話 1
命を懸けて火事から救った夫, 古川一. しかし, 次に目覚めたとき, 私は魂だけの存在になっていた.
夫は私の弟, 瑞樹を見捨て, 愛人の榊原千絵とその娘と新しい家族のように暮らしていた. 治療が滞った瑞樹は「姉さん, 痛いよ」と苦しみながら息絶えた.
その絶望の瞬間, 私は炎の中で夫が囁いた「必ず助ける」という言葉を信じた自分を呪った. なぜ, 私はこの男を助けてしまったのか.
そして, 目が覚めた.
そこは火災が起きる三日前の, 見慣れた寝室だった.
第1章
佐藤瑞希 POV:
私の心臓は, まるで凍てついた湖の底深く沈んでいくかのように, 静かに, しかし確実に砕け散った. 目覚めた私は, 過去の残酷な記憶と, 夫である古川一の裏切りを, 痛みと共に抱きしめていた.
熱と煙が視界を覆い尽くす中, 私は古川一を助けた. 命がけで. あの炎の中で, 私たちは助け合ったはずだった. 意識が薄れる中, 一は私の手を握り, 「瑞希, 必ず助ける」と囁いた. その言葉を, 私は信じていた. それなのに, 次に意識が戻った時, 私は魂だけになっていた.
弟の瑞樹は, 病院のベッドで苦しんでいた. 私が見捨てられたせいで, 治療が滞っていたのだ. 「姉さん, 姉さん... 」瑞樹のか細い声が, 私の魂を深くえぐった. 私は彼に触れることさえできない. ただ, その苦しみを傍観することしかできなかった.
古川一は, 一度も病院に来なかった. 彼は恋人である榊原千絵と, その娘の千景と, まるで新しい家族のように寄り添っていた. 私が命をかけて救った男は, 私と弟を見捨てた. 彼らの楽しそうな声が, 瑞樹のうめき声と重なって, 私の耳に響く.
「瑞樹, 大丈夫だからね. 姉さんがいるよ」私はそう囁いたが, 声は届かない. 瑞樹の顔から, みるみるうちに血の気が引いていく. その小さな手が, 宙をかきむしる. 「姉, さん... 」
瑞樹の命の炎が消える瞬間, 私の魂は激しい怒りと後悔に焼かれた. なぜ, 私はあの時, この男を助けたのか. なぜ, 私は信じてしまったのか. 私の世界は, 音を立てて崩れ去った.
そして, 目が覚めた.
全身が鉛のように重い. 頭はがんがんと痛み, 喉は焼け付くように乾いていた. ゆっくりと目を開ける. 見慣れた天井. ここは, 私たちの家だ. 見慣れた寝室. 古川一と私が結婚してからずっと過ごしてきた場所.
「... 何, これ? 」
掠れた声が漏れる. 手のひらを広げ, じっと見つめる. 細い指, 薄い手のひら. 火傷の痕はない. 身体のどこにも, 前世で負ったはずの重い傷はない. 私はベッドから起き上がり, 鏡の前に立つ. そこに映っていたのは, 26歳になったばかりの, 健康な私だった.
カレンダーを睨む. 今日の日付は, 火災発生の三日前. 私は, 過去に戻ったのだ.
携帯電話を手に取る. 頭の中で, 前世の記憶が鮮明に蘇る. あの火災の三日後, 私は意識不明の重体となり, そのまま弟を失った. そして, 古川一の裏切り. 彼の携帯電話のロック画面に映っていたのは, 私ではない女性と子供の笑顔だった.
震える手で, 一のスマートフォンを手に取る. ロックを解除するパスワードは, 彼の誕生日. 一は, 私が彼の誕生日を忘れるわけがないと自信を持っていたから. 画面が開く. トークアプリの通知が山ほど来ている.
一番上には, 「千絵」という名前.
タップする. そこには, 大量のメッセージと写真があった. 一と千絵, そして千絵の娘である千景が, 腕を組んで笑っている写真. 千絵が膨らんだお腹を優しく撫でている写真. 「赤ちゃん, 順調だよ. パパに会えるのが楽しみだね, 一」そんなメッセージが並ぶ.
私の胃の底から, 冷たい塊がせり上がってくる. 吐きそうだ.
