1

「もう、以前のようには動かせないでしょう」

医者の声が、麻酔の霧を切り裂いた。

右手。私のすべてだったはずのその場所には、ただ白い包帯の塊があるだけ。

感覚のない、私のものではない何か。

漆芸家としての私の命は、そこで絶たれた。

五年も婚約していた彼、新幸は、私の目を見ようともしなかった。

「君の治療費だ」と彼は言った。「祖父さんは、その借金を抱えて死んだ」。

愛していたはずの男の唇から紡がれる言葉が、私の心臓を凍らせていく。

祖父。私を育ててくれた唯一の家族。

私のせいで?

その絶望に追い打ちをかけたのは、彼のアシスタント、莉代だった。

彼女は勝ち誇った笑みを浮かべ、スマートフォンの画面を私の顔に突きつける。

そこには、私が知らない新幸の顔があった。愛する人に向ける、甘い笑顔。

「事故も、借金も、全部計画よ」彼女は囁く。「先輩を、新幸さんの人生から消すための」。

愛、未来、職人としての命、そして祖父。

すべてを失った。この漆黒の絶望の中で、私は誓った。

彼らに、私という存在を刻みつけてやると。

そんな私の前に、一人の男が現れた。

私の死んだはずの手を見つめる、手の外科医、藤岡先生。

「絶望するにはまだ早い」彼は言った。

「あなたの手は、まだ奇跡を覚えている。私が、あなたを漆芸の道へ必ず戻してみせる」

第1章

琴穂 POV:

結婚式のたびに新幸が「今回は無理だ」と告げる声を聞くのは, もう何度目だろう. 私たちは五年も婚約していた. 漆芸の職人である私にとって, その五年間は, まるで漆が何層にも塗り重ねられていくようだった. 最初は薄く, しかし確実に, 二人の未来の絵が描かれていくものだと信じていた. その絵が, 今やただの汚れた下書きに過ぎなかったと知るのは, もう少し先のことだ.

「琴穂, 少し話があるんだ」

新幸の声はいつも通り穏やかで, 私の心臓は一瞬, 期待に跳ね上がった. けれど, その期待はすぐに冷たい水へと変えられた. 彼の口から出る言葉は, いつも同じだったから.

「また, 延期? 」

私の声は, 自分が思っていたよりもずっと震えていた.

「ああ, すまない. 例の国際コンペの準備で, どうしても手が離せないんだ. 君も職人だからわかるだろう? 」

彼の言葉は, まるで麻酔のように私の感覚を鈍らせる. 私は彼が私の仕事を理解してくれると信じていた. それこそが, 彼が私を愛している証だと. しかし, 麻酔が切れるたびに, 鈍い痛みが私の心を蝕んでいく.

その日は, 私が祖父から譲り受けた漆の工房で, 新しい作品の仕上げをしていた. 集中していたはずなのに, 新幸の言葉が頭から離れない. 繊細な作業中に, カッ, と乾いた音がした. 私は息を呑んだ.

「しまった…」

鑿 (のみ) の刃が滑り, 右手の甲を深く抉った. 鮮血が漆の輝きに吸い込まれていく. 激痛が走り, 思わず膝から崩れ落ちた. 特異体質である私の体は, 漆に触れるとひどくかぶれる. 血と漆が混じり合い, 皮膚がみるみるうちに赤く腫れ上がった.

意識が遠のく中, 私は必死に電話を手に取った. 新幸の番号を探す. 私の心は, 彼だけが私を救ってくれると叫んでいた.

「新幸…助けて…」

私の声はか細く, 途切れがちだった.

「琴穂? どうしたんだ? 随分と声が震えているが」

彼の声は, 遠くで聞こえるようだった.

「手が…漆に…切ってしまって…」

それだけ言うのがやっとだった. 視界がぼやけて, 呼吸が荒くなる.

「分かった, すぐに行く. 動かないで, いいか? 」

彼の言葉に, 私は安堵した. 意識が途切れる寸前, 私は彼が私を愛していると, 彼だけが私の味方だと, そう強く信じていた.

次に私が目を覚ましたのは, 病院のベッドの上だった. 天井の白い光が目に痛い. 隣には新幸が座っていた. その顔には, 疲労と心配の色が浮かんでいた.

「琴穂, 大丈夫か? 目が覚めて良かった」

彼の声を聞くと, 胸の痛みが少し和らいだ. 私はかすれた声で尋ねた.

「祖父は…? 」

新幸は少し間を置いてから答えた.

