話 1
夫を庇って聴力を失った私は, 国民的ピアニストである彼のゴーストライターとして影で支え続けてきた.
しかし, 奇跡的に聴力が戻った日, 私は地獄の底を覗き見てしまった.
練習室から聞こえてきたのは, 私が作った新曲に合わせて交わされる, 夫とマネージャーの卑猥な吐息と嘲笑だった.
「愛子にはもう価値がない. 耳も聞こえない, ただの役立たずの聾者だ」
夫はそう言い放ち, 私の曲を二人の「愛の曲」だと笑い合っていた.
さらに残酷だったのは, 最愛の息子・大翔の言葉だ.
「聞こえないママより, 今日子ママがいい! 」
夫だけでなく, 息子までもが私を蔑み, 新しい母親を歓迎していたのだ.
彼らは私が何も聞こえていないと信じ込み, 私の目の前で堂々と不倫をし, 私の死後の保険金で豪遊する計画まで立てていた.
私の心は音を立てて砕け散り, そして冷徹な氷へと変わった.
私は聴力が戻ったことを隠し通すことに決めた.
聾者の仮面を被り, 彼らの裏切りの証拠を全て記録し, 幼馴染の竜之介と共に, 彼らを破滅させるための「死の偽装」計画を実行に移す.
「私はもう死にたいの」
そうメッセージを送った瞬間, 私の復讐劇の幕が上がった.
第1章
愛子 POV:
「私はもう死にたいの. この世界から, 消えてしまいたい. 」
私の指は震え, 携帯の画面に一文字ずつ, まるで魂を削るかのようにメッセージを打ち込んだ. 画面の向こうにいる彼が, どんな顔をしているか容易に想像できた.
「愛子, またそんなことを言うな. 俺がいるじゃないか. 何かあったのか? 」
竜之介からの返信は, いつも通りの, 優しさと心配に満ちたものだった. 彼の声が, 文字の羅列の向こうから聞こえてくるようだった.
ここ数年, 私の心は深い井戸の底に沈んでいた. 聴力を失ってから, 私はこの家の, 高見英世という国民的ピアニストの妻という檻の中で, ただ生きる屍のようだった. 英世の愛妻家としての仮面を支え, 彼の "作品" を生み出すゴーストライターとして, 私はただ存在していた. 世界は音を失い, 私の心も色を失っていた.
「お願い, 竜之介. 私をここから連れ出して. 私の存在を, この世界から消してほしい. 」
私は彼に懇願した. 冗談ではない. 本気だった. この願いを真剣に聞いてくれるのは, 彼しかいないと知っていた.
「わかった. 愛子. 具体的な計画を立てよう. 君が望むなら, どんなことでもする. 」
彼の返信は素早かった. 躊躇など微塵もない. いつもそうだ. 竜之介は, いつだって, 私のどんな突拍子もない願いにも応えてくれた. 私の幼馴染であり, 大学の先輩. そして, 今や日本のIT業界を牽引する若きCEO. 彼が築き上げた人脈と財力があれば, 私の「死」を偽装することなど, 造作もないだろう.
計画の詳細はメッセージアプリでやり取りすることになった. 厳重なセキュリティで守られたアプリだ. 誰にも見破られない.
「愛子, 今夜は早く寝ろ. 顔色が悪いぞ. 」
突然, 扉が開く音と, 英世の声が聞こえた. 私は慌てて携帯の画面を消し, ベッドサイドテーブルに置いた. 英世はいつも私が聴力を失ってから, 声を荒げることなく, ゆっくりと, はっきりと話しかけるようにしている. その気遣いが, 今の私にはむしろ重苦しかった.
「大丈夫よ, 英世さん. 少し疲れただけ. 」
私は手話で答えた. 英世は心配そうな顔で私の隣に座り, 私の手を取った. 彼の指先が私の甲を優しく撫でる. その触れる力が, 昔とは違う. どこか, 生ぬるい温かさだ.
「最近, 大翔も心配している. もう少し, 元気を出してくれないか. 」
彼の言葉は, 私を気遣うようでいて, 常に「彼らのため」だった. 私が元気でいることが, 彼の, そして大翔の「平穏」を保つ条件なのだ. 私はいつから, こんなにも彼らにとって都合の良い存在になったのだろう.
五年前. あの事故で聴力を完全に失った日. 私は英世を庇って, トラックに跳ねられた. あの瞬間, 彼の人生が壊れることだけが怖かった. 私の聴力と引き換えに, 彼が助かった. その事実に, 当時は何の悔いもなかった.
