話 1
十五年間、私は最強のアルファ、黒崎達臣の運命の番(つがい)だった。彼は私のことを『錨』と呼んだ。彼の中に棲む獣を鎮められる、唯一の存在だと。
けれど、私たちの完璧な世界は、精神感応(マインドリンク)を通して彼の裏切りを感じ取った瞬間に崩れ去った。知らない女の匂い。彼の太ももに置かれた、赤いネイルの閃光。私の内なる狼が、苦痛に満ちた遠吠えを上げた。
私の誕生日に、彼は「一家(パック)の緊急事態だ」と嘘をついた。でも、彼の車から見つけたのは、一本の金髪。初めて会ったレストランで、私は彼の隠しスマホを見つけ、アシスタントの沙美からの露骨なメッセージを目にした。『今、あの女と一緒?言ってた通り、退屈?』彼女はそう嘲笑っていた。
そして、追い打ちをかけるように送られてきた画像。沙美が、彼が彼女のために買ったティファニーの箱を手にしている写真。『今夜、これを着けてもらうのが待ちきれないわ、アルファ』。彼の裏切りという毒は、私を物理的に蝕んだ。
一家のヒーラーは、私の不調が食中毒ではなく「魂の拒絶反応」だと診断した。私たちの絆は彼の浮気によって汚染され、私の魂そのものが彼を拒絶しているのだと。その夜、沙美は私に最後の一撃を食らわせた。陽性反応が出た妊娠検査薬の画像を、精神攻撃として送りつけてきたのだ。『彼の血筋は、もう私のもの。あんたの負けよ、ババア』。
私は彼の『錨』だった。でも、錨は自ら鎖を断ち切ることもできる。私は弁護士に電話した。「彼からは何もいらない」私は言った。「一円たりとも。ただ、自由になりたい」。これは逃亡じゃない。緻密に計画された、撤退だ。彼の世界は間もなく崩壊する。そして、その導火線に火をつけるのは、この私だ。
第1章
恵里菜の視点
十五年間、私たちの愛の物語は、この大陸のすべての狼(ウルフ)たちの羨望の的だった。私は遠野恵里菜。黒石一家(ブラックストーン・パック)の恐るべきアルファ、黒崎達臣の運命の番。彼は私の世界のすべてで、私は彼の『錨』だった。彼はそう呼んだ。私の存在、私の香りだけが、彼の中に棲む荒れ狂う獣を鎮めることができた。その獣の力で、彼は財界と人狼社会の頂点にまで登り詰めたのだ。
今日、その完璧な世界は粉々に砕け散った。
始まりは囁きだった。私たちを繋ぐ精神空間、精神感応(マインドリンク)に生じた、微かな乱れ。私のものではない、安物のドラッグストアの香水のような、むせ返るほど甘ったるい匂いが、絆の亀裂から染み込んできた。それに続いたのは、精神的なイメージの閃光。望まぬ侵入者。下品なラメ入りの赤いネイルが塗られた手が、男の太ももの上に所有欲を剥き出しにして置かれている。
息が止まった。私はその手を知っていた。
黒崎のアシスタント、オメガの女、新田沙美のものだ。
そして、そのスラックス…シャープに仕立てられた、上質なグレーのウール…。先週、私が彼のために選んであげたものだった。
私の内なる狼、いつもは穏やかで静かだったはずの私の一部が、頭の中で純粋な苦痛に満ちた遠吠えを上げた。私はその叫びを押し殺し、両手を固く握りしめた。十五年。そのどれか一つでも、本物だったのだろうか?
翌日、胸の中の嵐は、冷たく硬い静けさに変わっていた。午前中、私はナイトスタンドに置かれた色褪せた写真をずっと見つめていた。父に会うずっと前に撮られた母の写真。裏には、彼女の旧姓である「桐島」という文字が、優雅な筆跡で記されていた。それは彼女だけの名前。自分の意志で生きた人生の象徴。その考えが、私の心に種を蒔いた。
その日の午後、私は一家の縄張りではなく、人間の街へと車を走らせた。冷たく、無機質な区役所のホールへ。
「氏名の変更をしたいのですが」私は退屈そうな顔をした職員に告げた。
彼女は顔を上げ、私の顔を見て少し目を見開いた。私の顔は、黒崎の隣でゴシップ雑誌の表紙を飾ることも多かったからだ。「お名前は?」
「遠野恵里菜です」私は落ち着いた声で言った。「桐島希(のぞみ)に変えたいのです」。桐島は、母の旧姓。私だけの名前。
職員は眉をひそめた。「しかし…あなたは黒崎アルファの番ですよね。それには彼の同意と、絆の断絶が…」
「彼は私に『印』を付けていない」私は彼女の言葉を遮った。その言葉は灰のような味がした。私たちの世界では、『印』――首筋への咬み痕――が、最終的で破ることのできない絆の証。究極の所有の印だ。黒崎はいつも、完璧な瞬間、盛大な公の儀式を待っていると言っていた。かつては、それを信じていた。今となっては、それが天の恵みだったとわかる。それは、人間社会と一家の法の両方において、私がまだ一個の人間であることを意味していた。