「大丈夫だよ, 琴穂. 心配ない」

その言葉に, 私は安心した. 祖父は私にとって, この世で最も大切な人だったから.

しかし, 私の右手は包帯でぐるぐる巻きにされ, 感覚が全くなかった. 医師が冷たい声で告げた.

「倉田さん, 右手は残念ながら…もう, 以前のようには動かせないでしょう」

その言葉は, 私の世界を打ち砕いた. 職人にとって命ともいえる右手を失う. それは, 私が生きていく意味を失うことだった. 新幸は, その隣で静かに私の手を見つめていた. 彼の表情は, 悲しんでいるようにも見えたけれど, どこか遠い目をしていて, 私には彼が何を考えているのか分からなかった.

数週間が経ち, 私はリハビリを始めた. 痛みに耐えながら, 指を一本ずつ動かす訓練. けれど, 右手は石のように動かない. ある日, リハビリ室で, 私は偶然, 医師たちの会話を耳にした.

「広岡さんの婚約者, あの優秀な倉田先生の孫娘だろ? まさか, あれほどの重傷になるとは…」

「ああ, 広岡さんもさぞかし困っているだろうな. 結婚式の延期も, もう限界だろうし」

「それにしても, 漆にかぶれる体質なのに, なぜそんな深い傷を負ったんだ? 普通なら, もっと早く気づくはずだろ」

「それが…事故の直前の検査で, 漆アレルギーの数値が一時的に異常に高まっていたらしい. 普通では考えられないほどに. もしかしたら…」

医師たちの会話はそこで途切れた. 私は全身が凍り付くのを感じた. 漆アレルギーの数値が異常に高まっていた? 私がそんな状態だったのなら, 新幸はなぜ私に漆の作業を続けさせたのだろう? いや, 彼が知るはずがない. 私は自分に言い聞かせた.

その日, 新幸は珍しく早く病院に来た. 彼の顔には, 疲労の色が濃く出ていた.

「君の手術のことで, 色々と手配しないといけなくてな. 君の祖父のことも, 心配で…」

彼はそう言って, 私の額に手を置いた. その手は冷たかった. 彼の言葉は, 私を安心させるはずなのに, なぜかざらついた違和感を覚えた.

次の日, 私は病院の廊下で, 新幸が誰かと電話しているのを見た. 彼は少し離れた場所で, 壁に寄りかかっていた. 彼の背中は, 私に背を向けていたけれど, その声は聞こえてきた.

「…莉代, 君のことだから, うまくやってくれると信じているよ. 彼女にはもう, 何もできないから」

莉代? 中山莉代? 新幸のアシスタントの? 私の心臓が, 嫌な予感を覚える. 彼は何を「うまくやってくれる」と言っているのだろう? それに, 「彼女にはもう何もできない」とは, 一体どういう意味だ?

私の混乱は, さらに深まった. 私にとって, 新幸は光だった. 彼が私の右手を失った職人としての私の未来を, きっと支えてくれると信じていた. しかし, その光の裏に, 深い闇があるような気がしてならなかった.

その夜, 私は眠れなかった. 新幸の言葉が頭の中をぐるぐると回る. 「彼女にはもう何もできない」. その言葉が, 私の心に深く突き刺さる. 彼は, 私のことを言っていたのだろうか? まさか. 彼がそんなことを言うはずがない.

私は必死に自分に言い聞かせた. けれど, 一度芽生えた疑念は, まるで漆のように私の心に張り付いて, 剥がれ落ちなかった.

翌朝, 私はリハビリ室で, 中山莉代の姿を見た. 彼女は新幸のアシスタントだが, なぜこんなところに? 彼女は私に気づくと, にこやかに微笑んだ.

「倉田先輩, お体の具合はいかがですか? 広岡先輩, ずっと心配していらっしゃいましたよ」

彼女はそう言ったけれど, その目は一切笑っていなかった. 私の背筋に, 冷たいものが走る. 彼女の言葉は優しいのに, なぜかぞっとするような感覚を覚えた.

その日の夕食後, 新幸は私に, とある書類を差し出した. それは, 私の祖父が所有する工房の土地の権利書だった.

「琴穂, 君の祖父は, 君の手術費用とリハビリ費用を賄うために, この土地を担保に入れたんだ. 君が安心して治療に専念できるようにと…」

新幸はそう言った. 祖父が私のために. 私は胸が締め付けられる思いだった. 祖父は私が生きる理由そのものだった. しかし, 私の心には, どこか違和感が残った. 祖父は, そんなことを私に秘密にするような人ではなかった.