彼が困難な時期を乗り越え, 国民的ピアニストとして再び輝くために, 私は影で彼を支え続けた. 彼の作品と呼ばれるもののほとんどは, 私の五体満足だった頃の才能の残骸だ. 作曲家としての夢を諦め, 彼のゴーストライターになった. 彼の指が奏でる音は, 私が紡いだメロディーだった.
英世は世間では「難聴の妻を支える献身的な夫」として知られていた. そのイメージが, 彼の人気を不動のものにした. 私は彼のために全てを捧げた. 私の人生の全てを. 五年間, ずっと.
それが, 私の生きる意味だった.
しかし, その意味は, ある日突然, 音と共に砕け散った.
数週間前, 私は奇跡的に聴力を取り戻した. 最初は微かなざわめきだった. それが徐々に形を成し, 音の洪水となって私の耳に流れ込んできた. 五年ぶりの「音のある世界」は, あまりにも鮮やかで, そして, あまりにも残酷だった.
その日, 私は英世を驚かせようと, 彼の練習室に向かった. 彼のマネージャーである中川今日子も一緒にいるはずだ. 練習室の扉の隙間から, 聞き慣れたピアノの旋律が聞こえてきた. それは, 私が数日前に書き上げたばかりの新曲だった.
期待に胸を膨らませ, 扉に手をかけた, その時だった.
「ひでよさん, 最高よ. まさか, 愛子から盗んだ曲が, こんなにも私とひでよさんの『愛の曲』になるなんて. 」
今日子の甘ったるい声が, 私の耳に直接響いた. 私はその場に立ちすくんだ. 英世の返事も聞こえた.
「ああ, 愛子にはもう価値がない. 耳も聞こえない, ただの役立たずの聾者だ. 」
彼はそう言って, 今日子を抱き寄せた. 二人の卑猥な吐息が, 私が創造した美しいメロディーの上で交錯する. 私の心臓が, まるで誰かに鷲掴みにされたかのように激しく痛んだ. 息ができない. 身体中の血が, 凍り付くようだった.
私はその場から逃げ出した. 足がもつれて, 廊下の壁にぶつかった. 痛みを感じる暇もなく, ただ走った. 自分の部屋に戻り, 鍵をかけた. 荒い呼吸を整えようと, 何度も深呼吸を繰り返した. 音が聞こえる. 聞こえてしまう.
彼らの醜い声が. 彼らの汚れた吐息が.
私の作った曲が, 今日子と英世の「愛の曲」だと? 私が聴力を失ったことを嘲笑し, 「役立たずの聾者」だと罵る?
私の世界は, 音を取り戻した瞬間に, 粉々に砕け散った.
「ママ, この曲, 今日子ママとパパの愛の曲なんだって! 」
その夜, リビングで大翔が, 私が作ったあの新曲を無邪気に弾いていた. まだ拙い指使いで, それでも懸命に. 今日子が隣で優しく微笑み, 英世は満足げに彼らの頭を撫でていた.
「大翔, そうだよ. この曲は, パパと今日子おばさんの愛の曲なんだ. 」
今日子の言葉に, 大翔は誇らしげに頷いた.
「聞こえないママより, 今日子ママがいい! 」
大翔のその一言は, 私に残された最後の希望の光を, 完全に打ち砕いた. 私の心は, その瞬間に完全に壊れた.
私は聴力が戻ったことを隠し続けることにした. 聾者の仮面を被り, 彼らの醜い裏切りを, 一つ残らず, この新しい耳で, この目で, 記録することにした. 偽りの愛, 偽りの家族. その証拠を, 私は冷徹に集め続けた.
彼らの裏切りは, 私に復讐という新たな生きる意味を与えた.
「英世さん, 私, 疲れてしまって... 」
私は手話で, 英世の手をそっと振り払った. 私の手は, もう彼の温もりを求めていない. 彼の指の感触が, あまりにも不潔に感じられた.
彼の顔に, 微かな不満の色が浮かんだ. しかし, すぐにそれを隠し, 作り笑顔を浮かべた.
「そうか, 無理はいけない. ゆっくり休んでくれ. 」
彼はそう言って, 私の額に軽いキスをした. そのキスが, かつては愛の証だったのに, 今はただの, 裏切りの残骸にしか感じられない. 彼の唇に残る, 今日子の口紅の色が, 私の視界を汚した.
