話 2
遠野詩織 POV:
ほとんどの人は、遠野詩織が私の本名ではないことを知らない。
それは五年前、蓮とのよりシンプルで、より平凡な生活のために私が選んだ名前だった。
私の本当の名前は西園寺暁。
旧家の名声と絶大な権力を背負う、西園寺財閥の唯一の相続人。
私は彼のために、その全てを隠してきた。
私たちの愛だけで十分だと信じて。
あの夜、私の中の何かが壊れた。
おとぎ話を信じていた少女、男のために自分を変えようとした女は、あの冷たいホテルの廊下で死んだ。
彼女の代わりに、裏切りの灰の中から新しい女が生まれた。
私は深呼吸をし、スマートフォンの画面を指が飛ぶように滑らせ、匿名のメッセージに返信した。
「興味あります」
返事は即座にきた。
「いいだろう。私は今後二ヶ月、別の都市にいる。直接会うことはまだできない。だが、今から始めることはできる。乗るか?」
それは謎と距離の上に築かれた、奇妙な提案だった。
しかし今の私には、謎は暴かれた残忍な真実よりも安全に感じられた。
距離は盾のように思えた。
「はい」
私は打ち込んだ。
「でも、一つ条件があります」
「言ってみろ」
「この取引を始める相手は、遠野詩織ではありません。西園寺暁です」
相手の返信には一瞬の間があったが、その驚きは画面越しにも伝わってきた。
「お望みのままに、暁様」
その夜、私は家に帰らなかった。
蓮がいつも嫌っていた、騒がしくて混雑したバーへ行った。
痛みの輪郭がぼやけるまで飲み、そして、婚約者ではない男と暮らすあのアパートへ、千鳥足で戻った。
陸は私を待っていた。
その顔には心配そうな愛情の仮面が貼り付いていたが、今の私にはそれが肌を這うような不快感しか与えなかった。
「詩織、どこに行ってたんだ?こんなに遅くまで。それに、飲んでるじゃないか」
彼が私に手を伸ばしたので、私は身をすくめて避けた。
視線は自然と彼の手首に落ちる。
パテック・フィリップは着けていない。
当たり前だ。
あれは新しい持ち主の元にある。
その事実は、私が今知っている全てを、小さく、鋭く裏付けていた。
「私に触らないで」
私の声は、意図した以上に冷たかった。
彼は傷ついたような顔をした。
心配する婚約者の完璧な演技。
「ハニー、どうしたんだ?」
彼は一歩近づき、私の顔を両手で包み込んだ。
「君の目は、輝いている時が一番好きなんだ。こんな風に悲しそうなのは嫌だ」
彼の言葉は毒矢だった。
ヴィラで蓮が言ったことの、直接的な反響。
胃がねじくれた。
彼は私の目が欲しいのだ。
盗むつもりのものを、褒め称えている。
私は彼の感触に耐えた。
体は反発で硬直している。
彼は身を乗り出し、私にキスをした。
それは柔らかく、優しいキスで、蓮のキスの完璧な模倣だった。
まるで幽霊にキスされているようだった。
かつて愛した男の顔をしながら、見知らぬ男の魂を宿した幻影。
それは全く、冒涜的なほどに間違っていた。
彼の唇が離れた瞬間、私は身を引いた。
「疲れたわ。もう寝る」
私は振り返らずに自分の部屋へ歩いた。
彼の戸惑った視線が背中に突き刺さるのを感じながら。
ドアを閉め、それに寄りかかると、全身が怒りと嫌悪の入り混じった感情で震えた。
ドアの向こう側で、彼が小さく笑うのが聞こえた。
私が聞こえないと思った瞬間、彼の演技は終わった。
それは心配する恋人の声ではなかった。
狩りを楽しむ捕食者の、低く、満足げなつぶやきだった。
「思ったより楽しいな、これ」
彼がそう呟くのが聞こえた。
翌朝、私はクローゼットを開け、蓮が好んだベージュ、グレー、ネイビーブルーの服の列を押し分けた。
一番奥に、探していたものを見つけた。
何年も着ていなかった、鮮やかな血のような赤いドレス。
それに袖を通し、彼が嫌っていた深い赤の口紅を塗り、部屋を出た。
陸はリビングにいた。
蓮の仕立ての良いスーツを着ている。
彼は新聞から顔を上げ、目を見開いた。
「何を着てるんだ?」
彼は眉をひそめて尋ねた。
「ドレスよ」
私は平坦に答えた。
