2

この日がついに来たというのに、天野汐凪は別れを惜しむ気持ちが芽生えていた。

彼女は彼を見上げ、瞳を潤ませ、赤い唇を震わせながら、最後に一言絞り出した。 「本当に、私と離婚するの?」

男はベッドのそばに立ち、その端正な顔には一切の表情がなく、ただ冷ややかに彼女を見下ろしていた。

「黒崎夫人になるのは君じゃない、だが、どうしても俺のそばにいたいというなら、愛人の席なら空けておいてやってもいい。 」

彼はわずかに口角を上げ、その冷淡な眼差しに嘲りの色を浮かべた。

二人はベッドの上では意外なほど相性が良かった。 彼女がその気なら、養ってやるのも悪くない。

その言葉は、まるで雷鳴のように汐凪の頭を打ち据えた。 彼女が意図的に無視してきたすべてが、目の前で鮮明になっていく。

二人の初めての情事は、偶然の産物だった。 酒の勢いで、彼らは一晩中求め合った。

酔いが覚めた後、彼は怒りに燃え、彼女を殺したいとさえ思った。

彼女は、彼の充血した瞳に、自責と後悔の色が浮かんでいたのを覚えている。

黒崎幸一郎の存在があったため、彼は何もできなかった。 ただ、その後の情事において、ベッドの上で彼女を様々な方法で扱っただけだ。

二人は一緒に住んでいなかった。 黒崎瑛斗は意識を取り戻すとすぐに家を出ていき、彼女は一人で屋敷に住み、彼が訪ねてくるのを待ちわびていた。

だが、彼が訪ねてくるのは、あの行為のためだけで、他には何もなかった。

この関係性は、囲われた愛人と何が違うというのだろうか。

黒崎家において、黒崎幸一郎だけが彼女の立場を認めていたが、他の誰も彼女を黒崎夫人とは認めていなかったのだから。

汐凪は、名状しがたい怒りが頭に血を上らせるのを感じた。 理性を失い、ただ原始的な感情だけが残った。

「ふん、黒崎社長の愛人になりたい人間なら、金京市を一周しても余るほどいるわ。 元妻の私に回ってくるはずがないでしょうね。 」

瑛斗は彼女を見下ろした。 女の顔は鮮やかで、目尻は赤く染まり、赤い唇は嘲るように歪んでいた。

彼は認める。 汐凪は妻として申し分なかった。 彼がここを訪れることは稀だったが、来るたびに最高の待遇を受けた。

女は彼を、まるで宝物のように大切に扱い、彼のすべての負の感情をここで解放することができた。

だが、残念ながら、女はいくらでもいる。

天野汐凪一人いなくなったところで、柔柔がいるし、他の女もいる。

「そう思うなら、 俺にどうすることもできない、 離婚補償を見てみろ、 同意するなら、 さっさとサインしろ。」

瑛斗は手首の名時計をちらりと見た。 午後九時十分。 もう行く時間だ。

汐凪は心臓が締め付けられるような痛みを感じながら、彼の言葉に従って離婚補償のページをめくった。

資産6億円、車一台、そして家二軒。 なんとも気前のいい離婚補償だ。

女が驚愕している様子を見て、瑛斗の冷たい瞳に嘲りの色が浮かんだ。

やはり、骨の髄まで刻み込まれた金銭への執着は、隠しきれない。

「少ないと思うなら言え。 考えて、もう少し上乗せしてやってもいい。 」

この二年間、女の世話は彼の意にかなっていた。 これくらいの金は、はした金に過ぎない。

「もう十分よ。 」

汐凪はペンを手に取り、契約書の最後のページを開いた。 そこには、もう一方の欄に黒崎瑛斗の名前がサインされていた。

その筆跡は力強く、松のように雄々しい。

彼女は一画一画、書類の最後に自分の名前をサインした。

最後の一画を書き終えると、全身の力が抜け落ちたようだった。 彼女は目を閉じ、一筋の涙が熱く頬を伝って落ちた。

三年にわたる夢は、もう覚める時が来たのだ。

瑛斗は顔を上げ、女の目尻に光る涙を見た。 なぜか、ひどく苛立たしい気持ちになった。

約束通り離婚協議書を手に入れたのだ。 喜ぶべきではないのか。

彼は眉をひそめ、不快そうに舌打ちをした。 その眉間と目尻には、かすかな厭世感が漂っている。

「明日の朝九時、役所で会おう。 」

すらりとした指で離婚協議書を一枚手に取ると、男はためらうことなく背を向け、彼女に無情な後ろ姿だけを残して去っていった。

部屋には汐凪一人だけが残された。 彼女は身を縮め、膝を抱えて、激しく泣きじゃくった。