その夜、私はニュースで黒崎を見た。彼はチャリティーガラに出席し、どこからどう見てもパワフルで献身的なアルファの顔をしていた。彼はグラスを掲げ、まるで私を見つめるかのようにカメラに視線を合わせた。「私の美しい番、恵里菜に」彼は練習を重ねた温かみに満ちた声で高らかに言った。「私の『錨』に。彼女なしでは、私は何者でもない」
かつては私の耳に最も甘い音楽だったその言葉は、今ではただの雑音に過ぎなかった。政治的なパフォーマンス。私は何も感じなかった。
その後、私は初めての記念日に交換したお揃いのブレスレット――磨かれた輝くムーンストーンをそれぞれにあしらった、二本の銀を編んだ腕輪――を、黒崎が決して訪れないような街外れの薄汚い宝石店に持ち込んだ。
「これを溶かしてほしい」私はカウンターの向こうの老人に言い、ベルベットのパッドの上にブレスレットを置いた。
彼はそれを見て、そして私を見た。「これは番の贈り物だ。神聖なものだ。それを壊すなど…」
「溶かして」私は議論の余地のない声で繰り返した。「どちらがどちらか分からなくなるまで、一緒に溶かして。醜くて、見分けのつかない、ただの石の塊にしてほしい」
その夜、黒崎が真夜中過ぎに帰宅したとき、彼は私の好きな白いユリの花束を持ってきた。彼は私にキスをしようと身を乗り出し、その香りが私を殴りつけた。彼自身の力強い白檀と冬の嵐の香りが、沙美の安っぽく、むせ返るような甘さで汚されていた。
そして、彼の顎のすぐ下には、紛れもないキスの痕がうっすらと残っていた。
「長い一日だったよ、愛しい人」彼は私の髪に顔をうずめて囁いた。
私は無理に微笑んだ。心臓は胸の中で凍りついた石になっていた。「ええ、本当に長い一日だったわ」私は同意した。
話 2
恵里菜の視点
翌朝、黒崎がベッドの向こうから手を伸ばし、私の腰に触れようとした。私は思わず身をすくめてしまった。それはほとんど気づかれないほどの小さな動きだったが、彼の内なる狼はそれに気づいた。混乱と不快感の低い唸り声が彼の胸で響き、それは音として聞くよりも肌で感じた。
『どうした、愛しい人?』彼の声が精神感応(マインドリンク)を通して心に響いた。
私は彼に背を向けたまま答えた。『悪い夢を見ただけ』
彼はそれ以上追及しなかった。代わりに、私の首筋に鼻をこすりつけ、その声は滑らかで説得力のあるものに変わった。「今夜、サプライズがあるんだ。崖の上のレストランに行こう。僕たちが初めて会った、あの場所に」。彼はそう言って、二人の間の空気に思い出を漂わせた。「特別な夜にしたいんだ」
冷たい笑みが私の唇に浮かんだ。「素敵ね」私は虚ろな声で言った。「私からも、あなたにサプライズがあるの」。溶かされたムーンストーンの塊は、すでにハンドバッグの中の小さな無地の箱に収められていた。
私の心は先週へと飛んだ。私の誕生日。黒崎は忘れていた。彼は、北の境界線近くで起きたはぐれ狼の襲撃事件という、緊急の一家の用事が入ったと主張した。彼は一晩中、家を空けていた。今ならわかる。彼がどの「はぐれ狼」を「処理」していたのか。
苦々しさが、口の中に物理的な味として広がった。
その夜、彼の流線型の黒いスポーツカーでレストランに向かう途中、助手席のフロアマットに何かが落ちているのが目に入った。一本の、長い、ブリーチされた金髪。沙美のものだ。
私は何も言わなかった。
レストランは海を見下ろす崖の上にあり、波が下の岩に打ち寄せていた。美しく、ロマンチックで、かつて彼が私に世界を約束した場所。それを終わらせるには、ふさわしい場所のように思えた。
前菜の途中で、黒崎は眉をひそめた。「くそっ」彼はこめかみを叩きながら呟いた。「精神感応(マインドリンク)のネットワークの調子がまた悪い。第四象限のサーバーファームがどうとか…。ガンマに電話してくる。すぐ戻るよ」
もちろん、嘘だった。サーバーファームなんて存在しない。「精神感応(マインドリンク)のネットワーク」は、彼が一家の仕事、そして今では浮気のために使う便利な口実だった。
彼がいなくなった瞬間、私は動いた。ヒールを鳴らしながら車へと戻る。彼が私が知らないと思っている予備のスマホは、グローブボックスの中だ。パスワードは知っている。沙美の誕生日。
画面が点灯し、露骨なメッセージのやり取りが現れた。
沙美:『今、あの女と一緒?言ってた通り、退屈?』
黒崎:『死ぬほどな。すぐにお前のところへ行く。あの赤いドレスを着てろ。俺が好きなやつだ』
