話 1
レイチェル・オーウェントは、とことん最悪の人生を歩むらしい。
「レイチェル」
婚約者が自分の名を呼ぶ。
それはどんなシチュエーションなのだろう。どんな声で呼んでもらえるのだろうといつも夢を膨らませていたけれど、現実なんてこんなものだ。あれほど好きだった相手からの呼びかけは、レイチェルにとっては全く嬉しくないものだった。
それが悲しくて、レイチェルは眉を下げる。
「なんでしょうか? コーディ様」
それでも笑顔で顔を上げると、鼻を歪めて嫌そうな顔をしている婚約者がいた。
その隣にはいつもの女がいる。それにもいい加減慣れてしまった。
「今日こそ正式に婚約を解消する。いいな?」
コーディが隣で不安そうにしている女の肩を引き寄せる。
彼が次に言うことは予想がつく。だから、レイチェルはその女を睨みつけた。
「俺は、ステラと婚約するから」
レイチェルの表情にコーディは片眉を上げたが、素っ気なく言い放った。
血が沸騰したように体が熱くなって、レイチェルは拳を握る。
覚悟はしていたことだ。だけど、実際に言われるとやはりだめだった。
どうして。そんなどうしようもない問いが脳裏に浮かんで、歯を食いしばる。
悲しみと虚しさが込み上げ──行き場のないそれは、怒りとして爆発した。
「貴女、ちょっと来なさい!」
ステラの手を乱暴に握る。そのまま力任せに引っ張ると、彼女は短く悲鳴をあげた。
その悲鳴を聞くと少しだけすっきりして、でもそれ以上にイライラする。絶対そんな玉じゃないはずなのだ。ステラ・ケミストという女は、こんなにか弱い女じゃない。
こんな女がいるはずない。綺麗で、優しくて、人を恨まない女なんていないはずなのだ。だって、そうでなくちゃ、レイチェルが惨めだ。
かわいこぶるな。偽善者め。そう怒鳴りつけてやろうとして、レイチェルは口を開く。だが、そこでコーディが邪魔をした。
「レイチェル、やめろ!」
間に入ろうとするコーディを避け、下から睨めつける。
やはり、コーディのいる前ではろくに話が出来ない。レイチェルはステラを引っ張ると、彼の前では使おうと思わなかった魔法を使った。
レイチェルとステラの足元に魔法陣が浮かび上がり、コーディが僅かに目を開く。
「コーディ様は手を出さないでください。わたくし逹、二人でお話してきます」
強く言い放つと、返事も聞かず、転移魔法で人影のない場所へと移動する。
その瞬間、俯いたステラの口角が上がったことには、レイチェルは気が付かなかった。
*
学園の隣にある森は、いつも人気がなくて鬱蒼としている。今日も誰もおらず、それどころか、動物の気配すらしなかった。
だからステラに文句を言う場所は、大抵ここだ。
着いた途端、手を離すと、レイチェルはステラの頬を打つ。
「人の婚約者を取っておいて、よくそんな平気な顔が出来るわね」
ステラは、けして平気な顔をしているわけではない。だが、レイチェルにとっては、どんな顔をしていても、婚約者のいる男性と恋仲になることはとうてい許されることではなかった。
他の人もそうなはずなのに、ステラがやると、そのルールはまるっきり無かったことになる。数々の正論も、ステラの前では役に立たなかった。
レイチェルだけがいつも正気で、だから仲間外れだ。
「この売女」
吐き捨てるように罵る。ステラは、真っ赤になった頬を庇うように両手を添えると、瞳を潤ませた。
「そんな……私は誓って、コーディさまだけです」
それがだめだと言っているのが、どうして分からないのだろうか。
イラついて後頭部を掻きむしる。この女はいつもレイチェルの神経を逆撫でにした。
同じくらいの魔力を持つのに、魔女だと蔑まれたレイチェルの目の前で、聖女だと崇められているのも。
レイチェルを見ると嫌な顔をするコーディが、ステラには頬を染めているのも。
全部全部、腹が立つ。
「みんなにいい顔してチヤホヤされるのは、お姫様みたいで、さぞかし気分が良いのでしょうね」
なにが違うのだろう。彼女と自分のなにが。
レイチェルにはそう変わらないように思える。見た目もスペックもそう変わらない。それなのに、ステラとレイチェルとではなにもかもが違った。
友達も家族も、周りの反応も。
それでも、コーディだけがレイチェルの味方であったはずなのに、とうとうコーディにまで捨てられて、彼女は一人になった。
「わたくしは、貴女のようになりたかったわ」
今まで腹の底に溜めて我慢していた言葉が、唇に乗る。驚いたように目を開くその顔が気に入らない。
目頭が熱くなって、レイチェルは目を擦った。
「貴女みたいな、綺麗で優しいヒロインになりたかった」
顔を隠すように俯く。
泣くな。弱みも見せるな。どうせあのむかつく顔で同情される。
そう思ったのに、返ってきた言葉は、予想外のものだった。
「無理よ」
「え?」
目を瞠る。顔を上げると、そこはまるで別の世界だった。
「だって、あなたは悪役令嬢だもの」
ステラが、腕組みをして、顎を上げ、挑発的に笑う。
彼女のこんな顔は見たことがない。いや、それより、彼女はなんと言った?
