話 2
「もちろんです!」
男の態度が和らいだのを見て取ると、夕菜の胸のうちにもかすかな勇気が灯った。
夕菜は臆することなく男の顔をまっすぐに見据えた。「今夜から私と桐山様は正式な婚約者同士です。……お互いを、もっと深く知っておくべきでしょう?」
月明かりの下、夕菜は男の瞳を覗き込む。それは底知れない深淵のようだった。「早く放しなさい……!」
言葉が終わるより早く、夕菜の体は屈強な腕に引きずり出され、車のドアに叩きつけられた。
「夕菜!」 その光景に沢介がかっと頭に血を上げ、飛び出そうとしたが、江川たちに阻まれ、地面に押さえつけられた。
「てめぇ!今すぐ彼女を放せ!」 整った顔を地面に擦り付けられながらも、沢介は怒りに燃える目で後部座席方向に睨みつけ、激しく怒鳴り続けた。
灼熱の体温と見知らぬ匂いが迫る。夕菜は恐怖に震えながら押し返した。「何をするの!?」
腕の中の女が強張り、震えるのを感じ取り、行隆は切れ長の目をすっと細めた。 長い指で彼女の顎をゆっくりと持ち上げる。「――男の悦ばせ方、知ってるか?」
心臓を打ち鳴らしながらも、夕菜は平静を装う。「今すぐ放しなさい……」
言葉を最後まで言わせる暇はなかった。彼女に重りをかぶさるようにした男が、いきなり顔を俯け、艶めくふっくらした唇を塞いだ。
男の唇と舌は、荒々しく城を攻め落とすように、彼女の内側を片っ端から奪い尽くした。
夕菜の思考は真っ白になった。
大きく目を見開いたまま、衝撃に凍りつき、抵抗することも忘れていた。
やがて男が唇を離す。「――キスも知らないのか?」
「パンッ!」 乾いた平手打ちの音が夜に響いた。
沢介を押さえていた江川が目を見開く。 行隆のそばに付いて四、五年。殴られる場面を見るのは、これが初めてだった。
しかも相手は、か弱そうな女だった。
行隆の顔が衝撃で横を向く。
彼は無表情のまま顔を向け、舌で奥歯を押さえながら、冷たい視線を夕菜に落とした。「……いい度胸だ」
「私を侮辱した罰です!」
痺れる手を引き戻し、夕菜は言い放つ。「今すぐ沢介を解放して。そうすれば今夜のことは不問にします」
「さもないと桐山様に報告します。許されると思わないで!」
行隆が冷笑する。「本当に桐山に会ったことがあるのか?」
「会っていなければ、婚約などしません」
夕菜は眉をひそめる。「桐山様は私に一目惚れなさったの。だからすぐ婚約し、一週間後に結婚するのです」
「一生守り、傷つけないと誓ってくださいました」
女は男を見上げ、剣幕で喰ってかかった。「身の程を知りなさい!今すぐ放しなさいよ。あの方を怒らせたら、この街であんたを守れる奴なんていないんだから!」
平静を装いながらも、白くなるほど握り締めた手が緊張を物語っていた。
数分にも感じられる沈黙の後、行隆は口元を引き上げて笑った。「江川、送ってやれ」
……
三十分後。
夕菜が沢介を支えながらホテルのロビーに入ると、藤本孝宗と長谷川美和が駆け寄ってきた。
「どうしたんだ?」
美和は慌てて駆け寄り、痛ましげに沢介の反対側から腕を支える。「どこへ行っていたの?どうしてこんな姿に……」
沢介が唇を尖らせる。「夕菜が嫁ぐのが嫌で……」
「沢介さんを誘ってドライブに連れてってもらったんです」 夕菜が慌てて遮る。「車を降りる時に転んで……それで戻りました」
「よりによって今なの?」
美和は顔を曇らせ、責めるように言った。「夕菜ちゃん、あなたはいつも聞き分けがいいのに……どうしてこんな時に」
「もうお客さまは皆いらしているのよ。あなたたちが戻れなかったら、藤本家の顔が立たないじゃない」
夕菜は俯く。「申し訳ありません」
「夕菜が謝ることないだろ」 沢介が庇う。「悪いのは俺だ」
「もういい!」 孝宗は腕時計に目を落とし、言った。「もうすぐ婚約宴が始まる。今はそんな話をしている場合じゃない」
孝宗は使用人に目を向け、命じた。「沢介を連れて行って、手当と着替えを」
「夕菜、化粧を直してこい」
