話 2
恋夏がようやく我に返ると、背筋に冷たいものが走った。次の瞬間、ソファに崩れ落ちるように倒れ込み、「ああ、痛い……足が……!」と呻いた。
だが、長谷川会長の第一声は怒声ではなく、どこか後ろめたさを滲ませたものだった。「絵渡、お前の妹はまだ子どもなんだ。今回だけは大目に見てやってくれ...」
最近、こればかり聞かされていた。もううんざりだった。
「もちろん。犬に噛まれたからって、こっちも噛み返すほど野蛮じゃないわ。……まあ、犬を叩くにも飼い主の顔を伺うわよね?」
絵渡は鼻先で笑うと、鞄をきっちり閉じ、背を向けた。
あまりにも毅然としたその背中に、三人の顔色が一瞬で凍りついた
玄関にはすでに運転手が待機していたが、中の揉め事までは知らない。絵渡が無言で通り過ぎても、一礼すらしなかった。恋夏が戻ってきてからというもの、家の使用人たちも、彼女をただの「養女」としか見なくなったのだ。
絵渡は運転手に目もくれず、そのまま外へ出ていく。
慌てた様子で運転手が声をかける。「お嬢様、会長がお送りするようにと……!」
「結構。これからは長谷川家とは、一切関係ないから」
その言葉を冷たく言い放つと、彼女は長谷川会長から送られてきた住所を頼りに、自らタクシーを拾った。
これは、ひどく時代遅れな郊外の村だった。
絵渡は、ようやく辿り着いた“実の両親”の家の前に立っていた。
壁は崩れかけ、屋根は傾き、家の中からはかすかに泣き声が漏れてくる。
絵渡は一歩踏み出し、戸口をくぐった。中には、想像とはまるで違う光景が広がっていた。
質素な農村の空気にそぐわぬ、端正なスーツに身を包んだ男が立っていた。屈強なボディーガードを連れている。その男と、涙を流す農民夫婦との対比が、あまりにも鮮烈だった。
唖然とする絵渡の目の前で、そのスーツの男が彼女を見た途端、目を潤ませた。そして、次の瞬間、彼は力強く絵渡を抱きしめた。
「娘……本当に君なのか?本当に生きていてくれたんだな……!」大きくて威厳のある男の声には、抑えきれないほどの震えがあった。
絵渡は、混乱したまま立ち尽くした。
この見知らぬ男は、なぜ自分をそう呼ぶのだろう?
農夫の夫婦が顔を上げ、目を潤ませながら彼女を見つめている。堪えきれず、絵渡は問いかけた。「……お父さん、お母さん、どういうこと?」
「絵渡……お前は、私たちの子じゃないんだ」 農夫の男は、深いため息をついて口を開いた。「恋夏は確かに長谷川家の子だ。でも……お前は、私たちが産んだ子じゃなかった。 本当の子は……死産だったんだよ。 そして、この方が……お前の、本当のお父さんだ」
絵渡は、スーツ姿の男に視線を向けた。その眉の形や目元の雰囲気が、自分とどこか似ている。
男は一通の親子鑑定書を取り出した。「絵渡、病院で君を偶然見かけたとき、なぜだかすごく見覚えがあって。でもその時は、まさかと思って気に留めなかった。ところが後になって、長谷川家が“本物の令嬢”を見つけたって話を聞いてね……。もしかして君と僕の間に何かあるんじゃないかって思って、こっそり鑑定を取ったんだ。これを見てほしい。君は、僕たちの娘だったんだよ!」
絵渡はゆっくりと鑑定書を開いた。――まさか、本当だったのか!。
いや、鑑定などなくても、二人が並んで立っているだけで分かる。顔立ちの随所に、血のつながりがにじみ出ていた。
絵渡は、ただ沈黙していた。
この事実は、あまりにも突然だった。
ようやく本当の家族に出会えたと思った矢先に、さらに真実が覆るとは――。
「絵渡、君の気持ちは痛いほど分かる。けれど、これが現実なんだ。 当時、うちの夫婦が同じ病院で出産していて、看護師の不注意で三人の赤ん坊が入れ替わってしまった。 農村のご夫婦の赤ちゃんがうちに来て、君は長谷川家に。恋夏は、農村の家に引き取られていた」
「君が生まれてすぐに亡くなったと、私も母さんもそう信じていたんだ」男は静かに、けれどしっかりと語りかけてきた。「母さんがどれほど苦しんできたか、君には想像もつかないだろう。今、彼女はホテルで君を待ってるよ」
男の真摯で熱のこもった眼差しに、絵渡の心がふっと揺れた。小さくうなずき、農村の夫婦の方へ視線を向ける。
男が言った。「当時のことは本当に予想外だった。あの人たちもまた被害者だ。こちらから補償はさせてもらうつもりだよ」
「補償なんていらん。真実を知れただけで、十分だ」 だが、農民の男は首を横に振った。
今となっては、この二人が悪いとは思えなくなっていた。だが、それと同時にこの子には愛想を尽かしたよ。自分たちは貧しかったが、恋夏にはできる限りのことをしてきた。なのにあの子は、本当の親が見つかった途端、電話すら寄こさなくなった。
「もう帰りなさい。一家でやっと再会できたんだろ?こんなとこで時間つぶしてる場合じゃない」 そう言って、農民は彼らを門の外まで見送った。
絵渡は男とともに車に乗り込む。
ロールスロイス。
(……ふむ、親って案外お金持ちだったんだ)
横を見ると、男が柔らかく微笑んでいた。「絵渡。私は中島哲夫、君の父親だ。これからは、何かあったら遠慮なく父さんに頼っていい。わかったね?」
(中島グループの会長――快川城一の大富豪?)
