話 2
「林冷煙、 あなた何してるの? お母さんを放しなさいよ!」 従妹の愛莉は不満げに言った。 「お母さんが親切に面倒を見てあげなかったら、 あなたたちなんてとっくに死んでたわよ、 それなのに、 何年も家を出て働いて、一度も帰ってこないなんて、 まさか、外で妊娠して子供でも産んだんじゃないでしょうね? 本当に下品な女……」
愛莉は嘲笑った。
心の中では、冷煙が帰ってきたことで、これからは二人で自分たちの面倒を見てくれる、それも悪くないと考えていた。
次の瞬間、冷煙が突然歩み寄ってきた。
「ドン!」
食卓が蹴り飛ばされた。
上の料理が床に散らばり、あたりは惨憺たる有様になった。
「きゃあああ!」
冷煙は手近にあった花瓶を掴むと、そのまま愛莉と叔父に向かって投げつけた。 瞬間、二人は血を流し、悲鳴を上げて震え上がった。
「一日やる、私の家から出ていけ!」冷煙の声は冷たく、まるで地獄から響いてくるかのようだった。 言い終えると、彼女は妹を抱きかかえて家を飛び出し、タクシーを拾って病院へと向かった。
別荘の中は、泣き叫ぶ声で大混乱に陥っていた。
「お母さん、あの女、私を殴ったのよ!顔が切れたわ、このままじゃ顔が台無しになっちゃう!」 愛莉は鏡を見つめ、怒りと悔しさで泣き叫んだ。
高橋恵美(旧姓・藤原)も怒りで震えていた。 「あの女、数年家を空けていた間に、ますます大胆になったわね!もしまた戻ってくるようなら、今度こそ徹底的に懲らしめてやる、私たちはもう昔の私たちじゃない、今や私たちの会社は北斗事業連合と提携しているんだから、あんな小娘一人、怖がる必要なんてないわ!」
そう言うと、恵美は娘を心配そうに見つめた。 「大丈夫よ、愛莉、今すぐ病院に連れて行ってあげるから!」
……
病院。
「脚の骨折はかなり前からですね、全身に傷があり、歯も数本折れています、あなた、姉の資格あるの?」 医師はこれまで様々な患者を見てきたが、それでもこの状況には大きな衝撃を受けていた。
冷煙は声を潜めた。 「私のせいです」
前髪が顔を覆い、その表情は読み取れない。
彼女が素直に反省している様子を見て、医師もそれ以上きつい言葉は言えなかった。 「傷の手当ては済ませておきました、もし誰かにいじめられているなら、必ず警察に通報しなさい」
医師は親切に忠告した。
冷煙は頷き、若菜のベッドのそばへと歩み寄った。
十九歳の少女は、信じられないほど痩せ細っていた。 その手首は、少し力を入れただけで折れてしまいそうなほど華奢だ。
短い髪は雑草のようにパサつき、不揃いに切られていた。
冷煙はゆっくりと布団をめくった。
少女の肌には、鞭の痕や傷跡、そしてタバコの火で焼かれた痕がびっしりと刻まれていた。 冷煙は全身に湧き上がる怒りをもう抑えきれず、目から涙が溢れ出した。
「お姉ちゃん……」
突然、ベッドの上の少女がかすかに呟いた。
冷煙はすぐに彼女の手を握りしめた。 「お姉ちゃんはここにいるよ」
「お姉ちゃん、私……会いたかった」若菜はかすれた声で呟いた。
冷煙は彼女の手を強く握りしめ、涙を雨のように流した。 「ごめんね、若菜……ごめんね、プロジェクトを成功させれば、若菜にもっと良い暮らしをさせてあげられると思った、お姉ちゃんが間違っていた、もう二度と、若菜を一人にしないから」
冷煙の温もりを感じたのか、少女の眉間の皺が徐々に和らいでいった。
若菜が落ち着いたのを確認し、冷煙は会計を済ませるために立ち上がった。
「お支払いはこちらで済んでおります」 会計窓口で、 看護師が親切に告げた。
冷煙は眉をひそめた。 誰が?
