話 2
清和は足を止め、目を細めて近づいてくる女の顔を確かめた。
「酒井神子?」清和の異母妹であり、名実ともにぶりっ子であった。
神子は紅い唇の端を吊り上げ、彼女の前に立つ。「お姉ちゃん、引っ越すの?」
清和は白目を剥き、作り笑いを浮かべた。「酒井神子、しばらく見ないうちに、相変わらず分かりきったことを聞くのが好きみたいね」
神子の顔がさっと青ざめ、瞳に怒りの炎が燃え上がった。 だが、すぐに怒りを抑え込み、再びあの弱々しく愛らしい表情を浮かべた。
「お姉ちゃん、心配してるだけなのに。どうしてそんな風に思うの」
心配?
心配など口実で、笑いものにしに来たのが本音だろう。
風見が無表情に二歩進み出て忠告した「若奥様、そろそろお引き取りを。川崎社長がお戻りになる時間です」
清和は口元を引きつらせ、神子を指差して啓介に言った。「行きたくないわけじゃない。あの“通り魔”にでもやられたら、こっちが被害者なのに、こっちが謝る羽目になるんだから、こっちの身にもなってよ」
啓介は「……」
神子はたちまち目を赤くし、涙を浮かべて不憫そうに言った。「お姉ちゃん、今日、義兄さんが離婚するって聞いて、辛いんじゃないかと思って仕事も放り出して見に来たのよ。 なのに……どうしてそんな酷いことを言うの。あなたの妹なのに」
「やめて。犬と姉妹になった覚えはないわ」 清和はすぐさま関係を否定し、啓介に視線を向けた。「風見さん、ほら、どうしろと?」
啓介のこめかみがぴくりと引きつり、氷のような顔が一瞬崩れかけた。仕方なく神子に向かって言う。「酒井さん、道をあけていただけますか」
神子は下唇を噛み、瞳に宿った怒りを垂らした髪で隠した。
清和はからかうような口調で、ぼそりと言った。「風見さん、犬に人間の言葉なんて通じないって」
その言葉を聞いた途端、神子は拳を固く握りしめ、清和を睨みつけた。
清和は首を傾げ、必死に怒りをこらえる彼女の様子を見て、不敵に口角を吊り上げた。
その奔放で傲慢な笑みを見て、神子の胸が詰まる。
(どういうこと? 小林清和はいつも気が弱くて、一番御しやすい駒だったはず。それに、私に感謝し、言うことなら何でも聞いていたのに、今日に限ってどうしてこんなに口が達者になったの?態度も百八十度違うじゃない!)
「酒井さん」 啓介が再び冷たく注意を促す。その声には、わずかな苛立ちが滲んでいた。
神子は唇をきつく結び、胸中の疑問を押し殺して、か弱い声で言った。「風見さん、私がお姉さんを行かせないわけじゃないんです。これは……川崎社長のご意思なんです」
啓介と清和は、同時に息を呑んだ。
「社長は私がここに来ることをご存知で、お姉ちゃんの荷造りを見届けるよう、特におっしゃいました。『離婚協議書には、一切の財産権を放棄すると明記されている。ならば、川崎家のものは一つたりとも持ち出すことは許されない』と」 神子は清和の傍らにあるスーツケースに視線を落とし、続けた。
「ですから、お姉ちゃん、中を調べさせていただくためにスーツケースを開けてください」
清和は眉をひそめた。「中には服が数枚入っているだけ。川崎家のものは何も持っていかないわ!」
神子は二歩前に出てスーツケースを奪い取った。「お姉ちゃん、持っていったかどうかは、あなたが決めることじゃないわ。 本当に何も持っていかないのなら、調べられるのを怖がる必要はないでしょう?」
言うが早いか、神子はスーツケースを倒して開けた。
中には数枚の服が無造作に詰め込まれているだけで、見たところ本当に何もないようだった。
神子は歯噛みした。まさか清和が本当に服数枚しか持って行かないとは。 彼女は諦めきれず、清和が川崎家の財産を盗み出した証拠を見つけ出そうと、その数枚の服を執拗にひっくり返し続けた。
たった数枚の服を、神子は十分以上もいじくり回していた。
