話 2
佐藤瑞希 POV:
私の離婚の言葉に, 古川一は完全に凍りついた. 彼の顔は血の気が引き, その目は私を信じられないといった様子で見つめていた. 「瑞希, 何を言っているんだ? 冗談はやめろよ」彼の声には動揺が隠しきれなかった.
「冗談じゃない」私は冷たく言い放った. 「あなたとこの家で過ごす一秒一秒が, 私には耐えられない」
古川一は狼狽した様子で私に近づこうとしたが, 私は一歩後ずさった. 彼の体が近づくたびに, 私の心臓が嫌悪感で不快に脈打つ.
「瑞希, どうしてそんなことを言うんだ? 俺が何かしたっていうのか? 」彼は問い詰めるような口調だった.
「あなたが何をしたか. あなたには分からないでしょうね」私は皮肉を込めて言った. 私が前世で経験した地獄を, 彼は知る由もない. 知っていても, きっと「お前が勝手に妄想したことだ」と一蹴するだろう.
古川一は, まるで私が狂ったかのように私を見ていた. 「君は疲れているんだ. 少し休んだ方がいい. 俺は君を愛しているんだぞ? 」
「愛してる? 」私は鼻で笑った. 「その言葉, 他の女にも言っているんでしょう? 」
彼の顔色が一変した. 動揺が彼の顔にありありと浮かび上がった. 一は咄嗟に言い訳をしようとしたが, 言葉が出てこない.
「まさか, まさか君は... 」
「ええ, 知っているわ. 榊原千絵. そして, 彼女の娘の千景. それに, もうすぐ生まれてくるあなたの子供もね」
私の言葉が, 古川一の核心を突いた. 彼は完全に沈黙し, 青ざめた顔で私を見つめたまま動かなくなった. 彼の裏切りが, これほどまでに明白に暴かれるとは, 彼も思っていなかったのだろう.
「なぜ, なぜ君がそんなことを... 」彼の声は震えていた.
「どうでもいいわ. もう, あなたとは関わりたくない」私は淡々と言い放った. 「離婚届を用意して. 財産分与もきちんとしたい」
古川一は, その場に崩れ落ちそうになった. 「瑞希, 待ってくれ! 誤解だ! 俺は, 俺はただ... 」
「誤解じゃないわ. あなたの携帯を見た. 千絵とのメッセージも, 写真も, 全部見たわ」
彼の目は, 絶望に染まっていた. だが, その絶望は, 私が見捨てられた時に感じた絶望とは比べ物にならないほど, 浅いものだった.
「俺は, 君に恩を返したかったんだ. 千絵の父親に. だから, 千絵を, 千景を... 」
彼は, 前世と同じ言い訳を口にした. その言葉は, 私の心をさらに冷たくした. 私の命と引き換えに, 彼は別の家族を築こうとしていたのだ.
「あなたの恩返しに, 私の人生を捧げるつもりはない」私はきっぱりと言い放った. 「明日, 弁護士を立てるわ. きちんと手続きを進めましょう」
古川一は, 私を見上げる. その目には, 懇願と, そしてかすかな怒りが混じっていた. 「瑞希, そんなことをしたら, 君は何もかも失うことになるぞ? 俺は君を愛しているんだ! 」
「愛しているなら, 最初から裏切らないことね」
私はそう言い残し, 子供が寝ている隣の部屋へ向かった. 一は, その場から動けなかった.
翌朝, 私は弁護士に連絡を取り, 古川一との離婚手続きを進めることを伝えた. 弁護士は私の話を聞き, 状況の深刻さを理解した上で, 最善を尽くすと約束してくれた.
古川一は, 私が本気だと悟り, 離婚に応じる姿勢を見せた. だが, 財産分与については, かなりしぶっていた. 「瑞希, この家は俺の親から受け継いだものだ. 君に渡すわけにはいかない」
「夫婦共有財産でしょう? 」私は冷たく言い放った. 「それに, 私がどれだけあなたに尽くしてきたか, あなたは忘れたの? 松月堂での私の働きは, この家の維持にどれだけ貢献したと思っているの? 」
彼の顔は, 悔しそうに歪んだ. 私が松月堂でどれだけの時間を捧げて働いてきたか, 彼も知っているはずだ. 彼が社長の息子として遊び呆けている間, 私は昼夜を問わず働き, 会社の売上に貢献してきたのだから.
結局, 弁護士の介入もあり, 古川一は財産分与に応じた. 慰謝料も, 私が提示した金額で合意した. 彼は不満そうだったが, 千絵との不倫と妊娠の証拠を突きつけられれば, 否応なしに受け入れるしかなかったのだ.
