話 2
菊池星奈のその言葉に、男は目を細め、意外そうに問いかけた。「そこのお嬢さん、本気で言っているのか? 俺は見ての通り足が不自由だ。結婚すれば、今日の決断を遅かれ早かれ後悔することになるぞ」
星奈はすぐには答えず、逆に問い返した。「あなたは、他の女のために妻を見捨てるようなことをする人?」
「するわけがない」男は即答した。
星奈もまた、迷いなく答えた。「なら、私も絶対に後悔しない。あなたが娶る勇気があるなら、私だって嫁ぐ覚悟はあるわ!」
彼女の真剣な眼差しを見て、男にも拒む理由はなかった。「いいだろう。結婚しよう」
こうして、中止になるはずだった星奈の結婚式は予定通り行われた。
牧師の立ち会いのもと、彼女は二人の結婚証明書を手に入れた。
教会を出た時、星奈はまだ夢見心地だった。――まさか本当に、見ず知らずの男と結婚してしまうなんて!
これから、新しい生活が始まるのだ。
男の車椅子を押して外へ歩き出し、彼女はふと思い出した。「そういえば、まだ名前を聞いてなかったわ」
「藤井勇真だ」男が答えた。
星奈は驚いて声を上げた。「あなたが、あの藤井グループの長男の……藤井勇真さん?」
星奈の動揺を見て取り、勇真は口元に皮肉めいた笑みを浮かべた。
「どうした。結婚相手が有名な“落ちこぼれの長男”だと知って、後悔したか?」
藤井グループの長男に関する噂は、街中で知らない者がいないほど有名だった。
生まれた時に母を亡くし、父は後妻を迎えた。
その後、交通事故で両足が不自由になり、完全に“廃人”扱いされるようになったのだ。
追い打ちをかけるように後妻が男児を産んだことで、藤井家からの冷遇はさらに増した。
もし祖母である藤井の大奥様が守ってくれなければ、とっくに家を追い出され、路上の物乞い以下の生活をしていただろう……。
勇真にしてみれば、まともな女が自分のような廃人に嫁ぐはずがない。あるとすれば金目当てだ。
だが自分は障害者である上に、実家からも疎まれている。この女もさぞがっかりしたことだろう。
勇真は、星奈が悔しがって地団駄を踏む顔を見せると思っていた。
だが星奈は、勇真に親近感を覚えただけだった。彼も自分と同じ、家族に捨てられた可哀想な人なのだ。
彼女は自ら彼の手を握り、真剣に言った。「言ったでしょ、あなたと結婚すると決めた以上、後悔なんてしないって。 ただ、夫婦になったんだから、これからは私があなたにもっと温かい家庭を作ってあげたいなって思っただけ」
「そうか? せいぜい期待しておくよ」 勇真は明らかに信じていなかった。
(この女も、俺から何の得も得られないと知ったら、いつまでこの仮面を被っていられるだろうな)
すぐに一台の車が二人の前に停まった。
「乗れ」彼が言う。
星奈は思わず尋ねた。「どこに行くの?」
「家に決まってるだろ。結婚したんだ、一緒に住むのが当然じゃないか?」
――家に連れて行く?
星奈の胸がとくんと跳ねた。
ふと、伊藤直哉との間にも“家”があったことを思い出した。二人の未来のために、彼女が心を込めて準備した新居だ。
だが今や勇真と結婚した以上、あそこにある自分の荷物はすぐに片付けなければならない。
そう考え、彼女は切り出した。「ちょっと用事があるから、先に片付けてきてもいい? 連絡先と住所を教えてくれたら、用が済み次第すぐにそっちへ引っ越すから」
「送らなくていいのか?」勇真が眉を上げた。
「平気、自分でやるわ」 星奈は彼に迷惑をかけたくなかった。
勇真はそれ以上何も言わず、連絡先を交換して車で去っていった。
30分後、星奈はあるマンションに到着し、新居のドアを開けた。
部屋の中を見渡す。テーブルクロス、壁の絵、窓際の二つの観葉植物。大小さまざまなインテリアのすべてが、この家を温かくするために彼女が心を砕いて選んだものだった……。
だが星奈は、それらに向かって迷いなく歩み寄ると、次々と取り外してゴミ箱へ放り込んでいった。
新しい人生を始めると決めたのだ。過去の残骸に未練なんて必要ない!