「悪役……令嬢……?」
「悪役の令嬢だから、悪役令嬢よ。そのまんまだけど分かりやすくていいでしょう?」
よく分からなくてオウム返しをすると、ステラは木にもたれ、ため息を吐く。
「あなたみたいな人がヒロインになんて、なれるわけないじゃない」
驚くレイチェルを鼻で笑うと、ステラは得意げに話し始める。
「ねえ、レイチェルさま。ロマンス小説とか見たことある? ヒロインは、嫉妬で人をいじめたりしないの。それどころか、いじめられたって堪えて健気に頑張る。そんな、みんなが応援したくなる子なのよ」
これではまるで、いつもと逆だ。ヒロインと悪役がまるまる入れ替わっている。
目の前にいるのは誰だろう。一体なにが起きているのだろう。
突然手にした立ち位置に戸惑っている間も、ステラは喋り続ける。不意に目が合った。
「あなたは悪役。何回死んでも一緒。だから私みたいなヒロインなんて夢見るだけ無駄。そうでしょう?」
ズガンと、頭を殴られたような衝撃で、レイチェルは黙り込んだ。
そうだ。何度も思ったことだった。夢見るだけ無駄だ。
今さら配役が変わったって、もう物語は終わっているのだ。
拳を握ると、それを見たステラは片眉を上げた。
「良い気分でしょうって言ったわね」
そして愉快そうに笑って、つかつかと歩み寄ってくる。
「それはもう。とっても良い気分よ。レイチェルさま」
堂々とした態度に背筋が震えた。レイチェルは一歩後退っていく。ステラはそれを見るとわざと歩を緩め、レイチェルと合わせて近づいてくる。
「あなたのような高慢ちきで、周りの見えていない女を蹴落とすのは、楽しいわ」
とうとう背中に木が当たった。咄嗟に踵を返して、逃げようとするが、その前にステラがその方向を手で塞いだ。
逃げ場が無くなって、レイチェルは体を固くする。怯えるレイチェルの耳元に顔を寄せると、ステラは鈴を転がしたような声で笑った。
「この負け犬が」
(負け犬……)
後ろ目にステラを見て、言葉を反芻して、レイチェルははっと我に返った。
「……正体を露したわね」
悔しさに歯ぎしりをして、それを隠すように笑顔を作った。
少々驚いたが、レイチェルにとっては好都合だ。この女の悪事をバラせば、きっと全て手に入る。きっと失ったものの全てが返ってくる。
だが、そんなレイチェルに、ステラは人好きのする笑顔を浮かべると、小首を傾げた。
「だからなに? 今さらあなたの言葉を誰が信じるって言うの?」
「え……」
「コーディさまに言う? 無駄よ。だって、あなたが全部はね除けたんだもの」
くっとステラは喉で笑って、後ろからレイチェルの頬を撫でる。
悔しいがその通りだった。今さらレイチェルの言うことなんて、誰が信じるだろう。
「ねえ、レイチェルさま。良いことを教えてあげる」
最後にもう一度耳元で喋ると、彼女はやっと離れていった。
レイチェルは少し緊張を解くと、振り返ってぎょっとする。
ステラがスカートをたくし上げ、太ももについているベルトからナイフを取り出していたからだ。
「この世界はね。ゲームなの」
「貴女、なにを……――!」
まさか、切られるのだろうかと、再び身構える。しかし、ステラはそんなレイチェルをあざ笑い、自分の喉に向かってナイフを構えた。
「やめなさい!」
彼女の考えていることが分かって、血の気が引く。制止しようと手を伸ばすが、ステラはすでに離れた位置にいて、躊躇いの無いその行動には間に合わなかった。
ナイフが彼女の白い喉に勢い良く突き刺さる。肉を割く音が、人気のない森では、やけに鮮明に聞こえた。
赤い血が飛び散り、レイチェルの頬にもかかって、喉から悲鳴が漏れる。
どしゃりと崩れ落ちるステラに駆け寄ると、震える手で彼女の手からナイフを取り上げた。
「貴女いったい何してるのよ、しっかりしなさい!」
そう声をかけるが、突然の出来事にどうしたらいいのか分からない。
レイチェルは、ただ血まみれのステラの横で狼狽えるしかなかった。
喉笛を切ったのだろうか。彼女が口を動かすが、ひゅーひゅーと息のする音が聞こえるだけだ。
「なによ」
耳を近付けようと、顔を覗き込むと、ステラはカッと目を開いた。硬直するレイチェルに、ステラはにたりと笑う。
