話 1
「柊音、お前は森田家の長女でありながら、何の取り柄もなく、この数年で雫怜が森田家にもたらした名誉と比べ、厄介事ばかりを招き、森田家の名を汚してきたではないか」
「それに、雫怜はお前の命を救ったのだぞ。 今こそ、お前が彼女に報いるべき時なのだ!」
「俺は雫怜を選ぶ、それだけだ。 雫怜を解放しろ。 森田柊音のことは、好きにしろ!」
「俺も雫怜だ!」
「俺も……」
郊外の廃工場。 両手を粗縄で縛られた森田柊音は、三人の兄たちが下す、冷酷な選択を、ただ打ちのめされたように聞き入るしかなかった。
絶望の淵に沈む中、柊音は、幼い頃から共に育ち、十年以上もの歳月をかけて愛し続けてきた婚約者――安藤優真に、最後の、か細い希望を託した。
少し離れた正面。 端正な顔立ちに英明な光を宿す優真が、仕立ての良いスーツに身を包み、交渉テーブルに座っている。彼の姿は、まるでこの世の全てと隔絶されたかのように、冷たく、遠く感じられた。
柊音の助けを求めるような、懇願にも似た視線と、優真の瞳が交錯した瞬間、男は薄い唇を冷たく動かし、何の感情も宿さない声で言い放った。
「俺が守るのは雫怜だけだ。 もし雫怜の髪の毛一本でも傷つけたら、安藤優真であるこの俺が、お前たちを絶対に許さない。 この女のことは……好きにしろ。 俺には、もう関係ない!」
冷酷。 無関心。 そして、ただの無視。
これが、柊音が十数年もの間、ひたすらに愛し続けた男の真の姿だったのか。
かつて重い病に倒れ、病院から幾度となく死の宣告を受けながらも、彼女が自らの血を捧げ、命を繋ぎ止めた、あの愛しい人だったのか。
心の中では、とうに答えが出ていた。 しかし、その男が、これほどまでに冷酷な口調で、微塵の躊躇もなく自分を切り捨てる言葉を耳にした時、柊音の心臓は、まるで氷の手で鷲掴みにされたかのように激しく締め付けられた。
痛い。
胸の奥が、まるで巨大な岩に押し潰されるかのように激しく脈打ち、呼吸すらままならない。
あまりの痛みに、もう声を発する力さえ、喉の奥底に吸い込まれてしまったようだった。
救出された森田雫怜は、堰を切ったように泣きじゃくりながら、優真の胸へと飛び込んでいく。 柊音はただ、その残酷な光景を、魂が抜け落ちたかのように呆然と見つめるしかなかった。 つい先ほどまで、自分に冷たい視線を向けていた優真が、次の瞬間には、まるで慈しむかのように雫怜の目尻の涙を拭っている。
三人の兄たちもまた、まるで本当の妹を心配するかのように雫怜を取り囲み、髪の毛一本傷つけられていないかと、しきりに気遣いの言葉を浴びせていた。
誰も、もはや柊音に目を向けようとはしなかった。
たとえ……
ほんの一瞥でさえも……
彼女を待っていたのは、醜悪な笑みを浮かべた屈強な男たちだった。 彼らは、脂ぎった悪臭を放つ巨体を揺らしながら、下卑た笑みを浮かべ、ゆっくりと柊音へとにじり寄ってくる……
「へへ、まさか森田家が、あの忌まわしき私生児のために、森田家のお嬢様を捨てるたぁな。 俺たちみたいなドブの底で這いずり回ってるような人間でも、かつて高嶺の花だった森田家のお嬢様を弄べるなんてよ、世の中も変わったもんだぜ」
「兄弟たち、焦るなよ。 一人ずつ、ゆっくり順番にな……」
柊音の体は、すでに冷たい壁際に追い詰められ、もう逃げ場などどこにもなかった。
喉はとっくに叫びすぎて枯れ果て、その奥に広がる鉄錆のような血の味さえ感じていた。
少し離れた場所で、温かい再会を喜び合う五人の姿を、瞳に焼き付けるように見つめた時、柊音はついに、心の奥底にあったすべての勇気を失った。
心は、こうして、完全に死んだのだ。
お母さん……
もう一度だけ、最後に、私に勇気をください!
