話 2
佐藤結衣は立ち止まり、ゆっくりと視線を上げて伊藤桃花を見た。
その眼差しに桃花はなぜか胸を突かれ、無意識に半歩後ずさる。
伊藤和子がゆっくりと近づいてきた。口では叱りつつも、その目には甘やかしの色が満ちている。「桃花、いい加減になさい。結衣がいくら世間知らずでも、まさか泥棒なんてしないわよね? そうでしょう、結衣?」
彼女はわざとらしく穏やかに微笑んだ。「たかがネックレス1つじゃない。欲しいなら私に言えばいいのに、どうして……」
結衣は彼女の言葉を遮り、感情の籠もらない声で言い放った。 「盗んでいません」
桃花は鼻で笑い、ソファの横に置かれた結衣の古びたキャンバストートを掴み取ろうと身を乗り出した。 「盗んでないって?じゃあ調べさせてもらうわよ!」
「伊藤桃花」
結衣は手を伸ばし、彼女の手首をガッチリと掴んだ。
まるで冷たい鉄の枷のように締め上げられ、桃花は一瞬で硬直して動けなくなった。
結衣の分厚いレンズの奥で、その瞳は恐ろしいほど冷え切っていた。「あなたに、私の物に触れる資格はない」
「あ……あんた、やましいんでしょ!」 桃花はその眼差しに背筋を凍らせながらも、強がって和子に向かって金切り声を上げた。「お母さん!見てよこれ!絶対こいつが盗んだのよ! 刑務所上がりの前科者が、ダイヤモンドを見て手を出さないわけないじゃない!」
和子は眉をひそめ、困り果てたような顔を作った。「結衣、それはあなたが悪いのよ。うちで何か不自由でもさせてる? 欲しいものがあるなら、ちゃんと言えばいいじゃない。 どうしてこんな恥ずかしい真似をするの。 あのネックレスは桃花のお父さんがプレゼントした誕生日祝いで、6000万円以上もするのよ。 見過ごせる金額じゃないわ」
結衣は手を離し、一言一句はっきりと告げた。「言ったはずです。盗んでいないと」
桃花は赤くなった手首を揉みながら、恨めしそうに睨みつけた。だが次の瞬間、彼女の目が鋭く光った。
「じゃあそれは何よ!なんか膨らんでるじゃない!」
言葉を終えるや否や、彼女は猛然と飛びかかり、キャンバストートのサイドポケットから無理やりベルベットのジュエリーボックスを引きずり出した。
桃花は決定的な証拠を掴み、興奮で顔を真っ赤にして勢いよく箱を開けた。「ほら!やっぱりここにあるじゃない!」
中から現れたのは、眩い光を放つダイヤモンドのネックレスだった。メインのダイヤは息を呑むほど美しく、照明の光を反射して目が眩むほどだ。
和子は息を呑み、心底失望したような声を出した。「佐藤結衣!伊藤家があなたに何かひどいことでもした? まさか本当にこんなことをするなんて!外に知れたら、伊藤家の顔に泥を塗ることになるのよ!」
「現行犯よ!これでもまだ言い逃れする気?」
桃花は勝ち誇ったようにジュエリーボックスを揺らして見せた。「警察を呼んで!お母さん、早く通報してよ!この手癖の悪い前科者をぶち込んでやるんだから!」
ダイニングで働いていた数人の使用人たちも、思わずヒソヒソと噂話を始めた。
「あんな人だとは思わなかったわ。大人しそうに見えるのに、裏では……」
「ふん!前はムショに入ってたらしいわよ!前科者よ!坊ちゃんは騙されたのよ」
「腐りきった性根だね。あんな高いネックレス見たら、そりゃ欲しくもなるでしょ。 6000万円以上よ。あんな大金、一生見たこともないんじゃないの?」
……
「もういい」
結衣の低く鋭い一喝に、騒ぎ立てていた2人は同時に口をつぐんだ。
彼女の視線が、あの目障りなネックレスをかすめる。
そして、目の前にある打算と悪意に満ちた2つの顔を冷ややかに見据えた。
急に何もかもが馬鹿馬鹿しくなり、同時にどっと疲労が押し寄せてきた。
こんな連中、こんな場所のために、自分は3年もの時間を無駄にしてしまったのだ。