この女はなにを考えているのだろう。彼女がこんなことをする理由も、なにも分からなかった。
ただただ怖くて、恐ろしかった。突然目の当たりにした彼女の狂気に、レイチェルは恐怖で喉を引き攣らせる。
ステラが目を閉じる。その瞬間、彼女の唇が動いて、「ざまあみろ」と、そう言った気がした。
話 2
いったいどれぐらいの間そこに居たのだろうか。我に返ったレイチェルが、治癒魔法をかけようとした時には、もう彼女は血を流し過ぎていたらしく、すでに手遅れの状態であった。
徐々に冷たくなっていく彼女の手を握りながら、レイチェルは治癒魔法をかけ続けたが、それは無駄になってしまった。
人の自殺を見るのも、その死を間近で見届けるのも、二回目の出来事だ。
立ち去ることも出来ずに呆然としていると、ようやく誰かが駆けつける声がした。
「ステラ! レイチェル!」
コーディだ。良かった。彼ならきっとステラを助けてくれる。この状態をどうにかしてくれる。
そう考えて笑顔を向ける。だが、彼は悲鳴を上げて、レイチェルを凝視した。
その顔には、恐怖がありありと浮かんでいる。
どうしてそんな顔をするのか。彼に嫌な顔はされても、怖がられたのは初めてだった。混乱して手を伸ばすと、コーディは半歩後退る。
「……君が殺したのか?」
「は?」
そこで、レイチェルは自分の手が真っ赤に染まっていることに気付いた。手だけじゃない。服も顔も全部全部血まみれだ。
今の状況にようやっと気がついて、顔色を変える。
しまった。これは、この状態では、言い訳が出来ない。
「待ってくださいコーディさま!」
それでも分かってほしくて、レイチェルはふらりと立ち上がると、コーディに近づこうとした。
「違うんです、これは、この女が勝手に」
「黙れ!」
だが、はね除けられる。
暴力を振るわれたわけではない。だが、彼に拒否されたのがショックで、へなへなと崩れ落ちた。地面に突っ伏してしまうレイチェルを、コーディは怪物でも見るかのような顔で拒絶する。
「俺は、君のことを何度も何度も信用しようとした。だがその度に騙してくれたな。あげくの果てにはステラを……!」
頭を抱えると、コーディは死刑宣告のような重々しい声で、レイチェルに決別の宣言をした。
「もう、君にはうんざりだ」
彼が指先を振ると、レイチェルの手首に、氷の手錠がかけられる。
「元婚約者の俺が自ら逮捕する」
待ってくれ。そう言おうと身動ぎして、彼の冷たい目に圧される。
「さようなら。レイチェル・オーウェント」
彼が兵士等の手続きをする間、レイチェルはなにも出来ずにその場に座っていた。
*
あれから何日経っただろう。レイチェルは地下牢に閉じ込められていた。
裁判の時、レイチェルは当然何もしていないと主張した。だが、コーディの証言や、状況から考えても、犯人は彼女しかいないと結論を出されたのだ。
人殺しは、この国では処刑にされる。相手が聖女だったこともあり、その方向で進んでいた。
だが、レイチェルが治癒魔法をかけていたこと、貴族であること、そして育った家庭環境から、母と同じ精神疾患だと判断され、終身刑となった。
妄想に取り憑かれ、ステラを殺したが、それを覚えておらず、治癒魔法をかけたのだそうだ。とんだ狂人にされてしまった。
今までは、コーディの家から援助を受けて母を養っていた。だが、今回のことで母子共に見限られてしまい、母は今、親戚の家が面倒を見てくれている。だが、あまり歓迎されていないのが、心配だ。
心の支えだったコーディは来ない。友人もいない。そんなレイチェルに、当然面会人はいない。
食事を運んでくる看守がいるが、話すわけがないし、レイチェルは冷たい牢屋でずっと一人だった。
一人でいると今までのことを嫌でも思い出す。
いったいなにが悪かったのだろう。聖女をいじめたこと? でも、コーディを取られたくなかった。レイチェルには、ああするしか思いつかなかったのだ。
(わたくしが悪いの……? いいえ、そんなはずないわ……)
浮かんだ考えを、首を振って追い出す。
ふいにカツッと音がして、顔を上げると看守が立っていた。
まだ食事の時間じゃないはずだ。だとすると、誰かが面会に来たのだろうか。いったい誰が?
