1

神崎夕凪が布川グループの後継者と結婚した日、布川家の誰一人として祝福に現れる者はいなかった。唯一、布川家の祖母だけが電話をかけてきた。

「賭けをしない?」

「三年経っても、あなたたちが変わらず仲睦まじければ、布川家の皆を説得してみせる」

「でも逆なら、和馬を去ってちょうだい。私があの子にふさわしい家柄の娘を見つけてあげる」

神崎夕凪は顔を上げて、その賭けに応じた。

布川和馬は命を懸けて彼女を愛し、家族と袂を分かつ覚悟までした男だ。三年すら乗り越えられないはずがないと思っていた。

――けれど、結婚から三年目のある日。布川和馬は、裏切った。

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神崎夕凪が妊娠八ヶ月を迎えた頃、布川和馬は新しい女性秘書を雇った。どこへ行くにも必ず連れ歩き、その様子は誰の目にも明らかだった。

「布川社長、あれは完全に“気晴らし”の愛人ってやつじゃないの?」そんな噂が飛び交う中、布川和馬はただ穏やかに微笑むばかり。女性秘書もまた、はにかんだ様子で視線を伏せ、人々の想像をさらに掻き立てた。

この艶めいた風聞は、すぐさま神崎夕凪の耳にも届いた。

「結局、男なんてそんなもんよ。あれだけ奥様を甘やかしてたくせに、妊娠した途端に我慢できずに愛人作るなんてさ。 しかも、あれだけ堂々と連れ歩くなんてね」

「男って、好きなうちは命を差し出す勢いだけど、冷めたら相手の命なんて簡単に踏みにじるのよ」

「今夜はあの秘書を連れて、布川家の老父の八十歳の誕生祝いにも出席するんだって。いやはや、呆れるばかりね」

神崎夕凪の顔から、笑みが一瞬で消えた。視線はスマートフォンの画面に釘付けになる。そこには、さっき布川和馬から届いたばかりのメッセージが表示されていた。

【今夜のご隠居の八十寿のお祝い、君は来なくていい。どうせまた“礼儀”だなんだと立たされるだけだしな。妊娠中の君は、もう布川家にとって最大の功労者なんだから、あっちが何か言ってきたら、俺が全部かぶる】

最初にこのメッセージを見たときは、正直なところ、少し感動してしまった。なにせ和馬が自分と結婚すると言い出したとき、布川家全体が猛反対した。中でも最も強硬だったのが、ご隠居――布川家の祖父だった。神崎夕凪の出自が低すぎる、と。あんな女は、うちの宝である布川和馬にはふさわしくない、と。

あのとき、布川和馬は黙って祖父の目を見据えたまま、言葉一つ発さず、静かに一丁のリボルバーを取り出した。弾は一発だけ。その銃をこめかみに当て、無言で引き金を引いた。

和馬は、乾いた笑みを浮かべながらリボルバーを祖父に差し出した。

「――賭けるか? もし、あなたが運悪く死んだら、俺を止める権利も一緒に消えるってことだ」

ご隠居は怒りのあまり全身を震わせていた。布川和馬はそんな彼に銃を差し出したが、受け取られることはなかった。すると彼は、空中に向けて一発撃ち、弾が入っていないことを確認すると、今度は迷うことなく自分に向けて引き金を引いた。

連続する三発の乾いた銃声が部屋に響いた。ご隠居は胸を押さえ、唇を紫に染めながら、かすれた声で言った。

「……もう好きにしなさい。誰を娶ろうと、私はもう知らん」

「不幸な家だ、不幸な家だよ……」

こうして、布川和馬が命を賭して神崎夕凪を娶ったという事実は、瞬く間に世間の知るところとなった。

神崎夕凪は、布川和馬に心を寄せるあまり、自分の存在が彼を煩わせることのないよう、結婚してからの三年間、布川家のどの行事にも一度も顔を出さなかった。そんな神崎夕凪に対し、布川和馬はこう言った。

「俺の女が、他人の顔色をうかがう必要なんてない」

それを知る者は、彼がどれだけ妻を大切にしているかと口をそろえて言った。だが、知らぬ者からは、神崎夕凪は布川家の長輩に疎まれ、表に出せない存在なのだと、そう噂されていた。――なのに、彼は今、人前で愛人を伴っているというのか?

