1

「敦人さん……?」

刺すような消毒液の匂いの中で、香澄は重い瞼をこじ開けた。ぼやけた視界に映ったのは、ベッドサイドに立つ白衣の男。恋人の敦人ではない。無意識に伸ばしかけた手が、シーツの上で力なく止まる。

「桐山さん、お目覚めですか」

金縁の眼鏡を押し上げながら、加藤健一と名乗る医師が手にしたカルテに目を落とした。事務的な声が、病室の死のような静寂を破る。

「鷹司様は、事故の衝撃による深刻なPTSDを発症されました。残念ながら、ここ四年間の記憶が、すっぽりと抜け落ちておられます」

香澄の呼吸が止まった。

そんな、馬鹿な。

敦人が、記憶を失った?

加藤の言葉が頭の中で反響する。香澄は手の甲に刺さった点滴の針を引き抜き、血が滲むのも構わず上半身を起こした。

「敦人さんは、今どこに」

「お気持ちはわかりますが、まだご自分のお体が……」

「どこですか」

掠れた声に、加藤は気圧されたように一歩退がり、隣の特別個室の番号を告げた。

香澄はふらつく足で廊下を進んだ。四年間、決して表には出られなかった恋人のもとへ。昨夜、敦人はついに香澄との関係を鷹司家に公表すると約束してくれた。その約束を果たすための道中で、事故は起きたのだ。

あと数時間で、自分たちは正式な恋人同士になれるはずだった。そんな矢先の、記憶喪失。あまりに残酷な現実に、香澄の胸は張り裂けそうだった。

病室の前にたどり着き、ノブに手をかけたその時だった。わずかに開いた扉の隙間から、敦人の声が漏れてくる。しかもそれは、香澄がこの四年間一度も聞いたことのない、甘く優しい声だった。

「まだ見合いに行くのか? じゃなきゃ、香澄とのことを公にしてやるって、あんなに怒らせたんだぞ」

香澄の手が、凍りついた。

公表。それは、自分を正式な相手にするためのものではなかったのか。

「もうしないってば……今夜は、なんでも言うこと聞くから」

スマートフォンのスピーカーからだろう、女の嬌声がかすかに聞こえる。相田美咲。敦人の大学の後輩で、何度か食事会で顔を合わせたことのある女だ。

「心配するな。加藤には記憶喪失の偽造カルテを用意させてある。俺が認めなければ、誰が香澄を信じる? しつこくされても、相手にするつもりはない」

香澄は壁に手をつき、ずるずるとしゃがみ込んだ。

記憶喪失は、偽り。すべては、自分を捨てるための狂言だった。

昨夜の約束も、香澄を表に出すためのものではなく、美咲を焦らせるための当てつけ。運転中、敦人がずっとスマートフォンを気にしていたのも、仕事の連絡を待っていたからではなかった。美咲の嫉妬を待っていたのだ。

土足で心を踏みにじられたような感覚に、目の前が暗くなった。

どれほどそうしていただろう。中から物音がし、香澄は慌てて立ち上がり、呼吸を整えた。涙をぬぐい、表情を消す。心臓は鉛のように重く沈んでいたが、不思議と頭は冷え切っていた。

香澄は静かに扉を押し開けた。

病室の中、敦人はすでにベッドに横たわり、加藤が脇に控えていた。香澄を見た瞬間、敦人の瞳に不快感が走る。それでも香澄は、無意識を装ってベッドに歩み寄り、手を伸ばした。

「敦人さん……」

その手は、空を切った。

敦人は氷のように冷たい視線でその手を見つめ、ためらうことなく半歩後ずさった。まるで初めて会う人間を見るような、拒絶の仕草だった。

「桐山さん、お聞きの通り、鷹司様は四年間の記憶を失われています。どうかご無理をなさらず……」

加藤が口を挟むが、香澄は視線を敦人に固定したまま動かない。

敦人はわずかにため息をつき、内ポケットから一枚の小切手を取り出すと、ベッドの上にひらりと投げ捨てた。

「悪いが、俺には君との四年間とやらを思い出す気はない。この、日の目を見ない関係も今日で終わりだ」

二人だけが知る、四年間の地下関係。それを「日の目を見ない」と切って捨てた敦人の声には、一片の呵責もなかった。

香澄は小切手を手に取った。そこに印刷された、目も眩むような金額。四年間、名もなき影として耐え忍び、尽くしてきたすべてが、この一枚の紙切れで清算されようとしている。