「新幸, 祖父はどこにいるの? 会わせてほしい」

私の問いに, 新幸は目を伏せた.

「祖父は, 今, 安静にしている. 君が心配するから, 会わない方がいいと…」

彼の言葉は, 私をさらに不安にさせた. 祖父が安静に? なぜ? 私は何度も祖父に会いたいと懇願したけれど, 新幸は頑として聞き入れなかった.

その夜, 私は病室の窓から外を眺めた. 漆黒の闇が広がっている. 私の心の中も, 同じように闇に覆われていた. 新幸の言葉, 莉代の不気味な笑顔, そして, 祖父の不在. 点と点が, 私の中で繋がり始めていた. しかし, その繋がりが示す真実が, あまりにも残酷であることに, 私はまだ気づいていなかった.

2

琴穂 POV:

あの惨劇から数ヶ月が経ち, 私は漆の匂いを嗅ぐたびに吐き気がするようになった. 右手の痺れは消えず, 祖父の工房は, 私にとって拷問の部屋以外の何物でもなかった.

ある日, 新幸が工房にやってきた. 彼は私の顔を見て, 心底うんざりしたような表情を浮かべた.

「いつまでそうしているつもりなんだ? 君の祖父が残した借金も馬鹿にならないんだぞ」

彼の言葉に, 私の心は氷のように冷たくなった.

「借金…? 」

「ああ. 君の手術費用, リハビリ費用, そして君が漆アレルギーで倒れた時の治療費. すべて祖父の借金として計上されている」

私は信じられなかった. 祖父が, そんな大きな借金を抱えていたなんて.

「祖父は, そんなことを私に言わなかった」

「言えるわけがないだろう. 君に心配をかけたくなかったんだ」

新幸の声は, 相変わらず穏やかだった. しかし, その声が, 私の心に深く突き刺さる.

「君は, いつまでこんな状態なんだ? 職人として再起できないなら, 早く身の振り方を考えた方がいい」

彼の言葉は, 私を奈落の底に突き落とした. 私が彼にとって, もう何の価値もない存在になってしまったことに, この時, ようやく気づいた.

その日の夜, 私は病院の屋上から, 夜空を見上げていた. 星が瞬いている. 新幸の言葉が, 私の頭の中をぐるぐると回る. 「職人として再起できないなら, 早く身の振り方を考えた方がいい」.

私が漆芸の道を諦めたとき, 彼も私を諦めるだろう. それは分かっていた. けれど, 本当にそう言われると, 私の心はズタズタに引き裂かれるようだった.

その時, 一人の女性が屋上に上がってきた. 中山莉代だった. 彼女は私の隣に立つと, 静かに言った.

「倉田先輩, まだそんなところにいたんですか? 広岡先輩が心配していますよ」

彼女の声は優しいけれど, その目は, まるで獲物を見つめる狩人のようだった. 私は彼女の視線から逃れるように, 顔を背けた.

「あなたに, 何の用? 」

私の言葉は, 思っていたよりも冷たかった.

「用ですか? ふふ, そうですね. 広岡先輩が, 先輩のことが心配で, 私に様子を見に行くようにと…」

彼女はそう言って, 私に近づいてきた. その体から, 甘い香水の匂いが漂ってくる.

「広岡先輩は, 本当に優しい方ですね. 先輩の手術の費用も, リハビリの費用も, 祖父の借金だと仰っていましたが, 実際はすべて広岡先輩が負担していらっしゃるんですよ」

莉代の言葉に, 私の心臓が凍り付く.

「嘘よ」

「嘘ではありません. 広岡先輩は, 先輩のことが大切だから, そう言っているんです. 先輩に負い目を感じさせたくないからと」

彼女の言葉は, まるで毒のように私の心に染み渡っていく. 新幸が, 私をそこまで深く愛してくれていたなんて. 私は, 彼を疑っていた自分を恥じた.

「でも, 広岡先輩も人間ですからね. いくら愛していると言っても, 限界があります」

莉代はそう言って, 私の耳元で囁いた.

「倉田先輩, 知っていますか? 広岡先輩は, 本当は私を愛しているんです」

その言葉は, 私の頭を真っ白にした.

「何を…言ってるの…? 」

私の声は, 震えていた.

「本当のことですよ. 先輩は, 広岡先輩の祖父の恩義のために, 私たちを繋ぎ止めているだけなんです. もし, 先輩がこのまま広岡先輩の足枷になるのであれば…」

莉代はそこで言葉を切ると, 私を見つめた. その目は, 冷酷な光を放っていた.