千絵は, 私と一が結婚していた間も, ずっと一の恋人だった. そして, 妊娠までしていた. あの火災の日, 一が私を見捨てて千絵と千景を優先したのは, 千絵が妊娠していたからだったのか. 私を救った恩人である千絵の父親への「恩返し」を口実に, 一は千絵とその娘を常に優先すると言っていた. その「恩返し」が, こんな形だったとは.
私の頭の中で, 古川一の声が響く. 前世で, 私が意識不明の重体で, 弟が死んでいくのを傍観している間に, 一は千絵とその娘に言ったはずだ. 「瑞希はもうすぐ死ぬ. お前たちを守るためだ」.
一は, まるで過去の私を嘲笑するかのように, 千絵のSNSアカウントもフォローしていた. 私はそのアカウントを開く. そこには, 幸せそうな千絵と千景, そして一の姿があった. 千絵は, 儚げで優しい女性を演じる人気インフルエンサー. だが, その裏では, 私から一を奪うためなら手段を選ばない狡猾な女だった.
「み, ずき... ! 」
私の意識は, 激しい頭痛と共に, 再び過去の記憶へと引き戻される. 弟の瑞樹が, 病院のベッドで苦しんでいた.
姉さん, 姉さん, 寒いよ, 痛いよ...
あの時, 私は瑞樹の隣にいられなかった. 一は私を見捨てて, 千絵と千景を選んだ. あの時の瑞樹の絶望が, 再び私の心を深くえぐる.
私の喉からは, 声にならない嗚咽が漏れた. 私はベッドに倒れ込み, シーツを握りしめる. 指の先が白くなるほど, 強く. この痛みは, 前世で瑞樹が感じた痛みだ. 私が, 助けられなかった痛み.
私の脳裏に, 千絵が送っていたメッセージがフラッシュバックする. 「瑞希さんは, もう目覚めない方が, みんなのためでしょうね」.
これは, 古川一と千絵が仕組んだことなのか?
私の頭の中に, 冷たい怒りが燃え上がる. 過去の私は, 一を信じていた. 彼の言葉を, 彼の愛情を, 信じていた. だが, それは全て幻想だった.
「ふざけないで... 」
私は震える声で呟いた. 古川一. 榊原千絵. そして, 榊原千景.
この憎悪は, 私を突き動かす力となる. もう, 誰も信じない. 私は, もう二度と, 彼らの思い通りにはならない.
夜遅く, 古川一が帰宅する音が聞こえた. 玄関のドアが開き, 彼の靴音が廊下に響く. 私はベッドから起き上がり, 寝室のドアを開けた. 私の顔は, きっと冷たい無表情だっただろう.
古川一は, 私を見ると少し驚いた顔をした. 「瑞希, どうしたんだ? まだ起きていたのか? 」
その声は, 前世での私を安心させた優しい声だった. だが, 今の私には, その声が吐き気を催すほどの偽りに聞こえた.
「一」
私の声は, 私自身でも驚くほど冷徹だった. 古川一は, 私のその声に, 眉をひそめた.
「どうしたんだ, 瑞希? 何かあったのか? 」
私は, 彼の目を見据えた. 彼の瞳の中に, ほんの少しの動揺が見えた. それは, 私が見てはいけないものを見たことを, 彼が察したからだろう.
「あなたと, 離婚したい」
私の言葉は, 静かだったが, 部屋の空気を一瞬で凍らせた. 古川一の顔から, 血の気が引いていく. その表情は, 私が見たことのない, 完全に混乱した顔だった.
話 2
佐藤瑞希 POV:
私の離婚の言葉に, 古川一は完全に凍りついた. 彼の顔は血の気が引き, その目は私を信じられないといった様子で見つめていた. 「瑞希, 何を言っているんだ? 冗談はやめろよ」彼の声には動揺が隠しきれなかった.
「冗談じゃない」私は冷たく言い放った. 「あなたとこの家で過ごす一秒一秒が, 私には耐えられない」
古川一は狼狽した様子で私に近づこうとしたが, 私は一歩後ずさった. 彼の体が近づくたびに, 私の心臓が嫌悪感で不快に脈打つ.
「瑞希, どうしてそんなことを言うんだ? 俺が何かしたっていうのか? 」彼は問い詰めるような口調だった.
「あなたが何をしたか. あなたには分からないでしょうね」私は皮肉を込めて言った. 私が前世で経験した地獄を, 彼は知る由もない. 知っていても, きっと「お前が勝手に妄想したことだ」と一蹴するだろう.