「愛子, 君を愛している. 君と出会ってから, 僕の人生は輝きを増したんだ. 君は僕のミューズだよ. 」
昔, 彼はそう言った. 出会った頃の彼は, 繊細で, 純粋で, 私を心から愛してくれていた. 私に才能があると信じ, 世界に羽ばたかせようとしてくれた. あの頃の愛は, 確かに本物だった. でも, 今はどうだ.
私の心は, 彼への愛も, 大翔への母性も, 完全に失っていた.
私の偽装死計画は, もう止められない.
あなたたちが私にしたことを, 私は決して忘れない.
それは, 私の新しい人生の始まりであり, あなたたちの終わりを告げる序曲となるだろう.
「私はもう死にたいの. この世界から, 消えてしまいたい. 」
私の指は震え, 携帯の画面に一文字ずつ, まるで魂を削るかのようにメッセージを打ち込んだ. 画面の向こうにいる彼が, どんな顔をしているか容易に想像できた.
「愛子, またそんなことを言うな. 俺がいるじゃないか. 何かあったのか? 」
竜之介からの返信は, いつも通りの, 優しさと心配に満ちたものだった. 彼の声が, 文字の羅列の向こうから聞こえてくるようだった.
ここ数年, 私の心は深い井戸の底に沈んでいた. 聴力を失ってから, 私はこの家の, 高見英世という国民的ピアニストの妻という檻の中で, ただ生きる屍のようだった. 英世の愛妻家としての仮面を支え, 彼の "作品" を生み出すゴーストライターとして, 私はただ存在していた. 世界は音を失い, 私の心も色を失っていた.
「お願い, 竜之介. 私をここから連れ出して. 私の存在を, この世界から消してほしい. 」
私は彼に懇願した. 冗談ではない. 本気だった. この願いを真剣に聞いてくれるのは, 彼しかいないと知っていた.
「わかった. 愛子. 具体的な計画を立てよう. 君が望むなら, どんなことでもする. 」
彼の返信は素早かった. 躊躇など微塵もない. いつもそうだ. 竜之介は, いつだって, 私のどんな突拍子もない願いにも応えてくれた. 私の幼馴染であり, 大学の先輩. そして, 今や日本のIT業界を牽引する若きCEO. 彼が築き上げた人脈と財力があれば, 私の「死」を偽装することなど, 造作もないだろう.
計画の詳細はメッセージアプリでやり取りすることになった. 厳重なセキュリティで守られたアプリだ. 誰にも見破られない.
「愛子, 今夜は早く寝ろ. 顔色が悪いぞ. 」
突然, 扉が開く音と, 英世の声が聞こえた. 私は慌てて携帯の画面を消し, ベッドサイドテーブルに置いた. 英世はいつも私が聴力を失ってから, 声を荒げることなく, ゆっくりと, はっきりと話しかけるようにしている. その気遣いが, 今の私にはむしろ重苦しかった.
「大丈夫よ, 英世さん. 少し疲れただけ. 」
私は手話で答えた. 英世は心配そうな顔で私の隣に座り, 私の手を取った. 彼の指先が私の甲を優しく撫でる. その触れる力が, 昔とは違う. どこか, 生ぬるい温かさだ.
「最近, 大翔も心配している. もう少し, 元気を出してくれないか. 」
彼の言葉は, 私を気遣うようでいて, 常に「彼らのため」だった. 私が元気でいることが, 彼の, そして大翔の「平穏」を保つ条件なのだ. 私はいつから, こんなにも彼らにとって都合の良い存在になったのだろう.
五年前. あの事故で聴力を完全に失った日. 私は英世を庇って, トラックに跳ねられた. あの瞬間, 彼の人生が壊れることだけが怖かった. 私の聴力と引き換えに, 彼が助かった. その事実に, 当時は何の悔いもなかった.
彼が困難な時期を乗り越え, 国民的ピアニストとして再び輝くために, 私は影で彼を支え続けた. 彼の作品と呼ばれるもののほとんどは, 私の五体満足だった頃の才能の残骸だ. 作曲家としての夢を諦め, 彼のゴーストライターになった. 彼の指が奏でる音は, 私が紡いだメロディーだった.
英世は世間では「難聴の妻を支える献身的な夫」として知られていた. そのイメージが, 彼の人気を不動のものにした. 私は彼のために全てを捧げた. 私の人生の全てを. 五年間, ずっと.
それが, 私の生きる意味だった.
しかし, その意味は, ある日突然, 音と共に砕け散った.