柊音は猛然と顔を上げ、すべてを終わらせるかのように、壁に向かって勢いよく頭を打ち付けようとした!
だが、その自殺行為は、首謀者の男に瞬時に察知された。 男は柊音より一瞬早く、その頭皮を乱暴に掴み、力任せに後ろへと引き倒した。
「パァン!」
激しく、そして熱い痛みを伴う平手が、柊音の頬を容赦なく打ち据えた。
「クソッ!この雌豚め、俺たちに弄ばれて死ぬ前に、てめえの勝手で死ぬことすら許さねぇぞ!」
その強烈な一撃で、柊音は意識を失い、その場に音もなく倒れ込んだ。
だが、誰もそのことに、微塵も気を留めようとはしない。
男たちは下卑た笑みを「へへ」と漏らしながら、脂ぎって汚れた太い手を、意識を失った柊音の体へと、ゆっくりと伸ばしていく……
醜悪な欲望を晴らそうと。
「ビリッ――」
「ビリッ――」
柊音の服が、 男たちによって乱暴に引き裂かれようとした、
まさにその時だった。
「シュッ!」
先ほどの平手打ちで意識を失っていたはずの柊音が、突如として、その瞳を大きく見開いた!
少女の瞳には、もはや先ほどまでの弱々しさは微塵もなく、代わりに、幾多の修羅場を潜り抜けてきた、真の王者だけが持つような、澄み切った鋭い光が宿っていた!
危険を察知した柊音は、まるで本能に突き動かされるかのように、反射的に身を翻し、すっと立ち上がった。
縄で縛られた両手を持ち上げると、まるで蛇のようにしなやかに、首謀者の男の首に巻き付ける。
地面を強く蹴り、一気に全身の力を込めて体をひねった。
「カキッ」
首謀者の男は、 反応する間もなく首を折られ、
その場に崩れ落ちた。
男たちが驚きに固まる一瞬の隙を突き、柊音は迷いなく一歩踏み込むと、高く上げた足で横薙ぎに蹴り払い、自分を襲おうとしていた者たちを、次々と地面へと叩き伏せた。
危機は、あっという間に去った。
だが、先ほどの平手打ちで意識を取り戻した瞬間から、柊音の眉間の皺は、一度として晴れることがなかった。
何かがおかしい。 これは、尋常ではない。
つい先ほど、反射的に男たちを倒した、あの流れるような一連の動きは、一体何だったのだろうか?
どうして、これほどまでに、まるで身体が覚えているかのように馴染み深い感覚がするのだろう? まるで、それが本来の自分の実力であるかのように。
「っ……!」
そう考えていた矢先――
長い間、深い霧の中に閉ざされていた記憶が、まるで荒れ狂う津波のように、柊音の脳裏に激しく押し寄せた……
誕生、幼少期、誘拐、そして…… 坂本征司。
極道。 血腥い、殺戮の日々!
思い出した!
六年前、海音市のトップ富豪である森田家の長女だった柊音は、仇敵に誘拐された。 その間に失われていた、丸四年間もの記憶のすべてを、今、完全に思い出したのだ!
誘拐された後の自分は、世間が推測していたような、享楽に満ちた歓楽街に売り飛ばされたわけではなかった。
世界一の極道組織ブラック・カタストロフの坂本征司に養女として引き取られ、その組織へと連れ帰られていたのだ。
その丸四年間で。
柊音は性格を一変させ、何が何でも生き抜いてやるという、炎のような執念を燃やした。 か弱い森田家の長女から、一躍、世界一の極道組織ブラック・カタストロフの令嬢へと成り上がり、やがて、ブラック・カタストロフの誰もが認める、唯一の後継者となったのである。
当時の柊音は、征司の最も優秀な養女であるだけでなく、数万人に及ぶ後継者候補の中から、ただ一人、生き残った者でもあった。
まさに、極道の女王にふさわしい、絶対的な存在へと君臨したのだ!
