話 2
「ファンレター?」
如月さんは少し眉を顰ひそめて聞いた。
「はい、あぁ…。」
僕は赤子にでも退化したかのように口をもごもご動かして声を発した。
「何、それで動揺??
とりあえず中身読んでいいの?」
如月さんは、事の事態を掴むことができずに僕の方に顔を寄せて言った。
顔が近づいた時に、ふと滑らかで白い女性の頬を思い出して…僕はビビッと震え身体を背もたれの方へできる限り引いた。
「何だよ、それ。
ヒキガエルかよ(笑)。跳ねのけちゃって。」
空気を呼んだウェイトレスが物音立てずにそっと運んでおいてくれたお冷を如月さんは口にした。そしてグラスをテーブルに置き直すと、メニューを広げてランチを選び始めた。
「仕事にだって拘こだわりがあって高くつく僕なのにさ、
君は、意味も分からない呼び出しをするんだね。
一生笑いのネタになりそうだよ。(笑)」
そう言って彼は、カフェの定番のパスタを上から下まで眺めて吟味し、
そしてこちらも人気なカレーの種類を確認しているようだった。
「カレーは仕事人のサラリーマンの心を生け捕るよね。
がっつり食わいついた瞬間に、午前も頑張ったって思える。
ハハ。フリーランスの僕はそんなに肉体的にも消耗しないけどね。
僕はさ、淑女みたいな気分でさ、
パスタなんてフォークとスプーンで上品に絡めたいと思うんだよね。
独身貴族、生涯、女なんていらないかな。(笑)」
如月さんはさも可笑しそうにこちらを一瞥した。だけど目には鋭利な光が宿ってた。僕は、座席から動けずにただ、彼の声を、姿を、見入っていた。
「ったく。ちっとは笑えよ。」
そう言って呼び出しベルを押した。
僕はやっとその場の雰囲気を立て直そうと心を奮い立たせ、身体を持ち上げてメニューを手早く確認した。
ウェイトレスはすぐに来て注文を伺った。
「海老とアボカドのサンドイッチとミックスサラダサンド。
後、アイスティ。食事と一緒に持ってきてね。」
如月さんが注文し終わると僕も注文した。
「BLTサンドとハムとたまごとチーズのホットサンド
あと、アイスコーヒーを一つ。こちらも一緒にお願いします。」
ウェイトレスは注文を手早く確認して去って行った。
「ハハッ。ただ事ならぬ成田さんの話をじっくり聞こうと思って
手軽なサンドイッチにしたよ。麺と絡み合ってる時間なんてないね。(笑)」
「ありがとうございます。本当にすみません。」
「こちらも時間が限られているとはいえ悪いとは思わないけどさ、
でも、普通込み入った話、悩み事なんかはさ、友達にするものなんじゃないの?」
如月さんは鷹のような冷静で、真面目な顔で、すっと僕を見つめた。
そして僕が謝る前に言った。
「読ませてもらうよ、その要因らしい、ファンレターとやらを。」
如月さんのたくましい指はファンレターの封をか弱い小動物を愛でるようにやさしく開けた。
手紙は何枚も重ねられてしまわれていた。
僕が何度も読み返したせいで便せんに皺が少しよっていたが、その以前に書き手―ファンレターの主も何度も読み返したんだろう、最初から人の温もりが直に残っていた。
とは言っても、黒のボールペンの一発書き。消した後もない。きちんと別の紙か何かで下書きをしてこの便せんに清書したと思われる。
―――—以下ファンレターの内容―――
拝啓
今年もまた果てしなく青空が広がり、生い茂った木の葉に金色の光の粒が輝く季節になりました。蒸した重みのある夏の薫りに、初めて、成田 湊さんの本を手に取った時の、新鮮な感覚とその日の本屋のにぎやかさを思い起こします。
尊敬する成田 湊かなで様、突然のお手紙失礼致します。
僕は成田さんのファンです。
一昨年、一躍有名になった小説『神は僕と彼女の琴線に触れる』で成田さんを知りました。