数週間前, 私は奇跡的に聴力を取り戻した. 最初は微かなざわめきだった. それが徐々に形を成し, 音の洪水となって私の耳に流れ込んできた. 五年ぶりの「音のある世界」は, あまりにも鮮やかで, そして, あまりにも残酷だった.
その日, 私は英世を驚かせようと, 彼の練習室に向かった. 彼のマネージャーである中川今日子も一緒にいるはずだ. 練習室の扉の隙間から, 聞き慣れたピアノの旋律が聞こえてきた. それは, 私が数日前に書き上げたばかりの新曲だった.
期待に胸を膨らませ, 扉に手をかけた, その時だった.
「ひでよさん, 最高よ. まさか, 愛子から盗んだ曲が, こんなにも私とひでよさんの『愛の曲』になるなんて. 」
今日子の甘ったるい声が, 私の耳に直接響いた. 私はその場に立ちすくんだ. 英世の返事も聞こえた.
「ああ, 愛子にはもう価値がない. 耳も聞こえない, ただの役立たずの聾者だ. 」
彼はそう言って, 今日子を抱き寄せた. 二人の卑猥な吐息が, 私が創造した美しいメロディーの上で交錯する. 私の心臓が, まるで誰かに鷲掴みにされたかのように激しく痛んだ. 息ができない. 身体中の血が, 凍り付くようだった.
私はその場から逃げ出した. 足がもつれて, 廊下の壁にぶつかった. 痛みを感じる暇もなく, ただ走った. 自分の部屋に戻り, 鍵をかけた. 荒い呼吸を整えようと, 何度も深呼吸を繰り返した. 音が聞こえる. 聞こえてしまう.
彼らの醜い声が. 彼らの汚れた吐息が.
私の作った曲が, 今日子と英世の「愛の曲」だと? 私が聴力を失ったことを嘲笑し, 「役立たずの聾者」だと罵る?
私の世界は, 音を取り戻した瞬間に, 粉々に砕け散った.
「ママ, この曲, 今日子ママとパパの愛の曲なんだって! 」
その夜, リビングで大翔が, 私が作ったあの新曲を無邪気に弾いていた. まだ拙い指使いで, それでも懸命に. 今日子が隣で優しく微笑み, 英世は満足げに彼らの頭を撫でていた.
「大翔, そうだよ. この曲は, パパと今日子おばさんの愛の曲なんだ. 」
今日子の言葉に, 大翔は誇らしげに頷いた.
「聞こえないママより, 今日子ママがいい! 」
大翔のその一言は, 私に残された最後の希望の光を, 完全に打ち砕いた. 私の心は, その瞬間に完全に壊れた.
私は聴力が戻ったことを隠し続けることにした. 聾者の仮面を被り, 彼らの醜い裏切りを, 一つ残らず, この新しい耳で, この目で, 記録することにした. 偽りの愛, 偽りの家族. その証拠を, 私は冷徹に集め続けた.
彼らの裏切りは, 私に復讐という新たな生きる意味を与えた.
「英世さん, 私, 疲れてしまって... 」
私は手話で, 英世の手をそっと振り払った. 私の手は, もう彼の温もりを求めていない. 彼の指の感触が, あまりにも不潔に感じられた.
彼の顔に, 微かな不満の色が浮かんだ. しかし, すぐにそれを隠し, 作り笑顔を浮かべた.
「そうか, 無理はいけない. ゆっくり休んでくれ. 」
彼はそう言って, 私の額に軽いキスをした. そのキスが, かつては愛の証だったのに, 今はただの, 裏切りの残骸にしか感じられない. 彼の唇に残る, 今日子の口紅の色が, 私の視界を汚した.
「愛子, 君を愛している. 君と出会ってから, 僕の人生は輝きを増したんだ. 君は僕のミューズだよ. 」
昔, 彼はそう言った. 出会った頃の彼は, 繊細で, 純粋で, 私を心から愛してくれていた. 私に才能があると信じ, 世界に羽ばたかせようとしてくれた. あの頃の愛は, 確かに本物だった. でも, 今はどうだ.
私の心は, 彼への愛も, 大翔への母性も, 完全に失っていた.
私の偽装死計画は, もう止められない.
あなたたちが私にしたことを, 私は決して忘れない.
それは, 私の新しい人生の始まりであり, あなたたちの終わりを告げる序曲となるだろう.
話 2
愛子 POV:
「愛子, どうしたんだ? 元気がないようだが. 」
英世の声が, 私の耳朶を打った. 彼は心配そうに私の顔を覗き込む. 昨夜, 私が手話で「疲れた」と伝えたことに対して, 彼はまだ何か言いたげだった. 彼の視線は, 私の顔から, 私が避けている手へと移る.
