話 2
「樹生…中尾…」二つの名前が, 私の頭の中をぐるぐると回り続けた. そのあまりの衝撃に, 胃がひっくり返るような感覚に襲われた. 吐き気が込み上げてきたが, 何も吐き出すことができない. ただ, 乾いた嘔吐を繰り返すだけだった.
鏡に映る自分の顔を見た. 充血した両目. まるで悪夢から覚めたばかりのようだ. 耳鳴りがキンキンと響き, 何もかもが現実ではないように感じた. 中尾が帰宅したことにすら, 気づかなかった.
「優歌穂, どうしたんだ? 顔色が悪いぞ. 医者を呼ぼうか? 」彼の声が聞こえた瞬間, 再び胃の底から熱いものがこみ上げてきた. 私はその場で, 胃液を吐き出した.
中尾の眉間に深い皺が刻まれ, 彼の目に一瞬, 嫌悪の色が宿った. だが, その感情は一瞬で消え去り, 彼は冷静な表情を取り戻した.
彼は自分のジャケットを脱ぎ, 袖を捲り上げると, 私の背中をそっと撫でた.
「大丈夫か? 樹生を呼んでこようか? お前を看病してくれるだろう. 」
樹生の名を聞いた途端, 彼の表情は柔和になり, 瞳には期待の色が宿っていた. まるで, 私を看病する樹生の姿を想像しているかのように.
私は顔を洗い, 彼の提案を拒絶した. 「大丈夫, 一人で休ませて. 」
私の言葉に, 中尾の目に再び陰りが差したが, すぐに彼は口元を緩めた.
「そうか. お前がそうしたいなら, 構わない. 」彼は同意したが, その声にはどこか諦めきれない響きがあった.
「そういえば, 優歌穂にプレゼントがあるんだ. 」中尾は突然, 話題を変えた.
私は, 一瞬にして心を奪われた. 彼が先日, オークションで高価なネックレスを落札したことを知っていたからだ. 友人たちからも, 羨望のメッセージが届いていた. 「優歌穂, 本当に幸せな結婚生活ね! 」と.
しかし, 彼が私に差し出したのは, そのネックレスではなかった. 小さな, 地味なイヤリングだった.
中尾はいつものように, 私の耳元にイヤリングをつけてくれた.
「優歌穂に似合うと思ったんだ. どうだ? 」彼の声は優しかったが, その言葉は私には虚ろに響いた.
「優歌穂」と呼ばれたが, その響きは, まるで別の誰かに向けられているように感じた.
数時間後, 私は樹生がSNSに投稿した写真を見て, 息を呑んだ. 彼の首には, あのオークションで落札されたはずの, 高価なネックレスが輝いていた.
その瞬間, 全ての点が線で繋がった. 中尾が, あのイヤリングをくれた時の「優歌穂」という呼びかけは, 私ではなく, 樹生に向けられたものだったのだ. 彼はずっと, 私を通して樹生を見ていたのだ.
中尾は, 最初から最後まで, 樹生だけを愛していた. 私は, ただの代用品だったのだ. その事実に, 私の世界は完全に崩壊した.
話 3
私はベッドのヘッドボードに寄りかかり, 中尾と樹生の秘密が私の心の中で嵐のように渦巻いていた. その混乱の中で, 中尾が突然私の隣に座った.
彼は何食わぬ顔で, 樹生にビデオ通話を始めた. 私の心臓は凍りつき, 怒りが込み上げてきた.
画面の中の樹生は, ネックレスのことには全く触れず, ただ私の体調を気遣うように尋ねた.
「優歌穂姉さん, 大丈夫? 」
中尾は, 画面を私の方に向け, 私の肩をポンと軽く叩いた.
「ほら, 樹生が心配してるぞ. 」
私は心ここに在らずで, 何も答えることができなかった. 画面の中の樹生は, 優しい笑顔を浮かべていた. その笑顔が, 私にはどうしようもなく偽善的に見えた.
樹生は心配そうに, 「無理しないでね」と繰り返した. その言葉が, 私の胃をさらに重くさせた.
私は「疲れたから」とだけ言って, 無理に笑顔を作り, 電話を切った. 樹生の顔には, 落胆の色が浮かんでいた.
私は布団に潜り込みたかったが, 中尾は突然, 私を布団から引きずり出した.
「優歌穂! どうして樹生と話してやらないんだ! 樹生は優歌穂を心配してるのに, お前はなぜそんなに冷たいんだ! 」
普段は滅多に声を荒げない彼が, 激しく私を責め立てた.
「樹生が, お前と話したがっていたんだぞ! どこか具合が悪いのか? 病院に行くか? 優歌穂が病気になったら, 樹生が悲しむ! 」
彼の怒りの矛先は, 私ではなく, 樹生のことだった. 彼の怒りは, 私が樹生を悲しませることへの怒りだった. 私はその事実に打ちのめされた. 彼の怒りは, 私のためではなかった.
私は静かに目を伏せ, 感情を隠した.
「私が病気になったら, 中尾は悲しむの? 」
私の問いに, 中尾は激しく呼吸を乱した.
「優歌穂, 何を言ってるんだ? 」
彼は動揺を隠すように, そう言った.
私は「疲れたから」とだけ答え, 一人になりたいと告げた. 中尾は私の言葉を真に受けたのか, 少し声を和らげた.
「そうか, 無理するな. 俺は書斎で仕事をするよ. 」
中尾が部屋を出て行くと, 周囲の空気が一瞬にして軽くなったように感じた. 私は深く息を吸い込んだが, 全く眠気は来なかった. 喉が渇き, リビングに水を飲みに行こうとした.
書斎の前を通りかかった時, 聞き慣れた女の声が聞こえてきた. 電話を切ったばかりの樹生の声だった.
「誠也さん, 優歌穂を怒らせちゃダメだよ. 」樹生は中尾にそう言っていた.
「あのネックレスは, 優歌穂姉さんに渡したらどうかな? 」
中尾は, クスクスと笑う声が聞こえた.
「あれは樹生にこそ似合う. 優歌穂なんかに似合うわけがないだろう? 」
私はその言葉に, 全身の血が凍りついた. 彼の言葉は, 私への究極の裏切りであり, 屈辱だった.
私は足が鉛のように重くなり, その場に立ち尽くした. 樹生は, 中尾の特別な感情に全く気づいていないようだった.
ビデオ通話は, いつまでも終わらないかのように続いた. 私の足は痺れ, 全身が冷え切っていた. 中尾がこれほど忍耐強く誰かと話し続けているのを, 初めて見た. 私との電話はいつも短く, 用件だけだったのに. この通話は, 永遠に続くように感じられた.
樹生が「疲れた」と口にした時, ようやく中尾は名残惜しそうに電話を切った.