彼は立ち上がってこちらへ歩み寄り、そのシルクの生地に手を伸ばした。
「それは…派手すぎる。俺が選んでおいた白いやつに着替えてこい。今日は会長のお見舞いに行くんだぞ」
彼は私を寝室の方へ導こうとした。
その手つきは優しく、しかし断固とした命令だった。
以前の詩織なら、一言も言わずに従っただろう。
私は彼の手を叩き落とした。
「嫌よ」
私の声ははっきりと、そして揺るぎなかった。
「これがいいの」
彼の忍耐の仮面が一瞬だけ剥がれた。
苛立ちの閃きが顔をよぎったが、すぐに穏やかな笑顔に戻った。
「詩織、わがままを言うな」
「嫌だと言ったわ」
私たちは緊張した沈黙の中、一条家の本邸へと車を走らせた。
その屋敷は相変わらず壮大で威圧的で、私はいつも自分が部外者であるかのように感じていた場所だった。
歓迎の期限が切れかかっている客人のように。
壮麗な玄関ホールに足を踏み入れたちょうどその時、香織がメイドに付き添われて階段の上に現れた。
彼女は純白のドレスを身にまとい、顔は青白く無垢で、目にはまだ包帯が巻かれていた。
私が執事に挨拶する声を聞いた瞬間、彼女の顔は怒りの仮面に歪んだ。
「この女!」
彼女は金切り声を上げた。
その声は突然、力強く鋭かった。
「ここで何してるのよ!」
私が反応する前に、彼女は飛びかかってきた。
目が見えない人間とは思えないほどの速さと確実さで動き、近くのテーブルにあった重いクリスタルの花瓶を手にした。
それを高く掲げ、私の頭に叩きつけた。
目の奥で痛みが爆発した。
世界がめまいのように揺らぐ。
私はよろめき、手を頭にやった。
手を離すと、指は温かく、黒い血でぬるぬるしていた。
「一体どうしたっていうのよ!」
私は叫んだ。
声は衝撃と怒りで震えていた。
彼女に向かって身を守ろうと動き始めたが、突然、蓮がそこにいた。
本物の蓮が。
彼は稲妻のように動き、私と香織の間に割って入り、腕で私の行く手を阻んだ。
「詩織、やめろ!」
彼は命じた。
その声は氷の刃だった。
話 3
遠野詩織 POV:
「蓮さん?」
陸はうろたえ、瓜二つの兄を見て顔を青ざめさせた。
「どうしてここに?てっきり…」
「ここは俺の家だ」
蓮は彼を遮り、その冷たい目は私だけに注がれていた。
彼は双子の弟を一瞥すらしなかった。
まるで陸がただの家具であるかのように。
「彼女が香織を襲おうとした」
蓮は感情のこもらない声で断言した。
「私を襲ったのは彼女よ!」
私は言い返した。
こめかみを流れる血を指差しながら。
「彼女は狂ってる!謝罪させるべきよ」
頭の傷はずきずきと、深く焼けつくように痛んだ。
しかし、屈辱の方がもっと痛かった。
血を流しているのは私、暴行されたのは私なのに、彼はまるで私が悪者であるかのように私を見ていた。
私の怪我を見ても、彼の視線は平坦で、動揺ひとつなかった。
一方、香織は床に崩れ落ち、嗚咽で体を震わせていた。
「お兄様、怖かった」
彼女はか細い声で言い、盲目的に手を伸ばした。
「彼女の声が聞こえて、それで…お兄様が傷つけられると思ったの。ごめんなさい、ただあなたを守りたかっただけなの」
蓮の氷のような表情は、すぐに溶けていった。
彼は彼女のそばにひざまずき、まるで私の胃が締め付けられるような優しさで彼女を腕に抱き寄せた。
彼は優しく彼女を揺さぶり、安心させるように囁いた。
「大丈夫だ、香織。俺がここにいる。誰も君を傷つけさせない」
私は彼らを見ていた。
苦い笑いが喉の奥からこみ上げてくる。
何年も前、私が家の階段から滑り落ちた時のことを思い出した。
足首をひどく捻挫し、痛みは耐え難いものだった。
蓮はただ階段の上で無表情に立ち尽くし、もっと注意するようにと言ってから、執事を呼んで私を助けさせた。
彼の優しさ、彼の気遣い、彼の温もり…それは決して私のためのものではなかった。
それは彼女のためだけに取っておかれたものだった。
もう一秒たりとも見ていられなかった。
「帰るわ」
私は嫌悪感に満ちた声で言った。
背を向けて歩き出そうとしたが、蓮の声が私を冷たく引き止めた。