「大丈夫よ. 少し, 考え事をしていただけ. 」
私は手話で答えた. 声を出さないのは, 英世が私の聴力が戻ったことに気づかないようにするためだ. 私の口から声が出ないように, 私は何年もかけて手話を完璧にマスターした. 今, それが最高の武器となっている.
「無理しなくていい. 君は僕の, 僕たちの宝物だ. 君が健康でいてくれるのが一番だ. 」
英世はそう言って, 私の手を握ろうとした. 私は反射的に身を引いた. 彼の表情に一瞬, 困惑の色が浮かぶ. 私はそれを, 見逃さなかった.
「ちょっと, 気分が悪くて. 手話で伝えるのも, 少し疲れてしまうわ. 」
私は嘘をついた. 彼の顔に, 安堵の色が広がる. 彼は私の身体を気遣っているのではない. 私が不機嫌になる理由が, 「彼らのせいではない」ということに安心しているだけだ.
「そうか, 無理はいけないな. 今日は朝食を部屋で食べるか? 」
彼は提案した. 私の目には, その言葉の裏にある「今日子を刺激したくない」という意図が透けて見えた. 私は首を横に振った.
「いいえ. みんなで食べましょう. 」
私は淡々と手話で返した. 彼の思惑通りに動くつもりはない. 私は, 彼らの「偽りの家族愛」を観察するために, この家にいるのだ.
食卓に着くと, 大翔が満面の笑みで駆け寄ってきた.
「ママ, おはよう! 」
彼は私に抱きつき, 短い腕で首を絞めるように抱きしめた. その小さな身体からは, 今日子と同じ香水の匂いがした. 私の心臓が, また鈍い痛みを訴える.
「おはよう, 大翔. 」
私は優しく彼の背中を撫でた. しかし, その手は, 彼の身体をしっかりと掴むことはできなかった. その瞬間, 大翔は私の腕からスルリと抜け出し, 今日子の膝の上に飛び乗った.
「今日子ママ, おはよう! 」
大翔は今日子の頬にキスをした. 今日子は満面の笑みで彼を抱きしめた.
私の席は, ダイニングテーブルの, 一番端だった. 英世の対角線上. 今日子と大翔は, 英世の隣に並んで座っている. まるで, 私だけが, この家族の「余計な存在」であるかのように.
「愛子さん, 気分はどう? 」
今日子が, 私に, わざとらしいほど優しい笑顔で尋ねた. 彼女の瞳の奥には, 薄い嘲りが宿っているのが見えた. 私は, 彼女が今, 内心で私を「役立たずの聾者」と見下していることを知っている.
「ええ, おかげさまで. 」
私は手話で答えた. 聞こえないふりをして, 彼女の言動を観察する. 彼らは, 私が何も知らないと思っている. それが, 滑稽で, そして, 恐ろしい.
英世は私の方を一瞥し, すぐに今日子と大翔に視線を戻した. 彼らの間には, 私には決して立ち入れない, 濃密な空気が流れていた.
「愛子さん, これ, 焼いたばかりのパンですよ. どうぞ. 」
今日子が, 私の皿に, 焼きたてのパンを置いた. 熱気を帯びたパンが, 皿の上で湯気を立てている. その匂いが, 私の胃の奥から込み上げてくる吐き気を誘った.
「ありがとう. 」
私は手話で答えた. 彼女の指先が, 英世の指先に触れるのが見えた. まるで, 私への示威行為のように.
私の視線は, 英世の左手に釘付けになった. 彼の薬指には, 私との結婚指輪が光っている. しかし, その指輪のすぐ隣, 彼の小指には, 今日子とお揃いの, シンプルなシルバーリングが嵌められていた. 昨夜, 私はそれに気づかなかった.
私の心臓が, もう一度激しく脈打つ. それは痛みではなく, 怒りだった.
彼の手は, かつて私を優しく抱きしめ, 私の髪を撫で, 私が奏でるメロディーを慈しんだ手だった. しかし, 今は, 今日子と私, 二人の女の間で, 平然と愛を弄ぶ, 汚れた手だ.
「ひでよさん, 愛子さんもいるのに, 水くさいわね. 」
今日子が, 英世の耳元で囁いた. 彼女は英世の膝に手を置き, 挑発するように私を見た. 英世は一瞬怯んだように私を見たが, すぐに今日子の腰を抱き寄せ, 唇を合わせた. 二人の舌が絡み合う音が, 私の耳に, はっきりと聞こえた.