「満足した?」清和は神子を見下ろしながら言った。
「お姉ちゃん、これも川崎社長の命令だから。念入りに調べた方がいいでしょう」と神子は甘えた声で言った。
「じゃあ、探し続ければいいわ。その服はもういらない」 清和は唇を尖らせた。まだ全身の痛みが引いておらず、神子とこれ以上関わる気にはなれなかった。誠司が戻ってきて首を絞められるのだけはごめんだった。
そう言うと、彼女は神子を回り込んでエレベーターホールへと向かう。啓介がすぐ後ろに続いた。
不意に、チーンという音が響いた。
エレベーターが三階に到着し、ドアがゆっくりと左右に開く。清和が乗り込もうと足を踏み出した瞬間、鋭い寒気が彼女を貫いた。周囲の空気が一瞬で氷りつき、思わず全身に震えが走り、足が止まった。
最初に目に入ったのは、ぴかぴかに磨かれた一足の革靴だった。視線を上げていくと、誠司の冷たい顔が、目前に立ちはだかるようにして迫ってきた。
「川崎社長」 最初に反応したのは啓介だった。頭を下げ、恭しく呼びかける。
誠司の黒い瞳が危険な光と冷酷さを放ち、怒りに満ちた声が唇から絞り出された。「小林清和、今朝俺が言ったことを忘れたな!」
清和は彼の顔を見ただけで、今朝、首を絞められ息の根を止められたあの瞬間がよみがえり、心臓が一瞬で凍りついた。無意識の恐怖が全身を走る。
彼女は首をすくめ、答えた。「覚えているわ」
「覚えているだと? なら、なぜまだここにいるのか説明してもらおうか!」 誠司は長い足で彼女に詰め寄り、厳しく問い詰めた。
清和は一歩、また一歩と後ずさり、背中が壁にぶつかって、もう逃げ場はなくなった。 彼女は目を閉じ、意を決して彼の視線と向き合うしかなかった。
「それは酒井神子に聞くべきよ。 私は出ようしたのに、彼女が突然現れて引き止めたから、それで――」
清和が顎を引き締め、説明の途中で、神子が突然前に出てきて、目に涙を溜めて彼女の言葉を遮った。
「お姉ちゃん、どうして嘘をつくの!」
「ついてない!」清和は反射的に言い返し、心底で吐き捨てた。 (あのぶりっ子の神子さえいなければ、とっくにここを出ていたはずだ。わざわざ戻ってきた川崎誠司に鉢合わせることもなかったのに。
クソ。)
神子は泣き出しそうな顔で言った。「義兄さん、私は本当に、わざとお姉ちゃんを引き止めたわけじゃないんです。 ただ、あなたの言いつけ通り、お姉さんの荷物を調べて、義兄さんのものを持ち出さないようにと……。 お姉ちゃん……普段から嘘をつくのはまだしも、こんな時になってまで、まだ嘘をつこうとするなんて思ってもみませんでした」
神子の言葉を聞き、これまでの清和の過去の行いを思い起こし、誠司の顔は、ますます険しくなった。「小林清和、俺がお前を殺せないとでも思っているのか?」
突然、誠司の大きな手が彼女の首を掴み、清和の後頭部は壁に激しく打ち付けられた。 清和は反応する間もなく、本能的に彼の手を振り払おうとするが、後頭部の痛みで目眩がした。
「かわさき――誠司」 清和は苦しげに彼の名前を呼んだ。
誠司の声には、不気味な冷気が込められていた。「小林清和、誰が俺の堪忍の限界を試すことを許した!」
息が苦しい。清和はどうしても誠司の手をこじ開けることができなかった。
その様子を見た啓介は、まずいと心の中で叫び、急いで前に出て片膝をついた。「川崎社長、もし若奥様に何かあれば、取締役会の連中が必ずやこの機に乗じて騒ぎ立てるでしょう。そうなれば、社長が計画されている株式の集中は、間違いなく妨害されます」
「どけ!!」誠司が低く吼える。清和の首を締め上げるその長い指の関節は、力を入れすぎて白くなっていた。
話 3
啓介は地にひざまずき、押し黙ったまま、それ以上何も言えなかった。
(死にたくない)
