話 1
長年身を粉にして働き, ついに部長に昇進した. これでやっと, 夫と娘と過ごす時間が増える. そう信じていた, その夜までは.
しかし, 夫のスマホに届いた一通のメッセージが, 私の幸せを根底から覆した. 「ねえ, ヒデ, 明日の夜は会える? キコは明日も遅いんだろ? 」送り主は, 私の会社の上司だった.
夫は私を「おい」と呼び, 上司を「ヒデちゃん」と愛しげに呼んでいた. さらに, 私が十年近く育ててきた愛娘の彩葉は, 二人の間に生まれた子供だったと知る.
私の人生は, 夫とその家族に利用されるだけの, ただのATMだったのだ. 愛も, 信頼も, 家族さえも, すべてが偽りだった.
絶望の淵で, 私は冷静に復讐を誓った. 私からすべてを奪った彼らに, 地獄を見せてやる. これは, ATMであることをやめた女の, 壮絶な反撃の物語だ.
第1章
清水希子 POV:
キャリアウーマンとして長年身を粉にして働いてきた私が, ついに部長に昇進したその夜, 愛と信じていたものが全て偽りだったと知った. その瞬間, 私の足元は音を立てて崩れ落ちた.
私はその日, 少し浮かれていた. 部長昇進の知らせは, 私の努力が報われた証拠だった. 心臓が高鳴り, 安堵と達成感が入り混じった喜びが全身を駆け巡る. これで少しは仕事の負担が減るだろう. そうすれば, もっと家庭に時間を割けるはずだ. 夫の陽介や愛娘の彩葉と, 以前よりもっと多くの時間を過ごせる. そんな温かい未来を思い描いていた.
仕事帰りに立ち寄った百貨店で, 陽介へのプレゼントを選んだ. 彼が以前から欲しがっていた万年筆だ. 陽介は「小説家志望」という夢を追いかけ, 今は専業主夫として家を守ってくれている. 私が外で働く間, きっと彩葉の相手をしてくれているだろう. 二人が仲良く遊んでいる姿を想像するだけで, 胸の奥が温かくなった.
自宅のドアを開けると, リビングのソファで陽介が眠っていた. テレビはつけっぱなしで, 彼の隣には飲みかけの缶ビールが転がっている. 彩葉はリビングの隅で, お気に入りの絵本を広げて一人で遊んでいた. 陽介はいつも疲れている. 私が稼いだお金で生活していることに負い目を感じているのかもしれない. 私はそっと陽介に近づき, 彼の肩を揺らさないように横にならせようとした.
その時, 彼のズボンのポケットからスマホが滑り落ち, 床に落ちた拍子に画面が明るくなった. 陽介のスマホのパスワードは私が知っている. 私たちの間に隠し事は何もない. そう思っていた.
画面に表示されたのは, 見慣れないメッセージアプリの通知だった. 「ねえ, ヒデ, 明日の夜は会える? キコは明日も遅いんだろ? 」差出人の名前は「松江秀恵」. 私の会社の女性役員だ.
私の頭は一瞬にして真っ白になった. 脳が情報の処理を拒否する. ヒデ? 陽介が誰かを「ヒデ」と呼ぶことなど, これまでの結婚生活で一度もなかった. 何かの間違いだろう. 陽介の友人か, 親族の誰かが, ふざけて送ったメッセージに違いない. そう自分に言い聞かせた.
しかし, メッセージに添えられた写真が, 私のわずかな希望を打ち砕いた. それは, 陽介と松江役員が親密そうに寄り添って写っているツーショットだった. 松江役員は私の会社の上司だ. なぜ, 二人がこんな写真を? そして, なぜ陽介は彼女を「ヒデ」と呼んでいる? 私の心臓が, まるで誰かに鷲掴みにされたかのように締め付けられた.
陽介との出会いは, 私がまだ孤児院を出たばかりの頃だった. 大学時代, 彼は輝くような笑顔で, 周囲の誰もが振り向くイケメンだった. 私のような孤独な人間が, 彼のような人気者の隣にいていいのか, 何度も自問自答した. でも, 彼の優しい言葉と, 私を包み込むような温かい眼差しに, 私はすぐに恋に落ちた. 彼と結婚できた時, 私は世界で一番幸せな人間だと思った. 彼のために, どんなことでもできると誓った. 彼の「小説家になりたい」という夢を応援するため, 私はがむしゃらに働いた. 残業は当たり前, 休日返上で働く日々. 彼と彩葉が不自由なく暮らせるように, 私の全てを捧げてきた.
