話 2
辻本藍子 POV:
私の言葉に, 晴斗は目を丸くした. 彼は私の手を取り直そうとしたが, 私はそれを振り払った.
「何を言ってるんだ? 藍子, 冗談はやめてくれ. 」晴斗の声には, 苛立ちが混じっていた.
彼は私の顔を覗き込むように近づいてきた. その傲慢な態度に, 私は吐き気がした.
「冗談なんかじゃない. 本当に, あなたのこと, 何も思い出せないの. 」私は震える声で答えた. これは演技だ. 最高の演技をしなければならない.
「まさか... 俺に恨みを抱いて, こんな芝居を打つつもりか? 俺が悪いって言うのか? 」晴斗は信じられないといった様子で, 私を指差した.
「あなたは, 私の恋人じゃないわ. 私の恋人は... 」私は病室のドアの方に視線を移した. そこには, 古沢幸佑が立っていた.
「私の恋人は, 幸佑さんよ. 」
晴斗は, 私の言葉を聞いて激昂した. 彼は私のベッドに詰め寄り, 私の腕を掴んだ.
「古沢だと? あの古沢幸佑か! ふざけるな! お前は俺の婚約者だ! 」
彼の顔は怒りで歪んでいた. 古沢幸佑と川津晴斗は, 長年のライバル関係にあった. 学生時代から, 何かと比較されてきた二人だ. 晴斗にとって, 古沢の名前を出されることは, 何よりも屈辱的なことだったに違いない.
彼の暴力的な態度に, 私の心は恐怖で震えた. しかし, この恐怖が, 私の復讐への決意をさらに強くした.
「離して! 触らないで! 」私は叫んだ.
その時, 看護師が慌てて病室に駆け込んできた. 晴斗の怒鳴り声が廊下まで響いていたのだろう.
「川津様, お静かに! 患者様を刺激しないでください! 」
看護師が晴斗を私から引き離そうとしたが, 彼はそれを振り払って叫んだ.
「この女は芝居をしているんだ! 俺は騙されない! 」
医師も駆けつけ, 晴斗に冷静になるよう促した.
「川津様, 辻本様の記憶障害は, 今回の事故による一時的なものかもしれません. 精神的なショックが大きいと, このような症状が現れることがあります. 今は何よりも安静が必要です. どうか, 刺激を与えないでください. 」
医師は淡々と説明したが, 晴斗は納得しない.
「そんな馬鹿な話があるか! 俺たちの関係を忘れるなんて, ありえない! 」晴斗は顔を真っ赤にして反論した.
「川津様, これ以上お騒がせになるようでしたら, 警察を呼びますよ. 」ベテランの看護師が毅然とした態度で告げた.
晴斗は悔しそうに唇を噛みしめ, 病室を後にした. 彼の足音は, 廊下の向こうで怒りに満ちた響きを立てていた.
病室から追い出された晴斗は, 廊下で怒りに震えていた. 彼は私のことを, 幼稚な報復をしているだけだと考えているだろう. 古沢幸佑の名前を出したことで, 彼のプライドは完全に傷つけられたはずだ. 彼は古沢を心底嫌っていた. 晴斗は誰かに電話をかけようとしたが, 結局諦め, 乱れた髪をかきむしった.
しばらくして, 両親が病室に戻ってきた. 母は泣き腫らした目で私の手を握り, 「藍子, 本当に大丈夫なの? 晴斗君が, ひどいことを言ったの? 」と私を抱きしめた.
「お母さん, 私, あの人が怖いの…」私は震える声で答えた.
父は困惑した表情で私を見ていた. 「藍子, 本当に晴斗君のことを覚えていないのか? お前たちは婚約していたんだぞ. 」
私は首を横に振った. 「婚約? そんなこと, 知らないわ. 私の知ってる恋人は... 」私は再び古沢幸佑を指差した.
心の中で, 復讐の炎が静かに燃え上がっていた. この芝居は, もう止められない. 晴斗, あなたは私を地獄へ突き落とした. 今度は, 私があなたを地獄へ引きずり込んでやる.
話 3
辻本藍子 POV:
「私の恋人は, 古沢幸佑さんだけよ. 」
私の言葉は, 病室に重く響いた. 両親は顔を見合わせ, 信じられないといった表情だった.
