話 2
手の甲に押し当てた脱脂綿に、じわりと血が滲む。香澄はベッドからゆっくりと立ち上がり、ふらつく足で病室の隅にあるスチール製のロッカーへ向かった。自分の私物を確認する必要があった。
引き出しを開けると、そこには無惨な姿になったスマートフォンがあった。画面は蜘蛛の巣のようにひび割れ、電源ボタンを押しても何の反応もない。
香澄はそれを手に取り、側面の歪んだ傷跡を指でなぞった。これは事故の衝撃でついたものではない。誰かが意図的に、鈍器のようなもので叩き壊した跡だ。
「……ふっ」
乾いた、冷たい笑いが漏れた。敦人が、過去のメッセージや写真といった証拠を消すためにやったのだろう。その姑息さに、もはや怒りさえ湧いてこなかった。
香澄は壊れたスマートフォンを、先ほどの小切手の切れ端が眠るゴミ箱に、何の未練もなく投げ捨てた。
次にクローゼットを開け、事故の時に着ていた血の付いた服を取り出す。それを畳んでいると、ポケットから何かが滑り落ち、床にカラン、と乾いた音を立てた。
プラチナのリングだった。二人のイニシャルが刻まれた、ペアリング。
香澄はその指輪を数秒間、見つめた。四年前、敦人が「永遠を誓う」と言って、自分の指にはめてくれた時の光景が脳裏をよぎる。胃の奥から、吐き気にも似た不快感がせり上がってきた。
彼女は指輪を拾い上げると、窓辺へ歩み寄った。そして、窓のわずかな隙間から、それを階下の植え込みに向かって、ためらいなく放り投げた。
過去との繋がりを全て断ち切り、香澄は看護師が用意してくれた簡素な普段着に着替えた。身体のあちこちが軋むように痛むが、それさえも今の彼女にとっては現実を実感させるためのスパイスに過ぎなかった。
病室を出ると、廊下にいた看護師たちが一斉にこちらを見た。同情と好奇の入り混じった視線。財閥の御曹司に捨てられた哀れな女。彼女たちの囁き声が、そう告げていた。
香澄は背筋を伸ばし、その視線を真正面から受け止めながら、ナースステーションへとまっすぐ歩いた。
「退院します」
大理石のカウンターに病室の鍵を置き、香澄は当直の看護師、斎藤に静かに告げた。
「えっ、でも……」
斎藤は困惑した表情を浮かべた。
「鷹司様からは、桐山様はまだ安静が必要だと……治療費は全てお支払い済みですが……」
「私をここに監禁するつもり?」
香澄は冷たく斎藤を見据えた。
「不当な身柄拘束は犯罪です。すぐに手続きをしないなら、警察を呼びます」
その気迫に圧倒され、斎藤は慌ててキーボードを叩き、退院同意書を印刷した。
香澄はペンを手に取ると、流れるような筆致で自分の名前をサインした。そこに、一片の迷いもなかった。
手続きを終え、香澄は一階のロビーへと向かった。この嘘と偽りに満ちた場所から、一刻も早く立ち去りたかった。
その頃、二階の渡り廊下の影で、敦人が腕を組み、階下の香澄を冷ややかに見下ろしていた。
「敦人様、香澄さん、まだ怒っているのかしら」
美咲が敦人の腕に絡みつき、わざとらしく甘えた声を出した。
「放っておけ」
敦人は冷たく吐き捨てた。香澄の痩せた後ろ姿を見ながら、彼は確信していた。あれは、気を引くための芝居だ。三日もすれば、泣きながら戻ってくるに違いない、と。
美咲の瞳の奥に、暗い光が宿った。彼女は敦人の言葉に優しく頷きながら、香澄の退路を完全に断つための次の一手を、頭の中で組み立てていた。
自動ドアが開くと、初秋の冷たい風が吹き込んできて、香澄の薄い服を通り抜けた。ぶるり、と身体が震える。
彼女は一度だけ深く息を吸い込むと、この豪華な私立病院を一度も振り返ることなく、タクシー乗り場へと歩き出した。
一台の黒いタクシーが、彼女の目の前で停まる。運転手が親切にドアを開けてくれた。
「どちらまで?」
「港区の、タワーマンションまでお願いします」
それは、敦人と四年間、共に暮らした場所だった。
運転手はバックミラー越しに香澄の青白い顔を一瞥したが、何も聞かずにアクセルを踏んだ。
後部座席で、窓の外を流れていく東京の街並みを眺めながら、香澄の瞳は鋼のように硬い光を帯びていた。
あの部屋には、仕事に必要なノートパソコンと、誰にも見られてはならない極秘のファイルがある。敦人が部屋を封鎖する前に、必ず取り返さなければならない。
その時、タクシーのラジオから、鷹司財閥が近々発表する新企画に関するニュースが流れてきた。
香澄の唇の端が、冷ややかに吊り上がった。その企画書は、彼女が幾晩も徹夜して、敦人のゴーストライターとして書き上げたものだった。
彼女は静かに目を閉じ、自分の血と汗の結晶を奪い返すための計画を、頭の中で素早く組み立て始めた。
音のない戦争の火蓋が、今、切って落とされた。
話 3
タクシーが、見慣れたタワーマンションのエントランス前に停まった。香澄は車を降り、そびえ立つガラス張りの建物を見上げた。