ただの金持ちどころじゃない。
絵渡は静かにうなずいた。
……
四季ホテル。
快川城でも最高級とされる五つ星ホテルである。
恋夏はシャネルのワンピースに着替え、優雅な足取りで両親とともにホテルのロビーへと入っていった。
つい先ほど、長谷川夫人のもとに一本の電話がかかってきた。
全国ダンス協会の副会長・中島さんが快川城に到着したというのだ。今回の全国大会では彼女が審査員を務めるらしい。 もし弟子入りし、直接指導を受けることができれば、恋夏の優勝はますます確実なものになるだろう。
その一報を受けて、長谷川夫人はすぐに恋夏に着替えを命じ、慌ただしくホテルへと駆けつけた。だが、そこで思いがけず視界に飛び込んできたのは、見覚えのある人影だった。
シンプルなTシャツにジーンズ姿。けれど、纏う空気はどこか気品に満ちている。
隣にはスーツ姿の男性が寄り添っていた。洗練された雰囲気を漂わせているが、その顔ははっきり見えない。
「……絵渡。なんであの子がここに?」長谷川夫人の表情がわずかに曇った。
話 3
「中島さんがここに来たって話、もうどこかから漏れちゃったみたい。お姉ちゃんもきっと彼女に弟子入りしたくて来たんでしょ?」 長谷川恋夏は無垢な顔で、か弱そうな声を出した。「中島さんはまだ、お姉ちゃんが追い出されたって知らないんじゃないかな?そうしたら、これからは私もお姉ちゃんも彼女の生徒ってことだよね!」
長谷川夫人の顔は、これ以上ないほど険しくなった。
彼女は大股で前に出て、絵渡の行く手を阻もうとしたが、絵渡はそのまま四季ホテルの中でも最上級の個室――翡翠の間――に向かって歩いていった。
(翡翠の間に?一体何のつもり?)長谷川夫人の心に疑念が湧いた。あの部屋は、特別な来賓しか使えない空間なのだ。
「お姉ちゃん、あんな部屋に入るの!?」 長谷川恋夏もまた目を丸くした。「あそこって、普通の人が使える場所じゃないよ? やっぱりお姉ちゃんすごいなぁ。付き合ってる人もみんな一流なんだろうね」
「何が付き合ってる人よ!」長谷川夫人が怒鳴った。「このクソ娘……まさか貧乏暮らしに耐えられなくて、金ヅルの男でも釣ったんじゃないの?