まさか、須藤雅樹?いや、彼がこのことを知っているはずがない。
「どなたが支払ってくださったか、調べていただけますか?」冷煙は尋ねた。
看護師は言った。 「申し訳ありませんが、私たちには権限がありません、ご家族の方かもしれませんね、直接お尋ねになってみてはいかがでしょう」
「ご家族」という言葉に、冷煙の表情は曇った。 それ以上は何も言わず、自分で調べるために踵を返そうとした。
病院の廊下。
恵美は、娘の愛莉の傷の手当てを終えたばかりだった。
「絶対に林冷煙を許さない」 愛莉は憎しみに燃えていた。
「大丈夫よ、林冷煙はただじゃ済まないから、あなたも落ち着いて、顔の傷がまた開いてしまうわ」 恵美は娘を心底心配していた。 「あなたも、お姉ちゃんを見習って、もう少し落ち着きなさい」
姉のことを思い出すと、愛莉の表情は得意げになった。 「いいじゃない、お姉ちゃんが優秀なんだから、今じゃ臨江ダンス団で最年少のダンサーよ、あの若菜なんて、お姉ちゃんと張り合おうとするから、脚を折るのも当然だわ!もしお姉ちゃんが私がこんな目に遭ったって知ったら、きっとすごく心配してくれるはずよ」
「お姉ちゃんは今、大事な時期なんだから、今はまだ言わないでおきなさい」 恵美は娘の鼻をつまんだ。 ふと顔を上げると、冷煙の後ろ姿が目に入った。
愛莉もそれに気づき、自分の顔の傷を思い出すと、怒りで胸を波立たせた。 手に持っていたスタッズ付きのバッグを掴むと、ためらうことなく、冷煙の後頭部めがけて思い切り振りかぶった。
この一撃が当たれば、間違いなく皮膚が裂けるだろう。
冷煙はそのまま歩き続けていたが、背後で鋭い風切り音を感じた瞬間、反撃の姿勢を取ろうとした。
しかし、振り返った彼女の目の前に現れたのは、長身で引き締まった体つきの男だった。 男はバッグのストラップを素早く掴むと、そのまま前へと強く引っ張った。
『きゃあ!』
愛莉は勢いよく地面に倒れ込み、悲鳴を上げた。
話 3
「愛莉!」高橋恵美(旧姓藤原)は胸が張り裂けそうな思いで娘を支えながら、突然現れた男を怒りに満ちた目で睨みつけた。 「あんた誰?藤原涼音の愛人か?」
男は何も言わない。 深く彫りの刻まれた眉目には微動だにせず、万里の底に沈む深海のように、死寂と危険が漂っていた。
彼は恵美へと一歩、また一歩と近づく。 革靴が床を踏む鈍い音が、廊下に響き渡る。
恵美の心臓は鷲掴みにされたかのようで、息が詰まる。
この男、絶対に関わっちゃいけない……
「藤原涼音、まだ家に帰りたいなら、さっさと戻ってきて謝りなさい!でなきゃ、あんたたち孤児の面倒なんて、もう二度と見ないからね!」 恵美はそう言い放つと、愛莉の手を強引に引っ張って、その場を離れていった。
面倒を見る?
あの屋敷は、まぎれもなく私の家だというのに!
涼音は、男の手の中に現れ、そして腰元に消えていく拳銃を目にして、瞳を鋭く細めた。
この男は……一体?
