2

浅野愛美 POV:

「浅野様, どちらへ? 」

私が部屋を出ると, 真紀の隣に立つ堀井愛菜が, わざとらしく微笑みながら言った. 彼女の横では, 真紀が私を睨みつけていた.

「真紀様は, 今夜のチャリティーパーティーで, 愛菜様とご一緒なさる予定でございます」

愛菜が甲高い声で, 私に釘を刺すように言った.

「私は, 今夜のパーティーには参加しません」

私は毅然とした態度で答えた.

真紀の眉がぴくりと動いたが, 何も言わなかった.

「そうですか. それは残念ですわね」

愛菜は口元を歪め, 真紀の腕に体を擦り寄せた.

私は彼らに一瞥もくれず, 斎藤家の広大な屋敷を後にした.

使用人たちの視線が背中に突き刺さるのを感じた.

彼らは憐れみと嘲笑の入り混じった目で, 私を見ていた.

彼らにとって, 私は斎藤家の邪魔者であり, 真紀様の自由を奪う悪女なのだろう.

あの前世の私なら, この視線に晒されるだけで, 心が深く抉り取られていただろう.

しかし, 今の私には, 彼らの視線など, 何の痛みも与えない.

私はもう, 彼らの価値観に囚われない.

自室に戻り, 私は重苦しいドレスを脱ぎ捨てた.

まるで, これまでの抑圧された人生の象徴を脱ぎ去るかのように.

前世では, 私は真紀の完璧な妻になろうと必死だった.

彼のスケジュール管理から, 食事, 服装, 果ては彼の友人関係まで, 全て私が手配していた.

特に, 彼の出張の際には, 私が綿密な計画を立て, 滞在先のホテルから会食のレストラン, 移動手段まで, 一つ一つ手配した.

彼は口では「ご苦労」と言いながらも, その手配を一度も使わず, 愛菜が手配したものを利用していた.

ある時, 彼が海外出張から帰国する際, 私が手配した空港送迎車を断り, 愛菜が手配した車で帰って来たことがあった.

そして, 私は愛菜に頼まれ, 彼女の落とし物であるハンカチを探しに, 真紀の執務室の古い書棚によじ登った.

その時, 足元が滑り, 頭を強く打って意識を失った.

数週間, 私はベッドで過ごした.

真紀は一度も私の見舞いに来なかった.

彼は「愛菜が怪我をした」と嘘をつき, 私を突き飛ばすような真似をした.

いや, あれは嘘ではなかった.

愛菜は怪我をした.

階段から突き落とされ, モデル生命に関わる怪我を負わされたと, 真紀に嘘を言ったのだ.

真紀は愛菜の嘘を信じ込み, 逆上して私を突き飛ばし, 私は頭部を強打して2年間昏睡状態に陥った.

目覚めた時には, 斎藤家は没落し, 真紀は行方知れずになっていた.

そこからが, 私の本当の「再生」だった.

でも, 今回は違う.

私は, もう二度とあの過ちを繰り返さない.

真紀から離れること.

それが, 私の新しい人生の第一歩だ.

私はトランクを取り出し, 最低限の荷物を詰め込んだ.

必要なものは, もうほとんど残っていなかった.

「どこへ行く気だ? 」

突然, 背後から冷たい声がした.

振り返ると, 真紀が部屋の入り口に立っていた.

彼の顔には, 侮蔑と怒りが浮かんでいた.

彼は私の手からトランクを奪い取り, 床に叩きつけた.

中身が床に散らばった.

「何をするんですか! 」

私の声が震えた.

「何をするって? お前こそ何をしている? 勝手にどこかへ行こうとしているだろう」

真紀は冷笑した.

「勝手ではないはずです. 今朝, 私はパーティーに参加しないと伝えました. そして, あなたも何も言わなかった」

「それがどうした? お前がどこへ行くかは, 俺が決めることだ」

「もう, あなたに決める権利はありません」

私は震える声で言い返した.

真紀の顔が怒りで歪んだ.

「また, そんな風に俺を脅すのか? 自殺しようとして, 俺の気を引こうとするような真似はもう通用しないぞ」

「自殺なんて, するわけないでしょう. 私は新しい人生を始めるんです」

私は心の中で固く誓った.

もう, 誰も私の人生を奪うことはできない.

真紀は鼻で笑った.

その時, 部屋の扉が開き, 堀井愛菜が姿を見せた.

「真紀様, どうかなさいました? 愛美さん, どうしたの? 」

愛菜は心配そうな顔で, 私の側に駆け寄ろうとした.

「あなたには関係ありません」

私は冷たく言い放った.

愛菜は怯んだように一歩後ずさり, 真紀の腕にしがみついた.

「愛美さん, そんな言い方はないでしょう? 真紀様も心配しているのに」

愛菜は真紀を見上げ, 悲しげな目を向けた.