だが、もう知っている。

彼の失憶も、加藤の診断も、今この瞬間も、すべてが仕組まれた茶番だということを。

香澄はゆっくりと顔を上げ、敦人の瞳をまっすぐに見つめた。そこにあったのは、底知れない計算高さだけだった。

二人の視線が交錯した、その瞬間。敦人の右手の親指が、無意識に左手首のカフスをす、と撫でた。

嘘をつき、心の動揺を隠す時の、彼だけの癖。この四年で、飽きるほど見てきた仕草だった。

巨大な虚しさだけが、静かに胸を満たしていく。敦人が予想したであろう、ヒステリックな泣き叫びも、懇願も、香澄の中からは湧き上がってこなかった。

彼女は、両手で小切手を持ち上げた。

そして、敦人と加藤の目の前で、何のためらいもなく、それを真っ二つに引き裂いた。

ビリッ、という乾いた音が、病室に響き渡る。

「な……!」

敦人の顔が、怒りで青黒く染まる。

香澄は破れた紙片をベッドサイドのゴミ箱に投げ捨てた。それは、彼女自身の最後の未練を断ち切る儀式のようだった。

「貴様、これだけの額だぞ。いい気になるな、いずれ後悔して俺に泣きついてくることになる」

「出ていって」

香澄の声は掠れているのに、芯が通っていた。

その瞳の奥に宿る氷のような決意に、敦人は一瞬ひるんだが、すぐに傲慢さがそれを覆い隠す。彼は冷たく鼻を鳴らし、踵を返した。

ドアの前で、敦人は足を止め、振り返った。

「いいか、絶対に美咲に近づくな。彼女を傷つけるような真似をすれば、ただじゃおかない」

その背中がドアの向こうに消えるのを、香澄は冷めた目で見送った。心に残っていた最後の一滴の未練が、完全に蒸発していく。

ドアが閉まると、気まずそうに立ち尽くしていた加藤が、震える声で口を開いた。

「き、桐山さん、落ち着いてください。これはあくまで医学的な見地から……」

「黙りなさい」

香澄は容赦なくその言葉を遮った。

「カルテの偽造が発覚すれば、あなたの医師免許はどうなるかしら」

加藤の顔から、さっと血の気が引いた。彼は何も言えず、逃げるように病室から出ていった。

完全に一人になった病室で、香澄は乱暴に引き抜いた点滴の痕から滲む血を、無表情で押さえた。

視界の端に、ゴミ箱に捨てられた小切手の破片が映る。

四年間、敦人だけを想って生きた。それこそが私のすべてだった。

けれど、もう終わりだ。

香澄の瞳は、研ぎ澄まされた刃のように、鋭く光っていた。

2

手の甲に押し当てた脱脂綿に、じわりと血が滲む。香澄はベッドからゆっくりと立ち上がり、ふらつく足で病室の隅にあるスチール製のロッカーへ向かった。自分の私物を確認する必要があった。

引き出しを開けると、そこには無惨な姿になったスマートフォンがあった。画面は蜘蛛の巣のようにひび割れ、電源ボタンを押しても何の反応もない。

香澄はそれを手に取り、側面の歪んだ傷跡を指でなぞった。これは事故の衝撃でついたものではない。誰かが意図的に、鈍器のようなもので叩き壊した跡だ。

「……ふっ」

乾いた、冷たい笑いが漏れた。敦人が、過去のメッセージや写真といった証拠を消すためにやったのだろう。その姑息さに、もはや怒りさえ湧いてこなかった。

香澄は壊れたスマートフォンを、先ほどの小切手の切れ端が眠るゴミ箱に、何の未練もなく投げ捨てた。

次にクローゼットを開け、事故の時に着ていた血の付いた服を取り出す。それを畳んでいると、ポケットから何かが滑り落ち、床にカラン、と乾いた音を立てた。

プラチナのリングだった。二人のイニシャルが刻まれた、ペアリング。

香澄はその指輪を数秒間、見つめた。四年前、敦人が「永遠を誓う」と言って、自分の指にはめてくれた時の光景が脳裏をよぎる。胃の奥から、吐き気にも似た不快感がせり上がってきた。

彼女は指輪を拾い上げると、窓辺へ歩み寄った。そして、窓のわずかな隙間から、それを階下の植え込みに向かって、ためらいなく放り投げた。

過去との繋がりを全て断ち切り、香澄は看護師が用意してくれた簡素な普段着に着替えた。身体のあちこちが軋むように痛むが、それさえも今の彼女にとっては現実を実感させるためのスパイスに過ぎなかった。