「先輩の祖父は, 本当に広岡家の恩人でした. でも, その恩義が, 広岡先輩の人生を縛っているとしたら, 先輩はどうしますか? 」

その言葉は, 私の心を抉った. 私が新幸の足枷になっている? 彼の人生を縛っている? 私は, 彼が私を愛していると信じていたのに.

「彼は…私を愛している…」

私の声は, か細く, ほとんど聞こえないほどだった.

「愛していますか? ふふ, そうですね. でも, その愛は, 彼の祖父への恩義と, 世間体のためでしょう? 彼は, 心の底では, 私を愛しているんです」

莉代はそう言って, 自分のスマホを取り出した. 画面には, 新幸と莉代が抱き合っている写真が映し出されていた. 二人は楽しそうに笑っていた. 新幸の顔は, 私と一緒にいる時とは全く違う, 心からの笑顔だった.

私の心は, バラバラに砕け散った. 今まで見ていた世界が, 全て嘘だったと知った. 新幸が私を愛していると思っていたのは, 私のただの思い込みだった. 彼は, 私を愛してなどいなかったのだ.

「これを見ても, まだ信じませんか? 」

莉代の声が, 私の耳元で響く. 私は何も言えなかった. ただ, 目の前の真実が, 私を打ちのめしていた.

「先輩, もうこれ以上, 広岡先輩を苦しめないであげてください. 彼は, 本当に辛いんです. 私を愛しているのに, 先輩との婚約を破棄できない. その責任感に, 彼は押しつぶされそうになっています」

莉代の言葉は, 私の心を深く切り裂いた. 責任感. そうか, 彼が私に示していたのは, 愛情ではなく, 責任感だったのだ. 私は, 彼が私を愛していると信じて, 彼の言葉に甘えていた. 彼のキャリアを妨害し, 彼の自由を奪っていたのは, 私だったのだ.

私は, その場で膝から崩れ落ちた. 全身から力が抜け, 何も考えられなくなった. ただ, 心臓が痛い. これ以上ないほどの痛みだった.

「私の…手は…」

私は自分の右手を握りしめた. 漆に侵され, もはや動かない右手. そして, 漆に侵された私の心.

「先輩, どうか, 広岡先輩を解放してあげてください. それが, 彼への最後の愛情ですよ」

莉代の声は, まるで慈悲深い女神のようだったけれど, その言葉は, 私にとって地獄の宣告だった. 私は, 全てを失った. 愛も, 未来も, そして, 職人としての誇りも.

その夜, 私は病院を抜け出した. どこへ行くのかも分からなかった. ただ, この場所から, 新幸と莉代から, 遠くへ逃げたかった. 私の心は, 深い絶望に包まれていた.

漆黒の夜の街を, 私はあてもなく歩いた. 私の右腕は, 重く, 鉛のように感じられた. あの痛みを, 私は一生忘れないだろう. そして, 新幸の裏切りも.

私は, もう一度, 祖父に会いたいと思った. 祖父だけが, 私を理解してくれると信じていた. しかし, 祖父の姿はどこにもない.

私は, もう立ち上がれないかもしれないと思った. 私の人生は, もう終わったのだと. しかし, 私の心の奥底で, 何かが燃え上がっていた. それは, 復讐の炎だった. 彼らが私にしたこと. 私は, 彼らに必ず報いを受けさせる. 彼らが手の届かない高みで輝くこと. それが, 私にできる最大の復讐だ. 私は, そう誓った.

広岡新幸は, 私の人生を奪った. 中山莉代は, 私の全てを奪った. 私は, この二人を許さない.

私の心は, 漆のように黒く染まっていた. しかし, その黒さの中に, 一筋の光が差し込んでいるような気がした. それは, 私の新しい人生の始まりを告げる光だった.

新幸 POV:

琴穂が病院から姿を消した. 病室はもぬけの殻で, 彼女が残したものは何もなかった. 私と莉代は, 病院中を捜し回ったが, どこにも見つからなかった.

「新幸先輩, 琴穂先輩がどこかに隠れているんじゃないでしょうか? もしかしたら, また自殺を図ろうと…」

莉代の声は不安に震えていた. しかし, 私には, 彼女の言葉がどこか嘘くさく聞こえた.

「まさか. 彼女はそんな弱くない」

私の言葉に, 莉代は顔を青ざめさせた.