私が見ていると、新しいメッセージがポップアップした。沙美からの写真だった。彼女は鏡の前でポーズをとり、象徴的な小さな青い箱を掲げていた。ティファニーの箱。キャプションにはこう書かれていた。『今夜、これを着けてもらうのが待ちきれないわ、アルファ』
胃がひっくり返った。物理的な嫌悪感が非常に強く、吐き気がした。それは単なる嫉妬ではなかった。私の魂、私の狼そのものが、私たちの神聖な絆の冒涜を拒絶していた。
黒崎がテーブルに戻ってきたとき、彼の顔は穏やかな魅力の仮面をかぶっていた。「全部片付いたよ」彼は微笑んで言った。
私は彼を見た。本当の意味で彼を見て、見知らぬ他人を見た。吐き気が喉の奥から、熱く、酸っぱくこみ上げてきた。
「大丈夫か?」彼は心配そうな表情で尋ねた。「顔色が悪いぞ」
「ホタテにあたったみたい」私は椅子を引いて嘘をついた。「気分が悪いわ」
私は化粧室に駆け込み、真っ白な便器に胃の中身をぶちまけた。彼の裏切りという毒に、私の体は痙攣していた。
話 3
恵里菜の視点
家路につく車の中で、奇妙で恐ろしいほどの静けさが私を包み込んだ。激しい吐き気は収まり、氷のような明晰さに取って代わられた。苦痛に呻いていた私の内なる狼は沈黙した。まるで、彼女も理解したかのようだった。苦しむ時間は終わった。今こそ、行動の時だと。
広大で、殺風景な私たちの屋敷のガレージに車を停めると、私は彼に向き直った。
「黒崎さん」私は穏やかな声で言った。「最近、あなたと心が離れている気がするの。明日は家にいてくれない?お願い。私のために。仕事も、一家の用事もなしで。ただ、私たち二人だけで」
彼の顔に葛藤が浮かぶのを見た。自分の計画が邪魔されたことへの即座の苛立ちが、献身的な番を装う心配の仮面で素早く覆い隠された。彼は明日、沙美に会うはずだった。私にはわかっていた。
「もちろんさ、愛しい人」彼はついにそう言って、温かい笑みを無理に作った。彼は、大切な番のために自分の義務を犠牲にするアルファの役を演じるだろう。「僕の『錨』のためなら、何でもするよ」
その夜、私は彼の深く、規則正しい寝息が部屋に満ちるのを待った。そして、ベッドからそっと抜け出し、彼の書斎へ向かった。仕事用のパソコンのパスワードは、情けないほど簡単だった。私たちの記念日。初めて会った日。
私はゴミ箱フォルダを開いた。彼は傲慢だが、ファイルを完全に削除するほど賢くはなかった。そこにあった。ビデオファイルが。
私は再生ボタンをクリックした。
ビデオには、黒崎のワイシャツ一枚だけを羽織った沙美が、彼の巨大なオーク材のデスクの端に腰掛けている姿が映っていた。私のデスク。かつては私たちの共有オフィスだった場所の。
「いつになったら、私に『印』を付けてくれるの、アルファ?」彼女は赤いネイルの指で彼のネクタイをなぞりながら、甘い声で言った。「いつになったら、あの古くて退屈なオメガを捨てて、私を本当のルナにしてくれるの?」
私はノートパソコンを閉じた。手は震えさえしなかった。
翌朝、沙美からの必死な電話が鳴り始めた時、私はすでに目を覚ましていた。黒崎はベッドから飛び起き、スマホを掴んで主寝室のバスルームに駆け込み、ドアを閉めた。しかし、彼の囁き声は、私の人狼としての鋭い聴覚から逃れることはできなかった。
「無理なんだ、沙美。今日は家にいてほしいって…いや、ただ出て行くわけには…埋め合わせはするから、約束する」彼は低い、なだめるような声で囁いていた。
数分後、彼はあくびを装って出てきた。「睡眠を邪魔された」お詫びとして、彼は豪華な朝食を作り、私の皿にパンケーキとフルーツを山盛りにした。「もっとスタッフを雇うべきだな」彼は偽りの誠実さを滲ませながら言った。「君には指一本動かさせたくないんだ、愛しい人」
私はテーブルの向こうで彼を見た。完璧な見知らぬ他人。「黒崎さん」私はわざとさりげない声で切り出した。「私たち、大丈夫よね?番として」
彼は驚いたようだったが、すぐにその顔は練習を重ねた献身の仮面に和らいだ。彼は私の手を取った。「恵里菜、君は僕の世界だ。僕の『錨』だ。君を傷つけるようなことは、絶対に、絶対にしない。わかっているだろう?」その嘘は、あまりにも滑らかで、 effortless だった。
私は手を引き、コーヒーを一口飲んだ。「よかった」私は言った。「ところで、先週の誕生日プレゼント、もらったかしら?受け取った覚えがないんだけど」
効果は即座だった。彼の笑顔が凍りついた。顔から血の気が引いた。隠しきれない純粋なパニックが、一瞬、彼の目に閃いた。彼は完全に、きれいさっぱり忘れていたのだ。