話 2
白石 絵玲奈 POV:
「プログラムは6ヶ月です」
ディレクターの声が、チューリッヒから回線越しに聞こえてくる。
「完全に隔離された環境です。外部との接触は一切禁止。本当に、よろしいのですか?白石さん」
「はい、間違いありません」
その言葉は、私がここ数年で口にした、初めての真実のように感じられた。
私は自分だけの要塞を、自分だけの沈黙の掟(オメルタ)を築くのだ。
家に戻ると、そこは異質な空間に感じられた。
ここは家じゃない。
黒崎組の権力の中心地で、私はその高価な装飾品の一つにすぎない。
冷たく、澄み切った怒りが私を貫いた。
私はシンクの下から、分厚い黒いゴミ袋を掴み取った。
毎朝、彼のために淹れていたコーヒーカップ。
大理石のカウンタートップに叩きつけて粉々にした。
私たちの結婚式の写真立て。
フレームから笑顔の私たちを引きちぎると、ガラスが砕け散った。
寒い夜に彼が私に掛けてくれたカシミアのブランケット。
彼を裏社会の神のように見せ、権力と嘘の匂いが染みついたオーダーメイドのスーツ。
私は、私たちの結婚生活の亡霊で重くなったゴミ袋を、まるで生ゴミのように歩道脇まで引きずっていった。
それは彼の縄張りへの冒涜であり、若頭そのものへの侮辱だった。
どうでもよかった。
それから、私は自分のものをまとめた。
建築の図面、本、模型。
引越し業者を呼び、すべてを古いワンルームのアパートに運ぶよう指示した。
そこは、私自身への密かな約束のように、ずっと維持していた場所だった。
その夜、彼は帰ってこなかった。
次の日も。
二日目の夜、ようやくドアを通り抜けてきた彼は、二重生活の疲労を仮面のように顔に貼り付けていた。
「絵玲奈」
彼は言った。その笑顔は、目の奥までは届いていない。
彼は私を抱きしめようと、いつものように腕の中に引き寄せようと動いた。
でも、私はその匂いに気づいた。
私のものではない、ほのかに甘い香水の香り。
それは、赤城組の女の香りだった。
私は彼の胸を押し返し、身をすくめた。
「疲れてるの」
嘘は簡単に出てきた。
それは盾だった。
彼は眉をひそめた。
かつては私がなだめてあげたくなったその仕草も、今ではただの演技の一部にしか見えない。
彼はブリーフケースから小さな箱を取り出した。
「出張のお土産だ」
中には、私が嫌いな柄のシルクスカーフと、私が絶対につけない香水のボトルが入っていた。
それは見知らぬ誰かへの、名ばかりの妻への贈り物。
彼がいかに私を見ていないか、知ろうともしないかの証。
彼の妃であるべき女への、侮辱だった。
私は彼の視線を、硬い目で見返した。
「子供が欲しいの、蓮さん」
その言葉は、挑戦状となって私たちの間に漂った。
彼の表情がこわばる。
「その話はしたはずだ。今は組にとって重要な時期なんだ」
彼は自分の秘密を守っていた。
赤城組の跡継ぎを守っていた。
ちょうどその時、スマホが震えた。
彼のメインのスマホではない。二台目の、裏のスマホだ。
画面に非通知の番号が光る。
彼の、赤城組用の回線。
「仕事だ」
彼の声はぶっきらぼうだった。
彼は身をかがめ、私の額にキスをした。
冷たく、見下したような仕草。
そしてドアから出て行き、私を彼の嘘が響き渡る静寂の中に置き去りにした。
その夜遅く、私がソファで呆然と座っていると、それが見えた。
二台目のスマホが、彼のコートのポケットから滑り落ち、ソファの下に半分隠れていた。
画面はまだ光っていた。
朱里からのメッセージ。
『玲央が熱を出してるの。あなたに会いたがってる。お願い、来て』
