話 2
その姿勢は今も変わらず、莉奈の手は彼の腰に固く回されている。
自嘲めいた笑みが、裕美の唇に浮かぶ。
一瞬でも、彼が自分を助けに戻ってきてくれたのだと、愚かにも期待してしまった。
「おい道具係! これはどういうことだ! 人が死ぬところだったんだぞ!」
監督が烈火のごとく怒鳴り、スタッフたちが責任のなすりつけ合いを始める。
騒然とする中で、健吾がようやく裕美に視線を向けた。 眉間に深く皺を刻み、その冷え冷えとした双眸は、血の滲む彼女の左足に突き刺さっている。 距離が遠く、表情の機微までは読み取れない。
健吾の腕の中でうずくまっていた莉奈が、不意に裕美を指差し、甲高い声を上げた。 「裕美ちゃん、あなた……私を殺すつもりだったの?」
その叫び声が、講堂の喧騒を切り裂いた。
健吾の顔から、すっと血の気が引いた。氷のように冷たい、無機質な表情になる。
「一体どういうことだ?」
莉奈の瞳から、大粒の涙がはらはらとこぼれ落ちる。
「裕美ちゃんが配線をいじっているのを、見てしまったんです。 でも、まさかそんな……舞台に上がる前、彼女と喧嘩になって……私が劇団の推薦枠を争う資格なんてないって……でも、私、ずっと頑張ってきたから、挑戦したくて……」
彼女は涙に濡れた瞳で健吾を見上げた。 「私はただ、夢を追いかけたかっただけなのに……まさか裕美ちゃんが、こんな……」
『悲蝶変』は演劇部の人気作で、ダブルヒロイン制を取る。 そして、県立劇団へ部員を推薦するための、年に一度の登竜門でもあった。
だが、推薦枠は一つ。 誰もが、実力で勝る裕美か莉奈のどちらかが選ばれると目していた。
ダンサーの輪の中から、囁き声が上がる。
「もし舞台が崩れなかったら、あのシャンデリア、立ち位置的に宮崎さんの真上だったよな」
「うわ、踊ってる最中に直撃したら即死じゃん。 推薦枠一つのために、そこまでする?」
「枠だけじゃないらしいよ。 天野社長が宮崎さんを気に入ってるから、婚約者の新井さんが嫉妬して虐めてたって噂。 枠がなくても殺すつもりだったんじゃないの」
莉奈の瞳の奥に、一瞬だけ満足げな色がよぎったが、すぐに涙の膜に隠された。
彼女はか弱く健吾の袖を引いた。
「健吾さん、助けてくれてありがとう。 でも、この件は……もういいんです」
その健気で寛大な態度が、周囲の憶測に火を注ぐ。 中には、警察を呼んで殺人犯を厳罰に処すべきだと息巻く者まで現れた。
裕美は血の気の失せた顔を上げ、固く握りしめた拳を震わせながら、毅然と言い放った。
「警察を呼んでください。 やっていないことは、絶対に認めません!」
話 3
「ふざけるな!」天野健吾の声が、怒りで張り詰めていた。 「まだ恥をさらし足りないのか?」
その一言が、断頭台の刃のように、すべてを断ち切った。
新井裕美は、心臓を鷲掴みにされ、無慈悲に引き裂かれるような衝撃に呼吸を忘れた。
助けてはくれない。 信じてもくれない。
自分が情熱のすべてを懸けて愛した男は、その価値観の根底から歪んでいたのだと、裕美は今、初めて悟ったのだ。
「私は、やってない!」
唇を血が滲むほど噛みしめ、彼女は絞り出すように訴えた。
だが、健吾はそんな抵抗を意にも介さず、氷のように冷たい視線を監督へと向ける。
「この話は、これで終わりです」
そう言い放つと、 彼は傍らの宮崎莉奈に視線を落とした。 「手首、 まだ痛むか? 病院へ送るよ」
莉奈は恥じらうように頬を染め、健吾に腕を引かれるまま、衆人環視の中を颯爽と去っていく。その場に立ち尽くす新井裕美は、もはや自分の身体を支えることさえ億劫だった。
骨の髄まで凍てつかせるような寒気が、足元から這い上がって彼女を飲み込んでいく。
まただ。 幼い頃から共に育ってきた天野健吾は、いつもこうして何の躊躇もなく、彼女を嵐の渦中へと突き落としてきた。 ただ一人、置き去りにして。
周囲の視線が、刃のように突き刺さる。 誰もが、唾を吐きかけんばかりの憎悪を裕美に向けていた。
監督は即座に彼女の校内劇団からの除名を言い渡し、それすら天野健吾が事を荒立てなかったことへの温情なのだと付け加えた。
劇団の期待の星は、一瞬にして嘲笑の的である道化へと成り下がった。
ついさっきまでの喧騒が嘘のように、大講堂から人の気配が消え失せていた。 がらんどうの空間に、裕美はただ一人取り残される。
鉛を詰め込まれたかのように重い足を、一歩、また一歩と引きずり、彼女は出口へと向かった。
脚の傷口では血が乾き、食い込んだ木屑が動くたびに神経を焼くような痛みを走らせた。
講堂の外の暗い石段に立った瞬間、闇を切り裂くように車のヘッドライトが点灯し、世界が白昼のように照らし出された。
後部座席のドアが静かに開き、逆光に縁取られた、すらりとした男の影が姿を現す。 光と影の向こうから、彫りの深い冷徹な顔立ちが、ゆっくりと輪郭を明らかにした。
新井裕美は、その場に凍りついた。
「お……叔父さん?」
正確には、天野健吾の叔父、天野龍之介。
ただ、両家には幼い頃からの許嫁の約束があり、物心ついた時から、裕美は天野家の人間を健吾に倣って呼んできた。
「ああ」
男の低く響く声は、チェロの弦を滑る音色のように心地よく、それでいて官能的だ。 墨を流したような瞳が、彼女の脚の傷口に静かに留まる。
「抱えて乗せようか」
わずかに語尾を上げた、淡々とした問いかけだった。
だが、新井裕美の耳には、その響きにどこか肌を粟立たせるような色合いが混じっているように聞こえた。
彼女はかっと顔を赤らめ、慌てて両手を振った。
「い、いえ、結構です!」
目上とはいえ、 天野龍之介は裕美より十歳年上なだけだ。 その上、
非の打ち所がないほどに手入れが行き届き、 体格も顔立ちも、 甥の健吾をはるかに凌駕していた。
彼こそが首都圏を裏で動かす真の大物だと、世間では噂されている。
人を寄せ付けぬ威厳と冷たさを纏い、この世の何ものも彼の眼鏡にはかなわないかのようだ。