話 2
「おまえ、恥知らずって意味わかる?」 ジョンはいきなり立ち上がると、手にしたタバコを灰皿に弾いた。 そして、それ以上なにも言わずにニーナに近づく。
彼女は背の高いジョンと並ぶと小さく見えた。 ニーナは隅に追いつめられ、 拳を握りしめて息を潜めた。 もう後戻りできない。
男の独特な匂いがニーナの鼻先に漂い、 彼女の顔全体が赤らむほど刺激した。 ニーナは「私はあんたが思っているような人間じゃないわ!」と怒鳴り、ジョンを睨みつけた。
けれども、今しがた彼女に近づいたとき、ジョンは何かがおかしいことに気づいた。 ニーナはもっと近づきたくなるような不思議な香りを纏っていたのだ。
余裕を失って、
ジョンの表情がさっと変わる。
香水のせいで、ニーナの体も彼に向けてしなやかになった。 それはまるで、香水が二人を操り人形のごとく弄んでいるようだった。
「おまえの匂いか! 俺を焚きつけるのは!」 ジョンの額に青筋が立ったが、彼は怒りを抑え込んだ。 そして何も考えずにニーナをつかまえると、もはや彼女にもっと近くことしか頭になかった。
「やめて! 私……ねえ、 放しなさいってば! 私もう……」
彼女はすでに結婚していたのだ。
夫が誰なのか、どんな風貌なのかすら知らなかったが、婚姻届に署名して結婚してしまっていた。
けれども、ジョンはもうニーナのたわごとを聞き続ける気はなかった。 そして、なにも言わずにニーナに激しくキスをした。 ジョンの唇が彼女の唇に触れるや否や、彼の体は強張った。
案の定、ニーナの唇はとても甘かった。
「放して……」 彼女はジョンの胸を拳で叩きながら、すすり泣いた。
ニーナは意外と力があったが香りの影響はそれを上回り、ジョンをますます興奮させた。
彼は少し身を乗りだしただけのつもりだったが、ニーナはすっかり怯えて。
顔が青ざめている。 ジョンが触れるとニーナの全身に電気が走り、彼女は黙り込んだ。
しばらくすると空が明るくなり、夜明けが近いことを告げていた。
ニーナは全身がヒリヒリするのを感じた。 そして体をひねって後ろを向くと、気だるげに瞬きした。 けれども、横で寝ている男を見るや否や悲鳴を上げそうになった。
まさか!
ニーナは息を呑んで、口を覆った。 こんなはずじゃ……
ニーナはそばにあるテーブルランプに手を伸ばしたが、その手は、人妻の身でしでかしたことの重大さに震えていた。 自殺の件を調査しに来ただけだったのに…… しかし、悪魔の部屋に入り込んでしまったなんて、知るすべがあっただろうか?
ニーナの目はきらっと輝いた。
外で鳥が囀るのを聞くと、彼女は落ち着きを取り戻し我に返った。
結婚を破綻させかねないのはわかっているので、素早く服を着ると、隣でぐっすり眠っている男には目もくれずにくるりと背を向けて出て行こうとする。
きっと、二度と会うことはないだろう。
ニーナがホテルを出たとき、駆け回る記者も職員もいなかったので、自殺の件に関してなんの報告もなかったことがわかった。 彼女はほっとため息をついた。
ぼんやり家に帰った。 そして、肌全体が赤くなるほど何度も体を洗うことに午前中いっぱいを費やした。
見知らぬ男と火遊びするのは悪いことではない。 唯一の問題は彼女が既婚だということだ!
二年前、ニーナはまだ会ったことすらない男と婚姻届に署名した。
それどころか、男の名前も背格好も年齢も、何も知らないのだ。
当時、あんなに困窮していなければ、自分で墓穴を掘るような真似はしなかったはずだ。
ニーナは困り果てて歯を食いしばった。
「まずい!」 唐突に、ある考えが彼女の頭をよぎった。 嫌な予感がして、引き出しに駆け寄ると契約書を引っ張り出した。
不倫に関連する項目があったことを思い出して不安に震えながらページをめくる…… 結婚が有効な期間に彼女が浮気をした場合、慰謝料はいくらになるのか?