「…………」
期待をしてないと言うと嘘になる。コーディが来てくれるのではないかと、そんなはずは無いのに、僅かに胸が高鳴った。
「レイチェル・オーウェント。面会だ」
立ち上がると、鉄格子のところへ近寄っていく。
そこには、黒いマントの人物が立っていた。フードを深く被っていて、その顔は見えない。
「お前がステラを殺したの?」
落胆していると、その人物は不躾に問いかけた。声からして男だろうか。抑えているようだが声は震えていて、初対面でも彼が取り乱しているのが分かった。
身を固くする。鉄格子があるから接触はしないだろうが、それでも怖い。
「……あなたは誰? まず名乗りなさいよ」
腕を組むと、高圧的に返す。レイチェルの質問に、彼は首を振ると即答した。
「名前は言えない」
「呆れた。身分も証明出来ない人を中に入れたの?」
もうほとんど落ちぶれているとはいえ、一応は貴族の牢だ。それに、罪人と会わせて刺激したり、脱獄を図ったりなどしないように、面会に来る人は厳しくチェックをされるはず。
職務怠慢の理由はなにかと看守を見る。看守は素知らぬふりをしていたが、マントの男が懐から財布を取り出し、納得した。金を貰ったらしい。
「お前がステラを殺したの?」
レイチェルがため息を吐くと、男は同じ質問を繰り返す。解放されるには、こいつと話すしか道はないようだ。
「……そういうことになっているわね」
眉を寄せると、レイチェルは柔らかいソファに身を沈める。
ここは牢屋だが、お金の有無でこういった物が持ち込める。これらの家具は、手切れ金代わりにほとんどコーディが揃えてくれた。
「けど違うわ。わたくしは人を殺したりしない。あの子が勝手に死んだの。自殺よ、自殺」
しっしっと追い払うように手を動かす。
彼の表情は分からない。だが、非常に分かりやすい質のようで、レイチェルの態度に怒っているように見えた。
「ステラはそんなことしない」
「……ステラ様の知り合い? わざわざこんなところまで来て、どうもご苦労様」
頬杖をつくと、そっぽを向いてやった。
そんなこと言われたって、事実以外は話せない。
ステラを殺したのだと、認めて謝れば良いのかもしれないが、そんなこと絶対に嫌だった。やってもいないことで頭を下げたいとは思わない。
それに、どうせなにを言ったって、病気扱いを受けるのだから、好きに振る舞ってやるのだ。
男は拳を握ると、俯きがちだった顔を上げる。隙間から、紫色の瞳が見えた。
その瞳が真っ直ぐレイチェルを射貫く。責めるような眼差しに、レイチェルは僅かにたじろいだ。
「どうせこの国はもうすぐ滅びる」
「は?」
男がそう言ったと同時に、視界が激しく揺れた。ソファで寛いでいたレイチェルは、床に投げ出される。
「な、なに……!?」
辺りを見回す。床も天井も、牢全体が揺れていた。どしん、どしんと、一定の間隔で揺れている。地上でなにかが起こっているのだろうか。
看守が怯えた顔をして逃げ出した。制止する間もなく、揺れは続く。咄嗟に男の方を見ると、そこには誰もいなかった。
「その前に、ステラを殺したお前に復讐してやるんだ」
「――!」
声が間近で聞こえて、視線を戻すと、男はレイチェルの傍にいた。背筋がひやりとする。男が移動してきたのは魔法であると瞬時に理解して、この男は貴族だったのだと覚った。
魔法を使えるのは、この国では貴族だけだ。金払いも良かったし、そうなのだろう。
男は、怯えるレイチェルを見て口角を上げると、床に倒れている彼女の胸ぐらを掴んで引き上げた。それから、ベッドに投げると、上に跨がってくる。
「なにすんのよ!」
威勢良く叫んだが、体勢に肌が粟立つ。レイチェルは背筋を震わせた。まさかとは思うが、女として最悪の事態を想像して、血の気が引く。
レイチェルには、魔法が使えないように特別な手錠がかけられていた。魔法で対抗するのは無理だ。とにかくめちゃくちゃに暴れて抵抗するが、男の力には敵わなかった。手首を掴まれて、動きを封じられる。
「はは……こうしてると、魔女もただの女だね」
なにかが叫んでいるような爆音がして、耳鳴りがする。瞳からぼろぼろと涙がこぼれ落ちて、視界がぼやけた。
レイチェルの抵抗と謎の揺れでフードが取れるが、彼の顔は見えない。かろうじて長い銀髪の髪が見えた。