伊藤家にいる間、この義妹に対しては自分なりに義理を果たしてきたつもりだった。
桃花は外見ばかり取り繕い、日々トラブルを巻き起こしてばかりいた。
前回、藤原家の機嫌を損ねた時も、結衣が1人で事態を収拾しに行かなければ、今頃悲惨な目に遭っていただろう。
だが、結局は恩知らずだった。
真心を尽くしても、返ってくるのは「ブス」や「前科者」という罵倒だけ。
結衣はゆっくりと背筋を伸ばした。
相変わらずの地味な顔立ちに、パッとしない服を着ているだけなのに。
だが今、リビングに立つ彼女の全身からは圧倒的なオーラが放たれ、桃花は理由もなくゾッとした。
彼女は静かに口を開いた。「たかがネックレス1つで、わざわざこんな茶番を演じるなんてね」
桃花は虚勢を張って喚き散らした。 「どういう意味よ!誰が茶番ですって!」
結衣はそれ以上何も言わず、彼女の目の前まで歩み寄り、スッと手を伸ばした。
桃花は無意識に後ずさり、ジュエリーボックスを胸にきつく抱え込んだ。「何する気!?証拠隠滅するつもり!?」
結衣の口角がわずかに上がった。
一瞬の隙を突き、彼女は素早い動きでベルベットの箱を奪い取った。
桃花の悲鳴が終わるよりも早く。「あんた――!」
次の瞬間、結衣が手首をスナップさせた。
ヒュッ!
精巧なジュエリーボックスは綺麗な放物線を描き、開け放たれたリビングのドアを正確に越えていく。
そして、中庭の中央にある錦鯉の池へと落ちた。
ポチャッという音とともに、小さな水しぶきが上がった。
叫び声を上げながら飛び出していく桃花。「ああっ――!私のネックレス!」
和子も一瞬で顔色を変えた。
結衣は軽く手を払った。まるで、ただのゴミを捨てただけかのように。
彼女は振り返り、驚きと怒りが入り交じる和子を静かに見据え、冷たく澄んだ声で告げた。「伊藤夫人、人に罪をなすりつけるなんて、ずいぶんとチープな小芝居ですね。 あのネックレスを誰が入れたのか、 防犯カメラの映像で確認しましょうか?」
和子の顔色は青くなったり白くなったりと目まぐるしく変わった。
「それから、たった10分ほど前、私は伊藤翔太と離婚しました」
「ですから、今この瞬間から、私は伊藤家の嫁ではありません。あなたたちに好き勝手侮辱される筋合いもありません」
「あの汚れたネックレスは、そちらでごゆっくり拾い上げてろ」
そう言い捨てると、その場に立ち尽くす母娘には目もくれず、そのまま2階へと上がっていった。
2階でドアが軽く閉まる音がして、ようやく。
全身ずぶ濡れになった桃花が、怒り狂ってリビングに飛び込んできた。「お母さん!あいつ……私のネックレスを投げるなんて! 頭おかしいんじゃないの!早くお兄ちゃんを呼んで、あいつを締め上げさせてよ……!」
和子が鋭い声で制した。「黙りなさい!」その顔は今にも雨が降り出しそうなほど険しかった。
結衣のまっすぐな後ろ姿を見つめながら、彼女の脳裏に3年前の光景が突然フラッシュバックした。
あの時、書斎の前を通りかかった和子は、結衣が翔太のデスクの前に静かに立っているのをちらりと見た。
デスクの上には国際的なM&Aの書類が広げられ、さらに非常に価値の高い骨董品がいくつか置かれていた。
当時、和子は彼女が骨董品に見とれているだけだと思い、孤児院育ちの世間知らずめと心の中で鼻で笑っていた。
だが今、見落としていたあるディテールが恐ろしいほど鮮明に蘇ってきたのだ。
結衣の視線は、骨董品などには一切向けられていなかった。
書類上の複雑な財務データをざっと見渡し、ほんのわずかに首を横に振ったのだ。
和子はブルッと身震いした。遅れてやってきた恐怖が、心臓を鷲掴みにする。
自分は……。
この嫁の本当の姿を、何一つ理解していなかったのかもしれない。