真紀の私を見る目は, さらに冷たくなった.

それは憎悪に満ちた目だった.

前世で, 私は高校時代, 真紀と愛菜の交際に反対した.

彼らが私に隠れて会っているのを知り, 私は真紀に詰め寄った.

「私と婚約しているのに, なぜ愛菜さんと会うんですか? 」

私の問いに, 真紀は冷たく答えた.

「お前には関係ない. 親が決めたことだ」

私はその言葉に絶望し, 衝動的に「もし愛菜と別れないなら, 死んでやる」と言ってしまった.

真紀は激怒し, それ以来私を避けるようになった.

愛菜は, 真紀の両親に私の言動を告げ, 彼らは真紀と愛菜の交際を止めさせた.

その結果, 真紀は私を憎むようになった.

学校では, 愛菜の取り巻きたちが私を孤立させ, 真紀はそれに気づかないふりをした.

私は, あの時の自分を深く後悔していた.

「私は, もうここにはいません」

私が真紀にまっすぐ視線を向けた.

「どこへ行くというんだ? 」

「新しいアパートを借りました. 今日から, そこで生活します」

真紀は再び鼻で笑った.

「愛美さん, 真紀様を困らせないで. 今夜のパーティー, 一緒に参加しましょうよ」

愛菜が甘えた声で真紀に言った.

真紀は愛菜の顔を見て, 少し表情を和らげた.

「愛菜, お前は優しいな. だが, こいつには無駄だ」

「そんなことありませんわ. 愛美さん, ね? 」

愛菜はそう言って, 私の腕を掴んだ.

その指が, 私の肘の内側の傷跡を強く押した.

それは, 中学の頃, 私が愛菜の飼っていた猫を探しに森に入った際, 木から落ちてできた傷だった.

愛菜はそんなこと, 知っているはずがない.

いや, 知っていてやったのだ.

「やめてください! 」

私は反射的に愛菜の手を振り払った.

しかし, 愛菜は驚いたように目を見開き, バランスを崩して床に倒れ込んだ.

「きゃっ! 」

彼女は痛みに顔を歪め, 足元からずるずると床に座り込んだ.

まるで, 私が彼女を突き飛ばしたかのように.

私は呆然と立ち尽くした.

愛菜は, 倒れたまま, 私の顔を見上げて, 震える声で叫んだ.

「真紀様, 愛美さんが... 私を突き飛ばしたわ! 」

彼女の頬には, 涙が伝っていた.

真紀の顔は, みるみるうちに怒りに染まっていった.

3

浅野愛美 POV:

「愛美! お前, 何てことを! 」

真紀の怒声が, 部屋全体に響き渡った.

彼は愛菜の元へ駆け寄り, 彼女を抱き起こした.

その間にも, 愛菜は「痛い, 痛いよ, 真紀様…」と, か細い声で泣き続けた.

真紀は私を振り返り, その目に激しい憎悪を宿していた.

「お前は本当に, 誰彼構わず傷つけないと気が済まないのか! 」

彼の言葉は, まるで鋭いナイフのように私の胸を突き刺した.

次の瞬間, 真紀の腕が大きく振りかぶられ, 私の頬を強く打った.

「パンッ! 」

乾いた音が部屋に響き渡り, 私の体はバランスを崩して床に倒れ込んだ.

頭が, 硬いフローリングに鈍い音を立てて打ち付けられた.

目の前が白く霞み, 世界が揺らぐ.

頭の奥で, ズキズキとした痛みが広がる.

「本当に最低な女だ! 愛菜に怪我をさせておいて, まだそんな顔をしているのか! 」

真紀の怒鳴り声が, 遠くから聞こえる.

耳鳴りがひどく, 彼の言葉が断片的にしか聞こえない.

「... 貴女は... 悪魔だ... 」

その言葉が, 私の心臓を凍りつかせた.

前世で, 彼に何度も投げつけられた言葉だ.

私は, 痛みに喘ぎながら, なんとか口を開いた.

「... もう, 終わりにしましょう... 」

私の声は掠れていた.

「何を言っている? 」

真紀は私を見下ろしたまま, 冷たい声で問い詰めた.

「私は, もうあなたの人生から消えます. 二度と, 私の顔を見ることはありません」

私がそう言うと, 真紀の顔は一瞬, 驚きに固まった.

しかし, すぐに再び怒りで顔を歪めた.

「勝手なことを言うな! お前がどこへ行こうと, 俺には関係ない! 」

彼はそう吐き捨てると, 愛菜を抱きかかえ, 部屋を出て行った.

愛菜は, 真紀の腕の中で, 私をちらりと見て, 勝利の笑みを浮かべた.

その顔は, まるで悪魔のようだった.

