話 2
遠藤美咲の恩師は著名な薬学者であり、美咲はその一番弟子だった。
数ヶ月前、彼の研究開発チームが一つの新薬を開発した。
この薬は、特定の記憶によって鬱や耐え難い苦痛に苛まれる患者を救うためのものだ。
服用すれば、記憶は十日以内に少しずつ、そして完全に消え去る。
治験の希望者は多かったが、最終的に服用する勇気を持つ者はほとんどいなかった。
「大学院を卒業した時、私のチームに誘っただろう。それなのに君は、あの落ちこぼれのろくでなし、栗崎修一に惚れ込んで、彼について行ってしまった!」
恩師は美咲の魂が抜けたような姿を見て、腹立たしくもあり、不憫でもあった。
美咲は自嘲気味に笑った。「大丈夫ですよ。先生のところには、後悔を消す薬があるじゃないですか」
大学院時代、彼女は恩師の下で数多くの研究に携わったが、最終的には修一のために、約束されていたはずの輝かしい前途を諦めたのだ。
かつては、愛のために捨てたすべてに価値があると信じていた。
しかし今、もう一度機会が与えられるなら、彼女は間違いなく別の道を選ぶだろう。
美咲は薬を飲もうと俯いた。
携帯電話が、リマインダーを知らせる「ピピッ」という音を立てた。
美咲が顔を伏せると、メモには「栗崎修一とデート」と書かれていた。
それで美咲は思い出した。以前、修一がサプライズを贈ると言っていたことを。
そして明日が、まさにそのサプライズの日だった。
彼から送られてきたレストランの住所を見つめ、美咲は呆然としていた。
まだ飲んでいない薬が手のひらで寂しげに転がっており、まるで彼女の「土壇場での怖気づき」を嘲笑っているかのようだった。
翌日、美咲は何かに導かれるようにそのレストランへ足を運んだ。
「いらっしゃいませ、遠藤美咲様でいらっしゃいますか」
「栗崎様が半月前にレストランを貸し切りにされまして、あなたに最高の思い出をプレゼントしたい、と」
美咲は個室へと案内された。
ドアがゆっくりと開かれた瞬間、彼女は息を呑んだ。
目に飛び込んできたのは、炎のように燃え盛る、一面の薔薇だった。
天井にはピンク色の風船がいくつも浮かび、一つ一つの風船の下には小さなメッセージカードが結び付けられている。
続いて、レストランの支配人が大きなケーキを運んできた。ケーキの傍らには、精巧な作りのジュエリーボックスが置かれていた。
「美咲様、栗崎様がサプライズをご用意されていたのですが、本日はご連絡がつかず……。先にお越しいただけてよかったです。お二人の末永いお幸せを願っております」
美咲はトレーの上のジュエリーボックスを手に取り、ゆっくりと開けた。
きらりと輝くダイヤモンドの指輪が目に飛び込んできた。
美咲は、今日が二人の交際二周年の記念日だったことを、ふと思い出した。
修一が数日間、何やら忙しそうにしていたことも思い出す。何か隠している秘密でもあるのかと笑って尋ねると、
彼は楽しそうに彼女の頭にすり寄ってきた。
「サプライズだよ」
「その時が来ればわかるさ」
このサプライズが、こんな形で自分の目の前に現れるとは、美咲は思いもしなかった。
彼が心を込めて準備した、プロポーズの舞台だった。
美咲は魂が抜けたように、しばらくしてようやく立ち上がった。
その時、外から聞き覚えのある、騒がしい声が聞こえてきた。
「おいおい大丈夫かよ、修一の兄貴はまだ退院してねえのに」
「それがどうした、前祝いだ」
「そうそう、健康と記憶、それから独身に戻ったことを祝ってな!」
美咲の姿を認めた途端、陽気な笑い声がぴたりと止んだ。
栗崎修一が車椅子に座り、佐々木詩織に押されていた。
美咲の指が微かに震えた。
彼女はゆっくりと前に進み出ると、その精巧なギフトボックスを修一の手に押し付けた。
「あなたが来たのなら、これは持ち主に返すべきね」
修一は頷いた。その眼差しは、まるで見知らぬ他人を見るかのように冷たかった。
「わかった」
「そうだ、遠藤美咲」彼は静かに言った。「埋め合わせはするから、忘れてくれ」
美咲はその場に凍りついた。
「家に置いてある君の物は、家政婦に整理させて君の元へ――」
「いいえ、結構よ。自分で片付けられるから」
美咲は彼の言葉を遮った。
「今後、もし会うことがあっても――知らない人ってことにして」