「藍子, そんなこと... 」母が言い淀んだ.
父は鞄からスマホを取り出し, 晴斗が写っている写真を見せてきた. 「ほら, 思い出せないのか? この晴斗君との写真, どれも楽しそうじゃないか. 」
私はその写真を見た. 確かに楽しそうに笑っている私がいた. しかし, 私にはそれが他人事のようにしか思えなかった. まるで別の人生の, 別の誰かの写真だ.
「この人は, 誰? 私は, この写真の中の私じゃないわ. 」私は冷たく言い放ち, スマホを父に返した. 私の脳裏に鮮明に浮かぶのは, 古沢幸佑の優しい横顔だけだった.
私が退院して間もなく, 晴斗は早くも凛花とのデートを楽しんでいた. 彼は私を病院に残したまま, もう私のことなど眼中にないかのように, 豪華なオープンカーで凛花を迎えに行った.
「晴斗さん, 藍子さんのこと, もういいんですか? 」凛花は上目遣いで晴斗に尋ねた. その声は心底心配しているようにも聞こえるが, どこか確信犯的な響きがあった.
「あんな女, 放っておけばいいんだ. 記憶喪失だなんて, どうせ俺への当てつけだろう. 」晴斗は鼻で笑い, 凛花の髪を撫でた.
彼は凛花のために, ブランドショップで数百万もするバッグやアクセサリーを次々と購入した. 凛花は一見, 遠慮がちに「こんなに高価なものは... 」と言っていたが, その瞳は喜びに輝いていた.
その夜, 晴斗と凛花は高級レストランでロマンチックなディナーを楽しんでいた. キャンドルの炎が二人の顔を照らし出し, まるで絵に描いたようなカップルだ.
「晴斗さん, これ, 本当に私にくれるんですか? こんな素敵な指輪, 初めてです. 」凛花は満面の笑みで指輪を眺めた.
「ああ, もちろんさ. 君には最高のものが似合う. 藍子なんて, もう俺には必要ない. 」晴斗はそう言って, 凛花にキスをした.
しかし, 凛花は指輪をそっと箱に戻した. 「でも, まだ藍子さんがいるのに, 私, こんな素敵なもの, 受け取れません. 」
晴斗は驚いた. 「なぜだ? 君はそんなに純粋なんだね. ますます好きになったよ. 」
凛花のその言動に, 晴斗はすっかり魅了されていた. 彼は自分だけが持っている「純粋な」女性を手に入れたとでも思っているのだろう.
その夜, 晴斗は友人たちとバーで祝杯を挙げていた.
「晴斗, やったな! あのモデル, 桜庭凛花だろ? 最高じゃん! 」友人たちは口々に晴斗を称賛した.
「あんな女に囚われてる場合じゃないぜ! もっといい女はたくさんいるんだから! 」
「だが, お前, 藍子さんとは婚約してたんだろ? 大丈夫なのか? 」親友の一人が心配そうに尋ねた. 彼の心配には, どこか呆れたような色も混じっていた.
晴斗はグラスを傾け, 嘲笑った. 「藍子? あんな女, 俺がいなきゃ何もできない. どうせすぐに泣いて戻ってくるさ. だから, 俺は先に楽しむだけだ. 」
彼の言葉に, 親友は何も言わなかった. ただ, 深い失望の表情を浮かべるだけだった.
私は退院後, すぐに古沢さんの会社「ル・レーヴ」の近くにあるバーへ向かった. 古沢さんがよく訪れるバーだと, 以前彼から聞いたことがあった. もちろん, 晴斗に隠れて. 私が「古沢幸佑」という名前を出した時から, この復讐劇は始まっている. 彼を巻き込むことは, 私の計画に不可欠だ.
バーの薄暗い照明の中, 私はカウンター席に座る古沢さんの背中を見つけた. 彼の周りには, いつも通り, どこか冷たい空気が漂っていた. でも, 私にはそれがとても心地よく感じられた.
私はゆっくりと立ち上がり, 彼の元へと向かった. 彼の背中越しに, 彼の香水の香りが微かに漂ってくる. 以前, 私が彼のために調合した, 彼のイメージにぴったりの香りだ. この香りを嗅ぐと, 胸の奥が締め付けられるような気がした.