夜の宴会場。神崎夕凪が足を踏み入れたその瞬間、ちょうど布川和馬が一人の女を連れてエレベーターへ乗り込むところだった。閉まりゆく扉の合間から、ふたりが唇を重ねる姿が見えた。

頭の中が真っ白になった。見てしまうまでは、まだ信じずにいられた。耳で聞く噂など、所詮は虚ろなものだと自分に言い聞かせることもできた。なにしろ布川和馬は、毎晩家に帰ってきた。自ら妊娠線予防のオイルを塗ってくれて、お腹の中のベイビーに語りかけ、会議中であっても神崎夕凪の電話にはすぐ出てくれた。「ベイビー、いい子にしてた?俺も君に会いたかったよ」

そのひと言ひと言、仕草ひとつひとつが、どれほど自分を愛してくれているかの証のようだった。

震える体で、神崎夕凪は同じエレベーターに乗り込んだ。内部にはまだ、布川和馬の纏っていたシダーの香りがほんのり残っていた。それは妊娠中の彼女がいちばん好んだ匂いだった。つわりで吐き気に襲われているときも、この香りを嗅げば少しだけ楽になった。

だからこそ、香水アレルギー体質にもかかわらず、布川和馬は毎日この香りを身にまとってくれた。

肌が湿疹だらけになっても、「夕凪とベイビーのためなら、何だってできる」と、笑って言ってくれた。

けれど――そのエレベーターの中で、神崎夕凪の鋭敏になった妊婦特有の嗅覚が、別の香りをとらえた。女性用の香水だった。

足元がふらついた。彼の「限界」なんて、その程度だったのだ。彼女だけは特別で、唯一の存在だと信じていたのに。――それも、彼にとっては容易く覆せる幻想にすぎなかった。

2

「ピン――」という音と共にエレベーターの扉が開く。

中から聞こえてきたのは、女性秘書のはにかんだ声だった。

「布川社長……まだ扉、開いてますよ……恥ずかしいです」

布川和馬は低く笑う。

「このフロアに入れるのは俺だけだ。何を恥じる必要がある?……それに、こういうの、ちょっとスリルがあって、悪くないだろう?」

次の瞬間、布が裂ける音と、女性秘書の甘い声が静寂を破った――。

神崎夕凪の足取りは、次第に重くなっていった。この場所に見覚えがある――布川和馬と付き合っていた頃、彼に連れられて来たことがあった。あのときと同じように、彼は甘い言葉で彼女を誘い、二人は抑えきれないほどに求め合った。

――死に物狂いで、貪るように。あのとき使ったのは、全部で18の部屋。どの部屋にも、二人の痕跡が残っている。熱くて、むさぼるような、愛の記憶。

だが今回は、少し違っていた。結婚したとき、布川和馬は夕凪の指紋と虹彩をセキュリティに登録していた。そのおかげで、女性秘書を騙しても入れなかったこのフロアに――神崎夕凪だけは、足を踏み入れることができた。

「きゃっ!」突然、女性秘書が叫び声を上げた。驚いた彼女は、咄嗟に布川和馬の背中に隠れた。

「だ、誰かいる…!」

黙々と作業に没頭していた布川和馬の背中が、不意にぴたりと止まった。ゆっくりと振り返るその耳には、まだ澄んだ水音が残響している。

彼は何の躊躇いもなく振り返った。神崎夕凪の目に飛び込んできたのは、かつて彼女にこの上ない快楽を与えた、見慣れすぎた身体だった。

視界が一瞬、真っ暗になる。神崎夕凪はそのまま意識を失いかけ、しかし布川和馬が素早く抱きとめた。火照った体温が肌越しに伝わり、吐き気が込み上げる。夕凪は勢いよく和馬を突き放し、二度と近づけまいと必死に距離を取った。

そんな彼女の拒絶に構わず、布川和馬は冷ややかな視線を女性秘書に向ける。その声は、氷の刃のように冷たかった。

「俺、言ったよな。うちの奥様を不機嫌にさせたら、どうするべきかって」

女性秘書は歯を食いしばりながら、神崎夕凪の目の前に膝をついた。そして自分の頬を、左右交互に強く叩きはじめた。

「奥様、すべては私の過ちです。布川社長の身体に魅了され、私のほうから誘惑してしまったんです。彼はただ、世の男たちがよく犯すような過ちを犯しただけで……でも、本当に愛しているのは、あなただけなんです」