私の胃の奥から, 熱いものが込み上げてきた. 喉が焼け付くように熱い.
「ぅ... っ」
私は手で口を覆い, 椅子から立ち上がった.
「ママ? 」
大翔が心配そうに私を見上げた.
「愛子, どうしたんだ? 」
英世が, 慌てて私に駆け寄ろうとした. しかし, 私は彼の手を振り払い, 洗面所へと駆け込んだ. トイレに顔を突っ込み, 胃の内容物を全て吐き出した. 吐いても吐いても, 吐き気は収まらない. 私の身体は, 彼らの醜い行為を, 汚れた愛を, 拒絶している.
「愛子さん, 大丈夫? 」
今日子の声が, 洗面所のドアの向こうから聞こえる. その声は, 心配と見せかけて, どこか得意げな響きを含んでいた.
「近づかないで! 」
私は思わず叫んだ. 声が出る. 私の声が, 明確に, 洗面所に響き渡る.
しかし, 彼らは, その声を聞き取れない. 私が聾者だと思っているからだ.
「愛子さん, 何を言ってるんだ? 聞こえないよ. 」
英世の声が, 重苦しく響いた. 私は壁に手をつき, 身体を起こした. 鏡に映る自分の顔は, 青白く, まるで死人のようだった.
「気分が悪いから, 一人にして. 」
私は手話で彼らに伝えた. その言葉は, 私の心からの叫びだった.
もう, あなたたちとは, 一秒たりとも同じ空間にいたくない.
英世は眉をひそめたが, 今日子に促され, 渋々といった様子で洗面所を後にした.
彼らの足音が遠ざかっていく. 私は洗面所の床に座り込み, 冷たいタイルに頬を押し付けた.
彼らの会話が, 私の脳裏に蘇る.
「愛子が死んだら保険金で豪遊しよう. 」
「この新曲は今日子に捧げる. 」
「聞こえないママより, 今日子ママがいい. 」
彼らは, 私が聴力を失ったことを利用し, 私の才能を奪い, 私の人生を食い物にしてきた. そして今, 私の死を望み, 私を嘲笑っている.
私は鏡の中の自分を見つめた.
その瞳には, もう昔の輝きはない. ただ, 燃え盛るような, 冷たい炎だけが宿っていた.
かつて, 英世は私に言った.
「君の音楽は, 僕の魂だ. 君がいなければ, 僕は何もできない. 」
彼は私を「ミューズ」と呼び, 私の才能を崇拝した.
高級なドレス, 豪華な宝石, 彼がプレゼントしてくれたものは数えきれない.
英世は, 私を溺愛しているように見えた. しかし, それは, 私という存在を通して, 彼自身を飾り立てるためのものだった. 彼は私の才能を, 自分の付属品としてしか見ていなかったのだ.
英世は自分に都合の良い「愛子」だけを愛している.
そして, その「愛子」が, もう存在しないことを, 彼は知らない.
私は立ち上がり, 洗面台の蛇口をひねった. 冷たい水が, 私の手に, 顔に, 流れ落ちる. この冷たさが, 私の心を研ぎ澄ませていく.
復讐の, 始まりだ.
話 3
愛子 POV:
シャワーの音が止むと, すぐに扉が開く音がした. 私はバスタオルで髪を拭きながら, 寝室のベッドに座った. 英世が, 白いバスローブを羽織って入ってきた.
「愛子, 大丈夫か? まだ気分が悪いのか? 」
英世は心配そうな顔で私の隣に座り, 私の肩を抱いた. 彼の肌の温かさが, 私にはまるで毒のように感じられる. 吐き気が込み上げてくるのを必死で抑え込んだ.
「ええ, もう大丈夫よ. 」
私は手話で答えた. 彼の腕の中で, 私は硬く身体を強張らせた. その抵抗を, 彼は「まだ具合が悪いせいか」と解釈しているようだった. 彼は私の額に優しくキスをした.
その時, 彼の携帯が震えた. ベッドサイドテーブルに置かれた携帯の画面が, 明るく光る. 英世がちらりと画面に目をやった.
中川今日子.
そして, その下には, 今日子からのメッセージが表示されていた.
「ひでよさん, 早く来て. 私, 寂しい... 」
メッセージと共に, 今日子の自撮り写真が送られてきていた. ベッドの上で, 肌も露わに, 甘えるような表情を浮かべている.