前世に自殺という罪を犯してしまい大人になれない妖精として生きる彼女とごく普通の人生を送ってきた少年との出会いにより、少年は生きることについて、そして前世から人とうまく付き合えうことができない社会的弱者であった彼女という一人の存在の個性についてを考え、少年は彼女を受け入れていくというストーリ―感動しました。そして二人の姿を美しい情景表現と共に描かれていて、ストーリーのテーマは自殺と個性という暗いものですが、小説全体にどこか幻想的な美を感じ心に染み入りました。
また、そうして大人になれず人間でもない彼女に対する思いが同情から愛情へかわり愛し方を模索していくという部分も感慨深いものがありました。
それから、昨年の作品、『生きるという本能と幻相』もまた感動しました。
心臓病で既に亡くなってしまった映画監督兼脚本家の元同級生から最後の映画の試写会の案内を受け取った女性が、亡くなってしまった元同級生の作品に触れ、死を目前にしていた彼が伝えたかった事、彼が生涯悩んできた一人の人としてのアイデンティティとは何かを模索するというストーリー、息を飲んで一気に読みました。
物語の中で映画として描かれた、第二テーマとも言える第二次世界大戦で戦争被害を受けた中国人と日本人の話もまた、僕にも色々と考えさせられるがありました。
と、ここまで書くと普通のファンレターなのですが、
実はファンレターの領域を超えてしまうのではないかと申し訳なく思うのですが、僕にはある悩み、があります。
それをどうしても聴いて欲しくて手紙をしたためた次第です。
もちろん、成田さんの作品をとても称賛してます。
ただ、成田さんの小説を読むと僕は、ある、女の子のことを思い出すのです。
僕は田舎に生まれました。山に囲まれ自動車がなければ移動に不便な場所ですが、電車が通っていて、都会との行き来がしやすくなっているので人口は比較的多い町です。中学の時にはクラスは8クラスもあり300人もの同級生がひしめき合っていました。
僕は地味な性格なので、クラスで目立つ存在ではなかったですが、勉強だけはできましたね。でも、目立つのも、嫉妬という濡れ衣をかけられるのも、嫌なので要領よくクラスの隅の方で可でもなく不可でもなく存在してました。だから、僕は順調な方だったと思います。
高校も町一番の進学校へ入学でき、大学も国公立大学を卒業しました。
僕が大学を卒業した時は少々就職難でそれなりに苦労はしましたけど、希望の職種につけ、かれこれもう10年働いていますね。そんな順風満帆な人生を送っているような僕ですが、心の奥に誰とも共有しきれない痛みがあります。
春、桜が舞う頃、夏の日差しに目が眩む頃も、
秋に葉が色づいて風に遊ばれる頃も、暗い影を落とす寒い冬の日も…
ある、女の子の姿が僕の心の中でちらつきます。
どんな子だったかって聞かれただけで涙が滲んできます。自分から持ち出した話なのに。
彼女は暗い子ではありませんでした。純粋に人に好かれたくて笑顔を振りまく子で、僕みたいに人は時に嫉妬するものであることを知りそしてそれを回避するという計算などを考えられない子でした。そして周りの子たちの感情に鈍く、更に彼女は不器用で時々周りのお荷物になる子でした。
周りからはずれて自分だけ勉強とかお裁縫とか上手にできないと静々と泣き始めてしまう素直な子で、それは周りに迷惑でもありました。
だから、彼女には友達は少なく、周りのみんなの後についていくのが大変で遅れてついていく子でした。
だけど、真面目で決められたことは、ずるせずきちんとしなければならないというこだわりもあり、そうした性格が功を奏したのか中学ではテストの順位が300人中一桁と(おそらく3番)と成績がぐっと上がったことがありました。