私は, 床に倒れたまま, 頭の感触に手を伸ばした.

ねっとりとした温かい液体が指先に触れる.

血だ.

温かいはずのそれは, 私にはひどく冷たく感じられた.

前世では, 真紀に怪我をさせられた時, 彼は私が倒れるまで突き飛ばし, 私が意識を失った後も, 私を見下ろし, 冷たい声を浴びせていたことを思い出した.

あの時は, 彼の言葉に, 心の底から絶望した.

かつて, 私が怪我をすれば, 彼は駆けつけてくれた.

私がちょっとした擦り傷を負っただけでも, 彼は心配そうな顔をして, 私の手を握りしめた.

私をいじめる男子生徒がいれば, 彼は激怒し, 相手を殴り飛ばしたことさえあった.

あの頃の彼は, どこへ行ってしまったのだろう.

いや, もういい.

彼が私をどう思おうと, 私には関係ない.

彼はもう, 私の人生には必要ない人間だ.

彼の憎しみも, 軽蔑も, 私には届かない.

私は, もう何も感じない.

私はゆっくりと立ち上がった.

頭の痛みはひどいが, この状況で倒れているわけにはいかない.

「すみません, 誰か... 」

私は部屋の前に立つ使用人たちに声をかけた.

「... 医者と, トランクを... 」

しかし, 彼らは誰も動こうとしない.

顔を背け, 私から視線を逸らした.

真紀が彼らに, 私を無視するように命じていたのだろう.

前世でもそうだった.

彼にとって, 私は透明な存在だった.

私は苦笑した.

そうだ, これが私の現実だ.

誰も私を助けてくれない.

私は, 自分で立ち上がるしかない.

私は自力で部屋を出て, タクシーを捕まえ, 病院へと向かった.

病院で脳震盪と診断され, 数日の入院を勧められた.

頭部の傷は縫合され, 包帯でぐるぐる巻きにされた.

退院後, 私はすぐにアパートに戻り, 残りの荷物をまとめた.

使用人たちは, 私が荷物を運ぶ間も, 遠巻きに私を見ているだけだった.

彼らの冷たい視線を受けながら, 私は最後の荷物を運び出した.

新しいアパートは, 斎藤家とは比較にならないほど質素なワンルームだったが, 私にとっては自由の象徴だった.

私はこの部屋で, 新しい人生を始めるのだ.

まずは, 大学を卒業すること.

そして, この街を離れること.

真紀との婚約を解消し, 彼らの手から完全に逃れること.

それが, 私の目標だ.

私がアパートに引っ越してから三日目の夜, 携帯電話が鳴った.

表示された名前に, 私は眉を顰めた.

真紀からの電話だった.

無視しようかと思ったが, 結局, 電話に出てしまった.

「... もしもし」

私の声は, 思ったよりも冷静だった.

「おい, どこにいるんだ, お前」

真紀の声は, 酒に酔っているかのように, 少し呂律が回っていなかった.

そして, 苛立ちと焦りが混じっていた.

私は, せっかく心が落ち着いてきたのに, 彼の声を聞いた途端, 胸の奥がざわつくのを感じた.

「何の用ですか」

私の冷たい声に, 電話の向こうが静まり返った.

数秒の沈黙の後, 真紀の声が聞こえた.

「何を, 生意気な口をきいている. 早く家に帰ってこい」

「もう家ではありません. 私は出て行きました」

私が淡々と告げると, 真紀は荒い息を吐いた.

「はっ... ようやく, 俺の言うことを聞くようになったか」

彼は嘲笑した.

「愛菜が... お前が愛菜に怪我をさせたせいで, 愛菜は... 」

真紀はそう言うと, 言葉を詰まらせた.

私の心は, 何の変化も感じなかった.

彼の言葉に, 何の感情も湧き上がってこない.

「それで? 」

私は冷たく問い返した.

「... お前が愛菜に近寄らなければ, こんなことにはならなかった」

真紀の声には, 私に対する非難と, 愛菜への深い悲しみが混じっていた.

「愛菜さんがどうなろうと, 私には関係ありません. 私はもう, あなたの婚約者ではないのだから」

私はそう言い放った.

真紀は再び沈黙した.

「... 俺は, お前が愛菜を傷つけたことを許す. だから, 帰ってこい」

彼の声には, 僅かながら懇願の色が混じっていた.

私は鼻で笑った.

「あなたの許しなど, 必要ありません. 私はもう, 自由ですから」

真紀が何か言おうとしたが, 私は彼の言葉を聞く前に電話を切った.

電話を切った後も, 私の心臓は激しく波打っていた.

感情が渦巻く.

怒り, 軽蔑, そして, 深い疲労感.

私は, 自分の手の中に残された携帯電話を, まるで真紀そのものであるかのように, 強く握りしめた.

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