上に乗っている男が手を振り上げて、レイチェルは肩を震わせる。その手の先が光って、どんっと音がしたかと思うと、胸が冷たく感じた。
次いで、どうしようもない痛みと熱さが襲ってくる。胸を刺されたのだ。そう理解して、痛みにのたうち回る。
「死ね」
冷淡な声と共に、もう一度刺される。天井が崩れてきて、出口が塞がれた。
意識が徐々に遠くなっていって、レイチェルは、終わりを悟った。
諦めきれずに、のたうちまわるが、実際に体は全然動いていない。
男は用は終わったとでも言いたげにレイチェルの上から退いて、体の重みが消えた。
レイチェル・オーウェントは、とことん最悪の人生を步むらしい。
父親は死に、借金まみれで、母親は精神を患っている。無実の罪で投獄され、名前も知らない狂人に刺されて死亡だなんて、こんな人生、誰が決めたのだろう。神様だろうか。それとも、レイチェル自身だろうか。
「あなたは悪役。何回死んでも一緒」
(そんなことあるもんですか……)
不意に脳裏を掠めたステラの暴言に、歯ぎしりをする。拳を床に打ち付けた。
そんなことあるものか。次はきっと、次があればきっと、レイチェルはヒロインになってみせるのだ。
「コーディ様……」
それは彼の隣が良かった。彼のヒロインになりたかったのに、それはもう叶わない。
目の前が暗くなって、レイチェルは、そこで気を失った。
話 3
次に目を覚ますと、レイチェルは馬車の中にいた。
目の前にはコーディがいる。彼はむっつりと黙って、不機嫌そうに座っていた。
辺りを見回すと、そこはコーディの家の馬車であることに気がついた。
ああ。この後に及んで、自分はまだ夢を見ているらしい。
浅黒い肌。無骨な手。短い茶髪。緑の瞳。ちゃんとコーディだ。懐かしい姿に、思わず涙ぐむ。夢の中とはいえ、もう一度会えると思っていなかった。
ほうっと息を吐くと、椅子に身を沈める。傍らには、赤くてふわふわの、いつものクッションがあった。
幼い頃彼が贈ってくれたのだ。レイチェルが気に入ってずっと使っているから、コーディの馬車に乗る時には、彼の執事がいつも乗せてくれる。
あまりにいつも通りの光景に、レイチェルは痛む頭を押さえた。
思えば、この頃はまだ幸せだった。彼には嫌われていたけれど、コーディの隣はまだレイチェルの場所だった。
「しかし、君にはほとほと呆れる]
長い息を吐くと、コーディはレイチェルに顔を向けた。眉間を揉むと、疲れた様子のコーディは「いいな?」と前置いて、言い聞かせるように話し出す。
「あのメイドは俺の弟の世話をしているだけで、俺とはほとんど話さない。君も知っているはずだが?」
責めるような口調にたじろぐ。だが、コーディの言っていることは、彼の言う通りちゃんと知っている。その原因はレイチェルなのだから。
レイチェルが怒り出すからという理由で、コーディの世話をしているのはほとんど執事になっている。
レイチェルの家計は、現在コーディの家に頼り切りで依存しているが、こんな風になる前は、逆にコーディの家を助けることもあった。
コーディ自身も、昔レイチェルに助けてもらったことがあり――他にも理由はあったが、レイチェルは知らない――みんなレイチェルに逆らえないのである。
そこまで思い出し、一年前に同じような会話をしたなと思い出す。入学式だったから覚えがある。
「あの子は俺に色目なんて使っていないし、クビになると行くところが無くなる。解雇するだなんて二度と言わないでほしい。みんな困るんだ」
間違いない。これは一年前の会話だ。学園に行く馬車の途中で、コーディとこんな会話をした。
レイチェルは、どうやら走馬灯でも見ているらしかった。
「……レイチェル? 聞いてるのか?」
ぼうっとしていると、コーディが立ち上がろうとする。ちょうどそこで馬車が止まって、運転手が学園に着いたことを知らせてくれた。
コーディの手を借り、馬車を降りる。そこには通い慣れた学園があって、レイチェルは、目眩のする頭を押さえた。もうこの光景は二度と戻ってこない。
「わっ!?」
ぼんやりしていて、足元に段差があることに気がつかなかった。レイチェルは、つんのめって、転んでしまう。――痛い?