契約書をかき回した。
すると、ニーナは雷に打たれたように凍りついて、 「二千万?」 と思わず叫んだ。
目をこすり、もう一度よく見る。 そのページには、彼女が二千万ドルの慰謝料を負うとはっきり書かれていた。 しかも、その下には彼女自身の署名と指紋が押されていた。
本当にやばい。
逃げる術はないのだ。
「二千万」 ニーナは手を震わせ、 床に崩れ落ちた。 今や唯一の望みは、地面に飲み込まれることだけだ。
どこからそんな大金を引き出せばいいのか?
そもそも浮気するつもりはなかったのに。
はい、決めた。
二度とその男と会わないわ。
万が一会うようなことがあれば、口止め料を払えばいい。
彼が拒否するというなら、脅迫するまでだ。
と歯を食いしばり、冷静に目を細めて鏡を覗き込んだニーナはそう考えている。
ニーナは、この問題にけりがつき次第、離婚届を出すつもりだった。 今のところ他に出来ることはない。
そうすれば、彼女は欲しかったもの、つまり自由をようやく手に入れられるはずだ。 夫に引き止めらることなく、晴れて犯罪心理分析官の資格を取ることができるのだ。
ニーナはほっとため息をついた。
朝10時、スーツに身を包み革靴を履いた男がプレジデンシャルスイートに入る。 年は二十四歳くらいだろう。 金縁の眼鏡をかけ、手にはブリーフケースを持っていた。
その男は他ならぬヘンリー・イェだった。 彼がタイム・グループ社長補佐の仕事に応募したのはそんなに前のことではなく、 すでに就職したとはいえ、タイム・グループの社長ジョン・シーに実際に会うのはこれが初めてだった。
ジョンはシー家の末っ子で、 聞くところによるとタイム・グループの権力を握る男らしい。 実際、彼は信じがたいほど無慈悲で、レキシンポート市の資産の半分は彼のものだった。
ヘンリー・イェはドアを押しあけると、バスタオルを着た背の高い男が浴室から出てくるのを見た。 ジョンは興味なさげにヘンリーを一瞥した。 「服」
「はい、 シー社長」 ヘンリーはすぐさまスーツを手配するため電話をかけた。
電話をかけながら、彼は乱雑なソファと散らかった服に目をやる。 ソファの上に女性ものの靴が見え、上司の背中にはうっすら赤い傷があった。
察するに、彼の上司は昨夜いい思いをしたに違いない。
ヘンリーは眼鏡を押しあげた。
ただちに、服が届けられた。
ジョンは鏡の前に立っていた。 彼の黒いズボンは足首までまっすぐ伸び、白いシャツを着ていた。 襟のボタンは外れていて、肌が少し見える。
ヘンリー・イェが見上げると、そこには整った顔と冷たく黒い目があった。
ジョンは唇をキュッと結び、髪を整え始めた。 鏡に映る自分を見つめながら、彼は満足そうに微笑み、服を隅々まで直した。
それを見てヘンリーは、「この男はとんでもないナルシストだぞ」と思った。
ジョンが服を着たのを見るとヘンリーはすぐさま背筋を伸ばし、 「シー社長、 お父さまから今夜ご帰宅なされるようにとのおことづてです」
「わかった、手配してくれ」
「はい、 他に何かできることはありますか? シー社長」 ヘンリーは尋ねた。 例えば、昨晩の女性の調査とか。
「昨日の女について詳しく調べてくれ、 彼女のことを全部知りたい」と言った。 ジョンは真実を知る必要があった。
ジェームズが彼女を寄越したのは単に外見が良かったからだ。しかしジョンは、彼女が理論を教え込まれたと言っていたのを思い出した。
彼は帰国したばかりなのだから、こういうことには注意するに越したことはない。
ヘンリーがニーナに関する情報を手に入れるのに対して時間はかからなかったが、驚いたことにたった半ページ分しかなかった。
ジョンは眉をひそめた。
ヘンリーが人脈を駆使してもこれしか情報を得られないとは、どうもおかしい。 何しろ、彼はハッカーなのだ。