彼女が覚えているのは、二年前、極秘任務の遂行中に部下たちの裏切りに遭い、地雷原へと誘い込まれたことだけ。
おそらく、その時、近くの住民にまだ生きているところを発見され、警察に届けられたのだろう。 そしてDNA鑑定によって、自分が四年間行方不明だった森田家の長女であることが確認され、森田家に戻されたに違いない。
不幸にも、裏切りに遭った地雷原での一件で、この四年間分の記憶を失ってしまっていたのだ。
その記憶は、つい先ほどまで、深い闇の中に閉ざされたままだった。
そう考えていた矢先、 凍りつくような怒りに満ちた男の咆哮が、
前方から響き渡った。
「森田柊音だと!?」
「この忌々しい女が、 一体何をしているんだ!?」
話 2
森田雫怜を受け取り、安藤優真と森田家の三兄弟が彼女を数言慰めた直後、彼らの目の前に飛び込んできたのは、信じがたい光景だった。 両手を縛られたまま、テロ組織の誘拐犯たちを次々とねじ伏せていく、森田柊音の姿だったのだ。
冗談だろう? そんなことが、
あってたまるか!
両手を縛られた状態どころか、たとえ全盛期の彼女であったとしても、あの森田柊音なのだ。 肩に荷すら担げず、ひ弱で、何の力もない。 格闘技を教える師匠にさえ、その愚かさに呆れられ「役立たず」と罵倒された、あの柊音が!
その程度の腕前で、幾多の修羅場をくぐり抜けてきた誘拐犯たちと、互角に渡り合うだと?
夢物語にも程がある!
だとすれば、唯一の説明は一つ――
この誘拐犯たちは本物などではない。 すべて森田柊音が金で雇った、手練れの役者たちだ! この女はきっと、昔と同じように、俺の気を引くために、こんな大掛かりな芝居を打ったに違いない!
だが、よりにもよって、馨までこの危険な状況に巻き込みやがった!
そこまで考え至ると、優真のこめかみの血管が、ぴくぴくと激しく脈打つのを感じた。
怒りが、優真の全身を焼くように駆け巡る。
ほとんど歯ぎしりにも近い口調で、彼は柊音に向かって咆哮した。
「はっ!そうか、すべてはお前の仕業だったんだな、森田柊音!この誘拐犯たちも、お前が仕向けたんだろう!森田柊音、森田柊音……てっきりお前はもう完全に目を覚ましたかと思って、もう少し懲らしめてから助けてやろうとまで考えていたのに、まさかここまで懲りない女だったとはな!またもや同じ手口を使いやがって!」
「俺のことが、 そんなにも好きなのか? 馨にまで衆人環視の中で手を出すほどに!?」
雫怜は、怯える小鳥のように優真の胸に身を寄せたまま、信じられないといった面持ちで、その薄い唇を震わせた。 「まあ、お姉ちゃん……そんなにも、私のことが憎いんですか?でも、私、お姉ちゃんと何かを争おうなんて、一度だって思ったことないんですよ?もし、もしお姉ちゃんが、そこまで私のことを憎んでいらっしゃるのなら、私、ここから出ていきますから……」その細い肩を震わせ、今にも泣き出しそうな声で続けた。
「もしお姉ちゃんが、私が邪魔だと思われるなら、私が今まで積み上げてきた研究成果も、全部お姉ちゃんに差し上げますから……」
「森田柊音!」雫怜の、一見か弱く力のない言葉は、しかし、傍らに立つ三人の兄たちの心臓を深く抉った。
三人が柊音に向ける視線は、まるで彼女を生きながらにして皮を剥ぐかのような、生々しい憎悪に満ちていた。
