話 1
婚約者の斎藤真紀に尽くし続けた結果, 私は彼とその愛人・堀井愛菜に裏切られ, 心身ともにボロボロになり, 最後は命を絶った.
彼らは私が邪魔だったのだ. 愛菜は交通事故で死んだと嘘をつき, 真紀は「お前が愛菜を殺した」と私を罵倒し, 20年間も屋敷に監禁した.
死の淵で見たのは, メディアの祝福を受けながら幸せそうに寄り添う真紀と, 生きている愛菜の姿だった.
すべては, 私を陥れるための壮大な芝居だったのだ.
激しい怒りと後悔に飲み込まれたその瞬間, 私は目覚めた.
そこは自室のベッドの上. 日付は, あの地獄が始まる二週間前だった.
第1章
浅野愛美 POV:
「お前は斎藤家の恥だ」と書かれた紙切れを握りしめ, 私は自分の体が震えていることに気づいた. これが, 私の頭に血を流し, 意識を失う直前に見た最後の光景だったことを思い出した. しかし, 今は違う. 私は自分の部屋のベッドで目覚めた. 視界に入ったカレンダーを見て, 心臓が跳ね上がった. 日付はあの忌まわしいパーティーの二週間前. 私は, あの悪夢のような人生をやり直せるのだと理解した瞬間, 涙が溢れた.
それは絶望の涙ではなかった.
むしろ, 言いようのない喜びが胸の奥からこみ上げてきた.
私は生きていた.
そして, あの地獄のような日々が始まる前に, 過去に戻ることができたのだ.
私はまだ, 斎藤真紀の婚約者である浅野愛美だった.
あの醜い紙切れは, 私に対する真紀の軽蔑を象徴していた.
でも, もう, そんな言葉に傷つく私ではない.
私は心の中で冷たい笑みを浮かべた.
過去の愚かな私とは違う.
あの男を愛し, 忠実に尽くした結果, 私は身も心も傷つき, 最後には命まで落としかけた.
でも, もういい.
この新しい機会に, 私は自分の人生を取り戻す.
私は, この世界で最も愚かな女だった.
斎藤真紀.
日本のIT業界を牽引する巨大企業「サイトウ・テック」の御曹司.
彼は, 私が両親を亡くし, 彼の家に引き取られた幼い頃から, 私にとって全てだった.
父の親友だった斎藤家が私を引き取ってくれた恩義.
そう, それは恩義だった.
愛情など, 最初から存在しなかった.
私たちは両家の親同士が決めた婚約関係にあったが, 真紀は私を疎ましく思っていた.
それは彼の態度, 言葉, そして私を見る冷たい視線から, 嫌というほど伝わってきた.
彼の心には, 高校時代から交際していたモデルの堀井愛菜がいた.
彼は愛菜を溺愛し, 私を虐げ続けた.
私は健気にも彼に尽くしたが, 彼はその献身を嘲笑い, 愛菜と共に私を踏みにじった.
私の自己肯定感は, 彼の足元で粉々に砕け散った.
世間は, 真紀と愛菜の交際を知っていた.
私だけが, 真紀の隣に立つ「婚約者」という名ばかりの存在だった.
真紀は, 私が場違いな存在であるかのように振る舞い, 周囲もそれに倣った.
誰もが真紀を気の毒そうに見ていた.
親に決められた婚約者に縛られている哀れな御曹司だと.
真紀もそう思っていた.
私が彼の自由を奪う邪魔者だと.
彼はあらゆる機会に, 私を排除しようとした.
私が参加しようとする行事には, 必ず愛菜を連れてきて, 私を遠ざけた.
ある夜, 彼の友人たちのパーティーに, 私が真紀に誘われる形で参加しようとした時もそうだった.
私はドレスアップして, 真紀が来るのを待っていた.
しかし, 現れたのは真紀の秘書だった.
「斎藤様は, 本日は堀井様とご一緒されるとのことです. 浅野様は, お帰りください」
秘書は冷たく言い放った.
私はその言葉に凍り付いた.
「でも, 真紀様が私を誘ってくださったのでは…? 」
私の震える声に, 秘書は眉一つ動かさなかった.
「斎藤様は, 貴女がご自身の立場を理解しておられないことを大変残念がっておられました」
まるで罪人のように扱われた.