僕はこうして傍はたから見ているようですが、真実はもっと親密な関係でした。家が近所だったのです。
幼稚園も同じ所に通い、幼稚園の頃はよく一緒に遊びました。
本当、その頃から不器用で人の話もきちんと聞けてなくって、でも、笑うと本当に可愛かった。
小学校に上がる頃は一緒に習い事教室に通いました。ピアノや英会話、そろばん…。
どれも僕の方が上手で彼女は才能はなかったけど、
僕より簡単な譜面を弾く彼女のピアノの音はどこかピュアで、そして一生懸命取り組んでいる姿に嘘はありませんでした。
そして、自分はできない奴だと自覚しているらしい彼女は、僕に何度も
「ピアノを弾いて。」
とねだったのでした。
中学に入った後、僕たちは同じクラスになることはありませんでした。部活に勉強と本格的に忙しくなり、そして二つの小学校の生徒が入学してくる中学校は人数は小学校の二倍で、人、人、の中で僕たちは離れていきました。
不器用な彼女は運動部に入部しました。
彼女が“へたくそで困っている。迷惑している。”そういう噂が立ちました。仲間外れにされているとか退部するしないとかそういう話を聞きました。
でもついに退部せずに部活を最後まで続けたらしいです。
人間関係はもう悪くて、周りも彼女に気を遣ってはいるのですが距離ができるのは当然のことでしょう。そのことが肉体的な疲労と合わさり彼女も疲弊し弱っていきました。そして、ついに彼女は学校に来なくなりました。
中体連を終えた秋のことでした。
彼女が学校に来なくなって、控えめにすることで彼女を一応気遣っていた皆は、突然悪口を言い出しました。そう、自分たちのせいで学校こなくなったんじゃないかと思うのが心痛かったに違いないです。
皆、進学し、高校、大学と進んで彼女と疎遠になるに連れて彼女の風評はますます悪くなりました。高校をサボって遊んでいるだとか、彼女は私たちのことを恨んでいるとか、学校行けないのを私たちのせいにしたとか…色々言われてましたね。
そして、家に通ると親との喧嘩の声が聞こえることもあって、性格悪い奴だと皆は口々に言いました。
あまり知られていないのですが、彼女の両親は離婚し、婿だったらしい父親は家から去っているらしいです。家庭環境の微妙なコンディションの崩れも彼女を落ち込ませたのでしょうね。
僕に言わせたら不器用だけどいい子だったと思います。
不器用でも不器用なりに学校生活を送れたと思います。顔が可愛い子だったからそれで得してますし。(嫉妬もされるでしょうが。)
疲れてしまったのでしょうね、運動音痴なのに合わない運動部に入って、うまくいかなくて人間関係もめて辞めるに辞められなくて、勉強もついていくのが大変で。
でも、それで人生棒に振って、今は一体何をしているのか、僕にはわからないほど彼女とは距離ができてしまいました。
彼女に会えなくても近所だから僕の母が彼女のお母さんに会うこともあったのですが、彼女のお母さんは
「彼女はぼちぼちやっているよ。」
というくらいで何してるかは話したがりませんでした。
僕も彼女が心配で彼女と色々と話がしたかったのですが、学生時代は学生時代で忙しくて、仕事をするようになったら年月経ち過ぎで交わす言葉も会う動機さえ見つけられなくなりました。
長々となってすみません。
成田さんの小説を読んでいるとそんな彼女のことを思い出して、今まで泣くに泣ききれなかったのに涙が思いっきり溢れました。
僕は成田さんの、『神は僕と彼女の琴線に触れる』を読んで、その主人公になった気持ちで彼女を救えるような気持を何度も味わいました。
そして『生きるという本能と幻相』では、自分や彼女のアイデンティティや社会の歯車として生きることについても再度考えさせられました。