古川一は, まるで私が狂ったかのように私を見ていた. 「君は疲れているんだ. 少し休んだ方がいい. 俺は君を愛しているんだぞ? 」
「愛してる? 」私は鼻で笑った. 「その言葉, 他の女にも言っているんでしょう? 」
彼の顔色が一変した. 動揺が彼の顔にありありと浮かび上がった. 一は咄嗟に言い訳をしようとしたが, 言葉が出てこない.
「まさか, まさか君は... 」
「ええ, 知っているわ. 榊原千絵. そして, 彼女の娘の千景. それに, もうすぐ生まれてくるあなたの子供もね」
私の言葉が, 古川一の核心を突いた. 彼は完全に沈黙し, 青ざめた顔で私を見つめたまま動かなくなった. 彼の裏切りが, これほどまでに明白に暴かれるとは, 彼も思っていなかったのだろう.
「なぜ, なぜ君がそんなことを... 」彼の声は震えていた.
「どうでもいいわ. もう, あなたとは関わりたくない」私は淡々と言い放った. 「離婚届を用意して. 財産分与もきちんとしたい」
古川一は, その場に崩れ落ちそうになった. 「瑞希, 待ってくれ! 誤解だ! 俺は, 俺はただ... 」
「誤解じゃないわ. あなたの携帯を見た. 千絵とのメッセージも, 写真も, 全部見たわ」
彼の目は, 絶望に染まっていた. だが, その絶望は, 私が見捨てられた時に感じた絶望とは比べ物にならないほど, 浅いものだった.
「俺は, 君に恩を返したかったんだ. 千絵の父親に. だから, 千絵を, 千景を... 」
彼は, 前世と同じ言い訳を口にした. その言葉は, 私の心をさらに冷たくした. 私の命と引き換えに, 彼は別の家族を築こうとしていたのだ.
「あなたの恩返しに, 私の人生を捧げるつもりはない」私はきっぱりと言い放った. 「明日, 弁護士を立てるわ. きちんと手続きを進めましょう」
古川一は, 私を見上げる. その目には, 懇願と, そしてかすかな怒りが混じっていた. 「瑞希, そんなことをしたら, 君は何もかも失うことになるぞ? 俺は君を愛しているんだ! 」
「愛しているなら, 最初から裏切らないことね」
私はそう言い残し, 子供が寝ている隣の部屋へ向かった. 一は, その場から動けなかった.
翌朝, 私は弁護士に連絡を取り, 古川一との離婚手続きを進めることを伝えた. 弁護士は私の話を聞き, 状況の深刻さを理解した上で, 最善を尽くすと約束してくれた.
古川一は, 私が本気だと悟り, 離婚に応じる姿勢を見せた. だが, 財産分与については, かなりしぶっていた. 「瑞希, この家は俺の親から受け継いだものだ. 君に渡すわけにはいかない」
「夫婦共有財産でしょう? 」私は冷たく言い放った. 「それに, 私がどれだけあなたに尽くしてきたか, あなたは忘れたの? 松月堂での私の働きは, この家の維持にどれだけ貢献したと思っているの? 」
彼の顔は, 悔しそうに歪んだ. 私が松月堂でどれだけの時間を捧げて働いてきたか, 彼も知っているはずだ. 彼が社長の息子として遊び呆けている間, 私は昼夜を問わず働き, 会社の売上に貢献してきたのだから.
結局, 弁護士の介入もあり, 古川一は財産分与に応じた. 慰謝料も, 私が提示した金額で合意した. 彼は不満そうだったが, 千絵との不倫と妊娠の証拠を突きつけられれば, 否応なしに受け入れるしかなかったのだ.
離婚届にサインした日, 古川一はまるで重荷を下ろしたかのように, どこかほっとした顔をしていた. その顔を見た時, 私の心は完全に冷え切った. 彼にとって, 私はもう邪魔な存在でしかなかったのだ.
「これで, お互い自由だ」彼はそう言って, すぐに離婚届を持って役所へ急いだ. まるで, 一秒でも早く私との関係を終わらせたいかのように.
その日, 私は左手の薬指から結婚指輪を外した. かつては永遠の愛を誓った証だったが, 今となってはただの枷だった. 私はその指輪を, 宝石商に持ち込み, 売却した. そのお金で, 私は新しい生活を始めるための準備をする.
