話 1
"牧野さん、ご家族の方のサインが、必要です"
無機質な声が、遠くで聞こえる。
牧野理歌子は、ストレッチャーの上で身を縮めた。下腹部を内側から抉るような激痛が、意識を白く塗りつぶしていく。
額から流れ落ちた冷たい汗が、目に入って滲みた。
"ご主人に、連絡は?"
看護師の問いかけに、理歌子はか細く頷く。震える指先で、スマートフォンの画面をタップした。鷹司健。夫のプライベート用の番号だ。
コール音が、三度繰り返される。
もう切れる。そう思った瞬間、電話は繋がった。
『……なんだ』
不機嫌を隠そうともしない、低い声。
その声の向こうから、偶然を装った、無邪気な女の笑い声が聞こえた。武井萌歌穂の声だ。
"健さん、私……"
声が、うまく出ない。
"病院に、いるの。だから……"
『またその手か』
健の声は、嘲笑の色を帯びていた。
『萌歌穂の気を引くために、今度は仮病か。見苦しい真似はやめろ』
"違う、本当に……っ!"
腹の底から、熱いものがせり上がってくる。激痛の波が再び押し寄せ、理歌子の呼吸が止まった。
電話の向こうで、萌歌穂がわざとらしく尋ねる。
"健様、どなたから?"
『気にするな。くだらない間違い電話だ』
健の声音が、一瞬で甘く、優しくなる。その温度差が、理歌子の心臓を氷の針で突き刺した。
『いい加減にしろ。お前のくだらない芝居に付き合うほど、俺は暇じゃない』
一方的に吐き捨てられ、通話は切れた。
耳元で響く、無慈悲な電子音。それが、理歌子の最後の希望を打ち砕いた。
腹の内部で、何かが引き裂かれるような、絶叫したくなるほどの痛みが走る。
ああ、もう、どうでもいい。
薄れていく意識の片隅で、誰かが叫んでいるのが聞こえた。
"先生! 患者の血圧が低下しています!"
"緊急手術の準備だ! 急げ!"
手術室の無影灯が、網膜を焼く。
麻酔で沈んでいく体とは裏腹に、この三年間、氷の上を歩くような結婚生活が、走馬灯のように脳裏を駆け巡った。
次に理歌子が目を覚ましたのは、殺風景な一般病棟のベッドの上だった。
窓の外は、すでに暗くなっている。
枕元のスマートフォンを手に取った。着信履歴も、メッセージもない。空っぽの画面が、健の答えだった。
回診に来た看護師が、同情的な視線を理歌子に向けながら、一枚の夕刊を差し出した。
"旦那様、いらっしゃるといいですね"
理歌子は力なく微笑み、新聞を受け取った。
その一面に、見慣れた男の顔が写っている。
『鷹司グループ総帥、鷹司健氏。恋人のため、オークションで希少なピンクダイヤモンドを数億円で落札』
写真の中の健は、萌歌穂の肩を抱き、見たこともないほど優しい顔で微笑んでいた。
その姿が、理歌子の瞳を焼いた。
指先が、氷のように冷えていく。胃が痙攣し、心臓が嫌な音を立てて軋んだ。
三年間、彼の愛情を信じて耐え続けた。その全てが、今、この瞬間に、灰になった。
理歌子は、点滴の針を乱暴に引き抜いた。
"牧野さん!?"
看護師の制止を振り切り、ベッドから転がり落ちるように立ち上がる。
ふらつく足で、病院を出た。タクシーを拾い、代官山の鷹司本邸へと向かう。
重厚な玄関の扉を開けると、中はしんと静まり返っていた。
理歌子は壁に手をつきながら、ゆっくりと二階の寝室へ向かう。
"あら、奥様。お帰りなさいませ"
コーヒーを運んでいた家政婦の斎藤春恵が、理歌子の姿を認め、わざとらしく眉をひそめた。
彼女は、理歌子の行く手を塞ぐように、モップを置く。
"萌歌穂様のお帰りが近いので、床を汚さないでいただきたいですわね。あなたのような方が歩くと、せっかくの床が傷んでしまいますから"
嘲るような声だった。
"……どきなさい"
理歌子は、冷たく言い放った。
その声に含まれた絶対零度の響きに、春恵は一瞬怯む。
しかし、すぐに苛立ちが勝ったのか、彼女は理歌子の肩を強く突き飛ばした。
"なんですの、その態度は!"