最初の妊娠は流産に終わった. あの時, 私はどれほど自分を責めただろう. けれど, 陽介は「また頑張ればいい」と優しく言ってくれた. そして, 数年後, 彩葉が生まれた. 彼女の小さな手を握った時, 私はこの子のために生きようと心に誓った. それからも, 私は家庭のために働き続けた. 気づけば, 鏡に映る自分は, 疲労でやつれ, 肌も髪も手入れが行き届いていない, かつての面影もない女になっていた. けれど, それも家族のためならと, 私は納得していたのだ.
私は呼吸を整えようと深く息を吸い込んだが, 肺が凍りついたかのように冷たい空気しか吸い込めない. この衝撃は, 私が今まで経験したどんな苦痛よりも, 深く, 鋭く, 私の心の奥底を切り裂いた. 冷静にならなければ. 私は自分にそう言い聞かせ, 震える指先で陽介のスマホを操作した.
メッセージアプリの履歴を遡っていくと, そこには私が今まで知らなかった陽介の "裏の顔" が隠されていた. 彼は松江役員と, 信じられないほどの親密さでやり取りを続けていたのだ. さらに驚くべきことに, そのやり取りの中に, 陽介が使っているもう一つのアカウントがあることを示唆する記述を見つけた. 直感的に, 私はその隠しアカウントを探した. 陽介のスマホには, 複数のSNSアプリがインストールされていた. その中の一つ, 普段彼が使っていないはずのアイコンをタップすると, 別のアカウントにログインされていた. そのアカウントは, 彼の本当の姿を映し出していた.
その隠しアカウントの連絡先リストには, たった一人だけ登録されていた. その名前を見て, 私の心臓は止まった. それは「ヒデちゃん」と書かれていたのだ.
陽介は私を「おい」「なあ」と呼ぶことが多かった. たまに「キコ」と呼ぶこともあったが, それも事務的な時だけだ. 私を愛しい存在として呼ぶことは, この十年近くなかったはずだ. 私はかすかに, 彼が私を「ヒデ」と呼んだ記憶が二度だけあることを思い出した. 一度目は, 私たちが結婚して間もない頃, 新居を探していた時. もう一度は, 彼の実家が多額の借金を抱えたと知らされた時. どちらも, 彼が私に何かを「要求」する場面だった.
彼は, 私を愛しい「ヒデちゃん」と呼ぶように, 私を呼んだことは一度もない. この事実は, 私の胸に鉛の塊を押し込んだかのように重く, 苦しかった.
話 2
清水希子 POV:
「ヒデちゃん, この家, 本当に気に入ったよ. 君とここで新しい生活を始めるなんて, 夢みたいだね」
陽介が私を「ヒデちゃん」と呼んだ最初の記憶は, 私たちが結婚して最初の家を探していた時だった. 孤児院育ちの私にとって, 自分の家を持つことは長年の夢だった. 陽介と結婚して, 新しい家庭を築く. その夢を叶えるために, 私は必死に働いた. 週末は陽介と一緒に何件ものモデルルームを見て回り, 理想の家を探した.
やっと見つけた, 日当たりの良い, 駅からも近い新築マンション. 私の給料と貯金をやり繰りすれば, なんとか手に入れられる物件だった. けれど, 陽介の両親と妹の華奈は, そのマンションに猛反対した. 「そんな狭いマンションじゃ, 陽介さんの才能が埋もれてしまうわ! 」「希子さん, もう少し広い家を探してあげないと, 陽介さんが可哀想よ」. 彼らはそう言って, 私の選んだマンションを馬鹿にした.
結局, 私は陽介の両親の古い実家を買い取ることになった. 築三十年以上の古い一軒家で, 駅からは遠く, 通勤には不便だった. 陽介の両親は, 私が支払った買取金で, 都心に新しいマンションを購入し, 楽しそうに引っ越していった. その時も陽介は「さすがは僕のお母さんだね」と嬉しそうに言っていた.