滑稽だと、神崎夕凪は思った。だが目の端に映ったのは、女性秘書を満足げに見つめる布川和馬の顔だった。あたかも、彼女の芝居に合格点を与えているかのように――。

下腹部が鈍く痛みはじめ、夕凪はこれ以上この茶番に付き合う気はなかった。病院に向かおうと身を翻したその瞬間、布川和馬が手を伸ばして彼女の腕をつかんだ。そして女性秘書のほうへ視線を移し、冷ややかに言い放つ。

「どうやら、君の誠意は足りなかったようだ。うちの奥様は、君を許す気などないらしい」

女性秘書は唇を噛みしめながら、布川和馬の氷のような視線を背に、裸同然の姿で部屋を出ていった。神崎夕凪は目を見開き、まるで現実とは思えない光景に息を呑む。

布川和馬はすでに服を整えており、ゆっくりと夕凪へ歩み寄ってくる。その瞳に浮かぶのは、寸分の濁りもない愛情――まるで先ほど浮気現場を押さえられたのが彼ではないかのように。

「夕凪。俺の心の中にいるのは、君だけだ。君を傷つけるような相手は、絶対に許さない」

神崎夕凪は怒りに震え、足元から力が抜けてしまった。もう、自分の力では歩けない。ただ、布川和馬の腕に抱きとめられるまま、身を預けるしかなかった。声を振り絞って、神崎夕凪は彼を責めた。

「始まりは……あなたでしょ」

「夕凪、それは違うよ。 僕は君の夫だ。君と僕は一心同体。だから、君を傷つけないために、僕はこうするしかなかったんだ。だけど――あの丘村晴香なんて、何の価値がある? 君を不快にさせたなら、その代償は払ってもらうしかないだろう」

そう言いながら、布川和馬は神崎夕凪の唇の端に口づけた。それはかつて、神崎夕凪が何よりも愛していた仕草だった。拗ねたときも、怒ったときも、彼はこうして優しくついばみ、気づけば彼女の機嫌を直していた。

けれど今――彼の口もとからは、他の女の匂いがした。その瞬間、神崎夕凪の視界が真っ暗になった。そして彼女は、ゆっくりと意識を手放した。

神崎夕凪が目を覚ましたのは、二人の看護師のひそひそ声がきっかけだった。

「聞いた? 布川夫人が入院したの、旦那と女性秘書がベッドにいるとこ見ちゃったからなんだって。 ショックでその場で倒れたらしいよ」

「でも布川社長、奥さんのためにその女を全裸で街中歩かせたんだってさ。いや〜、あれはエグい」

「それでも布川夫人は運がいいよね。親もいないのに、あんな完璧な男捕まえるなんて、前世でよっぽど徳を積んだんじゃない?」

輸液ボトルを取り替えた彼女たちは、そのまま何事もなかったように部屋を後にした。神崎夕凪は、ゆっくりと目を開け、苦笑を浮かべた。

――運が、いい?

そう思っていた時期も、確かにあった。布川和馬は、財も容姿もすべてを持ち合わせていて、ロマンチストで優しい。まさに、理想そのものの男性だった。だからこそ、何度も訊いたのだ。(私は前世で、いったいどれだけ徳を積んだら、あなたと出会えるの?)と。

布川和馬は彼女を抱き上げ、その逞しい太腿の上に跨らせると、まるで蜜を含んだような甘い声で囁いた。

「きっと前世で相当な徳を積んだから、君を嫁にもらえたんだな」

その言葉がまだ耳に残る中、次の瞬間、彼の姿は丘村晴香のSNSに現れた。

【まったくもう、さっきまで泣かせといて、すぐにすり寄ってくるんだから。でも、こんなにイケメンで優しいから……許してあげる♡】

あの手が、涙を拭ってくれたあの手が、マッサージしてくれたあの手が――今は別の女のために海老を剥いていた。真っ赤な油が婚約指輪の青いダイヤに飛び散り、汚れて、目に刺さるほどだった。