「どこへも行かせない」
彼は再び立ち上がり、その長身で出口を塞いでいた。
香織はまだ彼にしがみつき、彼の胸に顔を埋めている。
「お前は香織を押した」
彼は低い唸り声で言った。
「一条家の家法に従い、罰を受けてもらう」
「罰?」
私は信じられないという顔で彼を見つめた。
「怪我をしているのは私よ!罰せられるべきなのは彼女の方でしょう!」
香織は彼の腕の後ろから顔を覗かせた。
「お兄様、彼女を先祖代々の広間でひざまずかせて。鞭打ち二十回よ。彼女には自分の立場を思い知らせる必要があるわ」
全身の血が凍りついた。
「あなたにそんな権利はないわ」
私は吐き捨てた。
「私はあなたたちの家族じゃない」
「来月にはそうなる」
蓮は冷ややかに言った。
「それで十分だ」
役者である陸は、心配そうな表情を装って前に出た。
彼は私がいつも持ち歩いている、小さくて使い古された革表紙のスケッチブックを掲げた。
それは私の個人的な絵で満たされており、かつての芸術家であった私の最後の名残だった。
「詩織、謝るんだ」
彼は優しい声で促した。
「君はこのスケッチブックをどれだけ大切にしているか知っているだろう。一条会長は結婚祝いとして、この鞭を君に贈った。一家における権威の象徴として。もし罰を受け入れなければ、会長はこれを…破り捨ててしまうかもしれない」
その脅迫は、重く息苦しい空気となって漂った。
あの鞭は贈り物なんかじゃない。
支配の道具だ。
そしてスケッチブックは…私の最後の魂の欠片を宿していた。
蓮はそれを知っていた。
それが私にとって本当に自分のものと言える唯一のものだと知っていた。
彼は私に選択を迫った。
私の尊厳か、私の魂か。
私の肩は敗北感に打ちひしがれて落ちた。
彼らは私を先祖代々の広間へと引きずっていった。
そこは冷たく暗い部屋で、死んだ一条家の人々の肖像画で満たされ、その描かれた瞳が静かな裁きをもって私を見ていた。
彼らは私を硬い石の床にひざまずかせた。
鞭の最初の一撃が、空気を切り裂く悪意に満ちた音を立てて、私の背中に叩きつけられた。
鋭く、電気のような痛みが全身を駆け巡った。
まるで皮膚が引き裂かれるようだった。
私は悲鳴を上げまいと唇を強く噛みしめ、自分の血の味を感じた。
もう一撃。
そして、また一撃。
痛みは凄まじく、私を焼き尽くす灼熱の炎だった。
薄いドレスは全く保護にならなかった。
一撃一撃が残忍な力で振り下ろされ、布地と肉を引き裂いていく。
十回の鞭打ちの後、男は止まった。
蓮が前に進み出た。
その顔は読み取れない仮面のようだった。
「今、自分の過ちを認めるか?」
彼は石のように冷たい声で尋ねた。
私は頭を上げた。
体は震え、背中は苦痛のキャンバスと化していた。
私は彼の視線を、反抗心に燃える自分の瞳で受け止めた。
「私は何も悪いことはしていない」
私はかすれた声で言った。
彼の顎が引き締まった。
「続けろ」
彼は鞭を持つ男に命じた。
鞭打ちは再開され、以前よりもさらに獰猛になった。
痛みは耐え難かった。
階段から落ちた時の古傷が再発し、鞭の新たな苦痛に加わって、深く耐え難い痛みが走った。
もう耐えられなかった。
「お願い」
私は懇願した。
その言葉は喉から引き裂かれるように出た。
「やめて…お願い、やめて」
しかし、蓮は私を見ようともしなかった。
彼はすでに背を向け、まだ巧みに泣きじゃくる香織を優しく導き、広間から出て行こうとしていた。
「行こう、香織」
彼は柔らかく言った。
その声は、彼が命じたばかりの暴力とはあまりにも対照的だった。
「部屋に戻してやる」
彼はこの屋敷で私にプロポーズした。
片膝をつき、私を守り、慈しみ、世の中の盾になると誓った。
彼は私に一生の愛を約束した。
彼が私を床に血を流したまま置き去りにして去っていく中、彼の約束が私の心の中で、残酷で嘲笑的なコーラスのように響き渡った。
世界は痛みの渦に溶けていった。
意識を失う前に見た最後のものは、彼の去っていく背中、究極の裏切りのシルエットだった。