子供の部屋に入り, 荷物をまとめ始める. 子供はまだ幼いので, 何が起こっているのか理解できていない. ただ, 私の顔色が悪いことを心配そうに見上げてくる.
「ママ, どうしたの? 」
私は子供を抱きしめた. 「大丈夫よ. 新しい生活を始めるの. もっと, ママとあなたが幸せになれる場所へ」
子供は私の言葉に, 不安そうに首を傾げた. その時, 子供のスマートフォンに通知が届いた. 子供が愛してやまない, バレエの著名な先生からのメッセージだ.
「ママ! 先生からのメッセージ! 私, 頑張る! 」
子供は目を輝かせて, メッセージを開いた. だが, その顔から, みるみるうちに笑顔が消えていく.
「ママ... 私, バレエ, もう行けないの? 」
子供の瞳には, 絶望の色が滲んでいた. 何が起こったのか, すぐに理解できた. 千絵だ. あの女が, また何かしたのだ. 私の手にあるスマートフォンが震え, 私は怒りに震える.
話 3
佐藤瑞希 POV:
子供のバレエの先生からのメッセージには, 簡潔に「大変申し訳ございませんが, 今回の受講はキャンセルとなりました」と書かれていた. 子供の顔から, みるみるうちに笑顔が消え, ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちていく.
「ママ, 私, 頑張ったのに... 」
その言葉が, 私の胸を深くえぐった. このバレエ教室は, 子供が幼い頃から夢見ていた場所だった. 指導する先生は世界的にも有名な方で, その厳しさから生徒を簡単に受け入れることはない. 私は子供のために, 何ヶ月も前から先生に手紙を書き, デモンストレーションビデオを送り続け, やっとのことで受講の機会を勝ち取ったのだ.
前世では, このバレエの席を奪われたことで, 子供は深く傷つき, 数日間何も口にしないほど落ち込んだ. あの時, 私は離婚を渋っていた. 古川一が「千絵を傷つけたくない. 彼女は恩人の娘だから」と私に懇願したからだ. その結果, 私は子供の夢と心を犠牲にしたのだ. そして, それが子供と私の悲劇の序章だった.
「どうして, どうしてこんなことに... 」子供は泣きじゃくりながら, 私に抱きついてきた.
私の脳裏に, 前世の記憶が蘇る. あの時も, 古川一は千絵の肩を持った. 千絵は「千景もバレエを習いたがっていたから」と, 何の悪びれもなく言ったのだ. その言葉は, 私の心を深く切り裂いた.
今世の私は, すでに古川一と離婚することを決めている. なのに, なぜまた同じようなことが起こるのか. 私の心は重く, 絶望感が胸にのしかかった.
「大丈夫よ, ママがなんとかするから」私は子供を抱き締め, 震える声で言った. だが, その言葉は, 自分自身に言い聞かせているようだった.
私はすぐに古川一に電話をかけた. しかし, コール音は虚しく鳴り続けるだけで, 彼は電話に出ない. やはり, そうきたか. あの男は, 面倒なことからは常に逃げ出す.
仕方なく, 私は千絵のSNSアカウントを開いた. そこには, 私が予想した通りの投稿があった.
「千景, 念願のバレエ教室デビュー! 〇〇先生のレッスンに合格しました! これもパパ (一) のおかげね♡」
満面の笑みを浮かべた千絵と, 得意げにポーズを取る千景の写真がアップされていた. コメント欄には, 「おめでとう! 」「すごい才能! 」といった賛辞が並ぶ. その隣に, 私の子供の泣き顔がフラッシュバックする. この残酷なコントラストは, 私の怒りをさらに燃え上がらせた.
「許さない... 」私は震える声で呟いた.
私は子供の手を引いて, バレエ教室の先生の自宅へと向かった. 先生は自宅で個人レッスンを行っている. きっと今なら会えるはずだ.
先生の自宅の前に着くと, 見たことがある車が停まっていた. 古川一の車だ. 私は警戒しながら, 子供の手を握りしめた.
玄関のチャイムを押す前に, ドアが開いた. 中から出てきたのは, 古川一だった. 彼は私と子供を見ると, 顔をしかめた.
「瑞希, なぜここに? 何か揉め事を起こしに来たのか? 」
彼の声は, 私を非難する色を帯びていた. 私が何か不当なことをしているかのように.