「でも…心配です. 何しろ, 広岡先輩のせいで, あんなひどい目に遭ったんですから」

莉代はそう言ったけれど, その目は, どこか楽しんでいるようにも見えた. 私の心臓が, 嫌な音を立てる.

琴穂が消えた夜, 私は一睡もできなかった. 彼女がどこへ行ったのか, 何を考えているのか, 全く分からなかった. 私の心には, 言いようのない不安と焦りが渦巻いていた.

翌朝, 私は莉代と一緒に, 琴穂の祖父の工房を訪れた. 工房は, 相変わらず静まり返っていた. 漆の匂いが, かすかに漂ってくる.

「新幸先輩, 琴穂先輩は, ここにいるかもしれませんよ」

莉代の声は, 私の耳元で囁く. 工房の中に入ると, そこには誰もいなかった. しかし, 作業台の上には, 使いかけの漆と, 血の付いた包帯が残されていた.

私の心臓が, 嫌な音を立てる. 私は, あの日のことを思い出した. 琴穂が右手から血を流し, 意識を失ったあの日. 私が病院に駆けつけた時, 彼女はすでに意識不明だった.

「新幸先輩, これを見てください」

莉代が, 一枚の紙を差し出した. それは, 琴穂が書いたらしき遺書だった.

「" 新幸へ. あなたの重荷になりたくない. 私はもう, 職人として生きられない. どうか, 私を忘れて, 莉代と幸せになってください. さようなら. " 」

莉代は, 震える声で遺書を読み上げた. 私の心臓が, 締め付けられる. 琴穂が, そんなことを考えていたなんて. 私のせいで, 彼女はそこまで追い詰められていたのか.

「新幸先輩…」

莉代が, 私の腕にすがりついてきた.

「琴穂先輩は, きっと, 私たちを恨んでいたんでしょうね. 私たちが, 彼女から広岡先輩を奪ったと…」

莉代の言葉は, 私の心をさらに抉った. 私は, 本当に琴穂を苦しめていたのか. 彼女の人生を, 私の手で壊してしまったのか.

私は, 莉代を抱きしめた. 彼女の体は, 温かかった. しかし, 私の心は, まるで凍り付いたようだった.

「莉代, 悪いのは僕だ. 僕が…琴穂に嘘をついていたから」

私の言葉に, 莉代は顔を上げた.

「広岡先輩…」

「僕は, 琴穂を愛していた. でも, 僕のキャリアのために, 彼女を利用していた. 彼女の才能を, 僕の踏み台にしていたんだ」

私の口から出た言葉は, 私自身を驚かせた. 私は, 本当に琴穂を愛していたのだろうか? それとも, ただ, 彼女の才能を利用していただけなのだろうか?

莉代は, 私の言葉を聞くと, 静かに微笑んだ. その笑顔は, まるで悪魔のようだった.

「広岡先輩, もう何も心配いりません. 琴穂先輩は, もういません. これからは, 私だけが広岡先輩のパートナーです」

莉代の声は, 甘く, 誘惑的だった. 私は, 彼女の言葉に, ゆっくりと頷いた. 私の心は, 琴穂を失った悲しみと, 莉代の言葉に甘える罪悪感で, ぐちゃぐちゃになっていた.

それから数日後, 私は琴穂の祖父の葬儀に出席した. 祖父は, 私が病院に駆けつけた夜に, ひっそりと息を引き取っていたらしい. 私の心には, 深い後悔の念が押し寄せてきた. 私が, もっと早く琴穂の祖父に会っていれば. 私が, もっと早く琴穂の異変に気づいていれば.

葬儀の後, 私は琴穂の行方を探し続けた. 警察にも届け出たが, 彼女の痕跡はどこにもなかった. まるで, 最初からこの世に存在しなかったかのように.

私の心は, 焦燥感に駆られていた. 琴穂がどこかで苦しんでいるのではないか. 私が, 彼女を絶望の淵に突き落としてしまったのではないか.

その時, 莉代が私の隣に立って, 優しく言った.

「広岡先輩, もう忘れましょう. 琴穂先輩は, もうこの世にはいません. これからは, 私と二人で, 新しい人生を歩みましょう」

莉代の言葉は, 私を慰めるどころか, 私をさらに苦しめた. 琴穂を忘れる? そんなこと, できるはずがない. 彼女は, 私の人生の一部だった. 私の心に, 深く刻み込まれた存在だった.

私は, 莉代の手を振り払った.

「莉代, 君は僕の気持ちが分からないだろう」

私の言葉に, 莉代の顔が凍り付く.