陽介は, その古い家を指して言った. 「ここなら, 彩葉がのびのびと育てるね. 庭もあるし, 小学校も目の前だ. 将来のことを考えたら, この家が一番だね, ヒデちゃん」. 彼の言葉に, 私は深く納得した. 当時は本当に, この家で陽介と彩葉と幸せな家庭を築けるのだと信じていた. 駅までの遠い道のりも, 満員電車での通勤も, 全ては家族のため. そう思えば, どんな苦労も乗り越えられると, 自分に言い聞かせていた.
二度目に陽介が私を「ヒデちゃん」と呼んだのは, 数年前のことだ. 陽介の親戚が, 事業に失敗して多額の借金を抱えてしまった. その返済を肩代わりしてほしいと, 陽介の両親が泣きついてきたのだ. もちろん, 陽介の両親にはそんなお金はない. そこで, 陽介が私に頼んできた.
「希子, お願いだ. 僕の親戚を助けてやってくれないか? 君なら, きっとできる」
陽介は, その頃から体調を崩しがちで, 顔色も悪く, いつも疲れているように見えた. 彼はソファに寄りかかり, 力なく私を見上げた. 「ヒデちゃん, 君しか頼れる人はいないんだ. 君なら, 僕の家族を救える」. 彼の弱々しい頼みに, 私は心が揺れた. 孤児院で育った私にとって, 家族という存在は特別なものだった. 陽介の家族は, 私の大切な家族だ. 彼らを助けるのは, 私の使命だと思った.
あの頃の私は, 自分の体に起こっている異変に気づかないふりをしていた. 連日の残業とストレスで体はボロボロだったが, そんなことを陽介に話すことはできなかった. 彼を心配させたくなかった. 結局, 私は自分の貯蓄の全てと, ボーナスを前借りして, その借金を肩代わりした. これで家族は安泰だと, 自分を納得させたのだ.
陽介は, 普段私を「おい」「なあ」と呼ぶ. 私を名前で呼ぶことさえ滅多にない. 会社の人や, 彼の友人と話す時は, いつも穏やかで, 優しい声で話していた. 私はずっと, 彼が口下手で, 愛情表現が苦手なだけだと思っていた. だから, 二人きりの時に私を「おい」と呼ぶのも, 彼なりの愛情表現なのだと信じ込もうとしていた.
けれど, 彼のスマホに隠されていた「ヒデちゃん」という呼称. そして, 松江秀恵とのメッセージのやり取り. そこには, 私が知らなかった陽介がいた. 彼は口下手なんかじゃなかった. ただ, 私に対しては, その必要性を感じていなかっただけなのだ. 松江役員には, 私に見せたことのない甘い言葉を囁き, 私に見せたことのない優しい表情を向けていたのだろう.
もし, 私がこの真実を知らなければ, 私はずっと幸せな夢の中にいられただろうか? いや, そんなことはない. この裏切りは, 私の人生を根本から揺るがしている.
私は震える指で, 陽介の隠しアカウントのチャット履歴を遡り始めた. そこに隠されているであろう, さらなる真実を知ることが, 恐ろしい. けれど, もう後戻りはできない. 私の心臓は, まるで誰かに握りつぶされたかのように, 激しい痛みを訴え始めた.
話 3
清水希子 POV:
私は陽介のスマホを握りしめ, リビングの隅にある小さな書斎へと向かった. 彩葉は, 私が陽介のそばを離れたことに気づき, 不安そうに私を見つめていた. 私は彼女に笑顔を向け, 人差し指を唇に当てて「シー」と促した. この子が, まだ何も知らない平和な世界にいることを, 私は心から願った.
書斎のドアを閉め, 私は陽介のスマホをテーブルに置いた. 深夜の静寂の中, 画面から放たれる光だけが, 私の心臓の鼓動に合わせて点滅しているように見えた. 寝られそうになかった. 陽介の隣で, 穏やかに眠るふりをすることなど, 今の私には不可能だった.