彼女は痛みに耐えながら点滴針を引き抜き、大きくなったお腹を抱えて病院を出る。向かったのは、亡き両親が生前暮らしていた、あの古びた家だった。

けれど、建物の下に立った瞬間、またしても布川和馬のことが頭をよぎる。

この家から彼に連れ出された日のことを思い出す。

あの日、彼はこう言った。

「君の前半生はご両親が育ててくれた。これからの後半生は、俺が守る」

――けれど、その“後半生”が、こんなにも短いものだとは知らなかった。

狭くて暗い階段を一段ずつ登りながら、ようやく扉を開けたそのとき、目に飛び込んできたのは、布川和馬が丘村晴香の腰を抱き寄せ、強引にキスを交わす光景だった。

3

「出ていって!」

神崎夕凪は涙を流しながら怒鳴った。ここは彼女の家、幼い頃の幸せな記憶が詰まった、大切な我が家なのだ。

ソファの上のクッションを掴んで二人に向かって投げつけようとしたその瞬間、布川和馬の大きな手がそれをあっさり奪い取った。

「夕凪、落ち着け。晴香は君の代わりに家を見てくれていただけなんだ」

「私の家に見張りなんていらない……出てって、二人とも今すぐに!」

神崎夕凪は、妊娠八ヶ月の大きなお腹のことなど気にも留めず、前に出て二人を押し返そうとした。

布川和馬の身体は大きくてびくともしなかったが、丘村晴香はそうはいかなかった。身長164センチの華奢な彼女は、170センチの神崎夕凪に押されてそのまま床に倒れ、後ろにあったダイニングテーブルに身体をぶつけた。テーブルの上に置いてあったものがガシャンと音を立てて崩れ落ち、そのまま丘村晴香の上に降りかかる。 けれど丘村晴香は一言も声を上げなかった。弱々しく見えて、どこか芯のあるその姿が布川和馬の胸に刺さる。彼は神崎夕凪の手首を掴み、冷たい声で言い放った。

「晴香はもう、償うべきことは償った。君はそれでも責め続けるつもりか?」

神崎夕凪はその言葉に、数秒だけ呆然とした。しかしすぐに、表情を引き締める。

あの日、丘村晴香を罰したのは、神崎夕凪のために怒りをぶつけたわけじゃなかった。むしろ、彼女に道を用意するためだった。全裸を衆目にさらされる以上の屈辱があるだろうか? いや、あれ以上の罰はなかったし、これからも現れることはない。

神崎夕凪の瞳に宿っていた哀しみは、やがて凍てついた冷たさへと変わる。布川和馬を真っすぐに見つめ、きっぱりと口を開いた。

「離婚しましょう、布川和馬。布川夫人の座は、あなたの大切な人に譲るわ」

布川和馬の眉間に深い皺が寄る。

「夢でも見てるのか、神崎夕凪。俺の辞書にあるのは“死別”だけで、“離婚”なんて言葉はない」

その言葉が落ちた瞬間、神崎夕凪の目尻から涙がすっとこぼれ落ちる。布川和馬の胸に痛みが走る。慰めの言葉をかけようとしたが、すぐに思いとどまった。彼女はいつも穏やかで寛容だったのに、こんな些細なことで騒ぎ立て、彼の平穏を奪った――そう思えば、冷たくするしかなかった。

「よく考えておけ。あとで運転手に迎えに行かせる」

「それから……この家の名義は俺だ。俺が決めることだ」

そう言い残し、彼は丘村晴香を腕に抱き、背を向けて去っていった。

廊下が再び静けさを取り戻すのを待ってから、神崎夕凪はようやく顔を上げた。目の前に広がる部屋は、もはや見覚えのある姿ではなかった。両親が遺した古い家具はすべて消え失せ、代わりに置かれていたのは、どれも現代的な意匠のものばかり。布川和馬は、丘村晴香にこの家を好き放題させたのだ――彼女の大切な場所を、壊させたのだ。

涙が止まらなかった。

あの日、両親が突然この世を去り、ローンが残るこの家だけが手元に残された。支払いの滞納が続き、銀行が差し押さえに来たとき、神崎夕凪は膝をつき、頭を下げて懇願した。ただ、この家だけは奪わないでと。そのとき、布川和馬と出会った。

彼は神崎夕凪に一目惚れしたが、彼女が十八歳に満たないことを理由に、すぐには手を出さなかった。代わりに、滞納分のローンを肩代わりし、それを知られぬよう、あたかも自分がこの家を買い取ったかのように装ってみせた。神崎夕凪は「借りている」身のまま住み続けたが、実際には一度も家賃を求められたことはなかった。十八歳の誕生日の夜、布川和馬はついに想いを告げた。神崎夕凪はすべてを許し、すべてを捧げた。その日からふたりは恋人となり、彼の家で暮らし始めた。