「俺たち三兄弟が、どれだけ巡り合わせが悪かったら、お前みたいな性悪な妹を持つことになるんだ!馨こそが、俺たちの本当の妹だったらどれほどよかったか!お前なんて……お前は森田家最大の恥だ!」
次々と浴びせられる言葉の刃は、柊音がこの二年間に受けた、すべての屈辱を鮮やかに呼び起こした。
彼女が仇敵に誘拐された、まさにその翌日、父親は外に囲っていた私生児を森田家に迎え入れたのだ。
森田家に迎え入れられた私生児、雫怜は、瞬く間にあらゆる分野で非凡な才能を開花させ、同時に、記憶を失って家に戻ってきた柊音を、まるで何の価値もない存在であるかのように貶めていった。
森田家は、ことあるごとに雫怜を伴い、その非凡な才を誇示するようになった。 そして、あろうことか、柊音の婚約者である安藤優真の心までも、彼女は惹きつけてしまったのだ。
それだけなら、まだ耐えられた。
柊音から居場所を奪った雫怜は、飽き足らず、森田家のお嬢様の座までをも狙っていた。 そのために、柊音が家に戻ってからのこの二年、雫怜は何度も彼女を巧みに陥れ、優真と三人の兄たちの柊音に対する憎悪を、ますます深く根付かせていったのだ。
それだけではない。 周到に計画された災難で、彼女を殺しかけただけでなく、優真と三人の兄たちの目の前で、あたかも命の恩人であるかのように、彼女を救うふりまでしたのだ。
その結果、この二年という歳月の中で、森田家、優真、そして三人の兄たちにおける柊音の地位は、ただ一方的に転落するばかりだった。
そして今日、雫怜は柊音を無理やり連れ出し、結果として二人揃って誘拐されるという事態に陥った。
それゆえ、誘拐犯たちが優真と三人の兄たちに、二人から一人を選ぶよう要求した時、彼らは微塵の迷いもなく、雫怜を選んだのだ!
かつて堂々たる森田家のお嬢様が、衆目の前で辱めを受ける寸前まで追い込まれたとは。 なんという滑稽さ、なんという悲哀か。
もし、記憶を失ったままの森田柊音であったなら、今日、彼らの思い通りに、無残に蹂躙されていたことだろう。
だが――残念なことに。
今の彼女は、すべての記憶を取り戻していた。 かつて極道の世界で過ごした、血生臭く残酷な四年間。 それは、優真に抱いていた甘やかな愛を、一片の虚無へと変え去ってしまった。
この二年、 優真が雫怜のために柊音にしてきた数々の仕打ちを思えば、 なおさら、
その愛は跡形もなく消え失せていた。
そこまで思い返したところで、柊音はふと、まるで何事もなかったかのように手を上げ、自らを縛っていた縄をやすやすと解き放った。
そして、ゆっくりと優真たちの方へ向き直り、静かに歩み寄る。
「へえ?」 「芝居、 ねぇ?」 「恥辱、 か。」
柊音は、嘲るように軽く、そして低く笑った。
笑ってはいるが、その声には凍えるような冷やかさと、骨の髄まで染み渡るような底知れぬ軽蔑が宿っていた。
その研ぎ澄まされた口調と、乾いた笑い声は、優真たちの心を不意に、深い恐怖で震わせた。
優真たちが、その異様な気配に反応する間もなく、次の瞬間、柊音はすっと笑みを消し、氷のような、研ぎ澄まされた表情で言い放った。
「だったら、
徹底的に演じてやるわ!」
言い終わるが早いか――
「パァン!――」
柊音は間髪入れず数歩前に踏み込み、不意に手を振り上げた。 その熱い平手打ちが、優真の端正な横顔を、容赦なく激しく打ち据えた。
乾いた平手打ちの衝撃音が、凍りついた空気に劈くように響き渡った。
その場にいた誰もが、呆然と、その光景に目を奪われた。
話 3