「揉め事じゃないわ. 子供のバレエの件で, 先生にお話しに来たの」私の声は冷静だったが, 胸の内では怒りが渦巻いていた.
その時, 古川一の後ろから千景が顔を出した. 私の子供の顔を見て, 得意げに笑った. 「ねえ, あなたもバレエ習いたかったの? 私は先生に選ばれたのよ! 」
私の子供は, 千景の言葉に顔を真っ赤にした. 「それは私の席だったの! ママが頑張ってくれた席なの! 」
古川一は, 千景を庇うように前に出た. 「千景に何を言わせるんだ, 瑞希! 子供をけしかけるなんて, なんて母親なんだ! 」
「けしかけているのはあなたたちでしょう! 」私は声を荒げた. 子供の純粋な夢を踏みにじったのは, 彼らだ.
「そんなことはない! 千景は先生に気に入られたんだ. 実力で勝ち取ったんだよ! 」古川一は目を逸らしながら言った. その言葉には, 嘘が混じっていることが私には分かった.
子供は, 必死に古川一に訴えかけた. 「嘘つき! パパの知り合いが, 私の席を奪ったって言ってた! 私のママが, ずっと頑張ってくれたのに! 」
古川一の表情が, 一瞬固まった. だが, すぐに彼は怒鳴りつけた. 「何を言っているんだ! 君はそんな子じゃなかったはずだ! 嘘つきは誰だ! 」
彼の怒声に, 私の子供は怯えて縮こまった. その小さな体からは, 震えが伝わってくる.
「やめてください! 」私は古川一に言った. 「子供に八つ当たりしないで! 何が恩返しですか? あなたが千絵の父親に恩返ししたいなら, 私と子供の夢を踏みにじる必要があるの? ! 」
私は, 古川一の目を見据えた. 私の目には, 怒りと絶望が混じっていた.
「私はこれまで, あなたのために, この子のために, どれだけ尽くしてきたか... 」
私の声が, 少し震えた. 古川一は, 私の言葉に一瞬たじろいだ. 私は, これまでの人生で, 彼にこんな風に懇願したことはなかったからだ.
「お願いだから, この子の夢を奪わないで. このバレエの席は, この子にとって, 本当に大切なものなの」
私の言葉に, 古川一は少しだけ躊躇したように見えた. だが, 彼の後ろから, 千絵の小さな声が聞こえた. 「一さん, どうしたの? 何かあったの? 」
その声が聞こえた瞬間, 古川一の表情が再び冷酷なものに変わった. 彼は私に背を向け, 千絵の方を向いた.
「瑞希, もういい加減にしろ. お前はもう俺の妻じゃない. 勝手にしろ! 」
その言葉とともに, 古川一は私の腕を掴み, 無理やり車へと押し込んだ. 子供は泣きながら「ママ! ママ! 」と叫ぶ. 私は必死に抵抗したが, 彼の力には及ばなかった.
「離して! 一! 子供を一人にしないで! 」
古川一は, 私の叫びを無視した. 彼は私を車に乗せると, 運転席に乗り込んだ.
「俺は千絵と千景を守らなければならないんだ. お前はもう, 俺の家族じゃない」
冷たい言葉が, 私の心臓を凍らせた. 車が発進する. 私は, 窓の外で泣き叫ぶ子供の姿を見つめた. 千絵と千景が, 得意げに笑っているのが見えた.
私は, 全身の力が抜けていくのを感じた. 私の顔には, 絶望の涙が溢れていた. 古川一は, 私をバレエ教室の先生の家から遠く離れた場所で降ろし, そのまま去っていった. 私が先生の家に戻った時には, すでにレッスンは終わっていた. 先生も, 「残念ですが, もう決まってしまいました」と, 申し訳なさそうに言うだけだった.
私は, その場に崩れ落ちた. 私の子供は, 私を見上げて, 涙を流していた.
その時, 千絵と千景が私の目の前に現れた. 千絵は, 得意げな顔で私を見下ろした. 「あら, 瑞希さん, まだいたの? あなたの子には, 才能がないってことかしらね? 」
千景は, 私の子供に向かって舌を出した. 「バカ! 泣いてるの? 弱い子ね! 」
私の心の中で, 何かが音を立てて弾け飛んだ.