話 2
詩織の視点
翌日、早朝の陽光が大きな窓から部屋いっぱいに差し込んでいた。
肋骨の骨折による鈍い痛みに耐えながら、私は厚手のコンシーラーで青白い顔色を隠し、きりっとしたビジネススーツに身を包んだ。
樹は荊棘の群れのアルファであるだけでなく、桐山グループのCEOでもある。そして、私は彼の首席秘書だ。
外から見れば、私は樹が最も信頼し、最も有能な助手であり、常に冷静かつ効率的なプロフェッショナルである。
だが、誰も知らない。私が、彼が世間に決して明かさない秘密の番であることを。
樹が、私の中に狼がいないという事実をずっと気にしていることを、私は知っていた。だからこそ、彼は私たちの関係を公にすることを望まなかった。私はただ黙って彼に尽くし、いつか彼が心変わりする日を待ち続けていた。
だが、今となっては、すべてが無意味だ。
私は会社に入ると、まっすぐ秘書部の部長のオフィスへ向かい、辞表を彼女の机の上に置いた。
「辞めるって?」 秘書部長は眼鏡を押し上げ、驚きに満ちた顔をした。「詩織、あなたは樹が最も信頼している人よ。桐山グループにあなたがいなくなったら困るわ。 このこと……樹本人は知っているの?」
「彼は気にしないでしょう」私は平静に、職業的な微笑みを浮かべて答えた。「数日中にすべての業務を引き継ぎますので、会社にご迷惑をおかけすることはありません」
秘書部長は何か言いたげだったが、結局はため息をつき、書類にサインをした。
オフィスを出た後、私は深く息を吸い込んだ。胸の痛みが告げていた。あの交通事故の傷は、見た目よりずっと深いと。
自分のデスクに戻ろうとしたその時、休憩室から聞こえてくる同僚たちのひそひそ話が、ふと耳に入った。
「聞いた? あの"本当の"ヒロインが戻ってきたって」
「藤森藍さんのこと? どうりで昨日、アルファがオークションであんなに気前よく、『月光石の涙』のネックレスを五千万で落札したわけだ」
「信じられない。あのネックレスは番の永遠の忠誠を象徴するものよ! アルファは彼女を本当に溺愛しているのね」
私の足は、その場で凍りついた。
月光石の涙。
私たちが番の契約を結んだ日、私は雑誌でそれを見たことがあった。
ネックレスは全体が透き通るように輝き、月光の下では神秘的な青い光を放つ。伝説によれば、それは月の女神が狼人の番に与える、最も誠実な祝福なのだという。
当時、私は顔を赤らめ、雑誌の写真に指を差して樹にささやいた。「このネックレス、とても綺麗」
彼はただ一瞥しただけで、気のない様子で言った。「あれは正式なルナの儀式を終え、認められた番だけが身につけられるものだ。 詩織、君は狼化すらできない。それを身につければ、狼の群れのメンバーの反発を招くだけだ。 分別をわきまえろ。俺に余計な面倒をかけるな」
そう、ネックレスを身につけることが規定に反するのではなく、私にそれを身につける資格がなかったのだ。
「詩織、この書類、急ぎでアルファのサインが必要です。届けてもらえますか?」 若い秘書が駆け寄ってきて、私の思考を遮った。
私は書類を受け取ったが、指先がわずかに震えていた。
CEOオフィスのドアを開けた瞬間、私は一生忘れられない光景を目にした。
樹が彼の大きなオフィスチェアに座っており、藍がその隣で、デスクの端に腰掛けていた。
彼女は純白のシルクのロングドレスをまとい、その姿は一層か弱く、憐れみを誘うように見えた。
いつも冷酷な樹の瞳が、今は優しさに満ちている。彼は、藍が親しげに彼の首に腕を回し、頬に軽くキスをするのを、されるがままに受け入れていた。
「パサッ」という音がした。
私の手からファイルが床に落ちた。散らばった書類は、まるで私の砕け散った心のようだった。
二人は同時にこちらを振り返った。
樹の眼差しは、瞬時にいつもの冷たさを取り戻し、邪魔をされたことへの不快感さえ帯びていた。
「入る前にノックもできないのか?」彼は冷たく問い詰めた。
藍は驚いた子鹿のように、慌ててデスクから飛び降りた。だが、すぐに落ち着いたふりをして歩み寄り、私の手を取って言った。「詩織、誤解しないで。私、嬉しすぎちゃって…… 樹が、とても高価なプレゼントをくれたの」
