話 2
平島真理江 POV:
私は, 自嘲するように笑った. その笑いは, 涙で歪んだ顔に張り付いていた.
「子供が産めないから, 私はあなたにとって価値がない, と? 」私の声は, ひどく掠れていた. 「だから, あなたは別の女に, 子供を産ませたのね」
「何を言っているんだ」賢人の声は, 苛立っていた. 「君は僕の妻だ. 僕が誰と付き合おうと, 君には関係ないだろう. それに, 君は僕の会社にぶら下がっているんだ. 僕がいなければ, 君なんて何もできない」
「そうね. 何もできないわ」私はそう答えた. もう, 彼の言葉は, 私の心をこれ以上傷つけることはできなかった. 痛みは, すでに麻痺していた. 「だから, 離婚するのよ」
「離婚? 君が僕と離婚して, 一体どうやって生きていくんだ? 」賢人の声には, 嘲笑が混じっていた. 「君は, 社会で通用すると思っているのか? 僕の庇護がなければ, 君なんてただの役立たずだ」
「それでもいいわ」私はそう答えた. 「あなたにぶら下がって, あなたの嘘と裏切りにまみれた人生を送るくらいなら, 役立たずで構わない」
「ふん」賢人は鼻で笑った. 「僕が本気になれば, 君なんてあっという間に路頭に迷う. それでもいいのか? 」
「ええ」私の声は, 驚くほど冷静だった. 「それでもいいわ」
賢人は, しばらく沈黙した. そして, 何も言わずに電話を切った. ブツリ, と切れる回線音が, 私の耳に痛かった.
私は, ゆっくりとスマートフォンを床に置いた. 看護師さんが, 心配そうな顔で私を見ていた. 「大丈夫ですか, 平島さん? 」
私は首を横に振った. 大丈夫なわけがなかった. しかし, 同時に, これほどの安堵を感じたこともなかった.
「もうすぐ, 元夫になる人よ」私はそう答えた.
看護師さんは, 驚いた顔をした. 「そんな…ひどい人ですね」
私は何も言わなかった. ひどいとか, ひどくないとか, そんな感情は, もう私の中には残っていなかった. ただ, 空虚な空間だけが広がっていた.
私は, 久我さんに連絡を取った. 賢人との会話の内容を伝えると, 彼は「分かった. 弁護士からすぐに離婚協議書を送らせる」とだけ言った.
数日後, 賢人の元に離婚協議書が届いた. 彼は, 怒り狂って電話をかけてきた. 「何を企んでいるんだ! この条件はなんだ! 」
「あなたがサインすれば, 全てが終わるわ」私はそう答えた.
賢人は, その後も何度か電話をかけてきたが, 私は冷静に対応した. 彼は離婚に応じようとしなかった. 莉子の出産が迫っていたからだ. 彼は「赤ちゃんが生まれるまでは待ってくれ」と懇願したが, 私は一切応じなかった.
賢人の両親が, 病院にやってきたのは, それから数日後のことだった. 彼らは, 私の病室に入るなり, 私を非難した.
「真理江さん, 賢人がどんなに忙しいか, 分かっているでしょう? なぜこんな時に, 彼を困らせるような真似をするの? 」賢人の母親が, ヒステリックに叫んだ.
「そうよ. 賢人には, 今, 君以上に大切なことがあるんだ」賢人の父親も, 私を睨みつけた. 「もうすぐ, 我が家の跡継ぎが生まれるんだ. 君には, その務めを果たせなかったのだから, せめて賢人の邪魔だけはしないでくれ」
「跡継ぎ? 」私は, 二人の言葉に耳を疑った. 「莉子さんが産むのは, 賢人の子供ではないでしょう? 彼は, 人工授精で精子提供しただけだと…」
「何を言っているの! 」母親が, 私の言葉を遮った. 「賢人は, 男として, ちゃんと責任を取ったのよ! それが, 君には分からないのか! 」
私は, 二人の言葉に, 背筋が凍った. 賢人は, 私に「莉子さんが, どうしても子供を産みたいと言って, 僕が精子を提供したんだ. 人工授精だから, 肉体関係はない」と説明していた. しかし, 彼の両親の言葉は, その説明とあまりにも食い違っていた.