それならもう……長谷川家の面汚しにもほどがあるわ!」
長谷川夫人は内心吐き気を催していたが、それどころではなかった。慌てて中島さんに電話をかける。
「申し訳ありません、急用ができまして」冷ややかな返事が返ってきたかと思うと、すぐに通話は切られた。
長谷川恋夏の心は奈落の底に突き落とされ、思わず顔を覆って泣き出してしまう。
長谷川会長はそんな彼女を慰めるように、「また次の機会がある」と声をかけるしかなかった。
一方その頃、電話を切った中島さんは、ソファに背筋を伸ばして座っていた。
彼女の兄――中島会長が突然家族を集めたのは、行方不明だった娘がようやく見つかったからだった。
「お姉ちゃん、外でずっと苦労してきたんでしょうね」
隣に座る少女が口を開く。整った顔立ちに上品なメイク、高級なドレスに身を包み、まさに名家の令嬢そのもの。しかし、その眉目にはかすかな憂いが宿っていた。
恭理の心がふっと和らぐ。「聞くところによると、育ての両親には大切にされていたらしいわ。そこまで苦労はなかったかもしれない」
玲暖は素直にうなずき、純粋な声で言う。「お姉ちゃんには、精一杯優しくしなくちゃいけませんね」
恭理は彼女の髪を優しく撫で、その目に慈愛と満足の色を浮かべた。
――さすがは自慢の弟子。 玲暖は中島家の養女だが、心が広くて純真無垢。実の娘が戻ってきても、自分の居場所が脅かされることなど微塵も気にしていない。
だが、艶やかなチャイナドレスに身を包んだ中島夫人だけは、どこか様子が違っていた。まるで何かに取り憑かれたように、玄関の方をじっと見つめて動かない。
その姿を見た玲暖の胸に、ふと奇妙な違和感が浮かび上がった。
ようやく扉が開いた――
運転手が入ってくる。
そのあとを、少女が歩み出た。辺鄙な田舎で育った娘ならば、地味でやつれていても不思議ではない。だが、彼女の肌はまるで光を宿したように透き通っており、白く輝いていた。冷ややかで整った顔立ちは、中島夫人と五分六分ほど似ている。
玲暖は胸の奥がわずかにざわついた。
「うちの子……!」
中島夫人は堪えきれず、駆け寄ってその細い体を抱きしめた。涙で声も出せない、胸の奥から込み上げてくる。
絵渡は一瞬戸惑い、過剰な熱情にたじろぎながらも、そっと彼女の背を軽く叩いた。
それでも――その温もりの奥に、血の繋がりが確かに感じられた。
これが……家族というものなのか。
「まずは絵渡に座ってもらおう」 哲夫が穏やかに言った。
中島夫人は絵渡の隣にぴたりと寄り添い、涙を堪えながらも、嗄れた声で言った。「絵渡……ごめんね。お母さん、今まであなたを見つけられなかった。外で、きっとたくさん辛い思いをしたでしょう」
「……別に、平気だったよ」 温かな涙が絵渡の手の甲にぽたりと落ちる。それを見て、むしろ彼女のほうが戸惑った。昔から、押されるよりも押し返されるほうが性に合っていた。まさか自分のことで、こんなふうに泣く人がいるなんて。「もう、泣かないで。お母さん。こうして、戻ってきたじゃない」
その一言の「お母さん」に、中島夫人はぱっと顔を輝かせた。「そうよ、帰ってきたのね。お母さん、これからは必ず、あなたに償うから!」
哲夫も、目を潤ませながら絵渡を見つめていた。その視線に押され、絵渡は口を開く。「……お父さん」
「うん!うちの絵渡は、なんて素直なんだ」 満面の笑みを浮かべた哲夫は、はしゃぐように言った。「さあ、家族を紹介しよう。こちらが君の叔母さんだよ」
恭理が彼女を一瞥し、静かにうなずいた。絵渡も軽く会釈する。
次に現れたのは、玲暖だった。
「お姉ちゃん、ずっとお会いできるのを楽しみにしてたの。 これからは私にも『お姉ちゃんがいるの』って、みんなに自慢できるわ!」
その愛らしい声に続き、中島夫人が少し困ったような表情で口を開く。 「玲暖はね、あなたのお父さんの古い友人の娘さんなの。まだ小さな頃にご両親を亡くしてね、私たちが引き取ったの。もし気に障るようなら……」
「大丈夫です」 絵渡は、相手の言いたいことをすぐに察し、淡々と答えた。
「それから、お兄さんが三人いるの。今日は出かけてるけど、そのうちきっと紹介するわね」 中島夫人が微笑みながら絵渡を見て頷く。胸の奥にじんわりとした温もりが広がる。
絵渡はそっと頷いた。
すると、哲夫がスマホを取り出して言った。「絵渡、この数年、本当によく頑張ってくれたな。父さんのLINE、追加してくれ」
中島夫人もすかさずスマホを差し出す。「私のも、お願いね」
仕方なく二人の連絡先を追加すると、ほぼ同時に通知音が鳴った。
【パパ】があなたに10,000,000円を送金しました。
【ママ】があなたに10,000,000円を送金しました。
「父さんからの小遣いだよ。足りなかったら、いつでも言ってくれ」 哲夫が穏やかに笑う。
「そうそう、ママはお洋服もたくさん買ったの。家に戻ったら、ゆっくり試着してね!」
あまりの歓迎ぶりに、絵渡はまだ慣れないながらも、胸が温かくなるのを感じていた。
だが、驚いていたのは彼女だけではない。玲暖もまた、その様子に言葉を失っていた。両親が一度に二千万円も――。自分が普段もらう月の小遣いはせいぜい数十万円。
(これが……実子と養子の差ってこと?)