三人の兄たちと森田雫怜は、柊音が安藤優真に放った、あまりにも突然の一撃に、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
まさか、柊音は今日この場で、優真と本気で対峙するつもりなのか? あれほど優真を深く愛していたはずの彼女が、今、まさか彼に手を上げたというのか――。
「森田柊音!このアマ、本当に気が狂ったのか!」 当事者である優真もまた、この事態を全く予期していなかった。 あの柊音が、まさか本当に自分を殴りつけるなど――誰よりも彼自身が、その信じがたい現実に呆然としていた。
名門・安藤家の御曹司、そして若手実業家の頂点に立つこの自分が、生まれてこの方、誰かに殴られたことなど一度としてなかったのだ。
それが、 まさか、 かつてあれほど自分を慕い、 心酔していた柊音に、 この大勢の視線が集まる中で、 平手打ちを食らわされるとは――。
「女! 跪いて俺に許しを請うがいい! さもなければ、この安藤優真が、 容赦なくその報いを受けさせると思え!」
優真は全身を震わせ、 怒りを爆発させた。
いいだろう、 望むところだ! 芝居がお望みか? こんな稚拙なやり方で、 俺の気を引こうとでも思っているのか? 今日こそ、
その愚かな芝居が完全に台無しになったことを、 骨の髄まで思い知らせてやる!
こんな真似をすれば、彼女は俺にますます嫌悪されるだけだ。 二度と、俺の許しを得ることなどない!
その時、彼女は、涙を流す場所さえ見つけられなくなるだろう!
この期に及んでさえ、優真はまだ、柊音が自分を試すための芝居を打っているのだと、微塵も疑わなかった。 人間が、たった一夜でこれほどまでに変貌するなど、あり得ないことだと、彼は固く信じていたのだ。
だが、柊音には、もはや彼のくだらない茶番に付き合う気など、毛頭なかった。
かつて彼をどれほど深く愛していたか。 今、目の当たりにする優真の醜悪な本性を知った彼女は、その愛と同じくらい、あるいはそれ以上に、彼を憎悪していた。
「ええ、私が殴ったのよ!」柊音は、その凍えるような視線で優真を射抜き、冷然と言い放った。
「安藤優真、今日この場で、あなたに教えてあげるわ。 今の平手打ちは、あなたが私に働いた数々の無礼に対する、ほんの序章に過ぎない教訓よ。 覚えておきなさい――今日あなたが命があるのは、ただ運が良かっただけだと」
「そして、私はここに宣言するわ。 私たち二人の婚約は、本日をもって正式に破棄する。 私の方から、一方的に婚約を解消するから、以前あなたたち安藤家に前渡しした株式の10パーセント、その結納金を、今すぐ私に返しなさい」 「これからは、お互い全く別々の道を歩み、一切の関わりを持つことはない!」
サッと。
そう言い放つと、柊音は踵を返してその場を去ろうとした。 記憶を取り戻したばかりの彼女には、他にやるべきもっと重要なことがたくさんあったからだ……。
そして、あの裏切り者たちに教えてやらなければならない。 この森田柊音が、帰ってきたのだと!
「何、だと……!?」
しかし、その言葉を聞いた優真は、完全に平静を失った。
柊音が、まさか本当に自分との婚約を破棄するなど――夢にも思わなかったのだ。
しかも、かつて安藤家への援助として差し出した株式の10パーセントまで、取り戻すつもりだというのか。
よくも、そんな大それたことが言えたものだ!!