屈辱だった.
それは一度や二度ではない.
前世では, 私はどれほど多くの夜を, 彼を待ち続けて過ごしたことだろうか.
そして, どれほど多くの裏切りに, 心を蝕まれたことだろう.
ある時は, 真紀の帰りを待って寝室で倒れ, 高熱を出したこともあった.
それでも, 彼は来なかった.
来たのは, 彼の両親だった.
「真紀は, お前との婚約を解消したがっている」
そう告げる両親の顔は, 私を哀れんでいるようだった.
しかし, 彼らの面子が, そして私の亡き両親との約束が, 彼らをそうさせなかった.
結果, 私は真紀と結婚することになったのだ.
結婚式の当日, 私は純白のウェディングドレスを身につけ, 幸せを演じていた.
しかし, その日, 衝撃的なニュースが飛び込んできた.
堀井愛菜が, 交通事故で亡くなったという.
真紀は私を激しく罵倒した.
「お前が愛菜を殺したんだ! 」
彼はそう叫び, 私に手を上げた.
周りの人間も, 私を冷たい目で見た.
まるで私が悪女であるかのように.
私は真紀に復讐された.
愛する愛菜を奪った私に, 彼は地獄を見せたかったのだろう.
彼は私との離婚を頑なに拒否し, 私を屋敷に閉じ込めた.
物理的な暴力こそなかったものの, 彼は私に精神的な虐待を与え続けた.
私をモノのように扱い, 彼のプライドを満たすための飾りとして利用した.
私は彼からの逃亡を何度も試みたが, 彼はそれを許さなかった.
「俺がお前を解放すると思うか? この地獄から, 一生逃がさない」
彼の冷たい声が, 私の魂を深く切り裂いた.
そうして私は, 20年間もの間, 彼の妻という名の囚人として生きることを余儀なくされた.
心は死に, 体は朽ちていった.
そして, その地獄から逃れるために, 私は自ら命を絶ったのだ.
あの時, 死の淵で薄れゆく意識の中で, 私はある光景を見た.
真紀と, 堀井愛菜が, 幸せそうに寄り添い, メディアの祝福を受けている姿を.
愛菜は生きていた.
あぁ, 全ては愛菜の策略だったのか.
私はまんまと騙され, 真紀の愛する人を殺した罪人として, 罰を受けることになった.
私だけが, この狂気の中で踊らされていたのだ.
私の心に, 激しい怒りが燃え上がった.
そして, 深い後悔が押し寄せた.
でも, もう違う.
私はあの時の私ではない.
この人生で, 私は絶対に真紀から離れる.
彼と愛菜, そして私を傷つけた全てのものから, 完全に決別する.
私の人生は, 私のものだ.
話 2
浅野愛美 POV:
「浅野様, どちらへ? 」
私が部屋を出ると, 真紀の隣に立つ堀井愛菜が, わざとらしく微笑みながら言った. 彼女の横では, 真紀が私を睨みつけていた.
「真紀様は, 今夜のチャリティーパーティーで, 愛菜様とご一緒なさる予定でございます」
愛菜が甲高い声で, 私に釘を刺すように言った.
「私は, 今夜のパーティーには参加しません」
私は毅然とした態度で答えた.
真紀の眉がぴくりと動いたが, 何も言わなかった.
「そうですか. それは残念ですわね」
愛菜は口元を歪め, 真紀の腕に体を擦り寄せた.
私は彼らに一瞥もくれず, 斎藤家の広大な屋敷を後にした.
使用人たちの視線が背中に突き刺さるのを感じた.
彼らは憐れみと嘲笑の入り混じった目で, 私を見ていた.
彼らにとって, 私は斎藤家の邪魔者であり, 真紀様の自由を奪う悪女なのだろう.
あの前世の私なら, この視線に晒されるだけで, 心が深く抉り取られていただろう.
しかし, 今の私には, 彼らの視線など, 何の痛みも与えない.
私はもう, 彼らの価値観に囚われない.
自室に戻り, 私は重苦しいドレスを脱ぎ捨てた.
まるで, これまでの抑圧された人生の象徴を脱ぎ去るかのように.
前世では, 私は真紀の完璧な妻になろうと必死だった.
彼のスケジュール管理から, 食事, 服装, 果ては彼の友人関係まで, 全て私が手配していた.