夕菜はうなずき、控室の場所を尋ねようとしたその時、黒い影が彼女の前に進み出た。「俺が案内する」
圭佑だった。
夕菜は黙ってついていく。
男は今日、オーダーメイドの手縫いスーツをまとい、体に沿う完璧な仕立てが背中に気品と冷たさを宿らせて、近寄りがたい距離感を漂わせていた。
かつては、どれほど気持ちが荒んでいても、彼の姿を目にしさえすれば――たとえ背中だけでも、夕菜の心は不思議と落ち着き、安らいだ。
彼と婚約し、結婚する未来を、彼女は何度も思い描いてきた。
そして今夜、彼女は確かに婚約する。だが、その相手は――彼ではない。
「着いた」 男の低い声が思考を断ち切る。
気づけば化粧室の前だった。
「ありがとうございます」 礼を言い、彼女は入室する。
背後で鍵がかかる音。
「夕菜」
夕菜が椅子に腰を下ろすより早く、圭佑は眉をひそめ、彼女の手首を強く掴んだ。
「……なぜ戻ってきた」
男は彼女を見据える。その眼差しは陰りを帯び、複雑な感情を孕んでいた。「この機会に、すべて捨てて立ち去ることだってできただろう。なぜ、戻ってきた?」
夕菜は顔を向け、静かに彼を見つめ返す。三年間、誰にも知られずに関係を続け、何度も未来を約束してきた――その男を。「叔父様と叔母様と、約束したから」
「あなたと同じ、約束を破る人間にはなりたくない」
話 3
夕菜の言葉に灼かれたかのように、圭佑は瞳孔を収縮させ、反射的に彼女を放した。
楽屋の空気は重く澱み、息苦しいほどに張り詰めていた。
夕菜は、もはや彼を意に介さなかった。
背を向けて椅子に腰を下ろし、鏡に向かって淡々と化粧を直す。
圭佑は静かに背後に立ち、鏡越しに彼女を見つめていた。
長い沈黙のあと、男が小さく息を吐く。「夕菜……分かってる。俺が悪かった。約束を、守れなかった……」
言葉を切り、鏡に映る夕菜を見据える。「もう少し時間をくれ。待っていてほしい」
「半年以内に、必ず藤本家の経済危機を解決する」
「その時は、今までの約束をすべて果たす。関係も公にして……君を妻にする……」
夕菜はかすかに眉をひそめたが、化粧を直す手は止まらない。
そんな言葉は、もう数え切れないほど聞いてきた。
圭佑と密かに付き合い始めた頃から、彼はずっと「すぐに公表する」と言い続けていた。
三か月、半年、一年……待ち続けた末、気づけば三年。
今や他人に嫁ごうとしているのに、彼はまだ非現実的な約束を口にする。
パチン、とクッションファンデーションの蓋が閉じた。
夕菜は顔を上げ、澄んだ瞳で、鏡越しに背後に立つ男を見据えた。「……じゃあ、美晴のことは、どうするつもり?」
「半年後なら、彼女がどうなってもいいって言うの?」
後藤美晴――その名が出た瞬間、楽屋には二人の呼吸音だけが残った。
美晴は、圭佑のかつての恋人だった。
かつて彼を捨てて留学し、帰国後に復縁を迫ってきた女だ。
その時、圭佑が夕菜と付き合い始めてから、まだ一か月も経っていなかった。
彼は美晴を拒んだ。
その夜、彼女は酒に酔って事故を起こし、一生車椅子で生きることになった。
圭佑はすべてを自分のせいだと背負い、この三年間、彼女の世話を続けてきた。
彼女を刺激することを恐れ、恋人がいるという事実を公にできなかった。
美晴の容体が悪いと聞けば、記念日だろうが夕菜とのデートだろうが、彼は真っ先に彼女を置き去りにして美晴のもとへ駆けつけた。
この三年間、後藤美晴という女は、夕菜と圭佑の間に横たわる、越えようとしても決して越えられない深い溝だった。
今、夕菜はもう越えようとはしない。
長い沈黙の末、夕菜は身を翻し、圭佑の脇をすり抜けて部屋を出た。
「夕菜」 ドアノブに手をかけた瞬間、圭佑が背後から抱き寄せる。「約束する。彼女を見るのは、この半年が最後だ」
「半年後、君が桐山と離婚して戻ったら、もう一切関わらない!」
背後に立つ男の体温を感じながら、夕菜はそっと目を閉じた。声は苦く、掠れていた。「この前も……あの女が鼻血を出した時。三十九度の高熱の私に車で一人病院へ行けって……最後だって、それも言った」