最後の一滴の涙が落ちた時、彼女の心にあった瑛斗への最後の感情も、葬り去られた。

三年の歳月は満了した。 もう、自分を愛さない男のために心を痛める必要はない。

翌日の午前八時五十分、役所の前には、すでに黒崎瑛斗が到着していた。

役所の前に停められたストレッチリムジンの後部座席で、瑛斗はうつむいてパソコンのメールを読んでいた。

男の表情は沈んでおり、感情を読み取ることはできない。

助手席に座る森川潤一は、ルームミラー越しに後部座席の男を盗み見ながら、信じられない思いでいっぱいだった。

今朝、黒崎社長から電話を受けた彼は、ベッドから飛び起きたほど驚いた。

黒崎社長と夫人が、今日、役所で離婚するだと?!

彼は黒崎社長が十二歳の時からずっとそばに仕え、もう十年以上になる。

黒崎社長が交通事故に遭い、黒崎幸一郎が植物状態になった社長に嫁を娶らせた。

彼は社長がもう目覚めないだろうと思い、この新しい夫人を気の毒に思ったものだ。

まさか社長が目覚めた後、すぐに夫人と離婚せず、長年にわたって何事もなく過ごしてきたとは。

それが、突然この日に離婚を切り出すとは。

夫人は、黒崎幸一郎が社長に娶らせた夫人だ。 こんな風に離婚して、黒崎幸一郎は黙っているだろうか。

「今、何時だ?」

冷たい声が潤一の思考を中断させた。 彼は携帯電話に目をやる。 「八時五十五分です。 黒崎社長、到着してから二十分になります。」

車内は静まり返り、二人の淡い呼吸音だけが響いていた。

潤一は思わず尋ねた。 「黒崎社長、黒崎幸一郎様には、もうお伝えになりましたか?」

瑛斗は目を伏せた。 黒崎幸一郎は天野汐凪をひどく気に入っている。 二人が離婚したと知れば、きっと激怒するだろう。

それこそが、彼が事後承諾を選んだ理由だった。

潤一は察した。 男は眉をひそめ、車内の気圧が急降下している。 社長は、きっと自分の気の向くままに行動しているのだ。

彼が一度決めたことは、黒崎幸一郎以外、誰にも変えさせることはできない。

3

森川潤一は車窓の外に目をやり、奥様の姿を探すと、ふと目が輝いた。 「黒崎社長、奥様がいらっしゃいました」

その言葉に顔を上げた黒崎瑛斗は、スモークガラス越しに、天野汐凪がタクシーから降りてくる姿をはっきりと捉えた。

彼女は体に密着した赤いドレスをまとっており、そのシルエットが美しいプロポーションをくっきりと浮かび上がらせている。

丈は太ももの中ほどで、フリルを幾重にも重ねたバラの花のような裾が、歩くたびに軽やかに揺れていた。

ウエストをきつく絞ったデザインが、彼女の細い腰を一層際立たせ、背中に流れる長い髪が、艶やかな色気を添えていた。

滅多に汐凪と接する機会のない潤一は、これほど華やいだ彼女の姿に、思わず口が滑った。

「まるで天女が舞い降りたようで……」

瑛斗は潤一を一瞥し、鋭い目を向けた。 離婚初日にこんな格好で、いったい誰を誘惑するつもりだ?

そう考えていると、 携帯電話が震えた。 画面をスライドさせて受話口に当てるうち、

彼の表情は暗雲立ち込める空よりもさらに陰鬱に沈んでいった。

『本邸に戻る』

『え?では奥様は?』

『一緒に連れて行け』

車を降りた汐凪は、すぐにあのストレッチリムジンに気づいた。 降りて来ないというのは、わざわざ自分から出向けということか?

近づいて車窓をノックしようとしたその瞬間、後部座席のドアが開き、男の長い腕が伸びてきて、彼女をぐいっと車内へ引き込んだ。

次の瞬間、車は猛スピードで発進した。

シートに座り直す間もなく、強い加速に体を前方へ投げ出された汐凪は、男の股間めがけてまさに突っ伏さんばかりの姿勢に――。

顔よりも先に手が、男の“あそこ”を押さえつけてしまった。

手のひらに、かすかな弾力と熱が伝わり、思わず身を引く。 慌てて起き上がろうとして今度は頭を天井にぶつけ、痛みに顔を歪めた。

先ほどまでの優雅さはどこへやら、 彼女は頭を押さえながら息を詰まらせて言った。 「離婚届を出すんじゃなかったの? ここはどこに行くって言うの?」

潤一は耳をそばだてた。 まさか、社長は思い直したのだろうか?

