をみつけて、彼がジェイのことを息子だと認めてくれたら、何も心配がいらないのだけれど。 でもあの男を見つけられなかったら、彼がほかの女性と結婚していたら、そしたらどうしよう?

ニコールはそう考えると、心配になって眉をひそめた。 ジェイは母親の気持ちを理解したかのように、安心させようと彼女の肩をたたいた。

「おバカなママ、悲しまないで。 お父さんがいたほうがいいかもしれないけど、 いなくてもいいんだ!」

3

車を運転しているバーロンはその話を聞いて、ふと笑い出した。そして、ニコールの気持ちを和ませるため、いくつか冗談を言った。 ニコールが就職する会社が彼女のために用意してくれた家に着いたら、 バーロンは荷物を持って階上まで彼らを送っていった。 その上、必要な日常用品を買うために、 スーパーマーケットまで二人を連れて行った。

「覚えてるかい? 僕がファングループにいる限りは、君がファングループで働く事なんて簡単なんだぜって僕が言っただろう。 いったいなぜ、君はグーグループの仕事を選んだのか? カー・グーがどんなに手ごわい男か知らないの?」 買い物をしている途中、バーロンは半分からかいながらも、半分は真剣にニコールに聞いた。

「いやだ! もし本当にファングループで働いたら、またあなたの盾として扱われるだろう」

ニコールも彼をからかうように、笑いながらスーパーの買い物カートを通路に押して話していた。

「それより、いい加減にガールフレンドを作ったらどうなの? もうそろそろ、あなたの偽のガールフレンドとして、私も少し飽きてきてるのよ」と、ニコールはつけ加えた。

「そんなに飽きてきたのならば、本当のガールフレンドになるってのはどうなのだろう… 」

バーロンは心の中で、そう考えていた。 しかし、彼は本当の気持ちをニコールに伝える勇気がまだなかった。 臆病な自分の性格が嫌だったバーロンは、 苦笑いしながら、ニコールに追いつこうと急いだ。

買い物を終わらせて食事も済ませたニコールとジェイはようやく休むことができた。新しい家とはいえ、二人ともぐっすり眠れた。 ニコールは翌朝、ジェイをすでに連絡を取った小学校へと送った。 校長先生とクラス担当の先生は喜んでジェイを学校の正門で迎えてきた。 そのように賢い子どもが入学してくると知って、二人は嬉しそうに笑った。

新しい場所で息子がうまくやっていけるかどうかニコールは少し心配だったが、ジェイは年齢の割には、大人しくしていて、 ニコールのバッグを片付けながら、彼女に言った。

「ママ、自分のことを心配しなよ、僕は大丈夫だから。 初めて仕事に行く日だよ。 仕事はきちんとするんだね。 僕は飢え死にしたくないから!」

「やんちゃな子だね!」

ニコールは幼い息子をみつめながら笑っていた。 ジェイが学校に入ると、ニコールはタクシーでグーグループへと向かった。 到着すると、ニコールはこの会社の伝説の社長は、なかなかセンスがいいと思った。 建物はガラス張りで、シンプルながらもとてもエレガントだったからだ。 ただ、ひとつだけ問題があった…

「この上をどうやって歩けばいいのかしら! ?」

ニコールは履いていた8センチのハイヒールを困ったように見つめた。 飛ぶような速さで歩く目の前の女性たちを見て、彼女は密かに憧れた。 歯を食いしばると、ニコールはしっかりと一歩を踏み出した。 すると、滑らかな床で足を滑らせてしまった。

くそ! 出社初日に私にこんなことが起きるなんて! 恥さらしだわ!

もうどうすることもできなかったと思い込んだニコールは、 しっかりと目を閉じて、受け身をとって転ぶのに耐えようとした。 でも次の瞬間、たくましい両腕で彼女の身体を支える人が現れた。

眼を薄く開けると、そこにはニコールが少し見覚えのある男の姿があった。

頭を上げたとたんに、冷たい深みのある男の顔が見えた。 それはまるでベテランの職人が彫刻でほったのかと思うような完璧な顔。 ニコールはどこかで見覚えのあるその男を思い出そうとしたとき、その男は手を放した。 あまりにもじっくりと見つめられるので、男は眉を上げた。