病室を出ると、廊下にいた看護師たちが一斉にこちらを見た。同情と好奇の入り混じった視線。財閥の御曹司に捨てられた哀れな女。彼女たちの囁き声が、そう告げていた。

香澄は背筋を伸ばし、その視線を真正面から受け止めながら、ナースステーションへとまっすぐ歩いた。

「退院します」

大理石のカウンターに病室の鍵を置き、香澄は当直の看護師、斎藤に静かに告げた。

「えっ、でも……」

斎藤は困惑した表情を浮かべた。

「鷹司様からは、桐山様はまだ安静が必要だと……治療費は全てお支払い済みですが……」

「私をここに監禁するつもり?」

香澄は冷たく斎藤を見据えた。

「不当な身柄拘束は犯罪です。すぐに手続きをしないなら、警察を呼びます」

その気迫に圧倒され、斎藤は慌ててキーボードを叩き、退院同意書を印刷した。

香澄はペンを手に取ると、流れるような筆致で自分の名前をサインした。そこに、一片の迷いもなかった。

手続きを終え、香澄は一階のロビーへと向かった。この嘘と偽りに満ちた場所から、一刻も早く立ち去りたかった。

その頃、二階の渡り廊下の影で、敦人が腕を組み、階下の香澄を冷ややかに見下ろしていた。

「敦人様、香澄さん、まだ怒っているのかしら」

美咲が敦人の腕に絡みつき、わざとらしく甘えた声を出した。

「放っておけ」

敦人は冷たく吐き捨てた。香澄の痩せた後ろ姿を見ながら、彼は確信していた。あれは、気を引くための芝居だ。三日もすれば、泣きながら戻ってくるに違いない、と。

美咲の瞳の奥に、暗い光が宿った。彼女は敦人の言葉に優しく頷きながら、香澄の退路を完全に断つための次の一手を、頭の中で組み立てていた。

自動ドアが開くと、初秋の冷たい風が吹き込んできて、香澄の薄い服を通り抜けた。ぶるり、と身体が震える。

彼女は一度だけ深く息を吸い込むと、この豪華な私立病院を一度も振り返ることなく、タクシー乗り場へと歩き出した。

一台の黒いタクシーが、彼女の目の前で停まる。運転手が親切にドアを開けてくれた。

「どちらまで?」

「港区の、タワーマンションまでお願いします」

それは、敦人と四年間、共に暮らした場所だった。

運転手はバックミラー越しに香澄の青白い顔を一瞥したが、何も聞かずにアクセルを踏んだ。

後部座席で、窓の外を流れていく東京の街並みを眺めながら、香澄の瞳は鋼のように硬い光を帯びていた。

あの部屋には、仕事に必要なノートパソコンと、誰にも見られてはならない極秘のファイルがある。敦人が部屋を封鎖する前に、必ず取り返さなければならない。

その時、タクシーのラジオから、鷹司財閥が近々発表する新企画に関するニュースが流れてきた。

香澄の唇の端が、冷ややかに吊り上がった。その企画書は、彼女が幾晩も徹夜して、敦人のゴーストライターとして書き上げたものだった。

彼女は静かに目を閉じ、自分の血と汗の結晶を奪い返すための計画を、頭の中で素早く組み立て始めた。

音のない戦争の火蓋が、今、切って落とされた。

3

タクシーが、見慣れたタワーマンションのエントランス前に停まった。香澄は車を降り、そびえ立つガラス張りの建物を見上げた。

オートロックのパネルの横にある、生体認証システムに目を向ける。香澄は冷たいガラス面に自分の網膜をスキャンさせた。ピ、という無機質な電子音と共に、重厚なドアが滑らかに開いた。まだ彼女のアクセス権限を削除していないらしい。敦人のその傲慢さと油断を、香澄は心の中で嘲笑った。

玄関に足を踏み入れた瞬間、鼻をつく甘ったるい香水の匂いに、思わず顔をしかめた。相田美咲が好んで使うブランドの香りだ。この部屋が本来持っていた、清潔でミニマルな空気とは全く異質だった。