彼女は私の手を握りながら、わざとらしく自分の首にかかったネックレスを見せつけた。
巨大な月光石が光を反射し、目に突き刺さるような輝きを放つ。それは、私の頬に容赦なくビンタを食らわせたかのようだった。
「綺麗でしょう?」藍は甘く微笑んだが、その瞳には私にしか分からない挑発の色が宿っていた。「樹が言ったの。この『永恒の忠誠』にふさわしいのは、私だけだって」
胸の奥に、細かな痛みが広がった。まるで鈍いナイフで引き裂かれるように。
私は必死に自分を立たせ、完璧な微笑みさえ浮かべて答えた。「とても綺麗。あなたにとても似合っているわ」
私は身をかがめ、肋骨の骨折箇所に走る激痛に耐えながら、床に散らばった書類を一枚一枚拾い集め、樹のデスクの上に静かに置いた。
「アルファ、こちらの書類をご確認ください」
私がこれほど平静なのを見て、樹の眼差しに、かえって言いようのない不安の色がよぎった。
私が立ち去ろうとするのを見て、彼は珍しく口を開いて説明した。「藍が戻ってきたばかりだから、祝いのプレゼントを贈っただけだ。誤解しないでくれ」
「はい」 私は頷き、それ以上何も言わず、彼のその後の反応を完全に無視してオフィスを後にした。
退勤後、私は二人で暮らしていた別荘に戻り、荷造りを始めた。
この家には、私たちの共同生活の痕跡が至る所に残っている。だが今、一つ一つの品物が、私の片思いを嘲笑っているかのようだ。
私は自分の服を一枚一枚丁寧に畳み、スーツケースに詰めた。彼がかつて私に贈ってくれた高価な宝飾品は、一つも手に取らなかった。
私は、本当に自分自身のものだけを持って行きたかった。
スーツケースの蓋を閉めた瞬間、背後から慌ただしい足音が聞こえた。
続いて、樹の怒りに満ちた声が響いた。「詩織、一体何をしているんだ!?」
話 3
詩織の視点
樹がこんなに早く戻ってくるとは思わなかった。
私が口を開く間もなく、樹は大股で近づき、スーツケースを閉じようとした私の手首を驚くほど強い力で掴んだ。
すでに荷造りを終えたスーツケースを見て、彼は問い詰めた。「もう説明したはずだ。あれは藍への祝いプレゼントだと。 今、荷物をまとめて家出しようってわけか? 詩織、お前は群れのルナだ。もっと分別を持て」
彼の整った、しかし冷酷な顔を見つめると、無力でやりきれない気持ちが胸に広がった。
彼はいつもそうだ。私の痛みも不満も、ただのわがままと決めつける。
こんな時に彼と無駄な争いはしたくなかった。ましてや、あの解除契約書を見つけられるわけにはいかない。
「わがままなんかじゃない」 私は目を伏せた。「ただ、クローゼットに古いものが多すぎて、季節の変わり目だし、整理して捨てようと思って。 新しいものが入ってくれれば古いものは出ていく」
樹は長い間私を見つめ、言葉の真偽を探るようだった。
私の表情が落ち着いていて、以前のような哀しみが消えているのを見て、彼の顔色がようやく少し和らぎ、手を放した。「そう考えてくれるなら、それが一番だ」
「樹?」
突然、ドアの向こうからか細い声が聞こえた。
はっとして顔を上げると、藍が立っていた。薄手のシルクのロングドレスに、樹のジャケットを羽織っている。そのジャケットからは、樹独特の香りがした。
彼女はドア枠に寄りかかり、顔色は青白く、今にも折れてしまいそうな可憐な花のようだった。
「どうして藍がここに?」思わず声が出た。心臓が針で刺されたように痛んだ。
「藍はしばらくここに住む」 樹は彼女のそばへ歩み寄り、ごく自然に肩を抱いた。その慣れた仕草が目に痛い。「最近、彼女のファンがストーカーまがいの行動をしていて、仮の住まいではもう安全じゃない。 新しいマンションが見つかるまで、ここが一番いい」
彼は振り返り、警告めいた目で私を見た。「お前はこの家の女主人だ。彼女をきちんと歓待しろ。ルナでありながら、群れの仲間を排斥したなんて噂は絶対に聞きたくない。 わかったな?」
彼らが並んで立つ姿は、不条理極まりなかった。
私の番が、初恋の相手を私たちの家に連れてきて、その上、正妻の私に彼女をもてなせだと?