激しい吐き気が私を襲った。
私はバスルームによろめき込み、胃が激しく収縮するのを感じた。
トイレに吐き出した。
私の体は、彼の裏切りの毒を排出しようとしていた。
そして、恐ろしく、あり得ない考えが頭の片隅で芽生えた。
途絶えた生理と、胸の奇妙な張りから生まれた考え。
私は妊娠している。
私は、黒崎組の正統な跡継ぎを身ごもっている。
その父親は、たった今、自分の隠し子の看病に出て行ったというのに。
翌朝、私は自分で車を運転して病院へ向かった。
医師の顔は優しく、声は穏やかだった。
「おめでとうございます、奥様」
彼は画面上の、小さく点滅する光点を指さして言った。
「妊娠6週目です」
話 3
白石 絵玲奈 POV:
6週目。
その言葉は、私が呆然と診察室を出た後の、無機質な静寂の中で響き渡った。
この子は、私たちの希望になるはずだった。
黒崎組の未来。
今となっては、私を嘘に縛り付けるもう一つの鎖のようにしか感じられない。
エレベーターに向かっていると、彼らの声が聞こえた。
蓮の、低く切迫した声。
赤城朱里の、涙ぐんだ懇願する声。
私は大きな観葉植物の陰に隠れた。体が本能的に動いていた。
彼らはほんの数メートル先に立っていた。
蓮は朱里の肩に手を置き、その表情は優しかった。
「いつなの、蓮さん?」
彼女は彼を見上げて、すすり泣いた。
「いつ、ちゃんとしてくれるの?いつ、私を黒崎組に迎え入れてくれるの?私たちの組は、やっと一つになれるのに」
私は息を殺した。心臓が胸の中で石になったようだった。
蓮の声は固く、奇妙な罪悪感と決意が入り混じっていた。
「白石絵玲奈は俺の妻だ。俺の組の連中の前では、それは変わらない。それが、俺が犯した過ちへの贖罪だ」
彼は一呼吸置き、親指で彼女の頬を撫でた。
「だが、お前と玲央のことは、俺が必ず面倒を見る。お前たちは、俺の血だ」
彼の血。
では、私は何?
贖罪。彼の罪滅ぼしのための道具。
彼らはエレベーターに向かって歩き始めた。
すれ違う時、朱里の目が蓮の肩越しに私を捉えた。
彼女の視線に驚きはなかった。
ただ、冷たく、勝ち誇った光だけがあった。
彼女は私がそこにいることを知っていた。
私に聞かせたかったのだ。
私たちの組同士の戦争で、彼女はすでに勝利していた。
痛みはあまりに鋭く、絶対的で、内臓が引き裂かれるようだった。
私は障害物でしかない。
歪んだ義務感から手放さない妻。
こんな男のために子供を産むつもりはない。
こんな欺瞞の網の中に、跡継ぎを産み落とすつもりはない。
私は受付に戻った。動きは硬く、ロボットのようだった。
そして、中絶の予約を入れた。
病院の駐車場で、私は弁護士に電話した。
「離婚を申請したいんです」
私の声には感情がなかった。
「私が受け取るべきものは、すべて。そのためなら、どんなことでもします」
若頭の権力に逆らってでも、私は自分の自由のために戦う。
もう一台の、蓮が知っている方のスマホが鳴った。
彼の名前が画面に光る。
ほとんど断ろうとしたが、ある種の病的な好奇心から、私は応答した。
「誕生日おめでとう、絵玲奈」
彼の声は温かかった。
覚えていたのか。それとも、彼の秘書が覚えていたのか。
「昨日はすまなかった。特別なことを計画したんだ。今夜、美術館の新しいウィングが落成する。君を称えて」
私が設計した美術館。
彼の「愛情深い夫」という壮大な演技のための、公の舞台。
冷たい予感が私を襲った。
彼は、これから訪れる嵐に全く気づいていない。
自分が亡霊と話していることに、全く気づいていない。
私は一言も言わずに電話を切った。