彼女は単純に自分が不器用で運動音痴だったから、自分がダメな人間だったからと思って劣等感に苛さいまれて心まで荒すさんでいるのではないかと僕は憂慮してます。もし、彼女が成田さんの小説作品に触れたら、その一つの劣等感に凝り固まった考えも思い直して前向きなってくれないかと思うんです。
でも実際彼女に会ってないのでこんな悩みは僕の杞憂で彼女はもう乗り越えて本当は元気なのかもしれないです。
だけど、きっと成田さんの小説を読んだら、彼女も、彼女の“心の琴線”にも触れるのではないかと思います。
だから、ぜひ、成田さんにはもっと幅広い世代に有名になってもらいたい。
彼女の手元に届くように…。
僕は彼女の為とかなんとか言って、なんでこんなにくよくよしているのでしょうか。
彼女に声をかけることができないまま年を重ねて、取り返しがつきそうもないことを悔やんでるんでしょうか。
まだ悩みやもやを消化しきれない、こんな僕を救ってくれる新しい作品を僕は楽しみにしています。
敬具
田河 実
追伸 僕は成田さんへこの手紙を書くことで彼女への思いを消化しようと思います。
心の奥底の渦が少し和らいだ気がします。ありがとうございます。
彼女とは別々の人生をこれからも歩んでいくと思いますが、
僕も彼女も幸せに生きていけることを切に願うばかりです。
そして、成田さんのご健康と益々の御活躍をお祈り申し上げます。
駄文、申し訳ありませんでした。
心から尊敬いたしております。
―――――――――――――――――――――――――
如月さんは、早いスピードで手紙を読みほした。
そして最後の便せんには写真が一つ挟まれていた。
それは子供の写真で女の子と男の子が肩を寄せ合って並んで微笑み合っていた。写真の裏には、“僕と彼女の名前はなずな”と書かれていた。
「ハハハ」
読んで写真を眺めて、如月さんはとにかく笑っていた。
「大衆に人気が出るとこんなこともあるんだね。(笑)
だけど、それで、成田さんそんなに震えてたの?」
僕はさっきまで如月さんが広げていた写真にくぎ付けになっていた。
「へ?」
如月さんは、心ここにあらずのような僕の間の抜けた返事に、また眉を顰ひそめた。
「成田さん、一体どうしたんですか。」
如月さんは理由を言わなければ絶対に引き下がらないという顔でじっと僕を睨むように見た。
「ただの、ファンレターですよ。ファンレターに身の上話はよくあるものですよ。
一体、どうしたんですか?」
僕は深く息を吸い込んで、(言おう、否、言い逃れようか、いやだめだ、言おう…。)と頭の中でどうしようもできないねとねととした感情が渦巻いた。
そしてまたもう一息吸い込むと一気に言った。
「僕、その、なずなっていう女性を知っているんです。」
その瞬間、如月さんの目は点になった。
見開いた目、開ききった口からは予想外に如月さんの言葉は漏れず、
ただ、どう反応していいか分からない不思議な空気が辺り一面を支配した。
話 3
「『知っている』って?知り合いなの?」
如月さんはやっと事を飲み込めたかのように聞いてきた。
「…はい。と、いっても、
なずなさんは僕のことを覚えているかどうかわかりません。」
僕の回答に、如月さんはまた目を見開いた。
「は?さっきから何言っているのか…どうも状況がわかんないんだけど…。」
「すみません…。」
僕は軽く頭を下げて謝った。
「いや、悪いとは言ってないけど、
つまり、、込み入った話なんだね。」
如月さんは声音を低くしていった。真剣になった表情は、なんとも言えない甲斐甲斐しさを感じた。
なずなさん、彼女との出会いはネットだった。
20年近く前、当時はパソコンとネットが普及し始めた時代だった。
まだ10年余りしか生きてなかった僕は、親からパソコンを買い与えられた。親は共働きで仕事人間でいつも仕事に忙しくしていて家に居なかった。