離婚届にサインした日, 古川一はまるで重荷を下ろしたかのように, どこかほっとした顔をしていた. その顔を見た時, 私の心は完全に冷え切った. 彼にとって, 私はもう邪魔な存在でしかなかったのだ.
「これで, お互い自由だ」彼はそう言って, すぐに離婚届を持って役所へ急いだ. まるで, 一秒でも早く私との関係を終わらせたいかのように.
その日, 私は左手の薬指から結婚指輪を外した. かつては永遠の愛を誓った証だったが, 今となってはただの枷だった. 私はその指輪を, 宝石商に持ち込み, 売却した. そのお金で, 私は新しい生活を始めるための準備をする.
子供の部屋に入り, 荷物をまとめ始める. 子供はまだ幼いので, 何が起こっているのか理解できていない. ただ, 私の顔色が悪いことを心配そうに見上げてくる.
「ママ, どうしたの? 」
私は子供を抱きしめた. 「大丈夫よ. 新しい生活を始めるの. もっと, ママとあなたが幸せになれる場所へ」
子供は私の言葉に, 不安そうに首を傾げた. その時, 子供のスマートフォンに通知が届いた. 子供が愛してやまない, バレエの著名な先生からのメッセージだ.
「ママ! 先生からのメッセージ! 私, 頑張る! 」
子供は目を輝かせて, メッセージを開いた. だが, その顔から, みるみるうちに笑顔が消えていく.
「ママ... 私, バレエ, もう行けないの? 」
子供の瞳には, 絶望の色が滲んでいた. 何が起こったのか, すぐに理解できた. 千絵だ. あの女が, また何かしたのだ. 私の手にあるスマートフォンが震え, 私は怒りに震える.
話 3
佐藤瑞希 POV:
子供のバレエの先生からのメッセージには, 簡潔に「大変申し訳ございませんが, 今回の受講はキャンセルとなりました」と書かれていた. 子供の顔から, みるみるうちに笑顔が消え, ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちていく.
「ママ, 私, 頑張ったのに... 」
その言葉が, 私の胸を深くえぐった. このバレエ教室は, 子供が幼い頃から夢見ていた場所だった. 指導する先生は世界的にも有名な方で, その厳しさから生徒を簡単に受け入れることはない. 私は子供のために, 何ヶ月も前から先生に手紙を書き, デモンストレーションビデオを送り続け, やっとのことで受講の機会を勝ち取ったのだ.
前世では, このバレエの席を奪われたことで, 子供は深く傷つき, 数日間何も口にしないほど落ち込んだ. あの時, 私は離婚を渋っていた. 古川一が「千絵を傷つけたくない. 彼女は恩人の娘だから」と私に懇願したからだ. その結果, 私は子供の夢と心を犠牲にしたのだ. そして, それが子供と私の悲劇の序章だった.
「どうして, どうしてこんなことに... 」子供は泣きじゃくりながら, 私に抱きついてきた.
私の脳裏に, 前世の記憶が蘇る. あの時も, 古川一は千絵の肩を持った. 千絵は「千景もバレエを習いたがっていたから」と, 何の悪びれもなく言ったのだ. その言葉は, 私の心を深く切り裂いた.
今世の私は, すでに古川一と離婚することを決めている. なのに, なぜまた同じようなことが起こるのか. 私の心は重く, 絶望感が胸にのしかかった.
「大丈夫よ, ママがなんとかするから」私は子供を抱き締め, 震える声で言った. だが, その言葉は, 自分自身に言い聞かせているようだった.
私はすぐに古川一に電話をかけた. しかし, コール音は虚しく鳴り続けるだけで, 彼は電話に出ない. やはり, そうきたか. あの男は, 面倒なことからは常に逃げ出す.
仕方なく, 私は千絵のSNSアカウントを開いた. そこには, 私が予想した通りの投稿があった.
「千景, 念願のバレエ教室デビュー! 〇〇先生のレッスンに合格しました! これもパパ (一) のおかげね♡」
満面の笑みを浮かべた千絵と, 得意げにポーズを取る千景の写真がアップされていた. コメント欄には, 「おめでとう! 」「すごい才能! 」といった賛辞が並ぶ. その隣に, 私の子供の泣き顔がフラッシュバックする. この残酷なコントラストは, 私の怒りをさらに燃え上がらせた.
「許さない... 」私は震える声で呟いた.
私は子供の手を引いて, バレエ教室の先生の自宅へと向かった. 先生は自宅で個人レッスンを行っている. きっと今なら会えるはずだ.
先生の自宅の前に着くと, 見たことがある車が停まっていた. 古川一の車だ. 私は警戒しながら, 子供の手を握りしめた.