英世は一瞬, 顔色を変えた. 彼は慌てて携帯を裏返したが, 私がすでにその写真とメッセージを目にしていることに気づいていない.
「誰からだ? 」
私は手話で尋ねた. 英世は焦ったように答える.
「ああ, マネージャーからだよ. 明日の打ち合わせの確認だ. 」
彼は顔色一つ変えずに, 嘘をついた. その嘘は, あまりにも薄っぺらく, 私の心に何の感情も呼び起こさない.
「そう. 」
私は短く答えた. 英世はほっとしたように息をついた. その瞬間, 彼の携帯が再び震えた. 今度は, メッセージではなく, 着信だ. 画面には, やはり今日子の名前が表示されている.
英世は私を抱きしめたまま, その着信を無視した. しかし, 携帯は鳴り止まない. 今日子の執拗さが, 私の脳裏に蘇る. 彼女は, 英世を私から奪おうと, 常に私を挑発してきた.
英世が私にしがみつく力が, 少し強くなった. それは, 私を愛しているからではない. 今日子からの電話を無視することで, 私への「忠誠心」を示そうとしているのだ.
しかし, 彼の偽りの行動は, 私には何の価値もない.
数秒後, 英世が私の身体から離れた.
「愛子, 僕は少し仕事の電話に出てくる. 君は先に休んでくれ. 」
彼はそう言って, 携帯を手に部屋を飛び出した. その背中には, 焦りと, 今日子への執着が透けて見えた. 私はベッドの上で, ただ静かに彼の足音が遠ざかるのを待った.
彼の足音が完全に消え, 家の中が静まり返った頃, 私はベッドからゆっくりと降りた. 私は寝室のドアをそっと開け, 廊下に出た. 階下から, 英世の声が聞こえてくる. 彼はリビングではなく, 奥の部屋へと向かったようだ.
奥の部屋. それは, 五年前に英世が趣味の音楽鑑賞のために作った, 防音室だ. 私が聴力を失ってからは, ほとんど使われていなかったはずの部屋だ.
私は音を立てないように, 階段を降りていった. 足元が床と擦れる微かな音さえ, 今ははっきりと聞こえる. 私は聞こえるようになった耳を最大限に活かし, 彼らの会話を聞き漏らさないように集中した.
防音室の扉の向こうから, 英世と今日子の声が聞こえてきた.
「今日子, どうしたんだ? そんなに慌てて. 」
英世の戸惑った声.
「ひでよさん, 愛子さんが... あの, 愛子さんの目が, 私を見ていたわ. まるで, 全てを知っているかのように. 」
今日子の震える声が聞こえた.
「まさか. 愛子は耳が聞こえないんだ. それに, 彼女は君たちを疑うような女じゃない. 」
英世はそう言ったが, その声には, 明らかに動揺が混じっていた.
私が聴力を失ってから, 今日子は英世と私を繋ぐ「架け橋」として, この家に頻繁に出入りするようになっていた. 最初は, 私の手話の通訳や, 医者との予約の調整など, 英世が不在の私の世話を焼く名目で. しかし, いつの間にか, 彼女は英世の「秘書」となり, そして, 彼の「愛人」となっていた.
そして, この防音室は, いつの間にか彼らの密会の場所となっていたのだ. 私が聴力を失って以来, この部屋は彼らの愛の巣となった.
私は, そのことに, 今ようやく気づいた.
私の心に, 激しい怒りが込み上げてきた. 長年, 聾者として生きてきた私をあざ笑い, この家で堂々と不貞を働いていたのか.
私は震える手で, 防音室のドアノブを掴んだ. 開けようとした, その時, 背後から物音がした.
「奥様, どうなさいましたか? 」
家政婦の声だ. 私は慌てて手を離し, 振り返った. 家政婦は怪訝な顔で私を見ている.
「いや, なんでもないわ. ただ, 喉が渇いて... 」
私は手話で答えた. 家政婦はすぐに飲み物を用意しようと, キッチンへと向かった. その隙に, 私は再び防音室の扉に向き直った. しかし, 扉が開くことはなかった.
「愛子, こんなところで何をしているんだ? 」
英世が, 防音室から出てきた. 彼の顔は青ざめ, 目には焦りの色が浮かんでいる. 彼の後ろには, 乱れた髪と服を直す今日子の姿があった.
「英世さん... 今日子さん... どうしたの? 」
私は手話で尋ねた. 聞こえないふりをして, 彼らの動揺を観察する.
