話 1
自ら命を絶った弟. その加害者は, 私の元恋人であり, 今の夫だった.
結婚7年目, 夫の書斎で偶然見つけた古い手帳が, 私の日常を地獄へと突き落とした. そこには, 夫が弟をいじめ, 死に追い詰めた冷酷な記録と, 歪んだ愛情の告白が記されていた. 「これで邪魔者はいなくなった. 優歌穂は俺だけのものだ. 」と.
だが, 本当の悪夢はそこから始まった. 夫は私を弟の「代用品」としか見ておらず, 弟の恋人・美咲と密会を重ねていたのだ. 彼は私を通して弟を愛し, 美咲の中に私の父の面影を求めていた.
夫の裏切り, 弟の恋人の無慈悲, そして弟自身の病的な依存. 私を責め立てる家族の中で, 私は孤立無援だった.
「優歌穂姉さんが大嫌いよ! 」弟にそう叫ばれ, 首を絞められた時, 私はすべてを理解した. この狂った家族の中で, まともな人間は私だけだった.
そして, 昏睡状態だった父が目を覚まし, 一族の最も醜悪な秘密が暴かれる. それは, 私の存在そのものを根底から覆す, おぞましい真実だった. 私はこの腐りきった関係すべてを断ち切り, 彼らを捨てることを決意した.
私の人生で最も大切だった弟が, 自ら命を絶った. その加害者の名前が, 私の元恋人, 中尾誠也だった. その事実を知った時, 私の世界は音を立てて崩れ去った.
第1章
中尾誠也が弟・樹生をいじめ, その死を隠蔽していたという秘密は, まるで深淵の淵から這い上がってきたかのように, 私の結婚生活を蝕んでいた.
私は彼の書斎で, 埃を被った古い手帳を見つけた. 好奇心が, 私を引き寄せた.
手帳には, 樹生に関する詳細な記述があった. 彼の毎日の行動, 交友関係, そして彼がいじめられていた時の私の知らない苦悩が, 冷酷なまでに詳細に記されていた. ページをめくるたびに, 私の心臓は鉛のように重くなった.
手記の最後のページに, 私は凍りつくような一行を発見した. 細く尖った筆跡で, こう書かれていた.
「これで邪魔者はいなくなった. 優歌穂は俺だけのものだ. 」
「邪魔者」とは, 樹生のことか. 私の弟のことだ.
あの冷酷な文字は, 中尾の精神の深淵を覗かせた. それは, 私に向けられた歪んだ愛情の裏返しであり, 樹生に向けられた嫉妬と憎悪の結晶だった.
中尾との七年間. 共に過ごした時間は, まるで幻だったかのように思えた. 彼の優しさ, 私への深い愛情. それらは全て, こんなにも恐ろしい真実を隠すための仮面だったのか. 私は何も知らなかった. 中尾の心に潜む暗闇に, 全く気づいていなかった.
手帳が, 私の手の中で突然, ずしりと重くなった. それは, 私の心を覆い尽くす絶望の重さだった. 私は呆然としながら, 手帳を元の場所に戻した. まるで, 何も見なかったかのように.
手帳の表面に積もった埃を, 震える指でそっと拭き取った. それは, この醜い秘密を隠蔽しようとする, 私の無意識の行動だったのかもしれない. だが, 手帳の下には, 他にも同じような手帳が何冊も隠されていた. 中尾がどれほどの計画性と執着をもって, 弟を追い詰めていたのか. その深さに, 私は吐き気がした.
もし, 偶然, 書斎を掃除していなければ, この秘密は永遠に闇の中に葬られていたのだろう. その事実に, 背筋が凍りついた.
私は無心で掃除を続けた. 膝をついて, 床を這うように. 心の奥底で嵐が吹き荒れているのに, 私の手は機械的に動き続けた.
部屋を出ようとドアノノブに手をかけたが, 指先に力が入らない. 視界がぼやけ, 両手が止まらないほど震えていた. 何度も試みたが, ドアは開かない. 苛立ちが爆発し, 私は声を上げて叫んだ.
「うわあああああああ! 」
声は, 喉の奥に吸い込まれるように消えていった. やがて, 私の手は静かに落ち着きを取り戻した.
ドアは, 重々しい音を立てて閉まった. まるで, 誰にも知られてはならない秘密を, 堅く閉じ込めるかのように.
話 2
「樹生…中尾…」二つの名前が, 私の頭の中をぐるぐると回り続けた. そのあまりの衝撃に, 胃がひっくり返るような感覚に襲われた. 吐き気が込み上げてきたが, 何も吐き出すことができない. ただ, 乾いた嘔吐を繰り返すだけだった.
鏡に映る自分の顔を見た. 充血した両目. まるで悪夢から覚めたばかりのようだ. 耳鳴りがキンキンと響き, 何もかもが現実ではないように感じた. 中尾が帰宅したことにすら, 気づかなかった.
「優歌穂, どうしたんだ? 顔色が悪いぞ. 医者を呼ぼうか? 」彼の声が聞こえた瞬間, 再び胃の底から熱いものがこみ上げてきた. 私はその場で, 胃液を吐き出した.
中尾の眉間に深い皺が刻まれ, 彼の目に一瞬, 嫌悪の色が宿った. だが, その感情は一瞬で消え去り, 彼は冷静な表情を取り戻した.
彼は自分のジャケットを脱ぎ, 袖を捲り上げると, 私の背中をそっと撫でた.