玄関のチャイムを押す前に, ドアが開いた. 中から出てきたのは, 古川一だった. 彼は私と子供を見ると, 顔をしかめた.
「瑞希, なぜここに? 何か揉め事を起こしに来たのか? 」
彼の声は, 私を非難する色を帯びていた. 私が何か不当なことをしているかのように.
「揉め事じゃないわ. 子供のバレエの件で, 先生にお話しに来たの」私の声は冷静だったが, 胸の内では怒りが渦巻いていた.
その時, 古川一の後ろから千景が顔を出した. 私の子供の顔を見て, 得意げに笑った. 「ねえ, あなたもバレエ習いたかったの? 私は先生に選ばれたのよ! 」
私の子供は, 千景の言葉に顔を真っ赤にした. 「それは私の席だったの! ママが頑張ってくれた席なの! 」
古川一は, 千景を庇うように前に出た. 「千景に何を言わせるんだ, 瑞希! 子供をけしかけるなんて, なんて母親なんだ! 」
「けしかけているのはあなたたちでしょう! 」私は声を荒げた. 子供の純粋な夢を踏みにじったのは, 彼らだ.
「そんなことはない! 千景は先生に気に入られたんだ. 実力で勝ち取ったんだよ! 」古川一は目を逸らしながら言った. その言葉には, 嘘が混じっていることが私には分かった.
子供は, 必死に古川一に訴えかけた. 「嘘つき! パパの知り合いが, 私の席を奪ったって言ってた! 私のママが, ずっと頑張ってくれたのに! 」
古川一の表情が, 一瞬固まった. だが, すぐに彼は怒鳴りつけた. 「何を言っているんだ! 君はそんな子じゃなかったはずだ! 嘘つきは誰だ! 」
彼の怒声に, 私の子供は怯えて縮こまった. その小さな体からは, 震えが伝わってくる.
「やめてください! 」私は古川一に言った. 「子供に八つ当たりしないで! 何が恩返しですか? あなたが千絵の父親に恩返ししたいなら, 私と子供の夢を踏みにじる必要があるの? ! 」
私は, 古川一の目を見据えた. 私の目には, 怒りと絶望が混じっていた.
「私はこれまで, あなたのために, この子のために, どれだけ尽くしてきたか... 」
私の声が, 少し震えた. 古川一は, 私の言葉に一瞬たじろいだ. 私は, これまでの人生で, 彼にこんな風に懇願したことはなかったからだ.
「お願いだから, この子の夢を奪わないで. このバレエの席は, この子にとって, 本当に大切なものなの」
私の言葉に, 古川一は少しだけ躊躇したように見えた. だが, 彼の後ろから, 千絵の小さな声が聞こえた. 「一さん, どうしたの? 何かあったの? 」
その声が聞こえた瞬間, 古川一の表情が再び冷酷なものに変わった. 彼は私に背を向け, 千絵の方を向いた.
「瑞希, もういい加減にしろ. お前はもう俺の妻じゃない. 勝手にしろ! 」
その言葉とともに, 古川一は私の腕を掴み, 無理やり車へと押し込んだ. 子供は泣きながら「ママ! ママ! 」と叫ぶ. 私は必死に抵抗したが, 彼の力には及ばなかった.
「離して! 一! 子供を一人にしないで! 」
古川一は, 私の叫びを無視した. 彼は私を車に乗せると, 運転席に乗り込んだ.
「俺は千絵と千景を守らなければならないんだ. お前はもう, 俺の家族じゃない」
冷たい言葉が, 私の心臓を凍らせた. 車が発進する. 私は, 窓の外で泣き叫ぶ子供の姿を見つめた. 千絵と千景が, 得意げに笑っているのが見えた.
私は, 全身の力が抜けていくのを感じた. 私の顔には, 絶望の涙が溢れていた. 古川一は, 私をバレエ教室の先生の家から遠く離れた場所で降ろし, そのまま去っていった. 私が先生の家に戻った時には, すでにレッスンは終わっていた. 先生も, 「残念ですが, もう決まってしまいました」と, 申し訳なさそうに言うだけだった.
私は, その場に崩れ落ちた. 私の子供は, 私を見上げて, 涙を流していた.
その時, 千絵と千景が私の目の前に現れた. 千絵は, 得意げな顔で私を見下ろした. 「あら, 瑞希さん, まだいたの? あなたの子には, 才能がないってことかしらね? 」
千景は, 私の子供に向かって舌を出した. 「バカ! 泣いてるの? 弱い子ね! 」
私の心の中で, 何かが音を立てて弾け飛んだ.