余計なものを捨てきり、自分の荷物をまとめていると、ドアの外に人影が現れたことに気づかなかった。
部屋の様子を見た直哉は、思わず大声で怒鳴った。「菊池星奈、何をしてるんだ!?」
話 3
温かみにあふれていたはずの新居は、今や見る影もなく荒れ果てていた。
その惨状を作り出した“張本人”である菊池星奈は、まだ無事な荷物をスーツケースに詰め込んでおり、部屋を空っぽにする勢いだった。
伊藤直哉は信じられないといった様子で辺りを見回すと、大股で星奈の方へ歩み寄った。
「菊池星奈、お前頭おかしくなったのか? 俺がちょっと留守にしただけで、こんな真似して駄々をこねる気かよ」
彼は大きく息を吸い込み、必死に怒りを抑えているようだったが、容赦ない口調で命じた。「1時間やる。すぐにここを元通りにしろ!」
星奈は慌てる様子もなく手元の荷物をまとめ終えると、冷ややかな目で振り返り、直哉を見据えた。
彼女は呆れたように笑って言った。「伊藤直哉、まさか知らないの? 失ったものは二度と戻らないし、元通りになんてなるはずがないのよ」
直哉は苛立ちを隠さずに眉をひそめた。「一体何が言いたいんだ?」
逆に問い詰めてくるその自信がどこから湧いてくるのか、星奈には理解できなかった。たぶん彼のような人間は、自分が間違っているとは微塵も思わないのだろう。
――いや、違う。 彼の唯一の優しさは、愛する女、遠藤理紗にのみ注がれるのだ。
星奈は無表情のまま直哉を見つめ、全身の力を振り絞るように一言一句、言葉を紡いだ。
「結婚式のあの日、あなたは私のメンツも願いも無視して、私を式場に置き去りにした。あの時、私がどんな気持ちだったかわかる? 伊藤直哉、私の立場になって考えたことはある? あんなに辛い思いをさせられたのに、それでもただの八つ当たりだと思ってるの?」
口にすると、どうしても心の底にある悲しみが引きずり出されてしまう。星奈は思わず目元を赤くしながら、直哉をじっと睨みつけた。
その様子を見て、直哉はふと気まずさを覚えたが、すぐにどうでもいいと思い直した。
長い付き合いの中で、星奈を怒らせたことは一度や二度ではない。大したことではないと思っていたし、実際、星奈はいつも許してくれた。
(昔から彼女は俺の苦労を理解してくれていた。今回も少し機嫌をとれば、たぶんすぐに許してくれるだろう) そう考えた直哉の顔から怒気が消え、余裕のある笑みが浮かんだ。
「星奈、わかったよ。お前が面白くないのはわかるけど、こんな風に騒ぐなよ。見ろよ、新居がめちゃくちゃじゃないか」
直哉は笑みを浮かべ、星奈の華奢な肩に手を置いて、優しくなだめるように言った。
「ほら、もう気も済んだだろ?いい加減にしろって。日を改めて、もっといい日取りを選ぼう。 約束するよ、もっと盛大で豪華な結婚式を挙げてやるから。な?」
星奈は静かに直哉の笑顔を見つめた。口ではそう言っているが、その目は適当にごまかそうとしていて、彼女をコントロールできるという確信に満ちていた。星奈が必ず頷くと高を括っているのだ。
(そうだ、彼は昔からずっとこうだったじゃないか) 星奈は心の中で自嘲した。チャンスを与えすぎたせいで、彼は“誠実に接する必要なんてない”と勘違いしてしまったのだ。
そう思うと、星奈は冷たい表情で肩に置かれた手を払いのけた。 「触らないで。汚らわしい!」
直哉は信じられないといった目で星奈を見た。かつて彼女がこんな態度を取ることなど一度もなかったからだ。
続けて、星奈は冷たく言い放った。「伊藤直哉、あの結婚式はもう終わったの。もう一度やるつもりもないわ。今日ここに来たのは、荷物を取りに来ただけよ」
手を振り払われたことにイラついていた直哉だったが、その言葉を聞いて怪訝そうに眉を寄せた。「荷物を取りに……?」
星奈は頷いた。「そう、今すぐ出て行くわ」
直哉は冗談でも聞いたかのように、鼻で笑って問い返した。「どこに行くあてがあるんだよ?」
直哉は星奈が孤児であることをよく知っていた。彼女にはこの家以外、帰る場所なんてないはずだ。
ここ5年、星奈の世界は自分を中心に回っていた。だから彼女が自分から離れられるわけがないと確信していたのだ。
(引越しなんて言い出したのは、俺に頭を下げさせるための脅しに過ぎない) 直哉はやれやれと首を振り、さらに何か言おうとした。
その時、背後から理紗の声がした。
「直哉、荷物をまとめたらすぐ降りてくるって言ったじゃない。 どうしてこんなに時間がかかってるの?」
言いながら部屋に入ってきた理紗は、直哉の向かいに立っている星奈を見て、すぐに驚いた顔を作った。「星奈、どうしてここにいるの?」
星奈は淡々と理紗を一瞥した。「ここは私の新居のはずだけど? 私がいて何か問題ある? それよりあなたこそ、何しに来たの?」
理紗はわざとらしく傷ついたように伏し目がちになり、弱々しい声で言った。「果物ナイフで怪我しちゃって……。直哉が心配して、数日そばにいてくれるって言ってくれたの」
そこで言葉を切り、彼女はようやく星奈の荷物に気づいたふりをして、信じられないとばかりに口元を押さえた。
「星奈、これどういうこと? まさか怒ってるの?いくら怒ってるからって、こんなに大騒ぎしなくてもいいじゃない。 気に入らないことがあるなら私に言ってよ。謝るからさ、こんなことしないでよ」
星奈は冷ややかに口角を上げ、ゆっくりと理紗に歩み寄りながら尋ねた。「本当に謝るつもり?それ、本心なの?」
直哉の手前、理紗は演技を続けるしかなかった。
彼女はしおらしく頷いた。「もちろんよ。あなたが許してくれるなら」
「いいわ、わかった」 星奈は晴れやかな笑顔を見せたが、その瞳には何の感情も宿っていなかった。「心から謝りたいっていうなら、遠慮なく受け取ってあげる」
言い終わるが早いか、星奈は力一杯腕を振り上げ、理紗の頬を思い切り平手打ちにした。
パンッ!