ヘンリーが書類を手渡したとき、ジョンはイライラして唾を飲み込んだ。
彼は、誰かの情報を知りたいためにこんなに苛立つことはかつてなかった。
「ニーナ、二十歳。 L大学心理学部二年生。 両親不詳、兄弟姉妹なし。 既婚」
それで終わりだった。
彼女の名前にはどこか気になるところがあったが、ジョンはそれがどうしてかわからなかった。
けれども、彼女が既婚だと知ると、彼は目を丸くした。 シーツについた血を思い出して、ジョンは思わず眉をひそめた。 「既婚? あいつの夫は不能なのか?」
話 3
ヘンリーがそれ以上何も言わないのでジョンは視線を上げた。 「それで全部か?」
ヘンリーはうなずいた。 「彼女が大学に入学する前の情報はすっぽり抜け落ちていて、何も見つかりませんでした」
「あんたですら何も見つからないのか?」 ジョンが物思いにふけるように見つめると、
ヘンリーは再びうなずいた。 「彼女の情報はわざと消されているんです」
どうやって人間一人の情報を完全に消し去ったのだろう? たとえヘンリーが世界屈指のハッカーだったとしても、何も見つからなかったはずだ。 あの女はそれほど単純ではなかったのだ。
あるいは、彼女の夫が抜け目ないのかもしれない。
だとすると、運命以外にニーナをジョンのもとに連れ戻す方法はない。
おそらく昨夜は二人の人生が交わる唯一の時間だったのだ。
上司の物思いにふけるような表情を見て、ヘンリーはジョンがニーナに本気になっているのを察した。 だから既婚だというのを知ってよほど落胆したのだろう。
他の男に先を越されたのは、たしかに残念だった。
ヘンリーが背を向けたとき、ジョンは「あいつに俺の子供を妊娠させるなよ」とぴしゃりと言い放った。
彼はどんなトラブルにも巻き込まれたくないのだ。
「この男は冷たいだけだなく、無情なのだ」とヘンリーは考えた。
少なくとも、二人は一晩を共にしたのに、 どうしてあの女性にそんなに冷たいのだろうか?
ヘンリーはもう一度データを一瞥した。
その瞬間、ニーナが本当は何者なのか思い出した。
そうだ! 彼女は……
ヘンリーは固まった。
だから、彼女のことを知っている気がしたのも不思議でも何でもない!
ニーナは密かに結婚したジョンの妻なのだ!
実は、ジョン本人は自分が結婚していることを知らなかった!
二人はそもそも愛し合って何の問題もない間柄だったのに、それを知らずに愛し合ったのだ。
「あのう...... シー社長……」 ヘンリーは頭をもたげ、ジョンがエレベーターに乗るのを止めた。
ジョンは、重要な要件でないなら邪魔するなとでも言いたげに、振り返ってヘンリーの方を一瞥した。
ヘンリーは言うか言うまいか迷った。
しかし、ジョンがもし事実を知っていて、ヘンリーが隠していることもわかっているとしたら、生きたまま火あぶりにされかねない。 深呼吸をして、ヘンリーは自分を落ち着かせた。
「シー社長、 彼女は... ニーナさんは本当は」あなたの奥様です……
「アシスタントの仕事に応募したとき、俺がいいと言うまでは黙っていろと誰にも教わらなかったのか?」
ジョンが激しく遮ったから、ヘンリーは言葉を続けようとしていたが、結局、残りの言葉は言えなかった。
きつい言葉に驚いて、背筋を伸ばして頷いた。 「はい、 シー社長。 もうしません」
「一月分の給料を差し引いておけ、 それがお前の罰だ」ジョンは冷たくそう言うと、王様が家来に命令するかのように手を振った。
ヘンリーは雷に打たれたかのように固まった。 彼は口を開けたが、言葉が出なかった。
やっと1か月足らず働いたところなのだ。それなのに一生懸命働いて稼いだ給料はなくなってしまった。 なんとひどいだ!
