話 2
千颯が言い終わる前に、月子が冷笑と共に遮る。「本当に役立たずね!」
翔が鼻で笑った。「姉貴が可哀想だよな。まさに宝の持ち腐れだ」
彩は翔を睨みつけると、千颯に向き直った。「台所にお粥があるから、温めるわね」
「いいんだ、構わないで。ありもので済ますから」
千颯は台所へ行くと、粟粥を椀によそい、冷え切った饅頭と残り物のおかずで夕食をとり始めた。
二、三口食べたところで、拓実が吐き捨てるように言った。「食ってばかりいやがって。お前も働き始めて一年以上になるだろうが。少しは貯えでもあるんだろうな?」
千颯は懐から煙草を一本取り出して火をつけたが、月子の嫌悪に満ちた視線に気づき、慌てて火を揉み消す。そして、力なく笑った。「俺の月給は四万元ちょっとです。その中から翔に二万元小遣いを渡して、残りは家の生活費で消えてしまう。貯金なんて、あるわけないですよ」
「金もねえくせに、一箱百円の煙草なんざ吸ってんじゃねえよ。 さっさとやめろ、その分浮くだろ」
翔は千颯を小バカにするように言うと、自分のポケットから六百五十円のセブンスターを取り出し、火をつけた。
どうにかしろ、と彼は無言で訴えていた。
拓実は顔を曇らせる。「一体どうすりゃいいんだ……」
月子は眉間に皺を寄せ、深いため息をついた。
しばらくの沈黙の後、彼女の視線が千颯に突き刺さる。ふと、何かに気づいたように目を輝かせた。「あんたが首にしてるその珠、こっちによこしなさい」
千颯は虚を突かれた。
彩が眉を上げた。「お母さん、あの珠をどうするの?」
「あれ、確か玉でしょう。少しは金になるんじゃないかい。売ってしまえばいいのさ」
千颯は目を見開いて、声を荒げた。「それだけは売れません!」
二年前に陸市で目覚めた時、過去の記憶は一切なく、身に着けていた衣服の他には、この珠だけが残されていたのだ。
月子が声を張り上げる。 「ただの石ころと! 翔の一生と! どっちが大事なんだい!」
千颯は苦しげに言葉を絞り出した。「けちってるわけじゃないんです。でも、この珠だけが、俺の過去に繋がる唯一の手がかりなんです。これさえあれば、自分が何者なのか分かるかもしれない……」
月子は鼻で笑って遮った。「あんたなんて、薄汚い物乞いじゃないか。大層な身分でもあるって言うのかい?」
「恩知らずが」拓実は冷たく言い放つ。「俺たちが拾ってやらなきゃ、今頃お前は野良犬と餌の奪い合いでもしてただろうよ。何の条件もつけずに娘までやったっていうのに、たかが石ころ一つ、惜しいってのか」
千颯はため息をついた。「……この珠以外なら、何でも差し出します」
拓実は侮蔑の表情を浮かべた。「お前に他に何があるって言うんだ。言ってみろ」
彩が眉をひそめる。「お父さん、お母さん、もうやめてあげて。その珠は、彼にとって本当に大事なものなの」
月子は娘を鋭く睨みつけた。
「じゃあ、翔の結婚はどうでもいいって言うのかい! あの珠は、今日、あたしが貰い受ける!」
翔がずかずかと千颯に歩み寄り、その首にかかった珠をひったくろうと手を伸ばした。
千颯は咄嗟に身を引く。「この珠は渡せない」
「ふざけるな。ぶっ殺されてえのか?」
翔は罵ると、その拳を千颯の顔面に叩き込んだ。
翔の一撃で、千颯の身体はぐらりと横に傾ぎ、勢いのままテーブルの角に頭を強く打ち付けた。「ゴン」という鈍い音が響く。
激痛が走り、目の前が真っ暗になる。千颯はそのまま糸が切れたように床に崩れ落ち、意識を失った。
かすかな意識の中、幾つもの記憶の断片が、映画のように脳裏をよぎった。
頭部への衝撃が引き金となり――宇ノ木千颯は、失われた記憶を取り戻した。
話 3
彼は、赤子の頃に孤児院の前に捨てられた。
六歳の時、名も知れぬ一人の男が彼の前に現れ、弟子として引き取った。 それ以来、男はふらりと千颯のそばに現れては、医術と武術を伝授していった。
十二歳で孤児院を出ると、千颯は全国を巡る旅に出た。
十五歳で、海を渡った。
それからの数年間、千颯は海外で裸一貫から身を起こし、莫大な富と数え切れない産業を築き上げた。その勢力は世界中に広がり、人々から「ゴッドファーザー」と畏れ敬われるまでになった。
二年前、千颯は味方の裏切りに遭い、重傷を負い 師に治療法を乞うため帰国したものの、追ってきた暗殺者に頭部を撃ち抜かれたのだ。
崖から落ちた千颯は九死に一生を得たが、すべての記憶を失ってしまった。
この二年、彼はただ嘲りと侮辱に耐えるだけの、抜け殻のような日々を送っていた。
そして今日――千颯は、ついにそのすべてを思い出した。
自分は無能な役立たずなどではない。かつて世界の頂点に立った、王者なのだ!
千颯はベッドから身を起こすと、手慣れた仕草で煙草に火をつけた。
「義兄さん、目が覚めたの?」
静かにドアが開き、心配そうな声が響く。
そこにいたのは、類い稀なほど整った顔立ちの少女。ただ、その双眸には光がなかった。
彼女は彩の妹、千葉言。顔立ちは彩とどこか似ているが、姉の持つ大人びた雰囲気はない。
言は幼い頃から弱視を患い、ここ二年で完全に光を失ってしまった。以来、部屋に引きこもりがちで、あまり人と話すこともない。
だが、千颯が辛い目に遭うたびに慰めてくれるのは、いつも彼女だった。何か良いものがあれば、真っ先に千颯に分け与えようとする、心優しい少女だ。
千颯は微笑んで問いかける。「どうして、俺が起きたって分かったんだ?」
言は手探りで部屋に入ると、いたずらっぽく笑った。「煙草の匂いがしたんだもん」
彼女はベッド脇の椅子に腰を下ろし、心配そうに続けた。「義兄さん、もう大丈夫?」
「ああ、平気だ」
言は憤慨したように言った。「お兄ちゃん、本当にひどいわ。いくらなんでも、殴ることないじゃない」
千颯は口の端を吊り上げた。「いや、むしろ感謝しなくちゃな」
「え?」言は不思議そうな顔をした。
千颯は言の頭に手を伸ばし、優しく撫でた。「言、君の目は必ず俺が治してやる」
言は嬉しそうに微笑む。「うん、信じてる。義兄さんが将来、すごくいっぱいお金を稼いで、私の目を治してくれるって」
その時、彼女の持つ盲導携帯が鳴った。
通話を繋ぐと、拓実の怒声が飛び出した。「マコトか! あの役立たず、まだ息してるならさっさと連れて来い! ぐずぐずしてると、姉貴が痛い目を見るぞ!」
そう言うなり、拓実は一方的に電話を切った。
「言、一人でちゃんと留守番してるんだぞ。何かあったら電話してくれ。絶対に台所には入るなよ」
千颯はそれだけを言い置くと、言に返事をする間も与えず、部屋を飛び出していった。