特に, 彼の出張の際には, 私が綿密な計画を立て, 滞在先のホテルから会食のレストラン, 移動手段まで, 一つ一つ手配した.
彼は口では「ご苦労」と言いながらも, その手配を一度も使わず, 愛菜が手配したものを利用していた.
ある時, 彼が海外出張から帰国する際, 私が手配した空港送迎車を断り, 愛菜が手配した車で帰って来たことがあった.
そして, 私は愛菜に頼まれ, 彼女の落とし物であるハンカチを探しに, 真紀の執務室の古い書棚によじ登った.
その時, 足元が滑り, 頭を強く打って意識を失った.
数週間, 私はベッドで過ごした.
真紀は一度も私の見舞いに来なかった.
彼は「愛菜が怪我をした」と嘘をつき, 私を突き飛ばすような真似をした.
いや, あれは嘘ではなかった.
愛菜は怪我をした.
階段から突き落とされ, モデル生命に関わる怪我を負わされたと, 真紀に嘘を言ったのだ.
真紀は愛菜の嘘を信じ込み, 逆上して私を突き飛ばし, 私は頭部を強打して2年間昏睡状態に陥った.
目覚めた時には, 斎藤家は没落し, 真紀は行方知れずになっていた.
そこからが, 私の本当の「再生」だった.
でも, 今回は違う.
私は, もう二度とあの過ちを繰り返さない.
真紀から離れること.
それが, 私の新しい人生の第一歩だ.
私はトランクを取り出し, 最低限の荷物を詰め込んだ.
必要なものは, もうほとんど残っていなかった.
「どこへ行く気だ? 」
突然, 背後から冷たい声がした.
振り返ると, 真紀が部屋の入り口に立っていた.
彼の顔には, 侮蔑と怒りが浮かんでいた.
彼は私の手からトランクを奪い取り, 床に叩きつけた.
中身が床に散らばった.
「何をするんですか! 」
私の声が震えた.
「何をするって? お前こそ何をしている? 勝手にどこかへ行こうとしているだろう」
真紀は冷笑した.
「勝手ではないはずです. 今朝, 私はパーティーに参加しないと伝えました. そして, あなたも何も言わなかった」
「それがどうした? お前がどこへ行くかは, 俺が決めることだ」
「もう, あなたに決める権利はありません」
私は震える声で言い返した.
真紀の顔が怒りで歪んだ.
「また, そんな風に俺を脅すのか? 自殺しようとして, 俺の気を引こうとするような真似はもう通用しないぞ」
「自殺なんて, するわけないでしょう. 私は新しい人生を始めるんです」
私は心の中で固く誓った.
もう, 誰も私の人生を奪うことはできない.
真紀は鼻で笑った.
その時, 部屋の扉が開き, 堀井愛菜が姿を見せた.
「真紀様, どうかなさいました? 愛美さん, どうしたの? 」
愛菜は心配そうな顔で, 私の側に駆け寄ろうとした.
「あなたには関係ありません」
私は冷たく言い放った.
愛菜は怯んだように一歩後ずさり, 真紀の腕にしがみついた.
「愛美さん, そんな言い方はないでしょう? 真紀様も心配しているのに」
愛菜は真紀を見上げ, 悲しげな目を向けた.
真紀の私を見る目は, さらに冷たくなった.
それは憎悪に満ちた目だった.
前世で, 私は高校時代, 真紀と愛菜の交際に反対した.
彼らが私に隠れて会っているのを知り, 私は真紀に詰め寄った.
「私と婚約しているのに, なぜ愛菜さんと会うんですか? 」
私の問いに, 真紀は冷たく答えた.
「お前には関係ない. 親が決めたことだ」
私はその言葉に絶望し, 衝動的に「もし愛菜と別れないなら, 死んでやる」と言ってしまった.
真紀は激怒し, それ以来私を避けるようになった.
愛菜は, 真紀の両親に私の言動を告げ, 彼らは真紀と愛菜の交際を止めさせた.
その結果, 真紀は私を憎むようになった.
学校では, 愛菜の取り巻きたちが私を孤立させ, 真紀はそれに気づかないふりをした.
私は, あの時の自分を深く後悔していた.