「大丈夫か? 樹生を呼んでこようか? お前を看病してくれるだろう. 」
樹生の名を聞いた途端, 彼の表情は柔和になり, 瞳には期待の色が宿っていた. まるで, 私を看病する樹生の姿を想像しているかのように.
私は顔を洗い, 彼の提案を拒絶した. 「大丈夫, 一人で休ませて. 」
私の言葉に, 中尾の目に再び陰りが差したが, すぐに彼は口元を緩めた.
「そうか. お前がそうしたいなら, 構わない. 」彼は同意したが, その声にはどこか諦めきれない響きがあった.
「そういえば, 優歌穂にプレゼントがあるんだ. 」中尾は突然, 話題を変えた.
私は, 一瞬にして心を奪われた. 彼が先日, オークションで高価なネックレスを落札したことを知っていたからだ. 友人たちからも, 羨望のメッセージが届いていた. 「優歌穂, 本当に幸せな結婚生活ね! 」と.
しかし, 彼が私に差し出したのは, そのネックレスではなかった. 小さな, 地味なイヤリングだった.
中尾はいつものように, 私の耳元にイヤリングをつけてくれた.
「優歌穂に似合うと思ったんだ. どうだ? 」彼の声は優しかったが, その言葉は私には虚ろに響いた.
「優歌穂」と呼ばれたが, その響きは, まるで別の誰かに向けられているように感じた.
数時間後, 私は樹生がSNSに投稿した写真を見て, 息を呑んだ. 彼の首には, あのオークションで落札されたはずの, 高価なネックレスが輝いていた.
その瞬間, 全ての点が線で繋がった. 中尾が, あのイヤリングをくれた時の「優歌穂」という呼びかけは, 私ではなく, 樹生に向けられたものだったのだ. 彼はずっと, 私を通して樹生を見ていたのだ.
中尾は, 最初から最後まで, 樹生だけを愛していた. 私は, ただの代用品だったのだ. その事実に, 私の世界は完全に崩壊した.
話 3
私はベッドのヘッドボードに寄りかかり, 中尾と樹生の秘密が私の心の中で嵐のように渦巻いていた. その混乱の中で, 中尾が突然私の隣に座った.
彼は何食わぬ顔で, 樹生にビデオ通話を始めた. 私の心臓は凍りつき, 怒りが込み上げてきた.
画面の中の樹生は, ネックレスのことには全く触れず, ただ私の体調を気遣うように尋ねた.
「優歌穂姉さん, 大丈夫? 」
中尾は, 画面を私の方に向け, 私の肩をポンと軽く叩いた.
「ほら, 樹生が心配してるぞ. 」
私は心ここに在らずで, 何も答えることができなかった. 画面の中の樹生は, 優しい笑顔を浮かべていた. その笑顔が, 私にはどうしようもなく偽善的に見えた.
樹生は心配そうに, 「無理しないでね」と繰り返した. その言葉が, 私の胃をさらに重くさせた.
私は「疲れたから」とだけ言って, 無理に笑顔を作り, 電話を切った. 樹生の顔には, 落胆の色が浮かんでいた.
私は布団に潜り込みたかったが, 中尾は突然, 私を布団から引きずり出した.
「優歌穂! どうして樹生と話してやらないんだ! 樹生は優歌穂を心配してるのに, お前はなぜそんなに冷たいんだ! 」
普段は滅多に声を荒げない彼が, 激しく私を責め立てた.
「樹生が, お前と話したがっていたんだぞ! どこか具合が悪いのか? 病院に行くか? 優歌穂が病気になったら, 樹生が悲しむ! 」
彼の怒りの矛先は, 私ではなく, 樹生のことだった. 彼の怒りは, 私が樹生を悲しませることへの怒りだった. 私はその事実に打ちのめされた. 彼の怒りは, 私のためではなかった.
私は静かに目を伏せ, 感情を隠した.
「私が病気になったら, 中尾は悲しむの? 」
私の問いに, 中尾は激しく呼吸を乱した.
「優歌穂, 何を言ってるんだ? 」
彼は動揺を隠すように, そう言った.
私は「疲れたから」とだけ答え, 一人になりたいと告げた. 中尾は私の言葉を真に受けたのか, 少し声を和らげた.
「そうか, 無理するな. 俺は書斎で仕事をするよ. 」
中尾が部屋を出て行くと, 周囲の空気が一瞬にして軽くなったように感じた. 私は深く息を吸い込んだが, 全く眠気は来なかった. 喉が渇き, リビングに水を飲みに行こうとした.
書斎の前を通りかかった時, 聞き慣れた女の声が聞こえてきた. 電話を切ったばかりの樹生の声だった.
「誠也さん, 優歌穂を怒らせちゃダメだよ. 」樹生は中尾にそう言っていた.
「あのネックレスは, 優歌穂姉さんに渡したらどうかな? 」
中尾は, クスクスと笑う声が聞こえた.
「あれは樹生にこそ似合う. 優歌穂なんかに似合うわけがないだろう? 」
私はその言葉に, 全身の血が凍りついた. 彼の言葉は, 私への究極の裏切りであり, 屈辱だった.
私は足が鉛のように重くなり, その場に立ち尽くした. 樹生は, 中尾の特別な感情に全く気づいていないようだった.
ビデオ通話は, いつまでも終わらないかのように続いた. 私の足は痺れ, 全身が冷え切っていた. 中尾がこれほど忍耐強く誰かと話し続けているのを, 初めて見た. 私との電話はいつも短く, 用件だけだったのに. この通話は, 永遠に続くように感じられた.
樹生が「疲れた」と口にした時, ようやく中尾は名残惜しそうに電話を切った.