虚弱な体は、簡単にバランスを失う。
理歌子は、玄関の飾り棚に強く体を打ち付け、床に崩れ落ちた。
腹部に、熱い痛みが走る。
まだ塞がっていない傷口が、裂けたのだ。白いワンピースの裾が、じわりと赤く染まっていく。
その時、玄関の扉が乱暴に開けられた。
冷たい夜気をまとった鷹司健が、大股で入ってくる。
彼は、床に倒れる理歌子を見下ろし、眉を深く寄せた。
"何をしている。床が汚れるだろう"
理歌子は、ゆっくりと顔を上げた。
蒼白な顔。しかし、その瞳には、もはや以前のような彼への思慕や媚びるような光は一切なかった。
ただ、冷たい虚無が広がっているだけだ。
その無感情な視線に、健はなぜか苛立ちを覚えた。
彼は屈み込むと、理歌子の顎を乱暴に掴み、無理やり上を向かせる。
"俺に逆らう気か。誰のおかげで――"
その時、健のスマートフォンが、萌歌穂専用の着信音を奏でた。
彼は舌打ちをすると、理歌子の手を振り払い、電話に出る。
"萌歌穂か。どうした?"
電話の向こうから、萌歌穂の泣き声が聞こえる。
『健様、雷が……怖くて眠れないの』
"わかった。すぐに行く"
健は、すぐに踵を返した。
理歌子のことなど、もう頭にない。
"待って"
理歌子が、最後の力を振り絞って声を上げた。
彼女は、ハンドバッグから一枚の書類を取り出し、健の足元に投げつける。
ひらりと舞い落ちた紙には、『離婚届』という文字が書かれていた。
健は、一瞥もくれなかった。
その紙を無造作に踏みつけ、萌歌穂の元へと去っていく。
玄関の扉が閉まる音を聞きながら、理歌子の視界は、ゆっくりと暗転した。
話 2
"奥様! 奥様が血を!"
家政婦の悲鳴が、遠くに聞こえる。
救急車のけたたましいサイレンの音。揺れる視界の中で、理歌子は自分の命がゆっくりと流れ出ていくのを感じていた。
次に意識が戻った時、理歌子はVIP病棟の個室にいた。
医師が、厳しい口調で告げる。
"傷口が開いて、感染症を起こしかけていました。もう少し遅ければ、命に関わるところでしたよ。ご自分の体を、もっと大切にしてください"
理歌子は、黙ってその言葉を受け止めた。
窓の外は、冷たい雨が降っている。
十年前、両親が事故で死んだ日も、こんな雨の日だった。
胸が、ナイフで抉られるように痛む。
その時、病室のドアが勢いよく開かれた。
"理歌子!"
親友の有馬雪が、目を真っ赤にして飛び込んでくる。
彼女はベッドのそばに駆け寄ると、理歌子の蒼白な顔を見て、ぽろぽろと涙をこぼした。
"なんてこと……。どうして、こんなになるまで……"
雪は、怒りに震える手でスマートフォンを取り出した。
"鷹司健……あいつ、絶対に許さない!"
"やめて、雪"
理歌子は、力なくその手を制した。
"もう、終わったことだから"
"終わってない! あいつは、あなたが死にかけてる時も、あの女と一緒にいたのよ! なんで、まだあんな男を庇うの!"