「私は, もうここにはいません」
私が真紀にまっすぐ視線を向けた.
「どこへ行くというんだ? 」
「新しいアパートを借りました. 今日から, そこで生活します」
真紀は再び鼻で笑った.
「愛美さん, 真紀様を困らせないで. 今夜のパーティー, 一緒に参加しましょうよ」
愛菜が甘えた声で真紀に言った.
真紀は愛菜の顔を見て, 少し表情を和らげた.
「愛菜, お前は優しいな. だが, こいつには無駄だ」
「そんなことありませんわ. 愛美さん, ね? 」
愛菜はそう言って, 私の腕を掴んだ.
その指が, 私の肘の内側の傷跡を強く押した.
それは, 中学の頃, 私が愛菜の飼っていた猫を探しに森に入った際, 木から落ちてできた傷だった.
愛菜はそんなこと, 知っているはずがない.
いや, 知っていてやったのだ.
「やめてください! 」
私は反射的に愛菜の手を振り払った.
しかし, 愛菜は驚いたように目を見開き, バランスを崩して床に倒れ込んだ.
「きゃっ! 」
彼女は痛みに顔を歪め, 足元からずるずると床に座り込んだ.
まるで, 私が彼女を突き飛ばしたかのように.
私は呆然と立ち尽くした.
愛菜は, 倒れたまま, 私の顔を見上げて, 震える声で叫んだ.
「真紀様, 愛美さんが... 私を突き飛ばしたわ! 」
彼女の頬には, 涙が伝っていた.
真紀の顔は, みるみるうちに怒りに染まっていった.
話 3
浅野愛美 POV:
「愛美! お前, 何てことを! 」
真紀の怒声が, 部屋全体に響き渡った.
彼は愛菜の元へ駆け寄り, 彼女を抱き起こした.
その間にも, 愛菜は「痛い, 痛いよ, 真紀様…」と, か細い声で泣き続けた.
真紀は私を振り返り, その目に激しい憎悪を宿していた.
「お前は本当に, 誰彼構わず傷つけないと気が済まないのか! 」
彼の言葉は, まるで鋭いナイフのように私の胸を突き刺した.
次の瞬間, 真紀の腕が大きく振りかぶられ, 私の頬を強く打った.
「パンッ! 」
乾いた音が部屋に響き渡り, 私の体はバランスを崩して床に倒れ込んだ.
頭が, 硬いフローリングに鈍い音を立てて打ち付けられた.
目の前が白く霞み, 世界が揺らぐ.
頭の奥で, ズキズキとした痛みが広がる.
「本当に最低な女だ! 愛菜に怪我をさせておいて, まだそんな顔をしているのか! 」
真紀の怒鳴り声が, 遠くから聞こえる.
耳鳴りがひどく, 彼の言葉が断片的にしか聞こえない.
「... 貴女は... 悪魔だ... 」
その言葉が, 私の心臓を凍りつかせた.
前世で, 彼に何度も投げつけられた言葉だ.
私は, 痛みに喘ぎながら, なんとか口を開いた.
「... もう, 終わりにしましょう... 」
私の声は掠れていた.
「何を言っている? 」
真紀は私を見下ろしたまま, 冷たい声で問い詰めた.
「私は, もうあなたの人生から消えます. 二度と, 私の顔を見ることはありません」
私がそう言うと, 真紀の顔は一瞬, 驚きに固まった.
しかし, すぐに再び怒りで顔を歪めた.
「勝手なことを言うな! お前がどこへ行こうと, 俺には関係ない! 」
彼はそう吐き捨てると, 愛菜を抱きかかえ, 部屋を出て行った.
愛菜は, 真紀の腕の中で, 私をちらりと見て, 勝利の笑みを浮かべた.
その顔は, まるで悪魔のようだった.
私は, 床に倒れたまま, 頭の感触に手を伸ばした.
ねっとりとした温かい液体が指先に触れる.
血だ.
温かいはずのそれは, 私にはひどく冷たく感じられた.
前世では, 真紀に怪我をさせられた時, 彼は私が倒れるまで突き飛ばし, 私が意識を失った後も, 私を見下ろし, 冷たい声を浴びせていたことを思い出した.
あの時は, 彼の言葉に, 心の底から絶望した.
かつて, 私が怪我をすれば, 彼は駆けつけてくれた.