「あなたたちは, 知っていたのですね…」私の声は, 震えていた.
賢人の母親の顔が, わずかにこわばった. しかし, すぐに笑顔を取り戻し, 言った. 「真理江さん, 私たちは, 君の気持ちも理解しているわ. だから, 慰謝料は弾むわよ. 君が困らないように, 一生面倒を見るわ」
私は, その言葉に, 吐き気を催した. 彼らにとって, 私はただの金で解決できる問題でしかなかったのだ.
数日後, 私の両親が, 賢人の両親に呼び出されて病院にやってきた. 私の母親は, 私の顔を見るなり, 泣き崩れた.
「真理江, 頼むから, もう賢人を許してあげてちょうだい. 彼も反省しているわ. あなただって, もう若くないんだから, 離婚なんてしたら, この先どうするの? 」
私の母親の言葉は, 私の心を深く切り裂いた. 彼女は, 賢人の両親から聞いた賢人の「反省」の言葉を, 私に伝えた. 「賢人さんも, 真理江さんのことを深く愛していると言っていたわ. ただ, 一時的に心が揺らいだだけだと. どうか, もう一度チャンスをあげてほしいって」
「チャンス? 」私は, 喉の奥から絞り出すように言った. 「私は, もう何度も彼にチャンスを与えたわ. でも, 彼はその度に私を裏切った」
私の体の周りに, 見えない鎖が巻き付いているような苦しい感覚がした. 息が詰まる. 誰もが, 私を責め, 私に耐えることを強要した. 誰も, 私の痛みには目を向けなかった.
賢人は, 家族や会社の将来のために, 私に人工授精だと嘘をつき, 莉子との関係を清算することなく, 彼女に子供を産ませた. そして, 私を「子供を産めない女」と罵り, 自分を「責任感のある男」として正当化する.
私は, 賢人が私と出会った頃の家族との食事会を思い出した. 彼は, 皆の前で私を「理想の女性」と褒め称え, 愛情表現を惜しまなかった. しかし, その夜, 彼の携帯に莉子からの「赤ちゃんができた」というメッセージが届いた途端, 彼は顔色を変え, 私を置き去りにして莉子の病院へ駆けつけた.
その日の食事会は, 台無しになった. 私の両親も, 来客も, 皆が困惑していた. 私は, あの時の賢人の冷たい背中を, 決して忘れることはできなかった.
話 3
平島真理江 POV:
腹部の痛みが, 私を激しく襲った. 手術の傷口が, まるで生きているかのように脈打つ. 私は, ナースコールを押す気力もなく, ただベッドの上で蹲っていた.
その痛みの中で, 私は賢人の姿を思い出した. あれは, 莉子が私生児を産んだ直後のことだった. 私の病室と同じフロアの新生児室の前で, 賢人は莉子の隣に寄り添い, 小さな命を愛おしそうに抱き上げていた. 彼の顔には, 私が生涯, 彼から向けられたことのない, 慈愛に満ちた優しい眼差しがあった.
その時, 私は, 恐ろしい真実に気づいた. 賢人は, 私と彼の間に生まれるはずだった子供の名前を, その私生児に与えていたのだ. 私が, 何日も何日もかけて考え, 彼に提案し, 彼も「いいね」と言ってくれた, あの名前を.
私の子供は, 声もなく消え去ったのに.
彼の子供だけが, そんなにも愛されて.
退院の日, 病院のエントランスには, 賢人の家族と, 莉子と, そしてあの私生児がいた. 彼らは, ささやかな出産祝いのパーティーを開いていた. 賢人は, 終始莉子と私生児の隣に立ち, 人前で「良い夫」「良い父親」を演じていた.
彼は, 時折私の方に目をやった. その瞳には, 警告の色が宿っていた. 私が, 彼らの幸福な光景を邪魔するような真似をすれば, ただでは済まさない, と.