オートロックのパネルの横にある、生体認証システムに目を向ける。香澄は冷たいガラス面に自分の網膜をスキャンさせた。ピ、という無機質な電子音と共に、重厚なドアが滑らかに開いた。まだ彼女のアクセス権限を削除していないらしい。敦人のその傲慢さと油断を、香澄は心の中で嘲笑った。
玄関に足を踏み入れた瞬間、鼻をつく甘ったるい香水の匂いに、思わず顔をしかめた。相田美咲が好んで使うブランドの香りだ。この部屋が本来持っていた、清潔でミニマルな空気とは全く異質だった。
「あら、桐山様」
物音を聞きつけてキッチンから出てきた家政婦の鈴木はなは、香澄の姿を認めると、作り笑いをさっと消した。
「まだここにご用があったんですか。よくもまあ、戻ってこられましたわね」
いつものような丁寧なお辞儀もなく、鈴木は嫌味たっぷりに言い放ち、香澄の行く手を阻むように立ちはだかった。
香澄は冷たい視線で鈴木を一瞥した。それは、この家の真の主人が誰であるかを思い出させるような、有無を言わせぬ威圧感を放っていた。鈴木は無意識に半歩後ずさり、道を譲った。
スリッパに履き替えリビングに入ると、そこは別世界だった。彼女が選び抜いたシンプルな家具や小物は一掃され、代わりに趣味の悪いピンク色のクッションやレースのカーテンが設えられている。
ローテーブルの上には、美咲のブランドバッグと、敦人と親密そうに写る写真立てがこれ見よがしに置かれていた。無言の勝利宣言。
香澄はそれらを完全に無視し、主寝室へとまっすぐ向かった。彼女の目的はただ一つ、金庫の中にある重要書類だけだ。
寝室のドアを開けると、隅の方に、彼女の服が詰め込まれた安物の段ボール箱がいくつか無造実に積まれていた。
香澄はそれらには目もくれず、ウォークインクローゼットの奥へと進む。壁に偽装されたパネルを開け、指紋認証で隠し金庫の扉を開いた。
中には、彼女のノートパソコン、裏帳簿のコピー、数点の重要特許に関する書類、そして、かつて父親の事件を調べるために匿名で購入したセキュリティ強化モデルの予備スマートフォンと、その二百万円の領収書が保管されていた。いざという時のための切り札だ。
それらを慎重に持参したビジネスバッグに詰め込み、中身を再確認する。ようやく、張り詰めていた神経が少しだけ緩んだ。
その時、リビングから鈴木の媚びた声が聞こえてきた。相田美咲が、この部屋の固定電話にかけてきたらしい。
鈴木はわざとスピーカーフォンをオンにした。美咲の甘ったるい声が、部屋中に響き渡る。
「鈴木さん、新しいベッドシーツ、もう替えてくれた?」
「はい、美咲様!ところで、例の厚かましい方がいらっしゃって、寝室で何かゴソゴソ漁っておりますわ。お金でも盗むつもりかしら」
電話の向こうで、美咲がくすくすと笑う声がした。
「しょうがないわね。鷹司家のものには指一本触れさせないように、しっかり見張っておいてちょうだい」
香澄はビジネスバッグを手に、寝室から出てきた。そして、通話中の鈴木の前に、音もなく立った。
その氷のような視線に射抜かれ、鈴木は言葉を失い、慌てて電話を切ろうとする。だが、その手は香澄によって強く掴まれた。
香澄はスピーカーフォンに向かって、はっきりと、冷静に告げた。
「ご心配なく。私が持ち出すのは、私のゴミだけです。残りは全て、ガラクタ集めがお好きなあなたに差し上げますわ」
「なっ……!」
電話の向こうで、美咲の優しい仮面が剥がれ落ちた。
「あなたなんて、敦人さんに飽きられただけの負け犬のくせに!」
香澄はもはや言い争う気も起きず、固定電話のコードを、ただ無言で引き抜いた。美咲の金切り声が、ぷつりと途絶える。
「な、何てことを!」
鈴木が逆上して香澄を指差した。
「器物損壊よ!警察を呼んでやるわ!」
香澄は財布から一万円札の束を取り出すと、それを鈴木の顔に叩きつけた。
「電話線の代金よ。残りはあなたの口止め料」
ばらまかれた紙幣に、鈴木の目は釘付けになった。彼女は貪欲な本性を剥き出しにして、床に散らばった金を拾い集め始めた。もはや香澄を止める者はいない。
香澄は、床に散らばる札束を踏みつけながら、振り返ることなく玄関へ向かった。
ドアを開ける前に、姿見に映る自分を見た。顔色は青白い。だが、その瞳は、かつてないほどの闘志に燃えていた。
彼女はドアを開け、持っていた鍵を外のマットの上に、強く投げ捨てた。四年間、彼女を閉じ込めていた金色の鳥籠との、完全な決別だった。
エレベーターに乗り込み、階数表示が下がっていくのを見ながら、香澄の心は、蛹から蝶へと羽化するような、不思議な軽やかさに満たされていた。
マンションを出ると、香澄はすぐに公衆電話を探し、ある男に電話をかけた。裏社会に通じる、情報屋だ。
次なる戦いの準備は、もう始まっている。