清和の脳裏にその思いがよぎる。最後の力を振り絞って彼の手を引くと、少しだけ呼吸が楽になった気がした。 血走った目で、清和は誠司を睨みつけた。
「か、川崎誠司……わ、私が……し、死んだら、それは……川崎家の若奥様として死ぬことになる。い、いずれあなたが死んだら、私はあなたの墓の隣に葬られ、あ、あなたの……輪廻の道を汚してやる」
声を絞り出すのもやっとで、顔は赤く染まり、彼の手を引く力は次第に弱くなっていく。空気が薄れ、意識が少しずつ遠のいていくのを感じた。
「小林清和、身の程を忘れるな!お前は川崎家の墓に並ぶ資格があるのか?!」 誠司の声は氷のように冷たい。「お前が死んだら、その死体は燃やし、骨はゴミ捨て場にでも捨てさせてやる。 お前のような女は、ゴミと一緒がお似合いだ!」
清和は、ふっと笑った。
誠司は険しい目つきで、彼女の笑みを見つめる。冷たく重い声で問い詰めた。「何を笑っている!」
「か、川崎誠司……私の骨をゴミ捨て場に捨てたって、戸籍に……あなたが正式に娶った妻だという事実は消せない!私のことが、そんなに嫌いなの? 残念だったわね。私が死んでも、私は……あなたを……縛り続ける!」
誠司の目にに冷たい殺意が浮かび、指がさらに深く食い込んだ。清和は「うっ」と苦しげな声を漏らし、目尻から一筋の涙がこぼれ落ちた。
幻覚が走り、前世のあのクソな男女の顔がちらついたその時、誠司は突然手を離し、彼女を地面に荒々しく投げ捨てた。
激しく叩きつけられた清和は、全身の骨が砕けたかのような痛みに襲われ、少しでも動こうものなら冷や汗が噴き出した。
「ゴホッ、ゴホッ……」彼女は薄い唇を開け、必死に酸素を求めて喘いだ。
啓介は冷淡な視線をちらりと清和に向け、すぐに頭を垂れた。「川崎社長、若奥様を立ち退かせることができず、申し訳ありません。罰は謹んでお受けいたします」
神子は、先ほどの誠司の殺気立つような様に顔を青ざめさせ、片膝をついて怯えた声で言った。「義……兄さん……わ、私がもっと早く確認していれば、お姉ちゃんが嘘をついて時間を稼ぐ隙を与えずに済んだのに……」
清和は胸の鈍い痛みを感じ、また数回激しく咳き込んだ。
「わ、私はあなたのものなんて何も取ってない。ゴホッ――ゴホゴホッ!」彼女はかすれた声で、弱々しく言った。
誠司は携帯していたウェットティッシュを取り出し、清和の首を絞めた手を拭いた。その端正な顔には、嫌悪と嫌がりがありありと表れていて、全く隠そうとしなかった。
「取ってない? お前が着ているその服も、すべて俺の金で買ったものだ。小林清和、どの口がそんなことを言う!」
清和は薄い唇を一直線に結び、反論の言葉もなかった。 彼女自身の服は、誠司と結婚したその日に、神子が「その服はダサいから、誠司兄さんは嫌がるわ」という理由で、すべて燃やしてしまっていた。
「そいつの服を剝ぎ取って、叩き出せ!」誠司は冷たく言い放ち、啓介を連れて未練なく立ち去った。
二人の姿が視界から消えるまで待って、神子は立ち上がった。か弱さを装っていた仮面を脱ぎ捨て、ハイヒールを鳴らして清和の前に歩み寄る。
「小林清和、誠司兄さんと結婚して、同じベッドで寝たからって何だっていうの? 結局、追い出されるじゃない!あなたごときが誠司兄さんに愛されようだなんて、夢でも見てるの?まさか、私がお前に厚化粧やデブれさせたのが、本当に兄さんの好みだなんて、本気で思ってた? 笑わせる。デブでマヌケな女を好きになる男がどこにいるっていうの! 全部、誠司兄さんにもっと嫌われるように、あなたをそそのかしただけよ!」
清和は顔面蒼白になりながら、神子の傲慢な嘲りの言葉を聞いていたが、まぶた一つ動かさず、まるで犬の遠吠えを聞いているかのように無関心だった。
何の反応も示さない清和に、神子は怒りを胸に募らせ、歯ぎしりしながら言った。「小林清和、その目つきは何よ!」