私がちょっとした擦り傷を負っただけでも, 彼は心配そうな顔をして, 私の手を握りしめた.
私をいじめる男子生徒がいれば, 彼は激怒し, 相手を殴り飛ばしたことさえあった.
あの頃の彼は, どこへ行ってしまったのだろう.
いや, もういい.
彼が私をどう思おうと, 私には関係ない.
彼はもう, 私の人生には必要ない人間だ.
彼の憎しみも, 軽蔑も, 私には届かない.
私は, もう何も感じない.
私はゆっくりと立ち上がった.
頭の痛みはひどいが, この状況で倒れているわけにはいかない.
「すみません, 誰か... 」
私は部屋の前に立つ使用人たちに声をかけた.
「... 医者と, トランクを... 」
しかし, 彼らは誰も動こうとしない.
顔を背け, 私から視線を逸らした.
真紀が彼らに, 私を無視するように命じていたのだろう.
前世でもそうだった.
彼にとって, 私は透明な存在だった.
私は苦笑した.
そうだ, これが私の現実だ.
誰も私を助けてくれない.
私は, 自分で立ち上がるしかない.
私は自力で部屋を出て, タクシーを捕まえ, 病院へと向かった.
病院で脳震盪と診断され, 数日の入院を勧められた.
頭部の傷は縫合され, 包帯でぐるぐる巻きにされた.
退院後, 私はすぐにアパートに戻り, 残りの荷物をまとめた.
使用人たちは, 私が荷物を運ぶ間も, 遠巻きに私を見ているだけだった.
彼らの冷たい視線を受けながら, 私は最後の荷物を運び出した.
新しいアパートは, 斎藤家とは比較にならないほど質素なワンルームだったが, 私にとっては自由の象徴だった.
私はこの部屋で, 新しい人生を始めるのだ.
まずは, 大学を卒業すること.
そして, この街を離れること.
真紀との婚約を解消し, 彼らの手から完全に逃れること.
それが, 私の目標だ.
私がアパートに引っ越してから三日目の夜, 携帯電話が鳴った.
表示された名前に, 私は眉を顰めた.
真紀からの電話だった.
無視しようかと思ったが, 結局, 電話に出てしまった.
「... もしもし」
私の声は, 思ったよりも冷静だった.
「おい, どこにいるんだ, お前」
真紀の声は, 酒に酔っているかのように, 少し呂律が回っていなかった.
そして, 苛立ちと焦りが混じっていた.
私は, せっかく心が落ち着いてきたのに, 彼の声を聞いた途端, 胸の奥がざわつくのを感じた.
「何の用ですか」
私の冷たい声に, 電話の向こうが静まり返った.
数秒の沈黙の後, 真紀の声が聞こえた.
「何を, 生意気な口をきいている. 早く家に帰ってこい」
「もう家ではありません. 私は出て行きました」
私が淡々と告げると, 真紀は荒い息を吐いた.
「はっ... ようやく, 俺の言うことを聞くようになったか」
彼は嘲笑した.
「愛菜が... お前が愛菜に怪我をさせたせいで, 愛菜は... 」
真紀はそう言うと, 言葉を詰まらせた.
私の心は, 何の変化も感じなかった.
彼の言葉に, 何の感情も湧き上がってこない.
「それで? 」
私は冷たく問い返した.
「... お前が愛菜に近寄らなければ, こんなことにはならなかった」
真紀の声には, 私に対する非難と, 愛菜への深い悲しみが混じっていた.
「愛菜さんがどうなろうと, 私には関係ありません. 私はもう, あなたの婚約者ではないのだから」
私はそう言い放った.
真紀は再び沈黙した.
「... 俺は, お前が愛菜を傷つけたことを許す. だから, 帰ってこい」
彼の声には, 僅かながら懇願の色が混じっていた.
私は鼻で笑った.
「あなたの許しなど, 必要ありません. 私はもう, 自由ですから」
真紀が何か言おうとしたが, 私は彼の言葉を聞く前に電話を切った.
電話を切った後も, 私の心臓は激しく波打っていた.
感情が渦巻く.
怒り, 軽蔑, そして, 深い疲労感.
私は, 自分の手の中に残された携帯電話を, まるで真紀そのものであるかのように, 強く握りしめた.