「広岡先輩…」

「僕は, 琴穂を愛していたんだ. 本当に, 愛していたんだ」

私の口から出た言葉は, もう嘘ではなかった. 私は, 琴穂を失って初めて, 彼女への執着が愛であったと気づいたのだ. 私の心は, 後悔と罪悪感で, 張り裂けそうだった.

莉代は, 私の言葉を聞くと, 静かに涙を流し始めた.

「広岡先輩, 私, 分かります. 私が, 広岡先輩の足枷になっていました. 私が, 広岡先輩の気持ちを理解していませんでした」

莉代はそう言って, 私から離れていった. 私の心は, さらに深く沈んでいく. 私は, 莉代も傷つけてしまった. 私の人生は, もうめちゃくちゃだ.

私は, 琴穂が消えた夜から, 酒浸りの日々を送るようになった. 仕事も手につかず, 私のキャリアは, みるみるうちに崩壊していった. 私の内面も, 琴穂を失った喪失感と, 彼女を裏切った罪悪感で, ボロボロになっていた.

琴穂. 君はどこにいるんだ? 君は, 僕を許してくれるだろうか? 僕が, 君を愛していたと知ったら, 君は, 僕の元に戻ってきてくれるだろうか?

私の心は, 琴穂への切ない思いで, いっぱいだった. 私は, 彼女を探し続ける. 彼女が, どこかで生きていると信じて.

私の心は, まるで燃え尽きた灰のようだった. しかし, その灰の中に, 一筋の希望の光が差し込んでいるような気がした. それは, 琴穂がどこかで生きているという, かすかな希望だった.

私は, もう一度, 琴穂に会いたい. そして, 彼女に許しを請いたい.

琴穂 POV:

私は, 新幸と莉代の前から姿を消した. 彼の言葉, 莉代の笑顔, そして祖父の死. 私の心は, 深い絶望に包まれていた. 職人としての命である右手を失い, 愛も未来も奪われた私は, ただ, 死を待つばかりだった.

しかし, 私の心の奥底で, 何かが燃え上がっていた. それは, 復讐の炎だった. 彼らが私にしたこと. 私は, 彼らに必ず報いを受けさせる. 彼らが手の届かない高みで輝くこと. それが, 私にできる最大の復讐だ. 私は, そう誓った.

私は, あてもなく歩き続けた. ボロボロになった体と心で. そして, 気がつくと, 私は見慣れない病院の前に立っていた. そこは, 手の外科の権威である藤岡和優が勤める病院だった.

「…藤岡和優…」

私は, その名前を呟いた. 彼の名前は, 漆芸界でも有名だった. 彼なら, 私の右手を治してくれるかもしれない. そんなかすかな希望を抱いて, 私は病院のドアを開けた.

診察室で, 藤岡先生は私の右手を見て, 静かに言った.

「これは…ひどい. 漆アレルギーと, 深い傷. もう, 職人として再起するのは難しいでしょう」

彼の言葉は, 私を絶望させた. やはり, もう無理なのか.

「しかし…」

藤岡先生は, 私の目を見て, 続けた.

「まだ, 諦める必要はありません. 私は, あなたの右手を治してみせます. あなたが, もう一度, 職人として漆芸の道を歩めるように」

彼の言葉は, 私の心を深く揺さぶった. 私を諦めないでくれる人が, まだいたなんて. 私は, 彼の言葉に, 涙が止まらなかった.

「ただし, 治療は過酷です. 痛みに耐え, 長いリハビリを乗り越えなければならない. それでも, あなたは, もう一度, 漆芸の道に戻りたいですか? 」

藤岡先生の問いに, 私は力強く頷いた.

「はい. 私は, もう一度, 漆芸の道に戻りたい. 彼らに, 私の生き様を見せつけてやる. それが, 私の復讐だから」

私の言葉に, 藤岡先生は静かに微笑んだ.

「分かりました. 私が, あなたを支えます. 医者として, そして, 一人の人間として」

藤岡先生の言葉は, 私の心を温かく包み込んだ. 私は, 彼に救われた. 彼だけが, 私を信じてくれた.

それから, 私の過酷なリハビリが始まった. 毎日, 痛みに耐えながら, 指を一本ずつ動かす訓練. リハビリ室では, 他の患者たちが私を見て, ひそひそと噂話をしていた.

「あの人, 漆芸の職人だったらしいよ. 広岡さんの婚約者だったんだって」

「可哀想に. 右手を失って, もうおしまいだ」

そんな言葉が, 私の耳に入ってくるたびに, 私は彼らを見返すように, さらに強くリハビリに励んだ. 彼らに, 私の再起を見せつけてやる.