雪の叫びが、病室に響く。
理歌子は、静かに首を振った。
"庇ってるんじゃない。……ただ、もう、どうでもいいの"
彼女は、窓の外に視線を向けたまま、ぽつりと呟いた。
"十年前、私が川に落ちて死にかけた時、助けてくれたのは、健さんだった"
雪が、息を呑む。
"そんな……初耳よ"
"ずっと、言えなかった。その恩があったから、私は三年間、どんな扱いを受けても耐えてきた。でも、もういいの。今回のことで、私の命は半分、彼に返した。だから、もう、貸し借りはない"
理歌子の声は、不思議なほど穏やかだった。
"これからは、鷹司健とは、何の関係もない"
数日後、理歌子は退院の手続きを済ませた。
雪に支えられながら、病院のロビーを歩く。
その時だった。
正面から、見たくもない二人の姿が現れた。
鷹司健が、武井萌歌穂を甲斐甲斐しく抱きかかえるようにして、こちらへ歩いてくる。
萌歌穂は、理歌子の姿を認めると、挑発するように健の腕に体をすり寄せた。
雪の体から、怒りのオーラが立ち上る。
"あの女……!"
今にも飛びかかりそうな雪の腕を、理歌子は強く掴んで引き留めた。
"健様、なんだか、めまいが……"
萌歌穂が、わざとらしく大きな声で甘える。
健は、すぐに心配そうな顔で彼女を抱きしめた。
"大丈夫か、萌歌穂。すぐに診てもらおう"
その冷たい瞳が、一瞬だけ、理歌子の顔を捉えた。
しかし、そこには何の感情も浮かんでいない。まるで、道端の石ころでも見るかのように、彼の視線はすぐに通り過ぎていった。
完全な、無視だった。
"人でなし!"
雪が、堪えきれずに叫ぶ。
しかし、理歌子は驚くほど冷静だった。
心臓の奥が、ちくりと痛んだ気はする。だが、それだけだ。
かつて彼に向けられていた愛情は、もう、ひとかけらも残っていなかった。
"理歌子……"
雪が、心配そうに理歌子を抱きしめる。
"大丈夫よ。私が、絶対にあなたを助け出すから"
"ありがとう、雪"
理歌子は微笑んだ。その瞳には、今まで見たこともないような、強く、澄んだ光が宿っていた。
病院の玄関を出ると、厚い雲の隙間から、一筋の光が差し込んできた。
"よし! 新生を祝して、美味しいものでも食べに行きましょ!"
雪が、明るく提案する。
理歌子は頷き、スマートフォンの銀行アプリを開いた。
残高、数万円。
鷹司家の嫁として、自由になる金はほとんど与えられていなかった。
経済的自立。それが、今の彼女にとって最大の課題だった。
"大丈夫よ、理歌子! 今日は私のおごりだから!"
理歌子の表情を察した雪が、胸を張る。
だが、理歌子は静かに首を振った。
"ううん。これからは、私一人で、ちゃんと向き合わなきゃいけないから"
交差点で、二人は別れた。
理歌子は、地下鉄の駅へと向かう。
その背中は、頼りなく見えるほど細い。しかし、その足取りは、驚くほどしっかりとしていた。
風が、理歌子の長い髪を揺らす。
彼女は、ハンドバッグの奥から、一枚の古い名刺を取り出した。
指先に力を込めて、その紙片を強く握りしめる。
これが、新しい人生への、第一歩だった。
話 3
雪が手配してくれた、サービスアパートメントの一室。
理歌子は、実家から運び込まれたままになっていた段ボール箱を開けていた。
埃をかぶった古い書類の山。その底から、鍵のかかった小さな鉄の箱が出てきた。
鍵はない。理歌子は、躊躇なく箱を床に叩きつけた。
何度か繰り返すと、歪んだ蓋が、音を立てて開く。
中に入っていたのは、一枚の黒いカード。そして、数枚の書類だった。
スイス銀行のプライベートバンクカード。
そして、特許権使用料の支払明細書。
彼女が十五歳で飛び級入学した大学で、研究に没頭していた頃に取得した、医療技術の特許だ。