話 3
佐藤結衣は寝室に入り、手際よく荷物をまとめた。その後、もう1つのスマホを取り出し、長い間使っていなかったチャットアプリにログインした。
彼女は数人しかいない小さなグループにメッセージを送信した。
「離婚した。今からフリーだよ」
途端にスマホが震え続け、グループチャットのアイコンが次々と飛び跳ねた。
レーサー・Kさん:「??? 結衣姉さん、アカウント乗っ取られた?」
医療の奇跡・メスのコバヤシ:「祝杯だ!姉御の自由を祝って、今日は朝まで飲み明かそうぜ!」
ハッカー・Z:「今いる場所を送って。 ネット上の痕跡、全部消そうか?無料サービスだよ。 あの伊藤って男には絶対見つからないようにしてあげる」
ジュエリーデザイナー・ヴィヴィアン:「やっとね!あんな男、あなたには釣り合わないってずっと言ってたじゃない。 待ってて、『新生』シリーズをプレゼントするわ。あいつらの目をくらませてやりましょう」
メッセージが猛スピードで流れていく。
相変わらず賑やかな友人たちを見て、結衣の瞳に心からの笑みが浮かんだ。
結衣:「冗談じゃないよ。さっきサインしてきたところ。 後でいつもの場所でね」
メッセージを送信し終えると、彼女はウォークインクローゼットの一番奥にある隠し引き出しを開けた。
そこには服はなく、黒い金属製のケースが静かに置かれているだけだった。
指紋認証をすると、カチャッという音とともにケースの蓋が軽く開いた。
ケースの中には、整然と並べられていた。
冷たい光を放つ1本の手術メス。
特徴的な形をしたレーシングカーの鍵が数本。
薄型でありながら最高スペックのノートパソコンが1台。
そして、正確な線で描かれた、まるで芸術品のような分厚いデザイン画の束。
これらは、彼女が丸3年間も封印していたものだった。
伊藤家の完璧な妻でいるために。
彼女は自分の鋭い才能や情熱、そして過去のすべてを、この日の当たらない片隅に閉じ込めていたのだ。
今こそ、それらを取り出す時だった。
結衣はノートパソコンを取り出して電源を入れた。画面にお馴染みのインターフェースが点灯する。
指先がキーボードの上を猛スピードで叩き、伊藤グループの内部システムに侵入した。
過去3年間で彼女が処理したすべての危機対応記録。そこには、伊藤グループが藤原家との提携を目論んだ際、実際には彼女が開発したコア技術のデータも含まれていた。
それらを徹底的に消去する。
伊藤翔太は今でも、あれは運が良かったか、優秀な部下のおかげだと思っている。
幾つもの夜更けに、彼女がたった1人で彼のためにどれほどの障害を取り除いてきたかなど、彼は一生知る由もない。
画面に表示された「消去完了」の文字を見つめ、結衣の瞳に感情の揺らぎはなかった。
離婚したのだから、これで貸し借りなしだ。
彼女は伊藤家に何の借りもないし、伊藤家も二度と彼女から少しの利益も得ることはできない。
パソコンを閉じ、彼女は親友の中村凛子に個別メッセージを送った。
「自由になったよ」
相手からほぼ秒速で返信が来た。
「10分待って。あの伊藤翔太ってバカの家の前まで迎えに行くから!」
凛子は昔から行動が早かった。
10分と言いながら、6分も経たないうちに、彼女の目を引くスポーツカーが門の外に停まっていた。
黒で統一されたクールなファッションの彼女が車に寄りかかっていた。トランクを引いて出てくる結衣の姿を見ると、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「おめでとう女王様、地獄からの生還ね!」
言い終わるか終わらないかのうちに、彼女は手品のように後ろからシャンパンのボトルを取り出し、親指でコルクを弾き飛ばした。
ポンッ!