やはり、奥様が長年社長のそばにいたのだから、何かしら感情はあるはずだ。

さっきのハプニングなどどこ吹く風とばかりに、瑛斗の顔は恐ろしいほどに険しかった。 「着けばわかる」

スーツのポケットからミントキャンディを取り出し、長い指で包装紙を剥がすと、それを口に放り込んだ。 舌の上で強く転がし、心の奥底で渦巻く暴虐的な感情を押し殺そうとするかのように。

何も言わない彼に、汐凪も黙って不機嫌そうな顔をし、うつむいて携帯電話でメッセージを打ち始めた。

一時間以上走り続け、車はある広大な敷地へと入っていった。

数十億円規模の土地を擁するその荘園には、築山や流れ、東屋や回廊が配され、中国風と西洋風の建築が見事に調和して佇んでいた。

メッセージを打ち終えて顔を上げた汐凪は、見慣れた景色に一瞬、目を見開いた。

「どうして私を本邸に連れてきたの?」

今日は二人の結婚三周年記念日。 黒崎幸一郎のしきたりなら、家族が揃って本邸で食事を共にする日だ。

しかし昨夜、瑛斗ははっきりと来るなと言った。 離婚届を提出するはずだった時間に、なぜ急にここへ?

ストレッチリムジンは湖畔の別荘前で止まった。 瑛斗は汐凪の手首を掴んで車から引きずり降りると、駆け寄ってくる顔色の変わった執事をよそに、風のように二階へと駆け上がった。

執事は走りながら報告する。 「奥様(老夫人)は今朝からずっとお目覚めにならず、ようやくお目覚めになったかと思えば、突然発作を起こされまして……!幸いにも黒崎幸一郎様がすぐに気づかれ、今は石川生哉先生が手術室で処置にあたっておられます」

「これで二度目でございます。 倒れた時は口と鼻から出血が……。 石川先生のお話では、臓器不全も伴っているようで、どうやら……」

二階の主寝室の前には、黒崎家の面々がほとんど集まっていた。

老夫人(黒崎玉蘭)は三人の子を産んだ。 長男の黒崎和彦は軍に属し、ほとんどを軍で過ごしている。

次男の黒崎宏志は瑛斗の父親で、かつては黒崎グループのマネージャーだったが、今は隠居同然。

三男の黒崎修己は金京市の市長を務め、現在は出張中だ。

瑛斗の姿を見るなり、宏志の妻である黒崎琴音が唇を歪めて言った。 「心もない人もいるものねえ。 家族の生死にも構わず、金の亡者と化しているんだから」

彼女は瑛斗の後ろにいる汐凪に目をやり、舌打ちを二度した。 「あら、まだ離婚も済んでいないのに、人を見ても挨拶一つできないの?身の程知らずにもほどがあるわ」

シルクのチャイナドレスを纏った彼女は腕を組み、完璧に仕上げた顔に露骨な不満を浮かべていた。

宏志が瑛斗に言った。 「瑛斗、 お前が家にいた頃、 おばあさまがどれほどお前を可愛がってくれたか、 忘れたのか? もう少し遅ければ、 最期にも立ち会えなかったぞ。 俺に言わせりゃ、お前があれだけの事業を抱え込む必要はない。 少しは手放したらどうだ」

瑛斗は彼らと口論している場合ではない。 黒崎幸一郎の前に進み出ると、声を潜めて尋ねた。 「おばあさまは……?」

黒崎幸一郎は白髪白髭、妻の病状に憔悴しきっていた。 皺の深い目は生気を失い、固く閉ざされた扉をただ見つめている。

「石川先生曰く……もう、難しいかもしれん、と」

老爺の声は震え、両手で瑛斗の腕を力一杯掴むと、嗚咽をこらえながら一言一言、絞り出すように言った。 「瑛斗……玉蘭が、逝ってしまう……」 腕を握る力は千鈞の重さがあった。

瑛斗は表情を強張らせ、声に苦渋を滲ませた。 「そんな……ありえない。 おばあさまはいつもお元気だった。 きっと大丈夫だ」

汐凪は扉前に集まる年長者たちに一人ずつ会釈をすると、瑛斗の後方に控え、両手を組んで心配そうに扉を見つめた。

老夫人も幸一郎と同じく、この孫嫁をずっと可愛がってくれていた。

瑛斗が離婚を目前に控えた彼女を連れてくるのは、こんな緊急事態の時だけだ。

しばらくして、扉が開き、白衣を着た石川生哉が現れた。

「奥様(老夫人)は危篤状態です。 我々は最善を尽くしましたが……。 ご家族の皆様、ご覚悟を。 どうか、ご準備を」

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離婚した妻は"第7の顔"の持ち主でした~首都圏壊滅級のざまあ、元夫の復縁を意に介さず~

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