藤岡先生は, 常に私の傍にいてくれた. 彼は, 私の痛みを理解し, 私の苦しみに寄り添ってくれた. 彼の存在は, 私の心の支えだった.

ある日, リハビリ室で, 私は藤岡先生に尋ねた.

「先生, 私の祖父は, 本当に借金を抱えていたんですか? 」

私の問いに, 藤岡先生は少し間を置いてから答えた.

「倉田さんのお祖父様は, 広岡家を救った恩人だと伺っています. 彼が, そんな借金を抱えるはずがない」

藤岡先生の言葉は, 私の心を深く揺さぶった. 新幸が言っていたことは, 嘘だったのか? 祖父の借金は, すべて広岡家が仕組んだことだったのか?

「それに, 倉田さんの漆アレルギーの数値が異常に高まっていた件. あれは, 何者かが意図的に, 漆アレルギーを誘発する薬物を盛った可能性が高い」

藤岡先生の言葉は, 私を雷に打たれたような衝撃を与えた. 薬物を盛った? まさか, 新幸が? 莉代が?

私の頭の中で, 点と点が繋がり始めた. 新幸の言葉, 莉代の笑顔, そして, 祖父の死. すべてが, 彼らの策略だったのだ.

私の右手を奪い, 祖父を殺し, 私を絶望の淵に突き落としたのは, 新幸と莉代だったのだ. 私の心は, 怒りと憎しみで, 燃え上がりそうだった.

「先生, 私は, 彼らを許さない. 私は, 彼らに復讐する」

私の言葉に, 藤岡先生は静かに私の手を取った.

「倉田さん, 復讐は, あなたを苦しめるだけです. しかし, あなたが, もう一度, 漆芸の道に戻り, 彼らが手の届かない高みで輝くこと. それが, 彼らへの最大の復讐だと, 私は信じています」

藤岡先生の言葉は, 私の心を温かく包み込んだ. 私は, 彼の言葉に救われた. 復讐は, 私を苦しめるだけ. しかし, 私の再起は, 彼らへの最大の報いだ.

私は, 藤岡先生の支えのもと, 過酷なリハビリを乗り越えていった. 私の右手は, 少しずつ動くようになった. そして, 私の心も, 少しずつ再生されていった.

ある日, 私は藤岡先生と一緒に, 美術館を訪れた. そこには, 私の祖父の作品が展示されていた. 祖父の作品は, 相変わらず美しく, 私の心を癒してくれた.

「倉田さん, あなたの漆芸は, あなたの祖父から受け継いだものです. あなたの手は, もう一度, 奇跡を起こせるはずです」

藤岡先生の言葉に, 私は静かに頷いた. 私は, もう一度, 漆芸の道を歩む. それが, 私の使命だ.

私は, 藤岡先生に, 心からの感謝の気持ちを伝えた. 彼は, 私の命の恩人だった. そして, 私の心の支えだった.

「藤岡先生, ありがとうございます. 先生がいなければ, 私は, もう生きていられなかった」

私の言葉に, 藤岡先生は優しく微笑んだ.

「倉田さん, あなたは, 強い人です. あなたは, 必ず, 奇跡を起こせる」

彼の言葉は, 私の心に深く響いた. 私は, もう弱くない. 私は, もう愛に依存しない. 私は, 私の力で, 新しい人生を歩む.

私の心は, 漆のように黒く染まっていたけれど, その黒さの中に, 一筋の光が差し込んでいるような気がした. それは, 私の新しい人生の始まりを告げる光だった.

私は, 藤岡先生と一緒に, 美術館を後にした. 夕日が, 私たちの背中を照らしている. 私の心は, 希望に満ちていた. 私は, もう一度, 漆芸の道を歩む.

そして, いつか, 新幸と莉代が手の届かない高みで輝く. それが, 私にできる最大の復讐だ. 私は, そう誓った.

私の新しい人生の幕が, 今, 開こうとしている.

3

琴穂 POV:

リハビリは想像以上に過酷だった. 右手は, まるで他人のもののように言うことを聞かない. 指を一本動かすだけでも激痛が走り, 何度も心が折れそうになった. 漆芸の職人としての神経が, 私の中の何もかもを拒絶しているようだった.

「倉田さん, もう少しですよ. 焦らず, ゆっくりと」

藤岡先生の声は, いつも穏やかで, 私の焦燥感を和らげてくれた. 彼は, まるで私の心の痛みを理解しているかのように, 私の表情から小さな変化すらも見逃さなかった.

