話 2
清水希子 POV:
「ヒデちゃん, この家, 本当に気に入ったよ. 君とここで新しい生活を始めるなんて, 夢みたいだね」
陽介が私を「ヒデちゃん」と呼んだ最初の記憶は, 私たちが結婚して最初の家を探していた時だった. 孤児院育ちの私にとって, 自分の家を持つことは長年の夢だった. 陽介と結婚して, 新しい家庭を築く. その夢を叶えるために, 私は必死に働いた. 週末は陽介と一緒に何件ものモデルルームを見て回り, 理想の家を探した.
やっと見つけた, 日当たりの良い, 駅からも近い新築マンション. 私の給料と貯金をやり繰りすれば, なんとか手に入れられる物件だった. けれど, 陽介の両親と妹の華奈は, そのマンションに猛反対した. 「そんな狭いマンションじゃ, 陽介さんの才能が埋もれてしまうわ! 」「希子さん, もう少し広い家を探してあげないと, 陽介さんが可哀想よ」. 彼らはそう言って, 私の選んだマンションを馬鹿にした.
結局, 私は陽介の両親の古い実家を買い取ることになった. 築三十年以上の古い一軒家で, 駅からは遠く, 通勤には不便だった. 陽介の両親は, 私が支払った買取金で, 都心に新しいマンションを購入し, 楽しそうに引っ越していった. その時も陽介は「さすがは僕のお母さんだね」と嬉しそうに言っていた.
陽介は, その古い家を指して言った. 「ここなら, 彩葉がのびのびと育てるね. 庭もあるし, 小学校も目の前だ. 将来のことを考えたら, この家が一番だね, ヒデちゃん」. 彼の言葉に, 私は深く納得した. 当時は本当に, この家で陽介と彩葉と幸せな家庭を築けるのだと信じていた. 駅までの遠い道のりも, 満員電車での通勤も, 全ては家族のため. そう思えば, どんな苦労も乗り越えられると, 自分に言い聞かせていた.
二度目に陽介が私を「ヒデちゃん」と呼んだのは, 数年前のことだ. 陽介の親戚が, 事業に失敗して多額の借金を抱えてしまった. その返済を肩代わりしてほしいと, 陽介の両親が泣きついてきたのだ. もちろん, 陽介の両親にはそんなお金はない. そこで, 陽介が私に頼んできた.
「希子, お願いだ. 僕の親戚を助けてやってくれないか? 君なら, きっとできる」
陽介は, その頃から体調を崩しがちで, 顔色も悪く, いつも疲れているように見えた. 彼はソファに寄りかかり, 力なく私を見上げた. 「ヒデちゃん, 君しか頼れる人はいないんだ. 君なら, 僕の家族を救える」. 彼の弱々しい頼みに, 私は心が揺れた. 孤児院で育った私にとって, 家族という存在は特別なものだった. 陽介の家族は, 私の大切な家族だ. 彼らを助けるのは, 私の使命だと思った.
あの頃の私は, 自分の体に起こっている異変に気づかないふりをしていた. 連日の残業とストレスで体はボロボロだったが, そんなことを陽介に話すことはできなかった. 彼を心配させたくなかった. 結局, 私は自分の貯蓄の全てと, ボーナスを前借りして, その借金を肩代わりした. これで家族は安泰だと, 自分を納得させたのだ.
陽介は, 普段私を「おい」「なあ」と呼ぶ. 私を名前で呼ぶことさえ滅多にない. 会社の人や, 彼の友人と話す時は, いつも穏やかで, 優しい声で話していた. 私はずっと, 彼が口下手で, 愛情表現が苦手なだけだと思っていた. だから, 二人きりの時に私を「おい」と呼ぶのも, 彼なりの愛情表現なのだと信じ込もうとしていた.
けれど, 彼のスマホに隠されていた「ヒデちゃん」という呼称. そして, 松江秀恵とのメッセージのやり取り. そこには, 私が知らなかった陽介がいた. 彼は口下手なんかじゃなかった. ただ, 私に対しては, その必要性を感じていなかっただけなのだ. 松江役員には, 私に見せたことのない甘い言葉を囁き, 私に見せたことのない優しい表情を向けていたのだろう.
もし, 私がこの真実を知らなければ, 私はずっと幸せな夢の中にいられただろうか? いや, そんなことはない. この裏切りは, 私の人生を根本から揺るがしている.
私は震える指で, 陽介の隠しアカウントのチャット履歴を遡り始めた. そこに隠されているであろう, さらなる真実を知ることが, 恐ろしい. けれど, もう後戻りはできない. 私の心臓は, まるで誰かに握りつぶされたかのように, 激しい痛みを訴え始めた.