私の胸が, またチクチクと痛みだした. しかし, もう涙は出なかった. 感情が, 完全に麻痺してしまったようだった.
私は, この場から一刻も早く立ち去りたかった. しかし, 私が踵を返そうとしたその時, 莉子が私の前に立ちはだかった.
彼女の顔は, 以前のような怯えはどこにもなく, 勝ち誇ったような笑みを浮かべていた.
「平島さん, お元気ですか? 」莉子の声は, 蜜のように甘かったが, その瞳は私を嘲笑っていた.
私は, 何も言わなかった. 彼女の顔を見つめることさえ, 私には苦痛だった.
「もしかして, 私とあの赤ちゃんを憎んでいるのかしら? 」莉子は, 私の顔を覗き込むように言った. その言葉には, 明らかに挑発の意図があった.
私は, 重い口を開いた. 「あなたを憎む資格も, 私にはないわ」
「あら, そうでしょうか? 」莉子は, フフッと笑った. 「でも, ご存知ないでしょうけれど, あの赤ちゃん, 賢人さんの精子提供だけじゃないんですよ」
私の心臓が, ドクリ, と大きく跳ねた. 彼女の言葉の意味が, 理解できなかった.
「賢人さんと, ちゃんと肉体関係を持ったんです. あの夜, 彼はお酒を飲んでいて…」莉子の言葉は, 私の耳に, 雷鳴のように響き渡った.
私の身体が, 一瞬にして硬直した. 彼女の言葉が, 私の頭の中で, 何度も何度も反芻される.
「人工授精なんて, 私たちが上岡家と平島さんを欺くための嘘よ」莉子の顔が, 憎悪に歪んだ. 「賢人さんは, 自分が女にだらしがないことを, あなたのせいにして, あなたを利用して, 自分を正当化したかっただけなのよ」
賢人が私に言った全ての言葉が, 嘘だった. 莉子の言葉が, 私の心臓を深く抉り, 全身を震わせた. あまりの屈辱に, 私は吐きそうになった.
「あなた…! 」私の口から, 絞り出すような声が出た.
その時, 莉子の手が, 突然私の頬を掴んだ. そして, 私自身の掌で, 彼女の頬を叩きつけた.
パチン!
乾いた音が, 病院の静寂な空間に響き渡った.
莉子は, その場に崩れ落ちた. そして, 大声で泣き叫んだ. 「きゃあああ! ひどい! なぜこんなことをするんですか! この子は, この子は何も悪くないのに! 」
その声に, 賢人が駆けつけてきた. 彼の顔は, 怒りで紅潮していた.
「真理江! 君は, 一体何を…! 」賢人の声は, 私を責め立てた.
彼は, 莉子を抱き起こし, 私のことを睨みつけた. その瞳には, 私への憎悪と, 深い失望が宿っていた.
私は, 彼の顔を見つめた. 私の頬は, 彼の掌で叩かれた痛みで, ジンジンと熱を持っていた. しかし, それ以上に, 心臓が冷たくなっていた.
「賢人…」私は, 何かを言おうとしたが, 彼の言葉がそれを遮った.
「もういい! 君の言い訳など聞きたくない! 」彼はそう叫んだ. 「君は, 僕たちの幸せを壊すことしか考えていないのか! 」
その瞬間, 彼の右手が, 私の頬を強く叩きつけた.
パチン!
耳鳴りがした. 視界が, 一瞬にして真っ白になった.
私は, その場に立ち尽くした. 痛みは, もはや感じなかった. 世界が, 突然静寂に包まれたようだった. 私の心臓は, もう何の感情も抱かなかった. 悲しみも, 憎しみも, 痛みも.
ただ, 冷たい決意だけが, 私の心に深く刻み込まれていた.
私は, 賢人の顔を見つめた. そして, 掠れた声で, しかしはっきりと, 言った. 「賢人. 私たち, 離婚しましょう. 今すぐ, ここで」
賢人は, 呆然とした顔で私を見ていた. そして, やがて嘲笑を浮かべた. 「またその言葉か. 君は, 本当に僕の気を引くのが好きだな」