夜ごはんは、準備してあるか、食材宅配サービスを取っていて自分で簡単に作るか…もしくはスーパーの総菜を食べるかしていた。
そんな僕に少し申し訳なさを感じていたのだろう、留守番の時に楽しめるように、もしくは、学習に使えるようにとパソコンを買ってくれた。
それから僕はインターネットに見事にはまった。時事ネタ、芸能ネタを検索したり、占いやゲームに没頭した。その当時も掲示板は流行っていた、色んな意見が飛び交い尚且つネット独特の言葉遣いが面白かった。そしてチャットというものが流行っていた。
僕は小学校に通っていたが学校生活は好きではなかった。
僕の顔は、細く吊り上がった目にこけた頬、ガリガリで角ばった肩から奇妙に長い手足が伸びていた。つまり、顔も良いわけではないし、人と話す時、視線に怯え、声がくぐもった。返事一つ上手にできない僕に、周りは、もういいよと去って行った。
だから僕はいつも教室の自分の席で細々と休み時間を過ごしていた。
毎日、学校が嫌で登校中のランドセルはひどく重く感じた。
現実に満たされない僕は、容姿を隠して使えるネットの世界にのめりこんでいった。
その年の文化祭、クラスでお化け屋敷をすることになった。
教室を真っ暗にする為に日光を遮断するための段ボールやお化けの衣装など、クラスで買い出しにいくことになった。全員では多いのでじゃんけんで決めようということになり、勝った人先着10名で買い出しをすることに決まった。
いつもじゃんけんはまぁまぁな僕だが、その時は勝ち進んでしまい、10名に入ってしまった。そうしたら、勝った人のメンバーの一人が言ったのだ。
「え、成田も行くのかよ。やだよ。」
僕はビクリとした。
そして他の子も言った。
「成田は全然しゃべんないし、みんなの輪がくずれるんだよね。」
さらにまた別の子が続けて言った。
「しかも押し黙った顔がいつもムッとしているようで、
遠くから見るとバケモンみたい。一人トレードしようよ。
成田、委員長と替われよ。」
あまりにも露骨に中傷された。
委員長やクラスの何名かは少し同情的な眼差しを僕に向けたが、場を収めるように
「ごめんね、成田君。僕が代わりにいくから。」
と、委員長は彼らに同意した。
どうしようもない虚無感と自己嫌悪に苛(さいな)まれた。
まだ10年余りしか生きてない僕は、引っ込み思案という性格に加え生まれながらに不器量な顔という自分ではコントロールできない不幸に絶望した。
帰宅した僕は、ご飯も食べずに真っ先にパソコンと向き合った。
検索エンジンを開いた。
そして、“学校 行きたくない”、とタイプした。
涙が一筋目尻から零れ落ち、Enterキーを押す手は震えていた。
何かパソコンが答えてはくれないか、そう心に念じた。
そう、僕のたったひとつの友達…パソコン…。
検索エンジンは僕の文字を拾い、検索にヒットしたワードを並べた。
僕は無心にスクロールしていった。
すると僕の指が止まった。
“不登校 チャットルーム”
誰か、居やしないか、こんな僕の心を拾ってはくれないか、
そんな思いが過よぎり、首を振って制し、呼吸を深く吸ってそっとクリックした。
開かれたのは、綺麗なアニメ絵が描かれたホームページ。
耳の尖った妖精のような男の子が楽し気に動物に囲まれ笛を吹いている。
そんなファンタジーな絵、そして“ようこそ”と書かれていた。
“学校が行けない人のための心の拠り所”と説明書きがあり、チャットルームの案内があった。
僕は迷わずチャットルームを開いた。
すると、そこには一人、チャットルームに言葉を並べてる人がいた。
HNは“このみ”。女の子のようだ。
詩のような言葉を呟いていて、読んでいくとどこか聞いたことがある言葉だ。
(あ!)