話 3
清水希子 POV:
私は陽介のスマホを握りしめ, リビングの隅にある小さな書斎へと向かった. 彩葉は, 私が陽介のそばを離れたことに気づき, 不安そうに私を見つめていた. 私は彼女に笑顔を向け, 人差し指を唇に当てて「シー」と促した. この子が, まだ何も知らない平和な世界にいることを, 私は心から願った.
書斎のドアを閉め, 私は陽介のスマホをテーブルに置いた. 深夜の静寂の中, 画面から放たれる光だけが, 私の心臓の鼓動に合わせて点滅しているように見えた. 寝られそうになかった. 陽介の隣で, 穏やかに眠るふりをすることなど, 今の私には不可能だった.
これまでの結婚生活が, まるで走馬灯のように頭の中を駆け巡る. 陽介はいつも私に優しかった. 私が会社でどんなに辛いことがあっても, 彼はいつも私の味方だった. 私が残業で夜遅く帰っても, 飲み会で終電を逃しても, 彼は何も言わなかった. 私はそれを, 彼が私を信頼している証だと思っていた. 彼が私を愛しているからこそ, 私の仕事に理解を示してくれているのだと.
しかし, それは全て私の思い込みだった. 彼の優しさは, 私をATMとして利用するための巧妙な罠だったのだ. 彼が私に無関心だったのは, 私がどんなに遅く帰ろうと, 誰と飲みに行こうと, 彼には関係なかったからだ. 私が働き続ければ, 彼には定期的に金が入る. それだけが, 彼の関心事だったのだ.
私がどれほど疲れていようと, どれほど体調が悪かろうと, 彼は一度として心配してくれたことはなかった. それどころか, 私が体調を崩せば, 彼が小説を書く時間が削られるとでも思っていたのだろうか. 私の献身は, ただ彼の怠惰を助長するだけだった. 私は, 彼に一度たりとも, 本当に愛されたことなどなかったのだ.
怒りが, 私の体の奥底からこみ上げてきた. 心臓が激しく脈打つ. 私は立ち上がり, 書斎の中をゆっくりと歩き始めた. この怒りをどこにぶつければいいのか, わからなかった. けれど, この感情を, 決して忘れてはいけない. 私は陽介のスマホを手に取り, チャット履歴のバックアップを開始した.
彼の隠しアカウントで, 松江役員とやり取りしているメッセージを一つ一つ丁寧に保存していく. その中には, 松江役員が陽介に送金した記録も含まれていた. 松江役員は, 陽介の生活費だけでなく, 彼の趣味に使われる高価なものまで買っていた. 私はさらに詳しく調べるため, 陽介の銀行口座の明細を確認した.
そこには, 私が知らない銀行口座があった. 私が陽介に渡していた生活費や, 彼の実家への援助金とは別に, 大金が定期的に入金されている. そして, そのお金はどこかに送金されている. 送金先は, 松江役員の口座だった. 陽介は, 松江役員から受け取ったお金を, そのまま彼女に送金していたのだ. 二人の間に, 何があったのか. なぜ, 松江役員は陽介にお金を渡し, 陽介はそれを受け取って, また彼女に送金するのだろうか.
さらに遡ると, 陽介が多額の貯蓄を持っていることが判明した. 私が稼ぎ, 彼に渡していた生活費は, ほとんど手つかずのまま彼の口座に蓄えられていたのだ. 私があれほど身を粉にして働いたのは, 一体何のためだったのだろう. 私は自分を嘲笑った. 私はただの愚かな女だった.
私はすべての証拠を, 私のスマホに保存した. メッセージのスクリーンショット, 銀行取引明細のデータ. これらは, 私の復讐のための武器となる.
翌朝, 私は何事もなかったかのように振る舞った. いつものように朝食を作り, 陽介と彩葉に笑顔で「おはよう」と言った. 陽介は, 私が作ってくれたオムレツを美味しそうに食べている. その顔を見て, 私の心はさらに凍りついた.
朝食を終え, 陽介がコーヒーを飲んでいる間に, 私は切り出した. 「そういえば, 陽介. あなたの親戚の件, どうなったの? あの借金, そろそろ返済してもらわないと困るわ」
陽介は, カップを置く手が止まった. 「え? いきなりどうしたんだ? 今さらそんなこと言われても…」
「今さらじゃないわ. 私, 会社で新しいプロジェクトを始めることになったの. そのためには, まとまったお金が必要なのよ. だから, あの借金, 今すぐ返済してほしいの. 具体的には, そうね, 五百万くらいかしら」. 私は冷静に, しかし揺るぎない声で言った. 陽介の顔色が一瞬で青ざめる.
私は彼の反応を待たずに, 荷物を持って立ち上がった. 「それじゃ, 会社に行ってくるわ. あなたから, あなたの親戚に話しておいてくれる? 」. 私はそう言い残し, 家を出た. 一歩外に出ると, 冷たい朝の空気が私の顔を撫でる. 私の心は, この空気のように冷え切っていた.