これまでの結婚生活が, まるで走馬灯のように頭の中を駆け巡る. 陽介はいつも私に優しかった. 私が会社でどんなに辛いことがあっても, 彼はいつも私の味方だった. 私が残業で夜遅く帰っても, 飲み会で終電を逃しても, 彼は何も言わなかった. 私はそれを, 彼が私を信頼している証だと思っていた. 彼が私を愛しているからこそ, 私の仕事に理解を示してくれているのだと.
しかし, それは全て私の思い込みだった. 彼の優しさは, 私をATMとして利用するための巧妙な罠だったのだ. 彼が私に無関心だったのは, 私がどんなに遅く帰ろうと, 誰と飲みに行こうと, 彼には関係なかったからだ. 私が働き続ければ, 彼には定期的に金が入る. それだけが, 彼の関心事だったのだ.
私がどれほど疲れていようと, どれほど体調が悪かろうと, 彼は一度として心配してくれたことはなかった. それどころか, 私が体調を崩せば, 彼が小説を書く時間が削られるとでも思っていたのだろうか. 私の献身は, ただ彼の怠惰を助長するだけだった. 私は, 彼に一度たりとも, 本当に愛されたことなどなかったのだ.
怒りが, 私の体の奥底からこみ上げてきた. 心臓が激しく脈打つ. 私は立ち上がり, 書斎の中をゆっくりと歩き始めた. この怒りをどこにぶつければいいのか, わからなかった. けれど, この感情を, 決して忘れてはいけない. 私は陽介のスマホを手に取り, チャット履歴のバックアップを開始した.
彼の隠しアカウントで, 松江役員とやり取りしているメッセージを一つ一つ丁寧に保存していく. その中には, 松江役員が陽介に送金した記録も含まれていた. 松江役員は, 陽介の生活費だけでなく, 彼の趣味に使われる高価なものまで買っていた. 私はさらに詳しく調べるため, 陽介の銀行口座の明細を確認した.
そこには, 私が知らない銀行口座があった. 私が陽介に渡していた生活費や, 彼の実家への援助金とは別に, 大金が定期的に入金されている. そして, そのお金はどこかに送金されている. 送金先は, 松江役員の口座だった. 陽介は, 松江役員から受け取ったお金を, そのまま彼女に送金していたのだ. 二人の間に, 何があったのか. なぜ, 松江役員は陽介にお金を渡し, 陽介はそれを受け取って, また彼女に送金するのだろうか.
さらに遡ると, 陽介が多額の貯蓄を持っていることが判明した. 私が稼ぎ, 彼に渡していた生活費は, ほとんど手つかずのまま彼の口座に蓄えられていたのだ. 私があれほど身を粉にして働いたのは, 一体何のためだったのだろう. 私は自分を嘲笑った. 私はただの愚かな女だった.
私はすべての証拠を, 私のスマホに保存した. メッセージのスクリーンショット, 銀行取引明細のデータ. これらは, 私の復讐のための武器となる.
翌朝, 私は何事もなかったかのように振る舞った. いつものように朝食を作り, 陽介と彩葉に笑顔で「おはよう」と言った. 陽介は, 私が作ってくれたオムレツを美味しそうに食べている. その顔を見て, 私の心はさらに凍りついた.
朝食を終え, 陽介がコーヒーを飲んでいる間に, 私は切り出した. 「そういえば, 陽介. あなたの親戚の件, どうなったの? あの借金, そろそろ返済してもらわないと困るわ」
陽介は, カップを置く手が止まった. 「え? いきなりどうしたんだ? 今さらそんなこと言われても…」
「今さらじゃないわ. 私, 会社で新しいプロジェクトを始めることになったの. そのためには, まとまったお金が必要なのよ. だから, あの借金, 今すぐ返済してほしいの. 具体的には, そうね, 五百万くらいかしら」. 私は冷静に, しかし揺るぎない声で言った. 陽介の顔色が一瞬で青ざめる.
私は彼の反応を待たずに, 荷物を持って立ち上がった. 「それじゃ, 会社に行ってくるわ. あなたから, あなたの親戚に話しておいてくれる? 」. 私はそう言い残し, 家を出た. 一歩外に出ると, 冷たい朝の空気が私の顔を撫でる. 私の心は, この空気のように冷え切っていた.