ヘンリーはひどく怒っていたが、あえて口をつぐんだ。
午後 3時。
ニーナはまだ眠かったが、 六時にスクエア通り一番地でディナーパーティーがあるから来るようにという電話に答えていた。 彼女は迷うことなく同意した。 それどころか、待ちきれなかった。
離婚するための策を巡らせていたところに、ちょうどよくチャンスがやってきたのだから。
確か スクエア通り一番地はテラスハウスだった。 実際のところ、道沿いに住んでいるのはその家族だけなのでとても静かだ。
ニーナは無意識にバッグに触れた。
書いたばかりの離婚届が入っているのだ。
中庭に足を踏み入れるとすぐに、後ろで低い声がした。 彼女の義父だ。 彼はニーナの到着に微笑んだ。
サム・シーは六十代なので、ニーナは彼の息子がもう四十にはなっているだろうと思った。
ところが、彼はその年でまだ未婚で、妻を見つけるのに父親の世話になっているのだ。 おそらく、その男はよほど醜いかあるいは精神疾患なのだろう。
だとすれば離婚届を渡すのをためらうことはない。
「いや、よくきたね!」 サム・シーは白髪で、微笑むたびに顔のしわがはっきりと見えた。 彼は年をとっているようには見えたが、それでもかなり元気だった。
ニーナは頭を下げて彼に近づく。 「おじさん」
サムはその呼び方に眉をひそめた。
ニーナは彼の義理の娘なのだ。 どうして赤の他人のようにおじさんなんて言うのだろう。
「そんなよそよそしい呼び方はやめなさい」 サムはやさしく諭した。
ニーナはぎこちなく笑う。
もちろん。
「君はわしの息子の妻なんだぞ。 おじさんなんてやめてくれ」
「私は近々あなたの義理の娘ではなくなります」
しかし、ニーナはそう言うのをためらった。 老人にショックを与えるのを恐れて言いたくなかったのだ。
しかし引き伸ばしてどうするのか?
サムは今日、家族の夕食会を準備していた。ニーナの結婚相手も来るに違いない。 彼がそこでニーナに会ったらどうなるか? そして、離婚を拒否したら……
今すぐ関係をきっぱり断った方がいいに決まっている。
「おじさん、今日はお話があって来たんです」 そして、それ以上何も言わずにバッグから離婚届を取り出す。
その日の朝に印刷したばかりなので、インクがまだ新しい。
ニーナはその離婚届をサムに手渡した。 「おじさん、離婚届です。 私はもう署名しました。 お願いします……」
夫の名前は何だったっけ?
彼女はまばたきし、夫の名前すら知らなかったことに今さら驚いて、「夫に渡して、署名するように言ってください」と続けた。
離婚届?
サムの表情が一変する。 彼は書類を一瞥するとニーナの方に目をやり、表情を観察した。
どうやら本当に離婚するつもりらしい。
しかも自分で離婚届を準備して来るとは。
「考え直さないかね?」 サムはやさしく諭した。
けれどもニーナはすでに決心していた。
どんな解決策を考えても、結局離婚に辿り着くのだから仕方ない。
もし浮気をしていなければ、ニーナはそんに焦って離婚を考えなかっただろう。 けれども二千万ドルが鉛のようにのしかかっていた。
彼女は今、夫が現れることすら望んでいなかった。
夫が何らかの理由で事実を知ったらどうなるか? ニーナは死にたくなかった!
サムの顔全体に失望が広がるのを見て、彼女は痛む額に手をやった。 「私はもう決心しています。 私の名義の所有物はみんな手放しますから」
「本気か?」 もうシー家の後ろ盾はいらないのだろうか?
サムを除いて家族の誰もニーナのことは知らなかった。 この件に関してはサムが全ての原因なのだ。
もし彼がニーナに関するすべての情報を消し去っていなかったら、彼女はすでに家族に捕まっていただろう。
「はい」
二千万ドルを払わなくてよいなら、何でもよかった。
支払う能力がなかったわけではない。しかし不当な扱いを受けるのはごめんだ。
しかも、ニーナは家族から身を隠す術を心得ていた。
サムはしばらく考え、ニーナが離婚を望んでいるのは息子に会ったことがないからだと結論した。
「いや、わしは君の結婚に責任がある。 君と息子が会ったことがないのはわしのせいだ」と言った。
そしてコートのポケットから色あせた1インチほどの写真を取り出すと、ニーナに手渡した。 「わしの末っ子だよ。 離婚は会ってから決めなさい」
ニーナは写真を一瞥した。 色あせているので、若者の輪郭がぼんやりと見えるばかりだが、 大学を卒業したてのようだ。
ハンサムだったに違いない。
けれども最近の写真を見ないことには、今どうなのかは知りようがない。
「おじさん、夫を引き止めたくないんです」とニーナは言った。 それに、これ以上時間を無駄にする気もなかった。
サムは彼女の決心がぐらつかないのを見ると、離婚を断念させるには別の策に出る必要があると悟った。