ある日のリハビリ中, 私は藤岡先生に尋ねた.

「先生, 私は本当に, また漆を扱うことができるのでしょうか? この手で, また筆を握れるのでしょうか? 」

私の声は, 弱々しく, 自信がなかった.

藤岡先生は, 私の右手を優しく包み込んだ. 彼の指は, 温かく, 私の手のひらに安心感を与えてくれた.

「倉田さん, あなたの手は, まだ記憶を失っていません. あなたの才能は, この手の中に宿っています. 私ができることは, その眠っている才能を呼び覚ますことだけです」

彼の言葉は, 私の心の奥底に響いた. 私の才能は, まだ失われていない. 私は, まだ諦めるべきではない.

私は, 藤岡先生の献身的な治療と, 温かい励ましによって, 少しずつ前向きになっていった. 彼の存在は, 私の人生に差し込んだ一筋の光だった.

しかし, 私の心には, まだ新幸と莉代への怒りと憎しみが渦巻いていた. 彼らが私を陥れたこと, 祖父を死に追いやったこと. この恨みは, 私が生きている限り, 消えることはないだろう.

ある日, リハビリを終えた後, 私が病院のロビーを歩いていると, 偶然, 新幸と莉代の姿を目にした. 二人は, 親密そうに寄り添いながら, 私の目の前を通り過ぎていった.

新幸は, 以前と変わらないエリート建築家の顔をしていた. 彼の隣にいる莉代は, まるで勝ち誇ったかのように, 私の方を見て薄く笑った.

私の心臓が, 嫌な音を立てる. 私は, 彼らに気づかれないように, 柱の陰に隠れた. 彼らの姿を見るだけで, 私の全身は凍り付くようだった.

「新幸先輩, 今日のプレゼン, 大成功でしたね. これで, 広岡建設も安泰です」

莉代の声が, 私の耳に届く. 彼女は, まるで新幸の妻であるかのように, 彼に寄り添っていた.

「ああ, 莉代のおかげだ. 君がいなければ, 僕はここまで来られなかった」

新幸の声は, 温かく, 莉代への深い愛情が込められているようだった. 私の心は, ズタズタに引き裂かれるようだった. 彼らが, 私の右手を奪い, 祖父を殺したのに, なぜこんなにも幸せそうにしているのだろう?

私は, 怒りと憎しみに震えた. 彼らを許すことはできない. 私は, 彼らへの復讐を誓った.

その夜, 私は自室で, 漆の道具を眺めていた. 筆, 鑿, へら. これらは, 私の人生そのものだった. しかし, 今の私には, これらを再び手に取る勇気がなかった.

「倉田さん, 眠れませんか? 」

藤岡先生の声が, 私の耳元に聞こえた. 彼は, いつの間にか私の部屋に入ってきていた.

「先生…私, 彼らを許すことができません. 彼らが, 私にしたこと…」

私の言葉は, 震えていた.

藤岡先生は, 私の隣に座ると, 優しく言った.

「倉田さん, 憎しみは, あなたを蝕むだけです. 彼らへの復讐は, あなたが漆芸の道で輝くこと. それが, 彼らへの最大の復讐だと, 私は信じています」

彼の言葉は, 私の心を温かく包み込んだ. 私は, 藤岡先生の言葉に救われた. 復讐は, 私を苦しめるだけ. しかし, 私の再起は, 彼らへの最大の報いだ.

私は, 藤岡先生に, 心からの感謝の気持ちを伝えた. 彼は, 私の人生に差し込んだ一筋の光だった.

「藤岡先生, ありがとうございます. 先生がいなければ, 私は, もう生きていられなかった」

私の言葉に, 藤岡先生は優しく微笑んだ.

「倉田さん, あなたは, 強い人です. あなたは, 必ず, 奇跡を起こせる」

彼の言葉は, 私の心に深く響いた. 私は, もう弱くない. 私は, もう愛に依存しない. 私は, 私の力で, 新しい人生を歩む.

私は, 藤岡先生と一緒に, 夜空を見上げた. 星が瞬いている. 私の心は, 希望に満ちていた. 私は, もう一度, 漆芸の道を歩む.

そして, いつか, 新幸と莉代が手の届かない高みで輝く. それが, 私にできる最大の復讐だ. 私は, そう誓った.

私の新しい人生の幕が, 今, 開こうとしている. この手で, もう一度, 奇跡を起こしてみせる.

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右手を失い、愛も失った

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