結婚と同時に、その存在すら忘れていた。
明細書に記載された残高の数字を見て、理歌子は息を呑んだ。
数億円。
それが、彼女自身の力で稼いだ金だった。
眠っていた天才科学者としての記憶が、一瞬にして蘇る。
その時、スマートフォンが静かに振動した。
暗号化されたメール。差出人は、父が生前、最も信頼していた運転手の山田吾郎からだった。
添付ファイルを開く。
そこには、十年前の両親の事故車両の、不鮮明な整備記録のコピーがあった。
ブレーキ部分に、人為的な細工が施された痕跡。
そして、その整備記録にサインをした人物の名前。
――武井健一。
萌歌穂の父親。理歌子の叔父の名前だった。
全身の血が、逆流するような感覚。
理歌子は、その場に崩れ落ちた。
事故ではなかった。殺されたのだ。
復讐の炎が、胸の奥で静かに燃え上がった。
数日後。
研究所の面接に着ていくための服を買いに、理歌子は銀座の高級百貨店を訪れていた。
あるブティックで、仕立ての良いシンプルなスーツを見つける。
店員に声をかけようとした、その時だった。
"あら、これいただくわ"
赤いマニキュアが塗られた手が、横から伸びてきて、そのスーツをひったくった。
武井萌歌穂だった。
彼女は、限定品のバッグをこれ見よがしに揺らしながら、理歌子を嘲るように見下ろす。
"あなたのような人に、この店の服が買えるのかしら?"
"私が先です。それを、こちらに"
理歌子は、冷たく言い放った。
萌歌穂は、顔を歪める。
"何よ、その口の利き方! 店長! この女を追い出して!"
彼女は、鷹司健のブラックカードをカウンターに叩きつけた。
店員が、困惑した表情で理歌子を見る。
理歌子は、動じなかった。
彼女は、自分のバッグから、あのスイス銀行のブラックカードを、静かに取り出した。
店員がカードを受け取ろうとした、その瞬間。
"待て"
低く、冷たい声が、背後から響いた。
鷹司健だった。
彼は大股で歩いてくると、萌歌穂を庇うように自分の後ろに立たせる。
そして、ゴミでも見るかのような目で、理歌子を睨みつけた。
"俺の金を盗んで、こんな所で何をしている。恥を知れ。今すぐ萌歌穂に謝れ"
あまりに馬鹿げた言い分に、理歌子は笑いそうになった。
彼女の瞳に、嘲りの色が浮かぶ。
理歌子は、健と萌歌穂が見ている前で、店員に告げた。
"この店で、一番高いドレスをいただくわ。もちろん、このカードで"
決済は、一瞬で終わった。
支払い完了の電子音を聞いて、健の目に、わずかな驚きと疑いの色が浮かぶ。
萌歌穂は、嫉妬に顔を歪ませると、わざとらしくよろけて健の胸に倒れ込んだ。
"健様、足が……"
健は、すぐに萌歌穂を抱きかかえる。
去り際に、彼は理歌子に吐き捨てた。
"くだらない真似は、よせ"
二人の姿が見えなくなるまで見送った後、理歌子の心からは、最後の波紋も消え去っていた。
百貨店を出た理歌子は、すぐさま不動産仲介業者に電話をかけた。
仲介業者の車に乗せられ、理歌子は港区のタワーマンションの最上階に立っていた。
眼下には、東京の夜景が宝石のように広がっている。
"セキュリティは万全で、プライバシーも完璧に守られます"
理歌子は、その場で契約を決めた。
高額な値段を提示されても、彼女は眉一つ動かさない。
ブラックカードで、全額を一括で支払った。
新しい部屋の鍵を受け取った瞬間、理歌子は、この冷たい都会で、初めて自分の居場所を手に入れた気がした。
がらんとしたリビングの中央に立ち、理歌子は固く誓う。
両親の死の真相を、必ず突き止めてみせる。
彼女はスマートフォンを取り出すと、鷹司健の名前を連絡先から削除し、全ての着信を拒否する設定にした。
もう、二度と、彼に人生を掻き乱されたりはしない。