言い終えると、彼女は俯いて彼のそばを通り過ぎた。
レストランを出ると、彼女はバッグから例の薬を取り出し、一気に飲み下した。
話 3
背後から聞こえてきたのは、佐々木詩織の声だった。
「修一、私がいない間にこの女といちゃいちゃしてたんでしょう。許さないから、埋め合わせをしてもらうわ」
「言ってごらん、どんな埋め合わせが欲しい?」
栗崎修一は尋ねた。
「ふん、一生、あなたの心には私だけがいてほしい」
「いいとも」
「それから、私へのプロポーズは、これよりもっと盛大にしてくれなきゃ嫌だから!」
「わかった」
詩織は嬉しそうに笑い、修一もまたこの上なく優しかった。
それから彼は、すぐにレストランの支配人を呼びつけた。
「この花や風船を、今すぐ全部片付けてくれ」
遠藤美咲の目頭が、不意に熱くなった。
栗崎家の別荘に戻ると、美咲はまず玄関に置かれたスーツケースに目を留めた。
詩織が来たのだ。
この別荘は、かつて修一が美咲に贈った『贈り物』だった。
購入から内装に至るまで、修一はすべて美咲の好みに合わせてくれたのである。
そして今、この別荘の女主人は、別の人に代わろうとしていた。
美咲はうつむき、唇の端に自嘲の笑みを浮かべた。
自分が自分を過大評価していただけではないか。
美咲が別荘に残していたものは多くない。
彼女は身の回りの必要なものや衣類をいくつかまとめると、ウォークインクローゼットへと向かった。
中には、大小さまざまな高級ブランドのバッグや腕時計が並んでいる。
あの頃の修一は、美咲に対して本当に気前が良かった。
彼女が少しでも気に入ったそぶりを見せれば、たとえショーウィンドウをちらりと見ただけでも、修一はそれを買ってきて美咲に贈った。
スーツケースの底には、修一が彼女に贈ったマフラーがあった。
そのマフラーは他の贈り物とは違っていた。それは修一が手編みしたもので、美咲が何よりも大切にしている宝物だった。
引き出しの中には、彼が書き留めた何枚かのカードがあった。
そのカードは、すべて彼女に関するものだった。
【美咲が今好きなケーキは苺味だ】
【彼女が気に入っている指輪はカルティエのデザインだ】
美咲はふと、昼間のレストランで支配人が運んできた大きな苺のケーキと、箱の中のカルティエのダイヤモンドリングを思い出した。
心臓がこなごなに砕け散ったかのように、ずきずきと痛んだ。
彼女はそれらのカードを一枚ずつ元に戻した。
どうせ忘れるのだから、これらの思い出は、やはり持って行かない方がいいだろう。
美咲が部屋の荷物をまとめ、重くはないスーツケースを引いて出てきたとき、ちょうど家に入ってきたばかりの詩織と顔を合わせた。
「遠藤美咲、ちょっと待ちなさい」
詩織は靴を履き替えると、美咲が壁にかけていたクレヨンしんちゃんのキーホルダーを、無造作にゴミ箱へ捨てた。
そして、素早く階段を上ってきた。
「スーツケースに何を入れたのか、見させてもらうわ。そうしないと、あなたに相応しくないものを持ち出したかどうかわからないでしょう」
美咲はスーツケースの取っ手を握りしめ、眉をひそめた。
「どういう意味?」
「どういう意味かって?」
詩織は彼女の前に立ちはだかった。「あなたの正体なんて誰もが知っているわ。 品性下劣で、私が捨てた男まで拾うなんて。結局、彼のお金とこの別荘が目当てだったんでしょう? 手癖の悪い泥棒猫!」
美咲は拳を固く握りしめた。
「佐々木詩織」
「身は引く。でも、私を侮辱することは許さない。さもないと、容赦しないから」
ドアの外で鍵が回る音がした。
美咲が後ずさったが、詩織は一歩も引かず、彼女のスーツケースを掴んで放さない。
二人がもみ合っていると、突然、詩織が大きくのけぞり、そのまま階段を転げ落ちていった。
家に入ってきた修一は、ちょうどその場面を目撃した。彼は必死の形相で車椅子から転げ落ちると、よろめきながら駆け寄り、様子を見ようと階段を降りかけた美咲を、力任せに突き飛ばした。
修一の力はあまりに強く、美咲は壁に叩きつけられ、しばらく息もできなかった。
「埋め合わせはすると言っただろう。なぜ、それでも詩織をいじめるんだ!」
彼は詩織を腕に抱き、美咲と視線が合ったとき、その瞳には殺気さえも宿っていた。
「遠藤美咲、お前がこれほどまで悪辣な女だったとは思わなかった!」