流行りの女性歌手が歌う歌の歌詞だった。
こんなチャットルームで一人何をしているんだろうと僕は不思議に思った。
すると、別の人が一人、チャットルームに入室してきた。
“サイ”というHNの人で、このみに
「こんにちは」
と挨拶した。
このみも
「こんにちは、元気?( ゚∀゚)ノ」
と明るい感じで返してきた。
「今日も暇で、待ってたよ。」
と、このみ
「まだ夕方だよ。夜にはみんな来ると思うよ。」
と、サイは言った。
二人が挨拶を交わしているとまた一人入ってきた。
「はじめまして!」
とこのみはすぐに挨拶した。新参者だったらしい。
「15歳、女です。よろしくね!(*^_^*)」
このみは慣れたているように自己紹介をした。
「13歳、哲弥よろしくお願いします。」
と新参者も挨拶した。
その後、今はまっているゲームの話やテレビ、アイドルの話題から今日の夕飯の話まで延々と会話していた。
顔が見えない世界で文字だけが飛び交っている。
リアルタイムで会話が成立していて、偏見を持たれずに親交が深められる感じがした。僕は相変わらず、ROM(read only member)していたが、チャットの会話に釘付けになっていた。
何日も僕はそのサイトに来てはチャットをROMしていた。入室する勇気はまだなかった。大体このチャットにくる常連メンバーの名前と雰囲気(文字だけであるが…)を覚え、時々、管理人も登場した。
ある日、いつもの日常の会話の後で、突然みんなで創作話を作ろうなんて言い始めていた。みんな詩や物語を作るのに興味があるらしく、チャットとは別に併設されていた掲示板には自己紹介の他に、思い思いに色んな人が詩や物語を投稿していた。その話題になり、そこからチャットで順番に物語を作って繋げてみようということになった。ファーストバッターは、このみ。
「テストに見事に惨敗した日の夜明け。
窓から暁の光がほのかに覗き私は窓を開けた。
その赤い光に心がとらわれ、導かれるように部屋を飛び出した。
玄関出て歩道に立つと、突然下へと落っこちた。
歩道のマンホールの蓋が開いてるのに気づかなかったのだ。」
と、早打ちでチャットルームにこのみの文字が上がった。
「何、最初っからここまで設定が決まってるの?(・∀・)」
と、常連のじゅーじが言った。
「えーだめなの?(笑)(;^_^)誰か続きちょうだいよ!」
なずなは、話を変える気もなく催促した。
僕はチャットに踊る物語にドキドキとした。僕は、こうみえて物語の創作が好きだった。この話の続きを打ってみたくなった。
気が付くと入室ボタンを押し終わっていた。
HNは翌檜あすなろ、さっさと挨拶と自己紹介もしてしまった。そして話の続きを書くのを僕も参加すると言った。
このみは嬉しそうに
「ありがとう。(≧∀≦)」
と返事をした。僕は話の続きを書き、そしてその続きを別の人が順々に打っていった。人の数だけみんな感性が違い、物語は想像とは違う世界へ導かれ、みんな、面白おかしく楽しんでいた。
その日から時々僕もチャットに参加した。たいていはROMであったが。
チャットに来るみんなは、不登校や学校を休みがちだったり中卒で進学してなかったりしていた。学校の話題もすることも多く、進路や将来についても語り合っていた。
チャットに僕となずなとあともう一人しかいない少人数だったその日も、将来についての悩みや思いを話していた。
そんな話をしている時、このみは、突然
「翌檜(あすなろ)って植物の名前なんだね。
『明日はあすなろより品位の高い檜(ひのき)になろう』
っていう意味なんだね。調べたよ!いいね☆(≧▽≦)」
と僕の名前を褒めちぎった。それからその時に、教えてくれた。
「わたしの本名も植物の名前なんだよ!“なずな”っていうの!(/∀\*))」
―――—――――—
「えっ?」
僕の長い話の腰を折って如月さんが感嘆した。
「その子がなずなって名前だったってだけなの?