そもそも、森田グループはかつて、柊音の祖父が築き上げた会社だった。 柊音の母親は、生前、グループの株式の50パーセントを彼女に残し、成人後に相続できるよう手配していたのだ。
そのうちの10パーセントは、安藤家が財政難に陥った際、柊音が結納金として優真の安藤家に前渡し、安藤家の資金繰りを補填するために使われた経緯があった。 それゆえ、優真は柊音を深く嫌悪し、才能と美貌を兼ね備えた雫怜に心を奪われていたにもかかわらず、この婚約を継続することに同意していたのだ。
残りの40パーセントの株式は、現在、森田の父が全権を代行し、管理している。
だが今、柊音はそれまでの態度を完全に豹変させただけでなく、あの株式を取り戻すとまで言い放ったのだ。
これは、安藤家を破滅へと追い込むつもりではないのか?
断じて、許せるはずがない!
優真が許さないのは当然として、森田家の者たちもまた、彼女の要求に同意するはずがなかった。
「森田柊音、貴様、あまりにも図々しいぞ!」 三人の兄の一人が、怒りに顔を紅潮させ、声を荒げた。 「俺たちも母さんの子供だ。 俺たちと父さんが、森田家のためにどれだけ苦労してきたと思っているんだ!安藤家に渡した10パーセントの株だろうが何だろうが、これらはとっくに森田家の財産だ。
お前ごときに、そんな権利があるわけないだろうが!」 「そうよ、お姉ちゃん。 そんなことしたら、あまりにも欲張りで、情けなさすぎるわ。 だって、私たちは家族なんだから……」隣に控えていた雫怜もまた、悔しさと焦りで唇を噛み締めた。
もし柊音が本当に10パーセントの株式を取り戻せば、安藤家は深刻な金融危機に陥ることは明白だった。
そうなれば、安藤家に嫁ぎ、安藤夫人となるという、長年温めてきた甘い夢も、脆くも泡と消え去ってしまうではないか。
しかし、大勢の視線が注がれる中、柊音は彼らの言葉に耳を傾けるどころか、一瞥すら与えず、そのまま毅然と踵を返してその場を去っていった。
その様子に、そこにいた誰もが焦燥を募らせた。
「待て!森田柊音!待てと言っているだろうが!」 優真は、柊音の背中に向かって、必死に叫んだ。 「婚約を解消するだと? どういうことだ!? 株も全て取り戻すだと!? 今日、 きちんと説明してから行け!」
柊音が本気であると悟った優真は、まさに絶望的なパニックに陥っていた。
優真は、縋るように数歩前へ踏み出すと、柊音の肩を掴んで引き留めようと、無我夢中で手を伸ばした。
だが――!
優真の手が、柊音の肩に触れようと、わずか0.05センチの距離にまで迫った、その刹那。
予期せぬ異変が、突如として起こったのだ!
その時――
優真に背を向けていた柊音は、背後から迫る殺気を肌で感じ取ると、瞬時に「黒社会の女王」としての本能が覚醒した。 彼女は電光石火の速さで体をひねり、優真の手を寸前でかわした。
それと同時に、反射的に振り上げた手で、優真が肩に触れようとしたその手を、寸分の狂いもなく正確に叩き落としたのだ。
その刹那!
「うわっ!」 優真は思わず声を上げ、 腕全体が感電したかのような痺れに襲われた。 その衝撃で、
彼は数歩もたたらを踏んで後ずさり、 どうにか体勢を立て直すのが精一杯だった。
このあまりにも突然の出来事に、その場にいた全員が、ただ呆然と目を見開き、言葉を失っていた。
安藤優真は、決してただ者ではない。 彼は若手格闘界において実力者としてその名を馳せる格闘家であり、海音市国防第一士官学校の格闘マスター、松岡先生の直弟子でもあるのだ。
だが、今、彼らは一体、何を目にしたというのか?
あの優真が、まさか、世間から「廃物」とまで嘲笑されていた柊音に、かくも容易く弾き飛ばされたというのか?
あり得ない!そんな馬鹿なことがあってなるものか!