布川和馬はこの家を彼女の名義にするとまで言ってくれたが、神崎夕凪は首を振った。

「私は、この家をあなたが私に遺してくれた証として、ずっと覚えている。これは、あなたが私を愛してくれた形そのものだから」

当時の彼女は、きっと想像もしなかったのだ。五年後の今日――布川和馬が、名義は自分であることを理由に、この家に別の女を住まわせるなんて。

神崎夕凪には、どうして布川和馬の心が変わってしまったのか、さっぱり分からなかった。ふと視線を落とすと、ソファの下に父母の写真が落ちているのが見えた。胸がぎゅっと痛んで、拾い上げようとしたが、大きなお腹では腰をかがめることすら叶わない。

込み上げる悔しさと哀しみが堰を切ったようにあふれ出し、彼女は再び声を上げて泣いた。

夫はもういない。家庭も壊れかけている。両親が遺してくれた、たった一枚の写真――それだけは、どうしても失いたくなかった。

しゃがめないなら、せめて膝をつくしかない。床に膝をついた瞬間、かつて割れたガラスの破片が皮膚に深く刺さり、神崎夕凪の顔色は一瞬で真っ青になった。腹部に鈍い張りが走る。彼女は必死に呼吸を整えながら、119に電話をかけた。

救急車を待つあいだ、布川おばあ様の番号を押した。

「おばあちゃん……あのときの賭け、まだ有効ですか?」

受話器の向こうから、ふっと笑う気配が伝わってきた。

「もちろんよ。ただし、あなたは今、布川家の血を宿している。行きたいなら、産んで、産後のケアを終えてから。私がきちんと送り出してあげるわ」

電話を切った神崎夕凪の脳裏に、結婚前夜の出来事がよみがえった。あのとき布川和馬の祖母――布川おばあ様が彼女を訪ねてきて、こう持ちかけたのだ。「和馬がいつ心変わりするか、賭けをしませんか?」

神崎夕凪はあっけらかんとした顔で、迷うことなく答えた。「和馬さんは、絶対に裏切ったりしません」

布川おばあ様は穏やかに微笑み、首を横に振った。「男っていうのはね、本質的に冷たい生き物なの。三年保てば上出来よ。そのときは、布川家全体を説得して、あなたを正式に迎え入れてもいい。

でも、もし三年もたなかったら……あなたのほうから和馬を離れてちょうだい。私たちは、家の格に見合った新しい相手を探すから」

神崎夕凪は、その申し出を潔く受け入れた。

今となっては、あまりに皮肉だ。もうすぐ三周年の記念日だというのに、そして運命なら、その前後に赤ちゃんも生まれてくるはずなのに。

けれど――布川和馬は、それすら待てなかった。

医師が駆けつけたとき、神崎夕凪はすでに痛みで呼吸もままならず、吐く息ばかりで吸う余裕もなかった。簡単な内診ののち、すでに赤ん坊の頭が見えていると告げられた。

設備はお粗末で、衛生状態も決して良いとは言えない。それでも、神崎夕凪は病院にたどり着ける状態ではなかった。応急的に消毒を済ませ、医師の指示に合わせて必死に力を振り絞った。それから三十分後、部屋の中に甲高い産声が響いた。

神崎夕凪は胸に抱いた小さな、しわくちゃの命を見つめ、目に涙を浮かべながら笑った。

「パパ、ママ……あたし、この家で生まれたんだよ。ぐるっと回って二十三年。いま、あたしの子も、ここで産まれたよ」

「天国にいるふたりが、願いを叶えてくれるって信じてる」

――この子を連れて、無事に布川家を出られますように。

その知らせを受け、布川家の祖母が専門の医療チームを連れて急ぎ駆けつけた。その頃には、赤ちゃんは神崎夕凪の胸に顔を埋め、おっぱいを吸っていた。

祖母は冷ややかな眼差しを向け、一言だけ告げた。

「お宮参りの日に、送り出す手配をしておくわ。2億円のカードも渡す。それっきり――二度と戻ってこないことね」

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あの人の未来に、私はいない

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