「ええ」 自嘲の苦笑いが漏れた。「しっかりおもてなしするわ」
使用人たちはすぐに動き出し、藍の部屋は私の寝室の隣に決まった。そこはもともと、子どものベビーベッドを置く予定だった部屋だ。
樹は自ら準備を手伝い、藍が好きなラベンダーのアロマを焚くよう細かく指示していた。
隣の部屋から聞こえる楽しそうな笑い声は、鋭い刃のように、すでに砕けた私の心を何度も切り裂いた。
夜が更け、私は疲れと鈍い痛みを引きずって浴室に入った。
温かいシャワーが体を流すが、骨の髄まで染み込んだような寒気は消えない。
鏡に映る青白い顔と、事故でできた胸の青あざを見て、とうとう涙がこぼれた。
あと六日。
あと六日だけ我慢すれば、すべてから解放される。
シンプルなシルクのキャミソールに着替えて浴室を出ると、湯気で視界がぼやけていたため、部屋にもう一人いることに気づかなかった。
「きゃっ!」
足を滑らせ、バランスを崩して後ろに倒れそうになり、思わず悲鳴を上げた。
想像していた痛みは来なかった。代わりに、熱くてしっかりした腕が私を受け止めた。
樹の大きな手が私の腰を強く抱き、もう片方の手が後頭部を支え、私をその胸に閉じ込めた。
彼から漂う、強烈で攻撃的なシダーウッドの香りが、一瞬で私の五感を支配した。
「どうした?もう歩けなくなったのか?」低くかすれた声。
「放して……」体勢を立て直そうともがいた。「あなた……藍のそばに行かなくていいの?」
その言葉に、樹の目が暗くなった。彼は手を離すどころか、ますます強く抱きしめた。 指先が私の濡れた髪を伝い、首の後ろへ。そこは狼人にとって最も敏感な腺がある場所だ。
「詩織、忘れるな。俺はお前の番だ」 彼は頭を下げ、熱い吐息が鎖骨にかかり、小さな震えが走った。「昨夜は結婚記念日だ。ちゃんと優しくしてやるって言ったろ」
彼の手が無遠慮に上へ動き、ざらついた指先が私の繊細な肌を這い、忘れていたはずの感覚を呼び覚ましていった。
彼は私の心と体をどう煽ればいいか、あまりにも熟知していた。
「や……ん……」
拒否の言葉は、彼の強引なキスに飲み込まれた。
そのキスに優しさはなく、罰するような独占欲だけがあった。
彼は無理に私の歯をこじ開け、狂ったように息を奪い、まるで私を丸ごと喰らおうとしているかのようだった。
私はベッドに押し倒され、彼の重い体が覆いかぶさった。
シルクのキャミソールがもつれの中で滑り落ち、白い肌が露わになる。
彼の唇は首筋から鎖骨へと降りていき、そこにいくつもの赤い痕を刻みつけた。
「樹……」私は乱れる意識のまま彼の肩にしがみつき、爪が筋肉に食い込んだ。
この一瞬、私はひどく恥ずかしかった。それでも、体は彼の作る甘い罠に抗えず、この最後の偽りの温もりにすがりついていた。
彼の手がキャミソールの裾に滑り込み、掌の熱は驚くほど高かった。彼が最後の一歩を進め、私を完全に支配しようとした、その時——
「きゃあ!樹!助けて!」
隣の部屋から、藍の甲高い悲鳴が突然響き渡った。