違和感に、はたと止まる。驚いたコーディが手を差し伸べてくれたが、レイチェルは固まったまま地面に寝転がっていた。
地面を叩くと、土の感触がする。レイチェルは起き上がると、胸元に手を当てた。傷はないし、血も着いていない。
いや、走馬灯なのだから当たり前か? それにしては一場面が長くないだろうか。疑問に首を傾げる。
「胸が痛いのか?」
コーディが、眉を寄せると片膝をついて、レイチェルの顔を覗き込んできた。その顔を掴むと、彼をぺたぺた触り出す。
ちゃんと感触も体温も伝わってきて、レイチェルはますます混乱する。
「……転んで頭でも打ったか?」
「そんな風は見えませんでしたが……おそらく体調が良くないのでは?」
「そういえば、馬車の中でもぼうっとしていたな。引き返して病院に……いや、学園には保健室があるんだよな。連れて行こう」
「その方がよろしいかと」
不審な行動を始めるレイチェルを前に、コーディは真剣な顔で執事と相談を始める。
「コーディ様。ちょっといいですか?」
「あ、ああ……」
そんな彼の手を掴むと、レイチェルは、自分の胸を触らせた。
「!!?!?」
コーディが目を剥いて飛び上がる。レイチェルはすくっと立ち上がると、驚く彼に詰め寄った。
「もっとちゃんと触ってください」
「公衆の面前で何を言ってんだ!?」
「ちゃんと、わたくしの心臓が動いてるか確認してください」
「???」
動揺するコーディに舌打ちすると、レイチェルはもう一度彼の手を掴もうとして──彼女を見つけた。
コーディを押し退けると、その背中に向かって一目散に走り出す。
「すいません、コーディ様!」
「レ、レイチェル!?」
コーディの焦る声が聞こえたが、振り向かずに彼女に向かって声をかけた。
「ステラ様!」
レイチェルの呼びかけに、彼女は、立ち止まって振り返る。長い黒髪がさらりと揺れ、金の瞳が見えて、レイチェルはその美しさに息を飲んだ。
この瞬間。彼女と対峙するこの瞬間。レイチェルはいつも、一瞬だけ嫉妬もなにもかもを忘れて見入ってしまう。それから、こう思うのだ。星を見つけた、と。
レイチェルは彼女に駆け寄ろうとしたが、しかし、何を思ったのか、ステラはダッシュでその場から逃げ出した。
残されたレイチェルは、一瞬ぽかんとして、項垂れる。次いで、肩を震わせた。
「ふふ……」
「レイチェル。あのご令嬢がなにか――ひえっ」
追いついてきたコーディが顔を覗き込んで、後退る。レイチェルは笑うと、遠くなっていく背中を凝視して、屈伸を始めた。
「……レイチェル。まさか追いかける気じゃないよな? 違うよな? 貴族が集まる学園の入学式で、よそのご令嬢を、走って追いかける気じゃないよな?」
「そんなことしませんわ」
慌てふためくコーディに、ハッと笑ってみせる。否定が返ってきて安心したのか、胸をなで下ろす彼に、レイチェルは堂々と告げた。
「捕まえてふん縛るのよ」
顔を青くして叫ぶコーディを置いて、準備運動を終えたレイチェルは、目標めがけてダッシュした。