それじゃあ同じ子かわからないじゃん。
同じ名前の子は他にもいると思うけど。」
僕はすかさず言った。
「その後、住んでる場所も教えてくれたんだ。
ちょうどその田河実さんと同じ県で同じ町だった。
年齢も同じだし、それに…。」
「それに?」
如月さんはテーブルに腕をついて近づいて先を急かした。
「写真だって見たんだよ。」
如月さんは夢か幻のような得体の知れないものを見るような目で僕を見つめた。
「同じ顔だった。まったく。」
如月さんは、アイスティーを一口飲んだ。
テーブルにグラスを戻した時、カランと涼し気に氷は鳴った。
「話は大体推察できたよ。今もその…なずなさんとは連絡とってるの?」
僕は心の奥でチクリとした。
「いいえ。」
僕はアイスコーヒーを口に押し込んだ。グラス表明に浮く水汗は僕の手にまとわりついた。
「あれから、チャットは荒らしにあったんだ。
掲示板では、不登校児に対する罵詈雑言(ばりぞうごん)で埋め尽くされ、
チャットも占拠された。
聞いた話によると、荒らしは、なずなさんのネットの知り合いだったらしい。
なずなさんは『やめて、やめて。』と抗議してたけど…相手は荒らし続けた。
荒らしはチャットにこのみの「顔を曝せ」と脅迫してきて、
このみはチャットに自分の写真をアップした。
その時に、僕らは彼女の顔を知ったんだ。
騒動は、一週間くらいで鎮静化したけど、
なずなさんはそれ以来帰ってこなかった。
皆もこのサイトへ足を運ばなくなった。
そしてそのサイトは閑散し、今はもうない。」
如月さんは、話に聞き入っていて手を付けてなかったサンドイッチを食べ始めた。海老とアボカドのサンドイッチで頬が膨らみ、もぐもぐと食べた。
僕は、昔話から日常に呼び戻されたような感覚になり、お腹を触ると少し空いているのを感じた。
ホットサンドに手を触れるともう表面が少し冷めていた。そしてボリュームがあって慎重に掴まないと中身がこぼれそうだった。
ハムとたまごとチーズのホットサンドを食べようか食べまいか少し躊躇していた時、如月さんは苦笑して言った。
「ハハハ。偶然の話なんでしょ。要するに。
昔ネットで交流があった人の関係者からファンレターをもらったという。
知名度そこそこ上がればあり得る話だよ。
そんなことで動揺しなくていいでしょ。」
指摘された通り僕は変だ。
だけど確かな理由がある。
「僕は…僕の頭は…
あれからずっと彼女のことから離れられないんだ。」
「へ?」
「僕は彼女―なずなさんに恋をしているんです。」
不登校の交流サイトを利用していたあの頃、
ホームページの掲示板に、なずなやみんなは思い思いに議題や文章を載せたり、パソコンで描いた絵をアップロードしたりしていた。
なずなの絵は、いわゆる夢見る少女の絵、で、両手を組んで祈る少女の姿絵がロマンティックで可愛らしかった。そして自作のホームページも流行っていてなずなも作成を始めた。
初めて、なずなのホームページにアクセスした日、
画面いっぱいに青い背景が広がっていた。
中央には緑色の葉の生い茂った樹と樹が隣り合って両枝をアーチの様に組んでいて、その下に木造の橋が架かった写真が飾られていた。
なずなが眺めているのどかで…安らぐ自然の風景だった。
そして写真の下には、
「君と君の目と手が織りなして輪になり、
道なき道に橋がかかる。
越えていこう、あなたがいる限り・・・。」
と、ポエムが添えられていた。
まるで、なずなのプライベートの自室に入り込んだような感覚になり、
なずなの描くホームページの世界に僕は浸った。
投稿された詩を読み、絵を鑑賞し、
なずなによってデザインされ更新されていくホームページを心行くまで楽しんだ。
僕らは、社会から少し外れていたけど、ネットの中で自由だった。
しがらみに囚われず、とにかく自由で…お互いの趣味や日常を交わし合った。
僕は、あの日々を忘れることができなかった。