男が振り返り、涼音と視線が合った。 はっきりと見たその顔は、これまで出会ったことのない絶世の美貌だった。 五官は立体的に鋭く、氷のように冷たい双眸には何の感情も覗かない。 いかなることも、彼の心を波立たせることはないかのようだ。
しかし、彼の周囲に漂う気配は、これまで感じたことのないほどの恐怖と危険に満ちていた。
道理で、叔母があんなに慌てて逃げ出したわけだ。
「藤原涼音」男はゆっくりと唇を開き、彼女の名前を紡ぎ出した。 その声は低く磁性を帯びているが、骨の髄まで凍りつくような冷たさを秘めていた。
涼音は彼を見据えて問うた。 「あなたが……妹の治療費を払ってくれた人?」
「賢いな」 男の声には相変わらず感情の起伏がない。 「荷物をまとめろ、俺の家へ来い」
涼音は眉をひそめた。
何という、訳の分からない男だ
すると、傍らにいた別の男が歩み寄り、説明を始めた。「藤原さん、こんにちは。 こちらは北村様でいらっしゃいます。 北村様のお父様と、あなたのお父様は戦友の間柄でして、ご存命中に、北村様にあなた方のお世話を頼まれたんです。 北村様は軍隊を出られたばかりで、ようやくあなた方を見つけ出されました」
なるほど……だから、あんなに恐ろしい気配をまとっているのか。
涼音にはわかった。 この男は冷酷ではあるが、自分に悪意はない。
涼音は淡々と訊ねた。 「彼のお父様が、私の父の戦友だという証拠は?」
北村凌也は一枚の写真を取り出した。
戦場で撮られたと思われるその写真には、荒涼とした背景の前で、彼女の父と見知らぬ男が並んで立っていた。 見知らぬ男の眉目は、確かに眼前の男と幾分似通っている。
涼音は一瞬考え込んだ。 「少し、考えさせてください」
「わかった」 連絡先を交換しよう。 凌也は言葉少なに言った。
涼音は彼の連絡先を追加した。 プロフィール画像は真っ黒だった。
涼音のも、そうだ。
なんだか、奇妙な気分になった。
助手も涼音の連絡先を追加した。 「藤原さん、私は北村様のアシスタント、今井大翔と申します。 何かございましたら、いつでも私までご連絡ください」
「はい」
二人はその場を去っていった。
涼音は妹の病室に戻った。
しばらくすると、病室の扉の前に二人のボディガードが立っているのが目に入った。
(あの男の仕業に違いない)
涼音は自ら妹の服を着替えさせ、髪を洗ってやった。 枯れ草のようだった髪が、少しだけ滑らかになった。
だが、妹の体に刻まれた大小無数の傷、そして無数のタバコの火傷痕を目の当たりにすると、涼音の目頭が再び熱くなった。
涙をぐっとこらえ、涼音は自分が開発した軟膏を妹の傷に丁寧に塗り、それから携帯していたノートパソコンを開いた。
私がいない間に、妹は一体何を経験したんだろう……
彼女は屋敷街の監視カメラシステムに侵入した。
モニターに映し出される映像に、涼音の身体は次第に硬直していく。
自分が家を出て間もなく、妹は寝室から追い出され、庭の犬小屋で寝るようになっていた。
かつて太陽のように明るかった妹の顔から、笑顔は完全に消え失せていた。
アルバイトを始めたが、店でセクハラを受けた。
懸命に勉強して最高の大学に合格したのに、入学して一学期も経たないうちに骨折してしまった。 ダンサーを目指していた彼女にとって、その骨折は、踊りを諦めざるを得ないほどの重傷だった。
高橋愛莉の姉、高橋柚希は妹と同じクラスだった。 涼音は、妹の骨折が柚希と無関係だとは、どうしても思えなかった。
それ以来、妹は家に縛り付けられ、毎日のように家政婦同然の仕事をさせられながら、犬小屋で寝起きする──そんな人間以下の生活を強いられていた。
それなのに、妹が自分に送ってくるメールは、いつも決まってこうだった。 『お姉ちゃん、心配しないで、私は家で元気にしてるから、お姉ちゃんもそっちで、元気でいてね』
涼音の視界が、一瞬で涙に滲んだ。
妹がこれほどまでに惨めな日々を送っているというのに、叔母の一家は万邦興業との提携で会社を拡大させていた。
中学中退の従妹はインフルエンサーとなり、柚希はダンス学院で幅を利かせ、叔母はセレブ妻の仲間入りを果たし、叔父は経済界の注目人物にのし上がっていた。
「ドン!」
涼音はテーブルを拳で強く殴りつけた。 手に走る痛みなど、まったく感じない。 ただ、尽きることのない後悔だけが、胸をえぐるように広がっていた。
(もっと妹に気を配っていれば……あの子がこんな目に遭うはずがなかった。
私のすべての努力は、結局、叔母一家のための“嫁入り道具”に過ぎなかったのか!)