「何をみとれているんだ?」

「やだ! なんてことをしたんだろう!」 ニコールは恥べき自分をののしった。 そして、しっかりと直立し、服を整えてエレガントな笑顔で言った。

「有難うございます」

ふーん… ずいぶんと素早く立ち直れるものだな。

カーは、眼を細めてみると、どうもこの女性を見たことがあるような気がした。 しかめっ面をして、彼はアシスタントへと振り向いた。

「この女性はいったい誰なんだ?」

声は低かった。

「グー様。 ニコールさんという方です。 彼女は先月、マンハッタン大学を卒業したばかりの博士です。 会社が高額の給料で雇ったディレクターです」とアシスタントは伝えた。

そのセリフは、二人を驚かせた。 カーはわずかに眉を上げたが、ニコールはショックで口をぽかんと開けそうになった。

信じられない。 出社初日に伝説のカー・グーの目の前に現れて、恥ずかしい思いをするなんて!

息子の言っていたことを思い出し、あまりに悲しくなったニコールは思わず叫びそうになっていた。 ジェイの言う通り、自分はお仕事をたった1分で失うことになったみたい!

予想したとおり、カーは嘲るような表情で彼女を上から下までしらべた。

「ディレクターだって? 関心なさそうに、カーはあざ笑った。

その彼の言葉にあった軽蔑の痕跡に怒り出したニコールは、 歯を食いしばて言った。

「仕事の方はしっかりとやれることを証明いたします。 グー様。 誰にでも長所があれば短所もあるものです。 私は確かに不器用でしたが、そして第一印象を悪くしてしまったに違いないですが。 グー様は事の是非をはっきり区別できる人だと確信しており、 今日起こったことだけでは、私が能力不足だと簡単に判断する人ではないと信じております」

この女はなかなか雄弁だった! カーは肩をすくめた。

「ニコールさん、お言葉通りにぜひ仕事してみせてほしいものだな」

そう言い残して、彼は振り返らずに会社へと入っていった。 ニコールは驚いていたが、 気をつけて足を踏み出し、すべることなく会社へ入った。

なぜなのか分からないのだったが、カーを見た時に心臓が急にドキドキしていた。 何か懐かしいような気持ちが心に感じられたのだった。 だけれども、ディレクターとしての役目は忙しく、報告や契約などさまざまな業務に専念するので、ニコールは手がいっぱいだった。 あまり何もほかに考える暇は今はなさそうだ。

ニコールは大それた性格をしていたが、物事についてはしっかり成し遂げるという自己流のやり方があった。 その朝だけで、彼女は責任者として運営するマーケット部門のすべての業務を明確に理解することができていた。 スタッフ全員との会議を終えると、彼らはニコールに対して深い印象を抱いていた。 すぐに、グーグループ全体にその美しく粘り強さを備えたマーケティング部門のディレクターの評判が広まった。

そのようにして、ニコールはグーグループの社内で確固たる立場を築き上げた。 幸運にも、彼女が就任して間もなく、大規模な提携計画が舞い込んだ。 決定力があり、初月で相当な成功を収めたので、ニコールのビジネス力には誰もが憧れるようになっていた。 カーですら、彼女を評価していた。 それに、ニコールの成功を祝うため、彼は初めてホテルを予約して、パーティーを開催することにした。

贅沢と成功の言葉を受けながらも、ニコールは少し気が落ち込んでいた。

ずっと前に父親がまだ生きていたころには、彼女の一家の会社も順調に発展していた。 当時はニン家の長女として、ニコールはにこやかに社交界で今のようにたくさんの人たちと交流をしていた。 しかし、今そばにいるのは父親ではなく、上司のカーだった。

夕食後、ホテルで音楽をバンドが演奏する中、ダンスフロアでは会社の管理職たちが踊っていた。 それを見て、ニコールは手でこめかみをこすりながら、ため息をついた。

誰もが楽しそうにパーティーに参加しているから、 ニコールも自分の気持ちを高揚させる必要があると思った。なぜなら、このパーティーは彼女のために開かれたものだったから。 彼女だけではなく、社長のカーも、みんなをがっかりさせないため、高い気力を維持しなければならなかった。 ニコールは気づかれないように、横目でそばにいる暗い顔をしているカーをみた。 大きく深呼吸をすると、彼女は自ら率先して手を差し出した。 「踊りませんか?」

今すぐ全編を読む
作者の『Moboreader』を応援して、素晴らしい物語の続きを楽しみましょう!
全話ロック解除

私のCEOであるパパ

第1話
エピソード
カスタマイズ
次の章