「愛子さん, 私たちは... その, 明日の打ち合わせの最終確認をしていたんだ. 」
英世が, たどたどしく答えた. 今日子も慌てて頷く.
「そうよ, 愛子さん. 明日のコンサートの選曲について, ひでよさんと真剣に話し合っていたの. 」
今日子の声は, 震えていた. 彼女の表情には, 恐怖と, そして, 私への敵意が入り混じっていた.
「そうだったのね. ごめんなさい, 邪魔をしてしまったわ. 」
私は手話で答えた. 英世は安堵のため息をついた. 彼は私の身体を抱き寄せ, 私の耳元で囁いた.
「大丈夫だよ, 愛子. 君が元気でいてくれるなら, それでいいんだ. 」
そう言って, 彼は私を抱きかかえ, ゆっくりと階段を上り, 寝室へと連れて行った. 彼の腕の中で, 私は何も言わずに身を任せた. しかし, 私の心は, 彼への憎悪で, 激しく燃え上がっていた.
寝室に着くと, 英世は私をベッドに下ろした.
「愛子, もう遅い. ゆっくり休んでくれ. 」
彼はそう言って, 部屋の明かりを消した. 私は目を閉じ, 寝たふりをした. 彼が部屋を出て行く足音が聞こえる. 扉が閉まる音. そして, 数分後, 再び防音室の扉が開く音がした. 彼らは, 私が眠ったと確信し, 再び密会を始めたのだ.
「ひでよさん, 愛子さん, もしかして, 全部聞こえてるんじゃないかしら? 」
今日子の声が, 防音室の扉の向こうから聞こえてくる.
「まさか. 愛子は耳が聞こえないんだ. それに, 彼女は君たちを疑うような女じゃない. 」
英世の声は, 最初よりもずっと落ち着いていた. 彼は, 私が何も知らないと, 心の底から信じているのだろう.
その時, 寝室の扉が再び開いた. 私は思わず, 目を開けた. そこには, 今日子が立っていた. 彼女は私をじっと見つめている. そして, ゆっくりと, 私のベッドに近づいてきた.
「愛子さん, まだ起きてたの? 」
今日子が, 私の耳元で囁いた. その声は, 甘くとろけるようでありながら, どこか冷たかった.
「ひでよさん, 愛子さんはまだ寝てないみたいよ. 」
今日子は, 防音室に向かって叫んだ. その声は, 私への挑発だ.
英世が慌てて防音室から出てきた. 彼は今日子を睨みつけた.
「今日子, 何をバカなことを言ってるんだ. 愛子は寝ているんだ. 」
「ひでよさん, 愛子さんはまだ寝てないわ. それに, 愛子さんは私たちが話していることを, 全部聞いているんじゃないかしら? 」
今日子は, 私の耳元で, さらに挑発的な言葉を囁いた.
「君は, そんなに愛子を追い詰めたいのか? 愛子は耳が聞こえないんだぞ. 」
英世は, 今日子を睨みつけた. しかし, 今日子は, 怯むことなく, 私にさらに近づいてきた. 彼女の顔が, 私の顔のすぐ近くにある.
「愛子さん, きっとあなたが耳が聞こえないから, 私たちの愛の音が聞こえないのね. 」
今日子はそう言って, 私の額にキスをした. そのキスは, まるで毒を塗られたかのように冷たく, 私の身体を震わせた.
その瞬間, 英世が今日子を突き飛ばした.
「今日子! いい加減にしろ! 」
英世は怒鳴った. しかし, 今日子は, 怯むことなく, 英世の腕を掴んだ.
「ひでよさん, 私を愛してるんでしょ? だったら, 愛子さんを捨てて, 私と結婚して. 」
今日子はそう言って, 英世に抱きついた. 二人の身体が密着する. その光景が, 私の目には, あまりにも醜く映った.
私の耳には, 彼らの吐息が, 甘ったるい声が, そして, 卑猥な摩擦音が, はっきりと聞こえてくる. 私の目に, 彼らの絡み合う唇が, 身体が, 焼き付くように映る.
私は, もう, 限界だった.
私の目から, 熱い涙が流れ落ちた. しかし, その涙は, 悲しみからではない. 憎しみと, そして, 深い絶望からだった.
ベッドサイドテーブルに置かれた冷たい水が, 私の視界に入った. 私はそのグラスを掴み, 一気に飲み干した. 冷たい水が, 私の喉を, 胃を, そして, 心の奥底を冷やしていく.
私は, もう泣かない.
あなたたちへの復讐が, 私に残された唯一の道だ.