「あら、桐山様」

物音を聞きつけてキッチンから出てきた家政婦の鈴木はなは、香澄の姿を認めると、作り笑いをさっと消した。

「まだここにご用があったんですか。よくもまあ、戻ってこられましたわね」

いつものような丁寧なお辞儀もなく、鈴木は嫌味たっぷりに言い放ち、香澄の行く手を阻むように立ちはだかった。

香澄は冷たい視線で鈴木を一瞥した。それは、この家の真の主人が誰であるかを思い出させるような、有無を言わせぬ威圧感を放っていた。鈴木は無意識に半歩後ずさり、道を譲った。

スリッパに履き替えリビングに入ると、そこは別世界だった。彼女が選び抜いたシンプルな家具や小物は一掃され、代わりに趣味の悪いピンク色のクッションやレースのカーテンが設えられている。

ローテーブルの上には、美咲のブランドバッグと、敦人と親密そうに写る写真立てがこれ見よがしに置かれていた。無言の勝利宣言。

香澄はそれらを完全に無視し、主寝室へとまっすぐ向かった。彼女の目的はただ一つ、金庫の中にある重要書類だけだ。

寝室のドアを開けると、隅の方に、彼女の服が詰め込まれた安物の段ボール箱がいくつか無造実に積まれていた。

香澄はそれらには目もくれず、ウォークインクローゼットの奥へと進む。壁に偽装されたパネルを開け、指紋認証で隠し金庫の扉を開いた。

中には、彼女のノートパソコン、裏帳簿のコピー、数点の重要特許に関する書類、そして、かつて父親の事件を調べるために匿名で購入したセキュリティ強化モデルの予備スマートフォンと、その二百万円の領収書が保管されていた。いざという時のための切り札だ。

それらを慎重に持参したビジネスバッグに詰め込み、中身を再確認する。ようやく、張り詰めていた神経が少しだけ緩んだ。

その時、リビングから鈴木の媚びた声が聞こえてきた。相田美咲が、この部屋の固定電話にかけてきたらしい。

鈴木はわざとスピーカーフォンをオンにした。美咲の甘ったるい声が、部屋中に響き渡る。

「鈴木さん、新しいベッドシーツ、もう替えてくれた?」

「はい、美咲様!ところで、例の厚かましい方がいらっしゃって、寝室で何かゴソゴソ漁っておりますわ。お金でも盗むつもりかしら」

電話の向こうで、美咲がくすくすと笑う声がした。

「しょうがないわね。鷹司家のものには指一本触れさせないように、しっかり見張っておいてちょうだい」

香澄はビジネスバッグを手に、寝室から出てきた。そして、通話中の鈴木の前に、音もなく立った。

その氷のような視線に射抜かれ、鈴木は言葉を失い、慌てて電話を切ろうとする。だが、その手は香澄によって強く掴まれた。

香澄はスピーカーフォンに向かって、はっきりと、冷静に告げた。

「ご心配なく。私が持ち出すのは、私のゴミだけです。残りは全て、ガラクタ集めがお好きなあなたに差し上げますわ」

「なっ……!」

電話の向こうで、美咲の優しい仮面が剥がれ落ちた。

「あなたなんて、敦人さんに飽きられただけの負け犬のくせに!」

香澄はもはや言い争う気も起きず、固定電話のコードを、ただ無言で引き抜いた。美咲の金切り声が、ぷつりと途絶える。

「な、何てことを!」

鈴木が逆上して香澄を指差した。

「器物損壊よ!警察を呼んでやるわ!」

香澄は財布から一万円札の束を取り出すと、それを鈴木の顔に叩きつけた。

「電話線の代金よ。残りはあなたの口止め料」

ばらまかれた紙幣に、鈴木の目は釘付けになった。彼女は貪欲な本性を剥き出しにして、床に散らばった金を拾い集め始めた。もはや香澄を止める者はいない。

香澄は、床に散らばる札束を踏みつけながら、振り返ることなく玄関へ向かった。

ドアを開ける前に、姿見に映る自分を見た。顔色は青白い。だが、その瞳は、かつてないほどの闘志に燃えていた。

彼女はドアを開け、持っていた鍵を外のマットの上に、強く投げ捨てた。四年間、彼女を閉じ込めていた金色の鳥籠との、完全な決別だった。

エレベーターに乗り込み、階数表示が下がっていくのを見ながら、香澄の心は、蛹から蝶へと羽化するような、不思議な軽やかさに満たされていた。

マンションを出ると、香澄はすぐに公衆電話を探し、ある男に電話をかけた。裏社会に通じる、情報屋だ。

次なる戦いの準備は、もう始まっている。

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記憶喪失を装う御曹司:私からの冷酷な決別宣言

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