コルクが宙を舞い、きめ細かい泡が噴き出した。
夕日を浴びてキラキラと弧を描き、結衣の肩に降り注ぐ。
凛子は目を細めて笑った。「お清めの塩を用意する暇がなかったから、シャンパンで厄落としよ!」
冷たいお酒で服が濡れたが、結衣は寒さを感じなかった。ただ目頭が少し熱くなるのを感じただけだ。
最高だ。
翔太から離れ、彼女の鮮やかで生き生きとした人生が、ついに再び始まったのだ。
凛子は車のキーを結衣に投げ渡し、眉を上げて笑った。「久々に、その腕、唸らせてみる?」
「乗って」
結衣はキーを受け取ると、迷わずアクセルを踏み込んだ。
ブガッティ・ヴェイロンが低いエンジン音を響かせながら別荘を離れ、街の車列に合流していく。
スピードは速いが安定していた。
凛子はシートに寄りかかり、横目で彼女を見た。「教えてよ、一体何があなたのその恋愛ボケを完治させたわけ?」
「あいつの元カノが戻ってきたの」
結衣は前を向いたまま、淡々とした声で答えた。「2人はまたヨリを戻したわ」
凛子は即座にブチギレた。「あいつ、恥ってもんがないの? 昔自分から振っておいて、3年経ってまたノコノコ戻ってきたわけ?この世に男はいないのかよ、他人の旦那にばっかり目をつけてさ!」
彼女は怒れば怒るほど早口になった。「それに伊藤翔太のクソ野郎も!本当に……拾い食いの癖は治らないってやつね!どうせ拾い食いするなら新鮮なものにすればいいのに、なんでまたあんな古びた賞味期限切れの女を選ぶわけ!」
結衣:「……」
……って、それ、どっちを罵ってるんだ
凛子も不適切だと気づいたのか、軽く咳払いをした。「とにかく、私は納得いかない!あいつらがイチャつくからって、なんであなたが身を引くのよ? どうしてあのクズ男と泥棒猫の思い通りにしてやらなきゃいけないの!あの渡辺美咲って女、ただピアノ弾いてるだけじゃない。真正面からぶっ潰してやればいいのよ!」
「それで?」結衣は問い返した。「私が捨てられた哀れな女だって、世界中に言いふらせってこと?」
「でも、これじゃあいつらが得するだけじゃない!」
「そうはさせないわ」
結衣の声は小さかったが、過去を断ち切る決意に満ちていた。「今日から私はただの佐藤結衣。もう誰の付属品でもない」
「その意気よ!」凛子は怒るのも早いが、機嫌を直すのも早い。「こんなおめでたい日は、絶対にお祝いしなきゃ!飲みに行こ?」
「それは後で。先に付き合ってほしい場所があるの」
結衣はハンドルを切った。「イメチェンしなきゃ」
「もっと早くすべきだったわ!」凛子は目を輝かせたが、ふと何かを思い出した。「そういえば、あなたが引退していたこの3年間、医学界はあなたを血眼になって探してたわよ。いつ復帰するつもり?」
結衣は淡々とした表情で答えた。
「潮時ね。 情報を流してちょうだい」
「そうそう、聞いた話だと、あなたの元旦那もあなたを探してるみたいよ。元カノの病気を治すためにね……。それと……」
凛子は軽く笑い、その声には隠しきれない面白がるような響きが混じっていた。「あいつ、死ぬまで気づかないでしょうね。自分がその手で捨てて、ゴミのように扱ったただの石ころが……」
「今、あいつが土下座してでもすがりつきたいと願う、雲の上の存在。伝説のゴッドハンドSだってことに」
凛子の笑みには、冷酷な期待が入り交じっていた。
「本当に見てみたいわ。真実が顔面に叩きつけられた瞬間……あのいつも上から目線の顔が、どんな風に歪むのか」