「ふふ……酒井神子、あなたって本当に哀れね」 清和は微かに笑い、必死に痛みをこらえていた。
彼女は自分がかなりの内傷を負っていることは確かだった。話すだけで、五臓六腑がねじれるように痛む。
だが、ここで弱みを見せるわけにはいかない。神子の性格からして、自分が痛がっていると知れば、さらに追い打ちをかけてくるだろう。
「なんですって!」神子は目を見開く。清和の唇に浮かんだ嘲笑が、神子の心臓を鋭く突き刺した。
「言ったのよ――」清和は胸の痛みを抑え込むように深く息を吸い、一言一言区切るように言った。「酒井神子、あなたの人生は哀れでならないよ。 『愛人の子』って言葉、心底コンプレックスなんでしょ? だから小さい頃から、私のものを何でもかんでも奪おうとしてきた。私は小林家の正真正銘のお嬢様で、あなたはただの愛人の娘。決して表舞台には立てない存在だから」
「小林清和!黙れ!」神子は痛いところを突かれたように、甲高い声で叫んだ。
清和は口の端を吊り上げ、言葉を続ける。「この二年間、あなたは私からの信頼を利用し、私が川崎誠司の気を引きたいと願う気持ちにつけ込んで、私を騙し、彼の前で数々の愚行を唆した。その結果、彼は私に無関心から嫌悪を抱くようになり、今では一目すら穢れたものと忌み嫌うまでになった。 さぞ、ご満悦でしょうね?」
神子は拳を握りしめ、憎々しげに彼女を見つめ、鼻で笑った。「それは、あんたが愚かだからよ!」
「ええ、確かに、私は相当愚かだったわ」 清和はあっさりと認めた。この二年間の自分の愚行を知った時、穴があったら入って自分を埋めてしまいたいとさえ思った。
名門の令嬢が、呆れるほどの愚者と化し、優位な手札を握りながら、ここまで見事に惨敗を喫するとは。
「自覚はあるようだな!」神子は冷笑を二度漏らす。その笑い声には、勝者の傲慢さが満ちていた。
「死にかけたもの。これくらいの自覚はなきゃね。あなたと違って」 清和は骨が折れていないか確かめようと、地面に手をついて必死に起き上がろうとした。直撃する痛みに、思わず体勢を崩しそうになる。
奥歯を強く噛みしめると、額から大粒の汗が滴り落ちる。床を掻く指は白くなり、手の甲には力が入りすぎて青い血管が浮き出ていた。
神子の表情が、さっと険しくなった。
「小林清和、死にぞこないのくせに、私に説教する資格があるとでも思ってるの!忘れたの、あなたはもう川崎家の若奥様じゃないのよ! おばあさまは死んだわ。もう誰もあなたを守ってくれない!物分かりがいいなら、今すぐひざまずいて私に許しを乞うべきよ。お父さんに頼んで、家に帰してもらえるようにね!」
川崎おばあさまの名が出て、清和は一瞬、意識が遠のいた。
清和は、川崎おばあさま直々の指名で誠司の妻となった。彼女が川崎家に嫁いで間もなく、おばあさまは病で亡くなった。 生前、おばあさまは誰よりも清和を庇護してくれた。その頃の清和は、川崎家でそれなりに得意な日々を送っていたのだ。
「酒井神子、まさか私と川崎誠司が離婚すれば、あなたが後釜に座って川崎商事の女主人になれるとでも思っているの?」
それを聞いて、神子は胸を張り、傲然と言い放った。「あなたにできて、私にできないわけがないでしょう!」
「あなたには、できないわ」 清和の声は弱っていたが、その口調には確信がこもっていた。「酒井神子、どこからそんな自信が湧いてくるのかしら? 川崎誠司が隠し子だから、似た者同士で釣り合うと思ったの?
あなたは、愛人の娘。あなたのお母さんは、人の家庭を壊した不倫相手!川崎誠司はあなたとは違う。彼は確かに隠し子だけれど、父親が未婚の時に生まれた子で、彼の母親は誰かの家庭を壊したことなんて一度もない!」
「ただその一点だけで、酒井神子、あ・な・た・に・は、資・格・が・な・い」清和は、言葉に力を込めて言い放った。